うさぎのひとり言

唐突な思いつきで、脈絡なく不定期に書いてます。

嵐の日曜日

2007-07-31 | Weblog


すごい雷雨がやってきた。
停電前にパソコンの電源切っておいてよかった。以前にデータが壊れて、とんでもなく大変だった。再入力って、ものすごくアナログな作業だと思う。

ただでさえ睡眠不足になりがちな季節に選挙が重なり、睡眠不足に拍車がかかる。

夏祭りだよ、大爆笑!

2007-07-23 | Weblog


今年も『お寺の夏休み』がやってきた。
慈音さんにとっては、特に何もない退屈な日々だ。テレビやネットで予告をチェックしてOAを楽しみに待つばかり。この季節は特番が多い。当たれば2時間楽しめるが、外れれば・・・。
そんな慈音さんの夏休み対策としてゲットしたのが、『ドリフの大爆笑 30周年傑作集』。いつの間にやら新中古のお値打ち品をインターネットで探し出し、「これでまつりだぁ~!!」と大宣言。
夏休み初日に届き、さっそく祭りが始まった。ありがとう、マーケットプレイス。
安くしてくれて。しかも、ものすごいスピード配送。

一緒に見ようと誘ってくれたけど、なかなかテレビの前に落ち着けない。
けれども祭りは連日開催。ゲラゲラ音頭が響いている。
秋風が吹く頃には、慈音さんのお笑いネタにも磨きがかかっていることだろう。

二枚舌

2007-07-21 | Weblog


嘘はいけないと道徳は教えるけれど、嘘が世の中を回すためには不可欠なようにも思えてならない。事実と事実という固い出来事をつないで動かす軟骨みたいなものか? えてして小説などは、小さな嘘が小さな亀裂を生み、やがてそこから取り返しのつかない破綻へと通じる。そういうことは現実にもあるか。
絶対に許されない嘘というものもある。犯罪直結というものもある。
それでもやはり、可愛い嘘とか、やさしい嘘とか、他愛のない嘘もある。嘘から真が生まれる事だってあるだろう。嘘がまるきし否定される世の中って、感情そのものを否定されるような息苦しさに支配されるような気がする。
嘘をひねり出すのは思考だから、嘘のような本当の話に驚き、本当のような嘘によろめき、まるきしでたらめな嘘に笑い転げる。
それでもやはり、嘘には根暗いイメージがついてまわる。
それは別に、犯罪にはならないことだけれども、その人の口から滑らかに語られたことの全てが虚仮不実なことだと知らされた衝撃が大きいからだ。
嘘というより、もう創作だ。誰だって、自分の不利益からは遠いポジションを保ちたいと思うだろう。だからって、そこまで作るか、話を!?
虚栄心を満たしたいのか、金をちょろまかしたいのか、責任を放棄したいのか。
いずれにしても、自分が引き受けたくないものを肩代わりしてくれる誰かが必要になる。そのために嘘をつく。

久しぶりに思い切りだまされた。
というより、頭から信じた話が嘘だった。
ものすごく気分が悪い。しかも、嘘の話を信じた挙句、罵声を浴びた。
この不快感をどうしてくれよう。
罵声を発した人は、私が信じた話を、とうの昔に嘘だと見限っていたのだ。
『それは嘘ですよ』と教えてくれる前に、嘘つきの仲間と断定された悔しさかもしれない。もしかしたらそれは、私の虚栄心なのかもしれない。
話せば分かると踏ん張って、誤解も解けたかと思いきや、相手が変わればまた罵声。もう、いいよ、事情は分かったから引き下がる。
縁も所縁も無い人と言い争うのはお互い疲れるものだ。

頭がウニる。
でもやっぱり、“嘘絶対否定派”にはなれないな。
そして思う。二枚舌は止めようよ。
本当に本当のことを語りたくなった時、嘘語りに使われた舌がへばりついて、何をどう話しても、嘘にしか聞こえなくなってしまうからさ。

都市伝説

2007-07-20 | Weblog

ダンボールの肉マンがやらせだったと報道されてひと安心・・・・。
とはいかない。
『都市伝説』か、と思わず思う。
やらせを創作する背景には、それが本当っぽく伝わる状況が必要だ。それに、なにかを示唆する目的を含んで成り立つもののように思える。

『トイレの花子さん』が、今どきのお子さま方にとっても都市伝説として語り継がれていることにはいささか憤りを感じる。昔聞いて怖かった話を大人になってから編集会議のネタとして提出している人が未だにいるんだ。
でも、昭和の『都市伝説』として大ヒットしたのは『口裂け女』だろう。『私は見た』的な特別番組まで放送していた。でも、これは深夜放送から生まれた創作だったことも知られている。
『都市伝説』って、お伽噺とか、ことわざにも似ている。
社会学的見地から童話や昔話に異議を唱えるっていうのはさておき、教訓を秘めつつ、変容する時代を生き抜いている。

数少ない私の知る『都市伝説』は、都会から海へドライブへ行った話。
景色の良さに誘われて静かな岩場の海岸でしばらく磯遊びに興じた時、足元がふらつきスネに擦り傷をつくってしまう。出血もほとんどなく、特に気にすることもないままに帰ってきた数日後、ヒザ下に少し痛みを覚えた。傷は大した事なかったけど、岩場だったから打ち身になったかな、と思っていると、日に日にどんどん腫れてきて歩くこともままならず病院へ行く。異常を察知したドクターが腫れたところを切開すると、骨にびっしりとフジツボがついていた・・・・。

フジツボがフナムシだったり、ムラサキイガイだったりするのだが、聞かされた相手は必ず、ギャーとか、ヒィーとか言って、『ホント?』と心細げに聞くので、『ホントなわけないじゃん』と言うと、はたかれる。
とにもかくにも、海を甘く見ずに、用心して楽しみましょうってことだ。

いよいよ夏休みも目前。怪談話との相乗効果で、街中でホントめいた話で盛り上がるのだろうか。それもまた楽しい思い出の1ページになることだろう。
でも、10代のお嬢さん方にオバサンは言いたい。ペラペラの服で電車に飛び乗る前に、『安寿と厨子王/山椒大夫』を読んでから行け!と。

お見舞い

2007-07-18 | Weblog


子供時分に、1ヶ月の入院と1ヶ月の自宅療養を経験した私には、私なりに、嬉しいお見舞いとうっとおしいお見舞いの両方の記憶がある。
だからといって、自分基準の嬉しいとうっとおしいがスタンダードだとは思わない。状況に応じて感情は変化するものだから。

『家族を失った人の悲しみ、家がなくなった人の無念さを同じように感じるというのは違うと思う。けれども、その気持ちにより寄り添い、それぞれの立場で自分に出来ることを考えてみてもいいのではないか』と語った、被災地への復興支援を重ねてきた副住職・大ちゃんの言葉は示唆に富んでいると思う。

名前の由来

2007-07-16 | Weblog

自分の名前には、子供の頃から苦労した。というか、ずっと好きになれなかった。
ゴダイゴの歌う『ビューティフル・ネーム』が大ヒットしたときも、幼心にも共感できなかった。
それは、あまりにも誤読されるからだ。新年度で担任が変わるたび、誤読される。いつもは苗字で呼称していた小5,6年時の担任は、何の気の迷いか年に数度名前を呼んで出席を取ったり、答案用紙を返したりするのだが、そのたびに誤読された。本当に不愉快だった。
ただの誤読ではない。私の名前は誤読すると姉の名前になる。姉に比べて不出来な妹は、姉の名前で呼ばれるたびに、自分が否定されるように感じてしまう。被害妄想といわれればそれまでだが、自分の名前を名乗ることがとても嫌だった。
高校の同級生のわかちゃんが、『いい名前だね。名前で呼んでいい?』と言ってくれて、私のコンプレックスは解消した。

やがて仕事をするようになると、時々資料の送付を頼むこととかがあって、電話口で氏名の表記を説明する。だが、色々と食い違いがあるものだ。
『エ』が、絵だったり、枝だったり、江だったりする。
たどり着いた説明の文言が、『ふるさとの里に、恵比寿の恵です』。
そしたらある日、『郷恵』と書かれた郵便物を受け取った。
それで、『サトイモの里に、恵比寿の恵』に変更を余儀なくされた。(別に強制されていないけど)
ある日、その時はもう結婚していたけど、『里寿』と書かれた郵便物が届いたのだ。
「どうして恵比寿の恵が“寿”(す)になっちゃうの!?」と、いぶかっていると、「これいいねぇ、さとことぶきって読むのかな?」と夫が一言。

たぶん、慈音さんの装具の資料か何かを送ってもらったのだと思うけど、どこのどなたが間違えてくれたのかは記憶から消えてしまったが、とても愛着を持っている。

ちなみに、勤務先の物知りな社長が教えてくれたのだが、日本語における熟語の読みは、音音読みが通例で、私の名前のように、訓音読みというのは珍しいのだそうだ。
そして、どうしてそういうややこしい名前を命名したのかといえば、母親が懐妊中に読んだ本に出ていた登場人物の名前が「サトエ」で、とても気に入っていたので、『女の子だけど、名前どうする?』と聞いた父親に、その名前を伝えたそうだ。市役所に行った父親は、出生届を出す段になって、漢字でどう書こうか考えたそうだ。父親として、ものすごい妙案に思えたらしいが、お姉ちゃんの名前の偏を取ったら「サトエ」になるじゃないかとひらめいたんだ、と胸を張って教えてくれた。
そこまで聞いたら、その母親の気に入った本を読んでみたいと思うではないか。その本では、「サトエ」がどんな漢字表記していたのかも知りたいと思う。
母親の答えは簡単明瞭。『覚えてないよぉ~』。
著者名も、表題も、両方ともね。

慈音さん、見参!

2007-07-16 | Weblog

ほとんどの時間を自宅で過ごしている人間がブログをはじめて書くことといえば、テレビで見かけた世間の動向とか、はまり込んで読んだ本の感想とかを除けば、家族のこととなる。
なかでもやっぱり子供のことが多くなりそうなのは、すでに分かっているので、本人の許可を得るために聞いてみた。
「突然だけど、私もブログとやらを始めたんだけど、慈音くんのことを書く場合に名前をどうすればいい? ちなみに私はニックネームなんだけど。慈音くんもニックネームにする?」
(いやいや)・・・左足を横に動かし否定。
「慈音でいいの?」
(さん)・・・足で3を示す。

そんなわけで、私のブログには、障害者手帳1級1種を持つ脳性マヒ アテトーゼ型の息子は、【慈音さん】で登場することと相なった。

スポーツ観戦

2007-07-15 | Weblog


from

ひとりではまり込んでみるほどスポーツ全般に興味は無いけれど、人が見ているとチャンネルも変えられないし、なんとはなしに眺めているとそれなりに面白くなって見てしまう。サッカー中継は、その際たるもの。
結婚した頃に『ドーハの悲劇』があって、あの頃は、『オフサイド』の意味も良く分からなかったが、以来、割と見ている競技だと思う。
とはいえ、Jリーグにまではいかないので、『ファン』の領域には程遠い。
中学のサッカー部の同級生が、国立競技場に国際試合を観戦に行った感想として『日本の応援が地味なんだよ』と語っていたことを思い出すたびに、すごい変革を経た競技なんだなぁとシミジミしてしまう。
ところで、ブラジル辺りでは、草サッカーの試合であろうとも、選手が子供であろうとも、ひとたびシュート体勢に入ると、『入れろーーー!』と檄が飛ぶそうだ。
日本ではどうなんだろう? 私は今でも、ゴール前にボールがあると、思わず『打て~!』と口走ってしまう。
90分も走り回るのに一人の選手がボールを蹴る時間は1分も無いストイックなスポーツなんだと聞いたことがある。シュートを打ってもなかなか入らない。バスケットボールとはえらい違いだ。
けれども、入れなければ勝ち点を取れない。だから『打て~!』ではなく、『入れろーーー!』が正しい声援ではないかと思う。思いながらも試合が終われば、相変わらず『打て~!』を繰り返してしまっている。
選手はすごくがんばっている。それでも磐石に見えないのは、いつまでも『入れろーーー!』と叫べない、こちらの問題なのではないかと思えてきた。


突然だけど

2007-07-15 | Weblog

毎晩毎晩マメにブログを更新している人を横目で見ながら感心するばかりだったのだが、ひょんな事から開設に至る。
継続能力が低いのに、こんなことを始めちゃって・・・・。
そろそろ最接近となる台風のせいだろうか?