イキタヨ。
これは、今年のお盆の法要前日(8月3日)、慈音さんが語った言葉。
慈音さんが、誤嚥による心肺停止で緊急入院したのは、去年の7月20日だったけど、
彼の中で、あれから1年と実感出来たのは、
法要の前日だった。
去年の法要前日は、面会をお休みして、
とにかく1日で出来る法要の仕度をして、
法要当日は、法要が済んでから病院へ行った。
慈音さんのベッドサイドで、
「おかげで法要が勤まったよ~」と、話したのを覚えている。
慈音さんにとっても、法要はひとつの区切り。
今年も法要前日は、一日仕度でドタドタしていたけれど、
そのドタドタも一息ついた頃、
「ぼくは1年生きたよ」と語る。
「ジゴク」(by Jion)だった日々も一年前。
やっぱり、大学病院での日々が最も地獄だった。
病院が地獄なんじゃなくて、容体が、という意味で。
そこから古巣の病院へ転院して医療ケアの指導入院をしてた時は、
周りに知ってる顔がたくさんあるし、
母子入院だから、沈みそうな気持ちを奮い立たせて運転するなんてこともしないで済むし、
なによりも、自宅へ帰るための準備を進めるために、
日替わりで業者さんとか来てくれて、なんだかお祭りみたいだった。
帰宅後も、しんどいことは降ってくるように、沸いてくるように、次々と来襲したけど、
《在宅オールスターズ》に支えられ、守られて、
それぞれの立場で、今出来ること、今やっておくべきことを、
丁寧に慎重に考え、検討し、実践してくれるなかで、
慈音さんも、慈音さんなりに考え、思索し、受け止め、耐え忍んできた。
体調が安定すると、その安定をバネに変化が起こり、
変化に翻弄される。
このペースでいけばいいかな、と思いかけた時に来る変調は辛い。
変調の落としどころが見つかるまでは、本当にキツイ。
それでも、そういうことの繰り返しが、
少しずつ私たちを強くしてくれる。
そんな1年でした。
法要を区切りと考えるなんて、さすが、おじいちゃん仕込み!!
ところで、
「慈音くんが話すって、どうやって話すんでしょう?」
というイヤミを実際に言われたことがあるのだが、
以前は文字盤使って語ってた。
彼は、カタカナが好きで、カタカナの文字盤を愛用していたので、
彼の言葉を綴る時、カタカナのほうがふさわしいように思っている。
体調が落ち込み、文字盤を指す(足で)ことが叶わなくなった時、
彼は、指で(足の)数字を刻み、文字を組み立てていた。
※1-1なら《ア》、5-3なら《ヌ》数字を文字に変換すると言葉になって、文章になる。
現在は、まだ、足の自由度がかなり制限されていて数字を組めない。
そんな訳で、あかさたな…と音声で行が確定したら、その行の段を、といった具合。
当初は、85%推理ショー状態だったし、50音を数字で聞いていたら、
聞いてるこっちが訳がわからなくなってしまうし。
どのくらい明瞭に反応しているのかといえば、
きっと、ほとんどの人には判別できないと思う。
そういう微細な動きを理解できるんだから、母親ってすごいだろうって、
思わないんだよね、私。
別に妄想でも構わないって、ずっと前から腹に据えているから。
でも、いいよね。「イキタヨ」。
苦しい思いもたくさんあったし、痛い思いもたくさんしたけど、
治療とか、生活とか、その主体となるべきは慈音くんなんだよって、
そんな気持ちで関わり続けてくれた全ての人に、
お礼に変えて届けたい。
「おかげさまで 生きてます」
これは、今年のお盆の法要前日(8月3日)、慈音さんが語った言葉。
慈音さんが、誤嚥による心肺停止で緊急入院したのは、去年の7月20日だったけど、
彼の中で、あれから1年と実感出来たのは、
法要の前日だった。
去年の法要前日は、面会をお休みして、
とにかく1日で出来る法要の仕度をして、
法要当日は、法要が済んでから病院へ行った。
慈音さんのベッドサイドで、
「おかげで法要が勤まったよ~」と、話したのを覚えている。
慈音さんにとっても、法要はひとつの区切り。
今年も法要前日は、一日仕度でドタドタしていたけれど、
そのドタドタも一息ついた頃、
「ぼくは1年生きたよ」と語る。
「ジゴク」(by Jion)だった日々も一年前。
やっぱり、大学病院での日々が最も地獄だった。
病院が地獄なんじゃなくて、容体が、という意味で。
そこから古巣の病院へ転院して医療ケアの指導入院をしてた時は、
周りに知ってる顔がたくさんあるし、
母子入院だから、沈みそうな気持ちを奮い立たせて運転するなんてこともしないで済むし、
なによりも、自宅へ帰るための準備を進めるために、
日替わりで業者さんとか来てくれて、なんだかお祭りみたいだった。
帰宅後も、しんどいことは降ってくるように、沸いてくるように、次々と来襲したけど、
《在宅オールスターズ》に支えられ、守られて、
それぞれの立場で、今出来ること、今やっておくべきことを、
丁寧に慎重に考え、検討し、実践してくれるなかで、
慈音さんも、慈音さんなりに考え、思索し、受け止め、耐え忍んできた。
体調が安定すると、その安定をバネに変化が起こり、
変化に翻弄される。
このペースでいけばいいかな、と思いかけた時に来る変調は辛い。
変調の落としどころが見つかるまでは、本当にキツイ。
それでも、そういうことの繰り返しが、
少しずつ私たちを強くしてくれる。
そんな1年でした。
法要を区切りと考えるなんて、さすが、おじいちゃん仕込み!!
ところで、
「慈音くんが話すって、どうやって話すんでしょう?」
というイヤミを実際に言われたことがあるのだが、
以前は文字盤使って語ってた。
彼は、カタカナが好きで、カタカナの文字盤を愛用していたので、
彼の言葉を綴る時、カタカナのほうがふさわしいように思っている。
体調が落ち込み、文字盤を指す(足で)ことが叶わなくなった時、
彼は、指で(足の)数字を刻み、文字を組み立てていた。
※1-1なら《ア》、5-3なら《ヌ》数字を文字に変換すると言葉になって、文章になる。
現在は、まだ、足の自由度がかなり制限されていて数字を組めない。
そんな訳で、あかさたな…と音声で行が確定したら、その行の段を、といった具合。
当初は、85%推理ショー状態だったし、50音を数字で聞いていたら、
聞いてるこっちが訳がわからなくなってしまうし。
どのくらい明瞭に反応しているのかといえば、
きっと、ほとんどの人には判別できないと思う。
そういう微細な動きを理解できるんだから、母親ってすごいだろうって、
思わないんだよね、私。
別に妄想でも構わないって、ずっと前から腹に据えているから。
でも、いいよね。「イキタヨ」。
苦しい思いもたくさんあったし、痛い思いもたくさんしたけど、
治療とか、生活とか、その主体となるべきは慈音くんなんだよって、
そんな気持ちで関わり続けてくれた全ての人に、
お礼に変えて届けたい。
「おかげさまで 生きてます」