PhotographyCopyright © Odetta・M 1996; JAPAN
年のせいか、元来の性格のせいか、ここ数年、カウンターに並んで座って意見交換をしているような番組を回避してしまう。
たまたまチャンネルが合って、横並びに並んで座った人たちが、口々にごもっとな事を述べておられる。いや、ごもっとかどうかを判断出来る程きちんと聞いてはいない。そんななか、ある方が対立や疑念を越えていくために『寛容』が大切だと言いきり、唇をぎゅっと結ばれた。
寛容。
良い言葉ですね。なんでも寛容に受け入れ、寛容に譲れたら、そんな自分に酔いしれられそうです。
でも、一方で、いささか上から目線ではないかと。
寛容を他者に示すためには、かなりな余裕がないと無理ではないか、と。もしかしたら、ものすごく追いつめられている時に寛容を示されたら、あぁ、ものすごく矮小な人間だけれども、憐みをかけられていると不快に思ってしまうかも。
ものすごく、猶予なく、間髪いれずトイレに駆け込みたい時に、同じような状況にある人に譲れるかっていうと、まぁ、譲れません。
いろんな場面を振り返ったり、想像したりして、あの時寛容があれば、そんな時寛容でいられたら……どんなにか極上の人間でしょう。そして、つくづく無理だなって実感します。
こんな私に残された他者との関わる道って、なにが残されているのでしょう?
私は、想像力にともしびを見いだします。
そして、義理と人情をエンジンにしたいと願います。
広島でのG7外相会合、素晴らしかったです。
シニカルな論評もあることでしょうが、ただ純粋に、この事実を脳裏に刻みたい。
どなたが作られたかは存じませんが、各大臣にかけた折り鶴でそれぞれの国の国旗を表した首飾りがとても素敵でした。
「安らかにお眠りください。あやまちはくり返しませぬから」
広島が刻んだ言葉が、歴史を超えて、今も語りかけています。その言葉が、また誰かの心に刻まれていく。それは、次の一歩を共に踏み出す原動力にならないでしょうか。
きっとなる、そうでなければいけません。せめて、そうでありたいと願い続けます。
この場所で、義理人情のぬくもりを忘れずに生きていくために。