うさぎのひとり言

唐突な思いつきで、脈絡なく不定期に書いてます。

棒たおし

2012-06-18 | Weblog
増税が決まりそうだし、
生活保護の不正受給の取り締まりも相応に厳しさを増していくことだろうし、
それぞれの国会議員のセンセー方は、個人的な強みを生かして
得意分野で、いかにそれが正しいか、必要か、是正すべきか云々かんぬん論戦を張って、
少しずつ、だが刻々と近づいている選挙対策として熱弁を振るうことだろう。

今にしてつくづく思うが、
政権交代した時、とにかく議員定数削減をすればよかったのに。
とかく国会で取りざたされることは、結果的に地方自治体の仕事として降りてくるが、
地方自治体は、何年も前から人員削減で、
現状の問題を深刻化されいる要因のひとつとして、
必ず人手不足が挙げられる。
しかも、各担当セクションごとにスペシャリストを育成する気も暇もないときている。
それでもなお、予算縮小で人員削減は続き、
結局、センセーショナルに問題提起をしたって、現場の対応は追いつかない。
地方自治体に予算を回すから、この問題を解決せよって話にはならないんだよね。
国会議員の歳費を削って、地方公務員増員しない限り、
現場の問題は解決しないのでは? と、
最近、本気で思えてきた。

しかも、センセー方は、あれこれ問題を提起されるところまではするけれど、
自分たちの存命に関わる定数問題は、なにかと理由をつけてよけている。
『そうではなくて』という言い分がきっとあるだろう。
でも、その言い分こそが、自分たちが直面する問題を解決できず、
棚上げしているヘタレなんだという証だと思う。

常に難題山積みの政治の世界に属する人にとって、
その山に刺さる決して倒したくない棒こそが、
定数削減問題なのでは?
増税を決めて、いよいよ取り崩せる砂山も心細い残り具合になってきたけど、
民主党増税反対派の巻き返しで砂の盛り直しが出来るのだろうか?
そんな裏技で、ずっと棚上げされてきたもんね。

でもね、中学生ぐらいからは、
自分たちの問題は自分たちで解決しようってことで学級会とか定期開催しているわけでしょ?
あーーーホームルームか。時間割にそう書いてあった。
国の立法府として最高機関でありながら、
そこに属する人が、自分たちの難題を解決できないって、なんだか失笑劇場みたい。

他者に対しては無駄を省けと詰め寄るが、自らの無駄問題は多忙を理由に先送りって、
相手をひっぱたいてから、
『叩かれたほうも痛いが、叩いたほうがもっと痛いんだ』っていうおぞましい言い分と重なる。
叩いとってよく言うよ。
痛いぐらい力任せに叩いんたんだろうって普通思う。
心理を語るなら、叩いてしまうという行為をしてしまったことへの悔悟としての痛みなのだろうが、
その痛みを、そのまま引き受けるべきだと思う。
○○のために心を鬼にしてって言い分が、私は嫌いだ。
そのへんの嫌悪感が刺激される国会棒たおしの様相に辟易している。


感動を「与える」…?

2012-06-10 | Weblog
ワールドカップ最終予選も序盤から盛り上がってきて、長年にわたって、
どんな湿気た試合にも足繁く競技場に通ってきたサッカーファンは、鼻高々だろう。
おめでとう!!

ロンドンオリンピックも近づいてきて
にわかスポーツファンでも見ごたえのあるものに期待がそそられる。

でも、競技も始まっていないのに、
「感動を与えたい」(選手発言)
「感動を与えてください」(取材者発言)
というやり取りが多すぎで、観戦願望がしぼんでくる。
もともと、勝つべき試合に勝てなかったり、勝てそうだったけど惜しくも惨敗とか、
そういう選手・関係者を慰め励ます言葉として、
「残念でした。でも、感動しました」というフレーズがあったのでは?

だいたい感動って与えたり与えられたりするものか?
図らずも感動する。それが感動。
感動するぞ、感動するぞ、感動するぞって、待ち構える感情ではないと思うのだが。
常日頃から「感動する」って言える資格のある人は、
生活の一部に、その競技や、そのチームや、その選手が溶け込んでいるような
真のファンと呼ぶにふさわしい人たちだと思う。
これから幕を開ける試合への期待を表す場合は、
「感動したい!! だから勝って!!」と、素朴に感情を顕してもらいたい。
どうしても、
「かんどうをあたえてほしい」
かんどうが元気とか勇気とか、なんかそれっぽい言葉にかわっても同じことなのだが、
湧き出てるべき感情を、はなから他人任せにしているような言い回しが嫌い。
それは、英語の先生が、
赤ちゃんは自分で食べられないから、イート(食べる)ではなく、フィーデイング(与える)を使う、
って教えてくれたから、
感動を与えられたいっていう言い方は、なんだか自分では感動できないって言っているように感じてしまう。
それに、感動を与えてっていう欲求は、かつてバブル時代に一部の女性たちが
自分への愛情の表現として
最低でもカルティエとか、ヴィトンとか、ティファニーを所望していた
凄まじくも浅ましい言動を思い起こさせる。
男にもいたよね。与えれば、自ずと得られると信じている嫌味な奴が。

今から、
試合開始前から実況席で
「感動」「感動」と聞く羽目になるのかと思うと、
そして中継終了後のテレビから「感動」が氾濫するのかと思うと、
楽しみ半減。
スポーツにおいて、感動は第一義ではないということを肝に銘じて、
にわかファンの自覚を持って観戦したいと思う。