うさぎのひとり言

唐突な思いつきで、脈絡なく不定期に書いてます。

食べたい! サルダンゴ

2009-02-17 | Weblog
全国的に真冬戻りの今日、高崎山のサルが『サルダンゴ』を編成していた。数匹ずつ集まって身を寄せるおしくらまんじゅうみたいだけど、じっと動かない。
高崎山といえば昔からサルで有名だけど、行った事はない。ニュースを見ながら北條不可思が『行った』と自慢するので、お土産のサルダンゴってないのか聞いたら、『それはなかったと思う』。
私が思うサルダンゴは、フ菓子みたいなフワフワしたお菓子がでっかい袋に、まさに団子状にいくつもくっついて入っていて、それを一個ずつほぐして食べるようなイメージ。ボスざるに当たるのはアンコとかクリームとかが入っている、的な。
この頃の名産土産ってとっても小じゃれていて、おいしいものが多いけど、なんか、コテコテの駄菓子みたいな大袋入りで、『高崎山名産サルダンゴ』ってシールがベタっと貼ってある、的な。
ニホンザルは温泉に入るから、お湯をかけたらお吸い物になるっているのをサルの形でつくるっていうのもいいなぁ~。でも、それだとこじゃれちゃうか?
やっぱり、一個ずつほぐして食べるサルダンゴ。ボスはアンコ入り。食べたい。是非食べてみたい。

がんばろうね

2009-02-17 | Weblog
SPEEDの今井絵里子さんがエッセー集を上梓され、ここ数日テレビでよくお姿を見かける。
『ラジカルッ』で彼女の手話を見て本物だと思った。こんな言い方失礼だけど、本当に本物だって思ったのだ。『学んだ』ものじゃなくて、生きる術として身につけてこられた美しさがとても素敵だった。

でも本は読みません。慈音さんがまだ小さい頃、「とてもいい本」と贈られた本も実は読んでいません。
私は、誰かの人生を『素敵だね』とか『かっこいい!!』とか感じる気持ちはなくしたくないと思うけれど、人の経験を素直にテキストには出来ないので。
ただ、離婚して子供の障害を公表したことで、励まされる言葉をたくさん贈られたと共に、一方では「子供を売り物にして」という泥玉も投げつけられた彼女に、共感を覚える。
1年に1回か2回しか出来ないコンサートなのに、『子供を売り物にして』って言われたよ、私も。だから、変わらないメンバーで再デビューした彼女に飛んできた泥玉はいかばかりだろう。
気にするなといわれても傷つくけど、傷ついたって日々の暮らしにには何のメリットもないことなんだけど。
結局、がんばるしかない。子供の笑顔に励まされてがんばる。がんばろうね。

ところで、私の耳には間接的に届いた暴言も、いつの間にか聞こえなくなった。
そりゃそうだよ~。稼いでないもん。稼げてない。売り物ってのは金にするって事でしょ。あまりに非現実的な暴言ですね。
暴言にめげないでいる事はそれなりに痛みを伴うこともあるけど、私は行くよ、車イスを押してぐいぐいと。その折々にしょげることもあるけど、お友達のお母さんとか、縁絆を支えてくれてる人たちとか、いろんな人の言葉や笑顔や、その人自身のがんばりにいつも励まされる。きっと、今井絵里子さんの笑顔も私を励ましてくれるだろう。どうもありがとう。

茶番だわよね

2009-02-16 | Weblog
『戦後最大の経済危機』と政府見解している割には、のんきな進行状況が続いている。泥酔状態への答弁がすべて真実だとしても、誰もが理解している重大な国際会議において正気を保てないほどひどい『風邪』なら大臣職も議員職もとても無理だと思うよ、普通。
ニュースもワイドショーも雑誌でも、とにかく『死に体』って言葉が踊るけど、踊り続けるダラダラ状況を、一体いつまで垂れ流す気なんだ。欠席ご法度の強制観賞授業でさえも、もっと気が効いているぞ。中学では『男はつらいよ』と『汚れなき悪戯』の2本立てだった。観賞場所はたしか、科学センターの視聴覚ホールだったのではないか? 寅さんのマドンナは誰だったっけ。それは覚えていない。
それはさておき、何が嫌って、お友達をかばいたい気持ちは、否定しないけど、下々の者の《感じ方》をまったく理解していないのではなく、する気がない、する意味がない、『関係ないも~ん』といったことをとても感じさせる言動だ。
最近、どこにでも転がっている『セレブ』って単語がとても不快だ。前は、セレブが行く店とか着る服とか、セレブがなんでも枕詞のようにくっついて軽々に付加価値を上げるやり方が嫌いだったけど、金持って贅沢して、他人の足を踏んでも『嫌だ靴が汚れちゃう』ってわざわざ言葉にしてしまうような人イコール『セレブ』としか思えないような寒さが堪らなく嫌だ。そう思わせてくれたのは、自国の総理大臣だ。これじゃあ、あんまりじゃないか。
2兆円の特別給付金にこだわるあまり、何も解決しない。経済危機を認めても、その危機に直面している人を思ってはいない。荒れ狂う波頭に立つ気もなく、ただ、自分たちの行く末だけ心配しているようにしか見えない顔が不快だ。『そうじゃない』というなら、今すぐ解散総選挙をやってみろ。自民党内の反対勢力も、単なるアリバイ証明にしかすぎないじゃないかと思う。そんなことを断定するのはとても失礼だけれども、ホントにもう聞き飽きた。
でもね、つくづく愛想が尽きたのは、中川大臣の『ゴックンしてない』発言だ。
ニュースを見ていた慈音さんは大笑い。
『ゴックン』って幼児語でっせ。報道カメラも入っている国会の委員会における答弁で使う言葉ではない。
漢字が読めないよりもタチ悪いよ。
『失礼にならない程度に口をつけた』とか『乾杯のグラスだけは空けた』とか、『杯を重ねることはしていないとか』、言いようがあるでしょ! ここは呑み助天国の日本なんだから。
まだまだ茶番は続くのか? お友達の地位を堅守している間は続くんだろうなぁ・・・。それが自分を守る道ってなもんか? はぁ・・・。ニュースは必ず慈音さんと一緒に見よう。

寒波に備えて

2009-02-15 | Weblog
昨日からあったかいね。というよりも、暑いぐらい! 2月って一番寒いって思っているから心身共に対応しきれないでいる。
昨日が涅槃会の法要だったのだが、去年は雪が降って朝から雪かきでヘロヘロだった記憶が強烈で、まるで夏の到来を告げるかのような気温の上昇に受け入れがたいものを感じている。
なんか、もう少しきちっと冷えてくれないと2月を実感しないままに修了式がやってきてしまいそう。バレンタインをプライベート行事にしていない者としては、2月はいつだって寒波に備えるべき季節なんだ。
でも。寒いは寒いけど、今年はやっぱり暖冬で決まりかな? 丹沢山系の端っこがここからはよく見えるのだけど、ほとんど冠雪している時がない。寒波対策で購入したパンツを着用することもなく次年度持ち越しになりそう。
よかったような、がっかりなような・・・。

書きまつがい2

2009-02-04 | Weblog
昨晩、今日のためにメモを書いた。処方箋の出ている薬を取りに薬局へ行って、帰りにスーパーで買い物をする為に。だから、そのメモには、『薬局』とスーパーで買うものが箇条書きで書いてある。
予定通り薬局へ行って、スーパーへ行き、2階で取り扱っている品物を買うために階段を上がる。今日はそんなにたくさん買うものはないので項目は頭に入っているはずだが、念のためにメモを取り出す。
そしたらそこに、『また板』って書いてあった。
『まな板』だろ、『まな板』! ひとりツッコミによろめく足元を奮い立たせメモを握り締めて買い物を済ませて帰ってきた。疲れた。

書きまつがい

2009-02-03 | Weblog
糸井重里氏が始めた『日刊糸井新聞』から生まれた『言いまつがい』という本がある。数年前のことだが、広島の書店で文庫を見つけ、『萬流コピー塾』の分厚い文庫本以来久しぶりに購入した。
『萬流~』は、まだ姉がフランスに住んでいて、無賃宿泊の御礼代わり気持ちばかりにおいてくればと、機内で読む為に購入。週刊文春での連載も読んでいたので、機内の気晴らしになればと軽い気持ちでもあった。でも、そんなに甘くなかった。分かってはいたものの、1週分だけを他の記事との続きの中で読むのと、ページをくってもくっても『萬流』が怒涛の如く溢れているのだ。隣はおろか、前後左右360度知らない人に囲まれた機内で、こみ上げる笑いを抑えても抑えても漏れ出してしまうし、かといって時々ちらちらと視線を射してくるブロンドとかブルネットとかの人々の視線を憚って本を閉じてかばんに入れてしまうことも出来ない。糸井氏の展開する世界は、げにおそろしや。
でも、広島から車で京都経由で相模原に帰る道中には、賑やかでいいのじゃないかと。
その『言いまつがい』という文庫本を手にするまで知らなかったのだが、インターネットの利点を活かし、テレビニュースでのアナウンサーの読み間違いや、家族、友人、知人の言い間違いや、意味の取り違えなどをひろくネット新聞の読者が速報的に投稿しているコーナーがあるのだそうだ。
このタイトルになっている『まつがい』は、糸井氏のお嬢さんが幼稚園前ぐらいの頃に、自分が何か間違えたことをしたと気がついたときに「まつがえちゃった」と間違えていたことに由来している。
ちょっとした勘違いが、理解不足が、とんでもない墓穴を掘ることにもなるということを隠しようもなく暴露している『言いまつがい』という文庫本は、楽しい旅の友になるはずだったが、慈音さんは息が出来ないほど笑うし、北條不可思は『やめてくれ。運転できない』とギブ・アップ宣言した。
結局、京都について宿泊先に落ち着いてから改めて安心してみんなで大笑いした。
それ以来、我が家では言い間違いのこっぱずかしさを『言いまつがえたね』とフォローしあうようになった。

ところで、『言いまつがい』は聞く人がいなければ『まつがい』もなかったことになる。だが、『書きまつがい』は、ちょっと違う。書いたものの手を離れ、文字として言い訳も説明も許されない独立した存在となる。あとから分かった『書きまつがい』が、ご愛嬌の範疇として許容されることをいつも願ってしまうのだが、自分のために書いたメモに『書きまつがい』を見つけると、こりゃぁもう複雑な心境になる。
思いついた時にすぐに片付けられればいいが、そうもいかないので、私はよくメモを書く。書きなぐると内容も確かめずに自ら丸めて捨ててしまうこともあるので他所行きの文字で気取って書く。
例えば、ごみ収集日の前日に『ゴミ捨て』と書く。法要が近づいてくると掃除をする場所とか、順番とか、何日にするとかを書く。買い物に行くには必ず買い物メモを書くし、幾つかの場所を廻る時はその順番も書く。何につけてもあわてんぼうのお使いなので、お母さんが子供にお使いを頼む時に書くように、自分で自分のためにメモを書く。忘れてはいけない電話をかける相手とか、手紙を書く相手とか、自分のカバンに入れるものとか、とにかくなんでもかんでもメモに書く。
時としてそのメモを持って出るのを忘れて、結局は記憶を振り絞り、挙句に何かを忘れたりするのだが、それはさておき。
その気取ったメモに書きまつがいを見つけたときのトホホな気分を想像してもらえるだろうか?
まつがえたばかりに、書いてあることが分からない!!!
そこに『グラフィッス』。何これ!? 「ウィ~ッシュ」の変形?
しばらくして思い出した。『グラフィック』って書いたはずだったんだよ~!!!!