【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

宮道宅媛

2017-02-19 | 雑記
宮道宅媛とは・・・?

応神天皇の妻である「宮道宅媛」

『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇 と 和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)の息子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[注 1])とwikipediaに記載があるので、宮道宅媛は【和邇氏】である。

そして、興味を引く論文(レポート)を見つけたので、ご紹介したく思います。
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1496/1/0030_071_001.pdf

4ページ上段の中ほど「名代氏族の名を負った…」あたりから5ページの下段、6ページの中ほどから後半には佐々木のことにまで及んでいます。

そして、7・8ページ

『…問題は応神が伊吹まで后妃を娶りに来るかということであるが、それは宇治稚郎子の出生に関する記事が参考になる。彼の母は紀に和珥臣の祖日触使主の女、宮主宅媛とし、記は丸迩の比布礼能意富美の女、宮主矢河枝比売とし…

和邇氏は大和北方春日を根拠地とし、宮道は更に北、南山城の宇治郡である。


古事記によれば、ある時、天皇は近淡海国に行幸の途次、宇遅野に
立ち寄り、葛野の方を望んで歌をよみ

そして木幡村に至ったところで、麗美な嬢子と道衢で出遇った。天皇が
「汝は誰の子か」と問うと、「丸迩の比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と答えた。

天皇は其の嬢子に「吾、明日、還幸の時に、汝の家に入り坐さん」
と。矢河枝比売は委曲を其の父に語った。そこで父が曰うには
「是は天皇に坐すなり。恐し。我が子、仕へ奉れ」と云って、其の家を厳飾し候待していたところ、果たして次の日天皇がやってきた。

そして云々、宇治稚郎子が生まれたというわけである。古事記はこの後、日向髪長媛についても詳しく述べる。日本書紀は六年春二月に、
「天皇幸近江国。至菟道野上而歌之曰」として歌を記すだけだが、髪長媛については一三年条に詳しく記す。

いずれにせよ三女王との馴初めについては、記紀ともに記さない。

しかし宮道宅媛との出会いのそもそものきっかけは、天皇が近江に行幸したことであった。この近江行幸こそ、三女王との納采ではなかったろうか。たとえそうでなくとも、大和北部あるいは山城南部出身の女性所生の皇子が宇治に宮を営んで居したように、西濃出身女性所生のササギ(仁徳)が近江蒲生にいたとしても不思議ではないのである。

…』とあります。

中途半端な記事ですが、少し宮道宅媛のことをご紹介できたのでは~と思います。









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隋心院から辿ってみる

2017-02-18 | 隋心院

随心院宮領(小野)  門跡宮領 九之里村

宮道弥益
宮道氏=蜷川氏
 
勧修寺        藤経重(近江国御家人井口中原系図には中原経重がおりますが別人でしょうか?)

藤原高藤 列子    末裔が雨森氏(湖北の雨森氏は富永庄)




昨日の親光の父親が中原弘忠(廣忠・広忠)

中原広宗 (*)大外記・貞親の息。従兄弟に師遠。息に広忠。

中原広忠 (*)広宗の息。息に忠順(親盛)、広季。

中原広季 (*)掃部頭・大外記。広忠の息。養子に大江広元、章広、藤原親能。娘婿に近藤能成。

中原忠順 (*)親盛。広忠の息。息に師茂。孫に師員。

顕厳   僧都    【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟)

親厳   法務,大僧正 【中原親光の息
広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)

広橋と言えば…以前記事にも書きました→其の【九里の祖】一代前の兄弟。兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っており(1244年)、その後富永庄・鐘の銘に名前が残っております。(富永荘 御鎮守新日吉神社 文永五年(1268年))

やはり、何かしら関係があると思います。この中原の系と近江国御家人の系図の中原!

http://www.geocities.jp/okugesan_com/nakahara.htm#nakaharae
上の系図 E です。

最後の行に【平田】
「堂上家系譜大成」によれば、有象の裔、造酒正中原祐安の子で従五位下職国(元名長兼)を祖とする。


大江氏との関係も含めて考えてみる方がよさそうです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/html/mo_ohe.html


この中の大江の系図の中の菅家の是善の兄弟の「善主」の系に 善主~宗岳~(阿本)~嘉献~持賢~真利(久利民部)と九里・久里・久利一族の本の中にはあるので、一応記載しておきます。それは抜きにしても、以前人間叢書の大江広元を読んだ時に、どうも九里とかぶって見えたのですが、やはり、謎はこのあたりから解明できるのかもしれません。

謎って、九里の系図の載っている「中原氏」とは、時代の中でどのような場所にいたのか~です。
それが判れば、もしかすると「九里経久=久経」が立証できるかも?です。(甘いかな。。。)



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今回得た情報とこれから調べたいこと

2017-02-17 | 九里バラバラ情報

旧高旧領取調帳データベース

【編名】 近畿

【旧国名】 近江国
【旧郡名】 蒲生郡
【旧村名】 九之里村
【旧領名】 随心院宮領

【旧高(1)】 300.000000
【旧高(2)】 300.0000
【旧県名】 大津県
【ふりがな】 くのり

【地名1】 滋賀県近江八幡市



随心院大僧正親厳 嘉禎2/11/2 1236年 随心院初代門跡、東寺長者

真言宗

通称小野門跡。万御殿。御領六百十二石余。京都市山科区小野御霊町35。宮門跡でもある。

弘法大師
空海。父田公。母阿刀氏。宝亀5(774)年生。承和2年3月21日(ユリウス暦:835年4月22日)入定。

真雅僧正
弘法の弟。貞観僧正。延暦24(805)年生〔諸門跡譜の没年齢75歳から計算したもの 。異説有〕。元慶3年正月3日(ユリウス暦:879年1月28日)寂。

源仁僧正
南池院僧正。弘仁9(818)年生。仁和3年11月22日(ユリウス暦:887年12月10日)寂。

聖宝僧正
葛野王男大友皇子孫。醍醐寺開基。東南院草創。東寺一長者。 天長9(832)年生。延喜9年7月6日(ユリウス暦:909年7月25日)寂。

観賢僧正
秦氏。讃岐国人。般若寺僧正。斉衡元(854)年生。延長3年6月11日(ユリウス暦:925年7月4日)入滅。

淳祐内供
源激男。嵯峨天皇曾孫。或説右中弁淳茂男、菅丞相〔道真〕孫云々。普賢院。 寛平2(890)年生。天暦7年7月2日(ユリウス暦:953年8月13日)寂。

元杲大僧都
藤原晨省男。延命院。 延喜11(911)年生〔諸門跡譜の没年齢85歳から逆算〕。長徳元年2月27日(ユリウス暦:995年3月30日)寂。

仁海僧正
宮道惟平子。小野僧正。雨僧正。天暦9(955)年生〔諸門跡譜の没年齢92歳から逆算〕。永承元年5月16日(ユリウス暦:1046年6月22日)寂。

成尊僧都
仁海僧正僕隷之子。小野僧都。天喜4(1056)年生。永久6年正月7日(ユリウス暦:1118年1月30日)寂。

範俊僧正
大威儀師仁勢男。鳥羽僧正。長暦2(1038)年生。天永3年4月24日(ユリウス暦:1112年5月21日)入滅。

厳覚大僧都
源基平男。天喜4(1056)年生。保安2年閏5月8日(ユリウス暦:1121年6月24日)入寂。

増俊阿闍梨
諸門跡譜には中納言国俊卿男とある。厳覚僧正資。随心院初祖

顕厳僧都
諸門跡譜には中原広忠男、博士従四位下広宗孫とあるが、押小路家譜に記載無し。 牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧。

親厳大僧正
中原親光男〔尊卑分脈によれば、親光は大江維光の子〕。中原広季為子。号越後僧正。号広橋僧正云々〔諸門跡譜〕。 法務。東寺一長者。牛車。嘉禎2年10月2日(ユリウス暦:1236年11月2日)寂〔10月は諸門跡譜による。系図纂要作12月〕。

厳海大僧正
藤原〔難波〕頼経男。頼輔卿孫。東寺一長者。 承安3(1173)年生。建長3年4月25日(ユリウス暦:1251年5月17日)卒。

宣厳大僧正
左大弁藤原宣房男。光長卿孫。

俊厳権僧正
藤原俊経男。建長6年11月29日(ユリウス暦:1255年1月9日)卒。

厳恵権僧正
九条高実男

静厳大僧正
一条実経男。東寺一長者。永仁7年正月7日(ユリウス暦:1299年2月8日)卒。

厳家大僧正
一条家経男。東寺一長者。建治元(1275)年生。延慶元年11月3日(ユリウス暦:1308年12月15日)卒。

経厳大僧正
厳家舎弟。

通厳権僧正
一条経通男

照厳権僧正
通厳舎弟。

厳叡権僧正
二条師良息

祐厳准三宮
一条経嗣男。東寺一長者。

厳宝准三宮
一条兼良男。醍醐寺。東大寺別当。東寺一長者。

持厳大僧正
二条持通猶子。実今小路師冬男

忠厳准三宮
九条政忠男

仙朝大僧正
諸門跡譜・諸門跡相承伝記によれば源雅重男。尊卑分脈等によれば、雅重舎弟有通の孫

長静権僧正
藤原定長男

増孝大僧正
九条兼孝男。母高倉永家女従三位熈子。東寺一長者。寛永21年7月21日(1644年8月23日)寂。

栄厳大僧正
九条幸家男。母豊臣秀勝女。

俊海大僧正
天和2年5月26日(1682年7月1日)寂。

堯厳権僧正
還俗尚実。 九条家相続

増護大僧正
九条尚実猶子。実二条治孝男。法務。 東大寺別当。明治8(1875)年11月12日寂。


これらの方々の名前を見ると、この【隋心院 門跡宮領】に九之里村があったということと、何等かあると思うのです。
特に此の親厳という方!に注目です。

やはり、中原経久は本当は【中原久経】のことなのでは? 名前のトリックで前後を替えていたのでは?と思ってしまうのです。
しかし、どのようにしたら、そこを証明できるのでしょう! どなたか、教えていただけませんか?



wikipediaより
大江維光

大江 維光(おおえ の これみつ、天仁3年(1110年) - 承安5年1月18日(1175年2月10日))は平安時代の貴族。権中納言大江匡房の孫で、肥後守大江維順(大江匡時)の子。従四位上・式部大輔。

文章生から方略試に及第し、式部少輔、式部大輔等を歴任。紀伝道の大家として評判が高かった。
系譜

父:大江維順
母:不詳
生母不明
男子:大江匡範(1140年-1203年) - 子孫は北小路家(半家)
男子:大江時房
男子:秀厳 - 若宮別当
女子:藤原仲教室
女子:藤原重保室 - 水谷重清母

養子:大江親光 - 実は中原広忠の子[1]
養子:大江広元[2](1148年 - 1225年)

脚注

^ 『諸家系図纂』
^ 広元の出自は諸書に異同があり、正確なことは不明。『中原家系図』(『続群書類従』所収):中原広季の四男。『尊卑分脈』:維光の実子で中原広季が養子とした。『江氏家譜』:藤原光能の子。







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近江八幡 東照寺(多賀町)・日牟礼八幡・つぶら餅・鷹飼町・西本郷寺・本郷神社・金剛寺町・若宮神社・若宮湧水・五社神社・水茎岡山城他

2017-02-10 | 取材旅行
今回、ルーツ探しを始めてから初の取材旅行に出かけることができた。

あまりに突然行くことにしたため、どこに行けばよいのか…と慌てていたが、近江八幡の案内ボランティアさんをご紹介いただき、素晴らしい充実と感動の旅にすることができた。Iさん、本当に感謝です!ありがとうございました。


今回の収穫は、距離感と水との関連・荘園と日牟礼神社との関係、これからの課題としては、牧・岡山城付近のことをこれから眼中に入れるべし…ということだろうか。



発掘調査で、何かしら出てきて、九里氏と関係があるのではないだろうか~という場所。↓



九里城(久里城・本郷城)・九里氏館跡も広く、周囲には8メートルものお堀があったそうで、私が想像していたよりも随分と広い範囲が九里の領地であったようである。
本郷城があったのではないかと思われる本郷神社付近 神武天皇の名前の入った碑も置かれていた。





また、六角佐々木が小脇にいた当時から、九里はすでに近江八幡に居住していたのではないか~という見方があることもわかった。



若宮神社と湧水

若宮神社の近くの湧水地の水は、実は愛智川からであり、愛智と言えば、中原が領主であった場所である。

愛智の水、九里(中原)は、やはり水の設計者であった「井口氏」とともに、紀州より開拓のために移り住んできたのではないだろうか。








日牟礼神社 ↓


驚いたのは日牟礼神社と津田庄・舟木庄が近いことである。
津田庄・舟木庄の場所でも、水の支配権を牛耳っていたのかもしれない。

そして、そのことで井狩衆・江頭衆のような湖水の運送業(戦時には戦闘員になったと思われる)とのつながりもできていたのではないだろうか。




さらに、推古時代の薬師如来像を九里氏が持っていて、戦いで負けた後に【東照寺】がその像を安置して守ってくださっている事、その寺の表札には日牟礼山 天台宗と書かれていたことを見て、このあたりにもかつては九里がいたこと、日牟礼山とのつながりもあり、辿って行けば太陽信仰につながり、水龍ともつながり…と【古代の神々】との関連が見えてくるのである。

このことが、前日に行った【下賀茂神社】水祭祀につながり、舟木庄が【上賀茂神社】の領地であることもまた、偶然とは思えないのである。

今回は東照寺さんが、ご不在であったことが残念であったが、次回訪れる際には、何等かコンタクトを取ってから!にしたい。

最後に水茎岡山城の碑である。





地元近江八幡の皆様、九里氏の碑や祠等のお花や清掃、管理を本当に丁寧になさってくださっていらして、私も感激と頭が下がる思いでした。
本当に、昔からずっとこのように続けていただいていると思うと胸がいっぱいです。

『ありがとうございます!!』


旅行記とまではいかないけれど、忘れないうちに、メモですが書き留めました。



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京都 下賀茂神社・上賀茂神社・相国寺

2017-02-10 | 取材旅行
2月7日から10日まで、旅に出た。

下賀茂神社の『糺の森』と『水祭祀跡』








烏が太陽だったとすると…




上賀茂神社 『片岡社』と『龍の鈴 金と銀』










相国寺 景徐周鱗 九里浄椿の師である
    また、『鹿苑日録』の中に九里源兵衛が相国寺に居住していたらしき様子が見える。天文法華の乱のころである。
    そののちには、対馬守になっている。

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政治・祭祀(さいし)・工業都市のあった稲部遺跡 彦根市!

2017-01-28 | 日記


http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161022000107


古墳期の超大型建物跡  滋賀・彦根



超大型建物と鍛冶工房が出土した遺跡の説明を聞く大勢の考古学ファンら(彦根市彦富町・稲部遺跡)

 弥生時代終末の鍛冶工房と、古墳時代前期の超大型建物が出土した滋賀県彦根市稲部町と彦富町にまたがる稲部遺跡の説明会が22日、現地で行われた。県内外から大勢の考古学ファンが訪れ、古代の近江に存在したクニを想像した。

稲部遺跡からは、弥生時代終末の鍛冶工房と推定される竪穴建物23棟と、古墳時代前期の面積188平方メートルと超大型の建物が隣接して出土。政治・祭祀(さいし)都市と工業都市の両面を併せ持つ、クニの中枢部があったと考えられる。

 説明会では、同市教委の学芸員が「『魏志倭人伝』に出てくる時代の日本、倭国(わこく)の成り立ちを考える上で今までにないきわめて重要な遺跡」と意義を説明。「この区画からは多数の鉄片と鉄製の矢尻が出土した」などと、発掘跡を示しながら調査結果を報告した。

2016年10月の記事ですが、この鍛冶工房もあった都市という処が、気になります。
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名前のトリック 

2017-01-25 | 中原氏バラバラ情報

なるほど!と思ったブログ(ごめんなさい、もうどこだったのかが見つからず、コピーしていたモノだけが私の手元にありました。)
とても納得のいく、説明でした。

諱(いみな)
「名もなき者」といえば 聞こえはいけど 「なまえのないモノ」というのは とても不安定で恐ろしい存在だと思います。 なんだかよくわからない「得体の知れないモノ」として まるきり正体も掴めず、「~みたいなモノ」 くらいにしか 表現できないからです。 

それゆえ、わたしたちは「共通認識」に役立てるためにも さまざまな事象・事物になまえをつけるのでしょう。 なまえをつけるコトによって"それ"(得体の知れないモノ)は "それ"(名づけられたモノ)という意味を与えられ 無形のモノですらも 形状を帯びてくるからです。

具体的に「~である」と わかることは、その性質や出所が明確になり さらに多くの情報が集積すると 組成や要素・成分が分析でき検証が可能となります。
(言い換えれば 名を持つとは それ以外の何モノにもなり得ない 可能性を摘むことでも あります。)

古くから(特に東洋では)"諱"(イミナ)といって 「真のなまえ」(本名)を知られることを警戒する風潮がありました。 
「真のなまえ」を知られるコトは その知った相手に対し服従を許し 人格を支配されることを意味していたのでしょう。

『陰陽師』でも 「真の名」を呼ばれた魔物が その魔力を封じられる というシーンがあります。 『千と千尋の神隠し』でも よく似た描写がみられました。 『西遊記』でも金角・銀角という悪者が孫悟空に名を呼ばれ 返事をした瞬間に瓢箪に吸い込まれる話は大抵の方がご存じだと思います。 

また、さらには最近、話題の『ゲド戦記』や 『デスノート』にも そのコンテクストが色濃く反映されているようです。

こうしたことがソシュールの示す「シーニュ」(signe)の観点以上に 表意文字を用いる東洋(特に日本:漢字に音読み・訓読みがある)で 強く影響性を持つことが頷けると思います。

記号論(意味するモノ:シニフィアン 意味されるモノ:シニフィエ)と 言語学(音声イメージ:シニフィアン 意味イメージ:シニフィエ)で 若干の意味合いの相違はあれども ひとつのことば(なまえ)から想起される概念・イメージは 表音文字の文化圏以上に 東洋(特に日本)においては非常に強い影響性を持っているのです。

古い田舎などでは特に 姓をみただけで どこそこの何某。 あの家の出(出自) この仕事に携わり生業とする者。すべての履歴・経歴が明らかにされる などというケースもあります。

言霊信仰と言ってしまえば それまでですが この風潮と思想は 今でもわたしたちの根底に強く根付いているのも事実です。

諱(イミナ)は 忌み名ともいわれ 忌み嫌われるという意味ではなく 簡単に明かすことも憚られる聖性を帯びた なまえでもあったのです。


~~~*~~~

中原は明道家でもあるので、そのあたり、本名をそのまま文書に遺していないのでは…と思いました。すべてではないのでしょうが、本名と諱と使い分けていたように感じました。

系図の中での「経重」は「重経」としてかかれたり「常重」となっていたりという可能性もあると思った次第です。

下は、年代が分からない文書ですが、中原九里経重も、重経と書いていたかもしれません。

【和暦年月日】 (年未詳)閏4月1日(55550045010)
【文書名】 左官掌中原重経請文
【底本名】 壬生家文書(図書寮叢刊)(11400002)






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中原友景  *西園寺実氏との関係

2017-01-24 | 中原氏バラバラ情報

朝日日本歴史人物事典の解説

中原友景

生年:生没年不詳

鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院の下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。

中原師益の母親が、中原友景の娘である。

防鴨河判官左衛門権少尉中原朝臣(友景)でもある。

【綱文和暦】 寛元4年11月28日(12460110280) 2条
【綱文】 (第二条)前石見守中原友景、太政大臣実氏の使者として、関東に下向す、
【区分】 大日本史料
【人名】 中原友景,友景,藤原実氏,実氏
【官職】 前石見守,太政大臣
【地名】 石見
【事項】 使者,関東,下向



1228年、鴨川の氾濫時に、防鴨河使・勢多判官為兼(ぼうがし せたの はん がん ためかね、中原朝臣為兼)が、地蔵菩薩のお告げにより洪水を未然に防ぐことが できた。その報恩に地蔵尊坐像を安置し、雨止(めやみ)地蔵と名づけたという。

この中原為兼と関係がありそうである。



【編/冊/頁】 5編26冊294頁
【綱文和暦】 宝治2年7月19日(12480070190) 1条
【綱文】 後嵯峨上皇、院北面中原友景・同康景等に、院御領を頒与し給ふ、
【区分】 大日本史料
【人名】 後嵯峨上皇,後嵯峨,中原友景,中原康景
【官職】 上皇,院北面
【地名】
【事項】 院御領,頒与


中原友景はよほどの活躍があったと見え、文書が多々残っている。調べるのが楽しい!

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天武天皇の御陵が荒らされる。1235年

2017-01-23 | 雑記
こんなことがあったそうです。

【綱文和暦】 嘉禎1年3月20日(12350030200) 2条
【綱文】 (第二条)盗、天武天皇の御陵を発掘して、宝物を窃取す、
【区分】 大日本史料
【人名】 天武天皇,天武
【官職】
【地名】
【事項】 盗,御陵,陵,発掘,宝物,窃取

次の年に、検非違使であった中原友景が犯人を逮捕した!!

【綱文和暦】 暦仁1年2月7日(12380020070) 1条
【綱文】 検非違使中原友景、天武天皇御陵の盗犯人を逮捕し、是日、検非違使庁に押送す、
【区分】 大日本史料
【人名】 中原友景,友景,天武天皇,天武
【官職】 検非違使
【地名】
【事項】 天武天皇御陵,御陵,陵,盗犯人,逮捕,検非違使庁,押送

中原氏、快挙。

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古事記にも記載のある「豊浦」

2017-01-22 | 雑記
穴門(アナト)の豊浦宮
アナトは山口県の「長門」のこと。穴門は関門海峡をのぞむ土地。豊浦宮は山口県下関市長府町豊浦にあったとされる。

豊浦というと蘇我氏。蘇我蝦夷は「豊浦大臣」と呼ばれていました。
それは蘇我氏が豊浦に住んでいたからです。

といっても蘇我氏と仲哀天皇は関係ありません。…と他の方のブログにありましたが、

仲哀天皇とは関係ないかもしれませんが、神功皇后とはどうなのでしょうか?

このあたりは、詳しくありませんが何かありそうですね。

下の方のブログも面白かったです。

http://www.geocities.jp/ojyaru_24/toyo.html


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