【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

柏原藩 九里政道周辺 浅井氏と中原・井口氏

2016-07-01 | 九里バラバラ情報





この政道の次女が【浅井次郎左衛門伊政】に嫁いでおります。

この浅井氏に関しては、何も情報は持ってぽりませんが、近江国浅井氏の末裔であり、同じ江州中原氏であると思います。

近江国御家人井口中原系図の中にも、



九里と同じ系図の中に入っております。












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お友達が遊びに来た日

2016-06-30 | 日記
先日、近所に用事があったからと遊びにいらしてくれた友人夫婦。我が家の調弦をせずに長らくおいてあったチェロの調弦をしてもらった。

友来たり空もなごまる休日の 弦の調べが耳もくすぐる

久々に弦をとり出し浜辺歌 弓の動きも波のごとくに


雷鳴がとどろいていた次の朝の歌

雷が大地に刺さる夜が明けて 薔薇が折れてる現実を知る

台所歌

ルッコラの苦みが苦手ふうじこめ たまごに入れる朝の彩



なんだか、面白くなってきた!



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みそひともじ

2016-06-30 | 日記
短歌ってなんだろう?というところから始まって【みそひともじ】という言葉と出会った。
味噌ひとさじではなく、三十(ミソ)一(ヒト) 文字であると思う。

先日【有元利夫展】を見に行った。こんなにたくさんの有元を間近に見ることができる幸せ! とともに、38歳というわかさでなくなってしまった悲しみが同居した。

そんな気持ちを【みそひともじ】に託せるようになれるといいなぁ~と思う。

たまきはる命の限り知って観る 君の筆あと止まった時間

静寂の石の色が浮かびくる 時を覆いて絵が壁となる

たすこともひくこともできぬ完成を ひたすら求める君がいる





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人生初の短歌を詠んでみた。。。

2016-06-30 | 日記
昨日、高校時代の友人のところに遊びに行ってきた。

めったに会わないのだが、会うと高校時代に戻る。

で、そこでのことをまじえて短歌なるものを詠んでみた。

友語るともに旅した思い出を 忘却の溝うまる楽しさ  マメタ


…失礼いたしました。


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【清原・久利氏】と【出羽清原氏】

2016-06-27 | 清原氏バラバラ情報

web情報と東京大学史料編纂所情報を合わせて書くと、

康平6年(1063)に国司庁宣により清原頼行が久利郷司に補任されている.…ということは、清原氏が久利郷にいたため【久利氏】となっていた(=在名)可能性もあると思う。
当時の国司は【清原定隆】その父は【清原頼隆】であった。


応徳元年(1084)には【入道学源】が清原近俊・清原正宗と連署で先祖相伝の領地である久利郷を【清原則房】に譲っている。(清原則房解 応徳元年九月十五日)

大治元年(1126)には
「庁宣 留守所 定 遣 久利 仁満 両河 内 三箇郷 事 四至限 云々」とあり、
【清原長房】が先祖相伝の久利・仁満・両河内3ヶ郷を安堵されている。

久安元年(1145)に
「留守所下 散位 清原真人長房 右人 、任先祖 相伝之理人 …補任 久利別符司 之 職如件 …」とあり、清原長房は「久利別府司」なるものになっていたらしい。

そして、1193年~1200年は佐々木定綱が石見国守護となっている。

佐々木定綱:近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。
詳細はこちらへhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%9A%E7%B6%B1

今度は「九里 久里 久利 一族」という本の中からご紹介したい。
ただ残念なことに図書館に依頼しコピーを送っていただいたため、すべてはコピーできず、しかも原本を見ないで依頼しているため肝心のところがない。

久利氏の鎌倉時代は
「久利郷の地頭を久利七郎祐房とす。祐房の後にも久利赤波公房などいへる人あり。按ずるに、久利郷司に任ぜられ清原氏代々これに居りて久利氏を称せしものの如し。」

戦国時代
「大内氏の属す。“隠徳太平記”には天分十二年七月、久里清六兵衛、久里佐馬介、家城を渡し、尼子に降る。と見えたり。これ、清原氏の族ならむ。されど、石見の久利(里)氏は、一に藤原姓なりともいひ、久里の古城主、久里左京亮は、本姓藤原氏なりと伝へ、石見家系録には、久利三河守成勝、天正六年、上月城を攻む。久利藤原盛勝、同八年、久利八幡宮を修造す。といふ記録も見ゆ。これ、久利(里)氏は、もとは久利郷司・清原氏の族たりしに、のち藤原氏の人、系を交じへ…」 コピー終



もう一つの清原氏である【出羽清原氏】も、ほんの少し調べてみた。

コンサイス人名事典+wikipediaによると、
天武天皇の皇子舎人親王の子孫,清原真人令望の末裔清原光方の子 清原光頼・武則が「前九年の役」の際、源頼義に何度も依頼されて安倍氏を倒すために重い腰を上げたのだそうだ。

源頼義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9

…出羽清原氏は、その後内訌で衰退するが、武則の息武貞の養子に【藤原清衡】がおり、その実父は【藤原経清】亘理部の豪族であり、妻は以下の如くである。


正室:清原氏の娘
継室:清原氏の娘
継々室:信夫佐藤氏の娘
継々々室:北方平氏
側室?:安倍氏の娘


惟常(家清)、基衡、正衡、清綱、男子、男子
娘(佐竹昌義室)、娘、娘、養女:徳姫(岩城則道室)

私は平泉で清衡のミイラを見たのだが、大きな人物であった。

下記の論文も興味深いものであり、貴族の流れとしての奥州藤原家が科学的に論証されているのでは…と思う。
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1301.pdf


【鹿ケ谷の陰謀】で捕らえられた者のなかに【中原基兼】がいて、奥州藤原氏のもとに預けられて(匿われて?)いたこと。
同じ事件で九里の祖との関係もあるかもしれない【卜部基仲帥】も捕らえられていたこと。

これらが、いろいろと絡み合って、九里の祖が出てきたのではないだろうか?

出羽清原氏のことが、三浦氏の本に出てきているところを見ると、三浦・佐原・真野とも関連性もあるのだ!(これから本を読むところ~デス)










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清原祐安こと中原有安なのではないだろうか?

2016-06-24 | 清原氏バラバラ情報
web情報によると、

【中原有安】
平安末の音楽家。
父は内蔵助頼盛との所伝がある。
建久6(1195)年3月東大寺供養に太鼓を担当,同8年以前の没と推定される。
民部大夫,飛騨守を経て建久5年筑前守。二条天皇の楽所に祗候し,九条兼実の推薦で後鳥羽天皇の楽所預となる。
琵琶,笛,箏,今様,朗詠,魚山流声明などを相承し,太鼓などにも堪能。
九条兼実,鴨長明の琵琶の師で,『玉葉』には政治的情報をもたらすなどの言動が,『無名抄』には長明に対する教訓が記される。
『胡琴教録』は有安の琵琶の説を記したもの。
養子景安はのちに鎌倉八幡宮の楽人となる。
和歌は『千載集』『月詣和歌集』等に載り,私選集『寒玉集』(散逸)を編む。


【中原有安】

中原有安(なかはらのありやす)。系図では有康とも書かれているそうです。

子に宗安、盛安。養子に景安。

九条兼実の家司(『玉葉』)

建久5年(1191年)(後鳥羽天皇)になり始めて楽所が置かれ、「筑前守中原有安」は楽所預となる。

鴨長明の『無名抄』によると、鴨長明の琵琶の師。



日本歷史叢書, 第 11 巻

60 ページ
この頼業の弟音博士祐安は大外記中原師尚の養子となったが、頼業の曾孫良枝が中原師守の娘を母としたことは前記の通りであり…


「日本歴史叢書」では、祐安=有安の説となっております。

私としては、同時代に二人の「ゆうあん」または「ひろやす」「ありやす」がいた可能性もありそう~と思います。
どなたか、ご存知でしたらお教えいただけますとありがたいです。



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今朝の北海道の雲

2016-06-23 | 日記
九州の方々、豪雨お見舞い申し上げます。
地震もまだ続く中、さぞご心痛と思われます。

安倍首相、海外に私たちの税金をばらまくくらいでしたら、今困っている国内の方々へ、手を差し伸べてください!!

演説に行くくらいなら、困っている人々の『力』になるようなことをしてください!

国民の心が晴れ晴れとして、パワーが出てくる…そのようなことに税金を使っていただきたいです。







http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RA5OrIVWtXc1sAGxuJBtF7?p=%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%80%80%E6%B5%B7%E5%A4%96%E3%80%80%E6%94%AF%E6%8F%B4%E9%87%91%E3%80%80%E4%B8%80%E8%A6%A7%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%B9%B4%E5%90%88%E8%A8%88&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=



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【中原氏】書き出し一覧

2016-06-23 | 中原氏バラバラ情報

官史補任

中原仲景 寛喜3年・承元3年―建保3年
中原秀朝 史巡
中原経重 史巡  正治元年
中原景弘 六位史 承安元年・二年
中原景直
中原景盛
中原景能
中原景範
中原兼遠
中原兼孝
中原兼清
中原兼時
中原兼貞
中原元兼
中原光俊
中原行高
中原行広
中原行親
中原行忠
中原広経
中原広言
中原高重
中原康綱
中原国経
中原国継
中原国元
中原国氏
中原国秀
中原国親
中原国清
中原国盛
中原国宗
中原国長
中原国能
中原国保
中原氏継
中原師直
中原師範
中原資成
中原周業
中原重基
中原重兼
中原重俊
中原重能
中原俊員
中原俊兼
中原俊幸
中原俊秀
中原俊重
中原俊職
中原俊清
中原俊貞
中原俊有
中原俊良
中原尚継
中原尚光
中原尚成
中原章永
中原章治
中原職清
中原信兼
中原信時
中原信俊
中原真重
中原親康
中原親俊
中原成挙
中原成弘
中原成俊
中原成村
中原政俊
中原清業
中原清佐
中原清貞
中原盛家
中原盛景
中原盛継
中原盛言
中原盛氏
中原盛職
中原盛信
中原宗遠 康治元年―久安元年
中原宗久 寿永2年―文治3年
中原有景
中原有親
中原有澄
中原頼季
中原頼兼
中原頼清
中原頼重
中原頼直
中原頼景
中原頼兼
中原倫職
中原倫俊
中原長倫
中原朝業
中原定職
中原定平
中原能光
中原範俊
中原奉任
中原宗継
中原宗康
中原宗直
中原則季
中原知兼
中原知親
中原知政
中原知盛
中原致長
中原仲景
中原忠嗣
中原長兼
中原時重
中原実国
中原実重
中原孝周
中原高重
中原言為
中原季能
中原基兼・元兼
中原基康
中原義経
中原義光
中原義盛


外記

中原為季
中原惟章
中原経康
中原行親
中原行資
中原安俊
中原為経
中原業俊
中原業長
中原経時
中原経成
中原経明
中原景賢
中原景孝
中原景資
中原景俊
中原景盛
中原景長
中原景良
中原兼業
中原兼茂
中原兼経
中原元貞(中原師尚の門生)
中原広安(藤原忠通家家司)
中原広家
中原広季(女・藤原家綱室)忠通家司
中原広兼
中原広賢
中原広元(大江)(女・八条公国室・飛鳥井雅経室・藤原仲教室・中原師業室)
中原広俊(女・藤原敦周室)
中原広宗(藤原忠実家家司)長治3年因幡国権守
中原広忠(藤原忠実家家司)
中原広能
中原行水
中原行兼・行範
中原高季
中原康継(康純)
中原康顕
中原康綱
中原康純(康継・亀若丸)
中原康宗
中原康直
中原康貞
中原康富(康富記)
中原康友
中原康隆
中原佐盛
中原佐能 
中原佐利(中原師宗門生)
中原在俊
中原師安
中原師為(母・三善長衡 室・中原友景女)
中原師胤
中原師員(関東評定衆伝 詳しい履歴あり)
中原師蔭(地下家伝 詳しい履歴あり)
中原師栄
中原師益(母・中原景友女) 佐渡守(=師孝)
中原師遠(女・二条院女房=堀河局、齋院繕子内親王母)(大外記 清原頼業室・藤原公重室)
中原師郷
中原師業(室大江広元女・清原祐高女)
中原師景 加賀守
中原師古
中原師公 陸奥守
中原師弘 穀倉院別当 造酒正(母・尾張守藤原孝道=七条院女房 讃岐局)
中原師光 穀倉院別当 仙洞近習・越中守
中原師行
中原師孝(=師益)弟・僧安楽(法然弟子)
中原師幸
中原師香
中原師高
中原師綱
中原師興
中原師国
中原師枝
中原師治(女・後村上院女房)
中原師守(清原良季室)
中原師種
中原師秀
中原師重(室・三善康信女。女民部卿藤原公長室、後鳥羽院女房・小槻通時室)
中原師俊
中原師春
中原師淳
中原師緒
中原師尚
中原師勝
中原師親
中原師村
中原師仲
中原師長=師業
中原師朝(妻・尾張守藤原孝道女-七条院女房讃岐局) 女・西園寺公相妻、室町実藤妻、今出川院嬉子(亀山院中宮、西園寺公相養女)
中原師澄
中原師直
中原師平(女・藤原実俊室)
中原師方
中原師邦
中原師豊
中原師名
中原師有
中原師雄
中原師利
中原師良
中原師簗
中原師倫
中原師隣=師孝
中原師列
中原師連
中原師廉
中原資経
中原資弘
中原資忠
中原資茂 兄・惟国
中原時基
中原実弘
中原重経
中原重尚
中原重貞
中原俊景
中原俊兼
中原俊光(坂上範政)=橘氏是定で名前を書く
中原俊康
中原俊国
中原景良
中原俊清
中原俊宣
中原俊平
中原尚明
中原章貞
中原盛信
中原親憲(藤原成経の湯殿読書人)藤原基実の家の文殿に奉仕
中原親盛 (=忠順)
中原親平
中原親輔
中原成家
中原成資
中原政義
中原政泰
中原政有
中原清俊
中原盛季
中原盛兼
中原盛孝
中原盛俊
中原宗家 父宗忠・子宇都宮(八田)宗麟 父宗政。
中原宗景
中原宗賢
中原宗光
中原宗資(ムネモト)
中原宗親
中原宗政(子・宗家)白河院守典代 兼 伊豆守
中原宗村
中原宗忠
中原宗平
中原宗房(任中宮大属 待賢門院主典代)
中原宗頼
中原則基
中原則成
中原致時(斎宮頭・信濃・伊勢守)
中原致右
中原仲重
中原仲信(関白家所司)
中原忠広
中原忠順(=親盛)
中原忠政
中原忠良
中原長国(父・重頼、弟 政義 室石見守藤原頼方女・子・藤原保定
中原長俊
中原長盛
中原長茂
中原直業
中原定兼
中原定重
中原貞親(実父・尾張守秋時)
中原貞清
中原徳如(子・藤原実行養子)
中原範基(中原師香の門生)
中原利康
中原利重
中原利雄
中原利徳(藤原頼通に仕える。)法名 寂禅
中原良業
中原良弘
中原連岳
中原 某 寛治年中 藤原頼通に仕え、その推挙で少外記に補されるが、勤務一か月で出家を志し、比叡山で出家。法名道寂。のち、近江国蒲生郡の山中に行き、寛治年中に寂す。(本朝高僧伝 巻70)





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【清原氏】書き出し一覧

2016-06-23 | 清原氏バラバラ情報

【官史補任】

清原正基 延喜10年 越中守
清原令望 寛平6年 少弐
清原元輔 天延2年 因幡守兼鋳銭長官 安和2年・天暦5年 権少掾
清原慈藤 天元3年 佐渡守
清原長義 永観2年 因幡介
清原朝佐
清原忠経 天暦9年 淡路 掾
清原仲山 天慶4年 大掾
清原為盛 永観元年 権掾
清原高平 昌泰元年 伊予国掾
清原樹蔭 承平7年 前司
清原伊景 天慶5年 前掾
清原仲海 転得元年 権少掾
清原景直
清原景親 六位史 康治元年-久安3年
清原康基
清原国俊
清原氏継
清原師成
清原俊忠
清原盛安
清原盛時
清原拓定
清原定弘
清原宗景
清原宗財
清原知康

【外記補任】

清原為尚
清原季教
清原季兼
清原季俊
清原季尚
清原季宣(=仲季)
清原弘隆
清原教基
清原教氏
清原教秀
清原教俊
清原業尚
清原業盛
清原業忠(=良宣)
清原業定
清原近業(母・大監物持貞女)(=親業)後白河院の上北面にいたが、合戦にて横死
清原景兼
清原景隆
清原賢秀
清原賢親
清原顕俊(女・藤原孝清室)
清原元尚
清原元宣
清原元隆
清原広実
清原広俊
清原広澄
清原弘高
清原弘隆
清原行秀(女・源清信室)=源資信母
清原行俊
清原康基
清原康業
清原康俊
清原佐光
清原氏隆
清原種宣
清原秀隆
清原周俊
清原重業
清原重憲
清原重国
清原重尚
清原重範(=重憲)
清原俊安
清原俊資
清原俊宣(妻・清原秀隆女・母は清原教隆女)
清原俊隆
清原尚顕
清原信安
清原信憲
清原信秀
清原信重
清原信俊(サネトシ)
清原信直
清原親業(=近業)
清原親種
清原正綱
清原正隆
清原成政
清原成宣
清原清遠(=清原清俊)
清原清重
清原盛業
清原宣業
清原宣方
清原善定
清原宗季(=宗枝)妻・行定女
清原宗業
清原宗賢(少納言)
清原宗元 母・清原仲尚女
清原宗種
清原宗尚 妻・二階堂行継女 (船橋家)
清原致隆
清原仲季(=季宣)
清原仲基
清原仲業
清原仲氏
清原仲尚
清原仲信
清原仲宣
清原仲方
清原仲隆
清原忠業
清原忠種
清原長尚
清原直尚
清原直方
清原直隆
清原定安
清原定兼
清原定康(サダミチ)
清原定資
清原定慈
清原定俊
清原定信
清貞定政
清原定友
清原定雄
清原定隆
清原冬隆
清原敦宣
清原範業
清原繁隆
清原祐安(一時、中原師元の養子となる)
清原頼兼
清原頼元(懐良親王補佐)子孫は九州五条
清原頼弘
清原頼治
清原頼秀
清原頼尚(=良隆)母・藤原頼尚女
清原頼清
清原隆宣
清原良英
清原良季 (=良尚)室・中原師守女
清原良業 妻・藤原仲教女
清原良兼 母・二階堂行継女
清原良任
清原良隆(=頼尚)
清原頼安(=頼康?)

【近衛府補任】

清原夏野
清原長谷
清原秋雄


全部は書き出されてはおりません。
時折書き足ししたいと思っております。




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高階栄子(丹後局)と 頼朝周辺

2016-06-21 | コラム


結婚前の名が高階栄子。高階家は受領(国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者のこと)で、はじめ後白河法皇の側近であった【平業房】に嫁ぎ、5人の子供を産み育てている。業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命接待に努めた気配があるそうである。
 
治承3年(1179)平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。

その後、彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。
以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という政治体制の中で権勢をふるった。 

以上がweb情報からである。

手持ちの【後白河天皇】美川圭著 ミネルヴァ日本評伝選 からも少々ご紹介したいと思う。

建久元年(1190年)源頼朝上洛

頼朝は十一月七日、ついに上洛した。後白河は密かにその行列を、鴨川河畔の牛車から見物した。…

九日、申刻(午後四時頃)まずイン御所六条殿に向かい、そこで後白河と三十年ぶりの再会をする。…

二人は他人を交えることなく、暗くなるまで語り合ったらしい。このとき後白河は六十四歳、頼朝は四十四歳である。二人はほぼ親子の年齢差があった。

…十三日になると、頼朝は後白河に、砂金八百両、鷲羽二櫃、御馬百疋を、後鳥羽天皇(11歳)には龍蹄(駿馬)十疋うを贈った。

また、十六日には、鶴丸蒔絵唐櫃に納められた桑糸二百疋と紺絹百疋が、頼朝から後白河寵愛の丹後局(高階栄子)に贈られた

~~と本にある。

頼朝も無視できないほどの力を持っていた高階栄子。
そしてとうとう、大姫入内の話も持ち上がるのである。

入内問題に関しては、web wikipediaの大姫に詳しかったので、そこから抜粋したいと思う。


源義高が殺害された直後の元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は台頭する頼朝との関係を強化すべく、摂政・近衛基通に頼朝の娘を嫁がせる意向を示した(『玉葉』同年8月23日条)。
近衛家には頼朝の乳母である比企尼の外孫である惟宗忠久(島津氏の祖)が仕えており、法皇や基通が惟宗忠久を介して頼朝周辺に働きかけた可能性がある。
しかし、基通に代えて叔父の九条兼実を摂政として推す意向に傾いていた頼朝は最終的には拒絶している。

建久5年(1194年)8月、頼朝の甥で都の貴族である18歳の一条高能が鎌倉へ下ってくる。17歳になった大姫が病床から一時小康状態になった時、頼朝と政子は高能との縁談を勧めるが、大姫は「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と一言のもとに拒絶。頼朝はそれ以上話を進める事をあきらめる。


頼朝はその年の10月から上洛の準備を始め、翌建久6年(1195年)2月、政子と大姫・頼家らの子女を伴って京都へ上る。
表向きは東大寺の落慶供養であったが、都では大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく入内工作を行っていた。

頼朝は宮廷の実力者である土御門通親と丹後局にさかんに接触を図る。

3月29日(5月10日)には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をし、その従者たちにまで引き出物を送った。

前回の上洛では胸襟を開いて語り合った盟友の九条兼実には一度しか面会せず、雑事ばかりを語って政治的な話はせず、贈り物は馬2頭のみであった。
兼実は娘がすでに後鳥羽天皇の中宮になっており、土御門通親・丹後局とは政敵であった。

頼朝は妹婿で重用していた一条能保との参詣の予定も突然反故にし、丹後局に同行している。

頼朝はかつて後白河法皇の死去の直前、院近臣の通親や丹後局が勝手に院の荘園として分捕ろうとした国衙領を、兼実とともに断固たる処置で元に戻した。
丹後局と接触した頼朝は、この兼実の決定を突然取り消したのである。翌年、兼実は一門と共に失脚する(建久七年の政変)。

頼朝は多大な犠牲を払って大姫の入内を計ったが、大姫は病から回復する事なく建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した。享年20。

大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらした。
頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御となるも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。

それまで常に冷徹な政治家であった頼朝のこれらの最大の失策は父親としての思いからとも、娘を天皇の后に立て自らが外戚になるという、中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった限界とも評されている。

~~繊細な大姫。二十歳でこの世を去ることになり、あまりに不憫である。~~ 義高11歳と大姫6歳の時の出会いが、あまりに楽しく輝いていたのだと思う。








  
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