うさぎのひとり言

唐突な思いつきで、脈絡なく不定期に書いてます。

センセーショナルでも

2009-10-07 | Weblog
やっぱり読みたくない。

昨日からだと思うけど、一冊の書籍の出版を巡るニュースが続いている。著者の検索数が突如大ヒット。私もその一人だ。
光市の事件は大変裁判が長引いている。その長い時間を真剣に見つめている人は被害者遺族だけではないだろうか? と思っている。
筆者の心意気を否定することも出来ないけど、書き手としては真剣だっただろうと思っておきたい。でも、著者が加害者本人ではないから混乱が生じる。言いたい、言いたくない。という感情の挟間で揺れることは別に珍しいことではない。過去に実際に承諾したことを覆すことが認められないのなら、離婚なんて絶対に認められないということだ。
過去に承諾したことを絶対の根拠にすることは説得力が薄い。
この頃、少年法のルールに縛られることを嫌っているのか、《意味のあること》という論拠で本来表に出てはいけないものが出ている。法律については軽々に述べられるほどの知識がないけど、個人的には家庭裁判所から裁判所送致へとなった事件は実名になるほうが素朴に了解できるけど。
法律が許さないけど社会的に意味がある、っていうのは一見すごく正義感に溢れているけど、自分とはまったく無関係なのにセンセーショナルなスキャンダルについつい浮き足立って食いついちゃう私の目の前に落とされたエサみたい。
『ホレホレ、食いつきな』って、ね。浮ついてるもんで、ネット検索とかしちゃってるし。

ただ、当事者の考えを第三者が成りかわって正確に伝えることなど出来るのだろうか?もし世の中に自分自身を可能な限り噛み砕いて伝えることに、なにか意味を見出し、そこに自分自身の使命があると思うなら、どんなに辛く苦しく困難でも本人が書くべきではないのか。そして、そのことに社会的に意味があると思う出版社や編集者が、その専門性を活かしたサポートをする者として関わればいいのではないのか。
裁判で語れなかったことを他者の文章で書くなんてことができるのか?
それは、違うのではないか。
もし人間が損得を越えて誰かの力になりたいと思えるとしたら、その人が何とかしたいと思っている信念に共感しないと出来ない。そして、ほんのわずかでも自分に具体的にその人のために出来る事があることをただ嬉しく思えれば、それは継続する力にもなるだろう。
自分の本心を自分でない誰かに語ってもらうなんて出来ない。それを期待して面会を重ね口頭で実名表記を承諾したのなら、それは感情の動きとしては《ずるい》に分類する。私は。
著者や出版社は、そういうことは読んでから言え、と思うだろう。
でも、読みたくない。

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