大分県教育委員会の金まみれ人事。ひどい、ひどすぎる。本来教員になれるべき実力を持っていた人が教員になれなかったという事実は、学校に関わる子供や保護者にとっても、痛恨の損失だ。それでいて、この一連のニュースの続報を聞くたびに、やっぱりね、だからね、と感情を喪失しながら腑に落ちていくものがある。それは、『どうしてこんな人が教員やってられるんだ? 採用試験に本当に通ったのか?』という疑問への明解な答えだからだ。 学生時代、ある友人が、教職課程を取っている友人の気持ちを代弁していた。『親が校長なら、教職とって田舎に帰ることが絶対なんだ。他にやりたいことがあっても許されない。資格を取る間だけ生まれ故郷を離れることが許されて、後はそこに帰って教師やんなきゃならないんだ』そして付け加えた。『東京の子にはわかんないだろうけどさ』はい、はい、わかりませんね。やりたくないのに教師になるんだったら、教えられる子供たちがかわいそうじゃん! モラトリアムの期限が迫って自由気ままに過ごせる下宿生活が終わるのが悲しいだけじゃん! 言わなかったけど。『東京の子』だからね。控えましたよ。でも、そんなでいいわけ? 教師って、良くも悪くも誰かの人生に影響を与える仕事でしょ。今どきの先生はそんな責任負っていないのかね? そうでもないと思うけど。それに、教員である本人はそんな気がなくても、子供側は勝手に色々と黒板の前に立つ大人を眺めながら考えてしまうわね。個人的には、この先生と出会えた事で、どんなひどい教師と付き合わなければいけなくっても、とにかく世の中すべての教師を毛嫌いしなくてすんだことが幸いだと思う。 現在は、保護者として学校の先生との関わりがある。現場を知るものとしては、素晴らしい先生は確かに大勢おられる。それは、本当。先生も人間だから、子供とのキャラの相性とかもあるだろうけど、養護学校という困難な状況と共にある環境のなかで、努力を惜しまず、忍耐を忘れずに職分を全うしておられる方は大勢いる。その一方で、養護学校は人事のブラックボックスでもある。主観を押さえていうならば、そう思えてならないことがある。すでに6年ほど前になるが、『先生には表と裏の顔がある』といってさめざめと泣いた時が忘れられない。自分にではなく、お友達にひどいことを言っている。もうそれ以上深くは知りたくなくなってしまった。悪意もなく、無造作にこぼれる言葉がひどいんだとわかったから。最近聞いたひどい話。ある先生が、『孫でもいれば孫の世話をするんだけど、孫がまだいないから養護学校に来ている』と自分自身の就労理由を説明した。保護者に対してだよ。言うか、普通。孫の守りのかわりに中学2年生の男子生徒と向き合って給料もらっている!? いや、向き合ってはいない。ただ定められた時間その場にいるだけだ。採用責任者出て来い!!多少熱意や信念が空回りしていたって、意欲と体力のある活きのいい先生を採用してよ!