しましましっぽ

読んだ本の簡単な粗筋と感想のブログです。

「神の小屋」  ウィリアム・ポール・ヤング

2012年03月04日 | 読書
「神の小屋」  ウィリアム・ポール・ヤング    サンマーク出版
 The SHACK        吉田利子・訳

マック、本名マッケンジー・アレン・フィリップスは妻ナンとの間には5人の子どもがいる。
長男ジョン、次男タイラー、三男ジョシュ、長女キャサリン(ケイト)、そして年の離れた末っ子のメリッサ(ミッシー)。
夏の週末、マックはジョシュとケイトとミッシーとでオレゴンのワロワ・レーク州立公園にキャンプに行く。
楽しく過ごした帰る日、ジョシュとケイトが乗ったカヌーが転覆し、マックが救助する。
そのわずかの間に、塗り絵をしていたミッシーがいなくなる。
どこを探しても見つからず、ミッシーのいた場所にテントウムシのピンがあることに気付く。
それは、連続誘拐殺人犯レディ・キラーの犯行を表していた。
数時間後、人目のつかない荒れた小屋からミッシーの着ていた赤いドレスが、血の染まって発見される。
それから、マックは「大いなる嘆き」を両肩にのせ、ケイトは自分の殻に閉じこもるようになる。
3年後の雪嵐の日、マックに一通の手紙が届く。
「マッケンジー しばらくだな。
きみに会いたかったよ。
そちらに会う気があれば、わたしは次の週末、あの小屋にいる。  パパ   」
パパとは、ナンが天の神様をそう呼んでいた。そして、あの小屋はあそこしかない。
マックはひとり、小屋へ向かう。






小屋に行ったマックは、そこが穏やかな温かい場所に変わるのを目撃し、女性に迎え入れられる。
それがパパ、すなわち神で、キリストと聖霊も一緒だった。
マックはそこで3人と会話をして、自分たち人間の考えと神の思いの違いを知る。
神がなにを望んでいるのか、自分はどうしたら「大いなる嘆き」から解放されるのか、ケイトとはどう接したらいいのか。
会話は、キリスト教だけではなく、神を信じる宗教にも共通することになっているが。
神の存在が希薄な日本人とは、やはりとらえ方は違う。
話される内容が、心に響くものもあるし、そうでもないものもある。
人間は、アダムとイヴの最初の2人から間違った選択をした訳だから、その後の修正は難しいのだろう。
人間社会の考える基準にある制度。
色々な制度があるけれど、社会のルールと考えたら、必要なものもある。
神が望んだ愛すべき人間の姿は、ただエデンの園で何もしないで楽しく暮らすことなのだろう。
自分で考えて、独立した人間。
どちらが幸せなのだろう。
繰り返されて言われるのは「愛する」ということ。
神はすべての人を愛しているというが、愛とはどういうことだろうかと考えてしまう。
娘を奪われた男と、命を奪った男とを、神が愛することに違いはないということ。
ひたすら「赦す」ことを、奨励されても、と思ってしまうが。
ミッシーが死んだのは、神の意志ではない。
神は何も選んだりはしないと。
ひたすら、愛で結ばれた関係なのだと。

「神は乗り越えられない苦難は与えない」という言葉を聞くが、これによると苦難は神が与えるものではないのだ。
しかし、宗教で愛について、愛すること、赦すことが常に思考の中にある国の人たちが、戦争に積極的だったりする。
神の名のもとで、命を奪う。
意味がない。
勿論それは神の望むことではないのだが。

ケイトが心を閉ざした訳を、マックが何も気が付いていないのは、驚きだった。
ケイトのことまで気が回らないのなら、そういうこと事もあるだろうが、気に掛けていたなら気が付かなければ。
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