【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

古代からのつながり(20) アラハバキ神 阿羅波婆枳(あらはばき)神 荒脛巾神 

2016-12-01 | 古代からのつながり

聞きなれない神様だったのだが、調べてみた。

いろいろな説がweb上に展開されているが、
まずは、こちらのページにまとまっている。
http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E9%96%80%E5%AE%A2%E7%A5%9E

しかし、私が一番自分が考えていたことに近いなと思ったものは、【人類史に於ける日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明する!!!!!!スミルノフ学派DR佐野千遥】というブログの記事であった。

記事が多いので、なかなか思った記事にたどり着かないのだが、左下に検索の窓があるのでそこで「アラハバキ」という言葉を入れると詳しい記事が出てくる。

この方の記事が、私としては納得であったので、ご興味のある方はぜひ検索し、ご一読してみることをお勧めします!



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小野氏(1) 小野神社

2016-11-30 | 小野氏
2つのweb情報をコピーし抜粋し、まとめると以下のようになる。

小野神社

小野神社(おのじんじゃ)
御祭神 天ノ下春命〔あめのしたはるのみこと〕
瀬織津姫命〔せおりつひめのみこと〕
稲倉魂大神〔いなくらたまのおおかみ〕
伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕
素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕
大己貴大神〔おおなむちのおおかみ〕
瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕
彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕

東京都多摩市一ノ宮一丁目18-8 

創建年代 安寧天皇18年(紀元前532)


宝亀三年(772)の太政官符には、「多磨郡□野社」の記述があり、これがおそらく多摩の小野神社の事で、史料としては初見であろう。
正史である「日本三代実録」には、元慶八年(884)に従五位上から正五位上に昇格との記載がある。

延長五年(927)に編纂された「延喜式神名帳」では、小社に列格する「武蔵国多磨郡 小野神社」と記載されており、これが当社とされている。

但し、当社の他に府中市にある「小野神社(小野宮)」も比定社(論社)となっている。

両社の関係は、かつては同じ神社であり、多摩川の氾濫に伴う水害によって遷座が行われた結果二社に分けられたとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるとも云われている。
個人的には、創建時は府中市の「小野神社(小野宮)」にあったものの、水害の影響もあり後に当地に遷座してきたものと推測している。

~~~*~~~

横山氏の系図を見ると、その始祖は【横山野大夫小野朝臣経兼】という人物であり、本貫地は【武蔵國多摩郡横山庄】とある。
小野朝臣経兼は、八幡太郎義家に従ひて功あり、武蔵國多摩郡横山庄並びに相模國下足柄郡を賜ふ。 而して武蔵國多摩郡横山庄に住して、氏を横山と称せり。

小野朝臣経兼=横山経兼が出てくるまでは、小野氏である。
小野氏をずっと遡っていくと、敏達天皇となる。
敏達天皇(538-585)の息が 難波皇子で、橘氏の祖となる。(後には楠木氏につながる)
もう一人の祖が春日皇子(560-615)(=小野氏祖)である。

「横山神社」(所在 東京都八王子市元横山2丁目15番27号)

また、もう一つ「小野神社」で気になったのが、神奈川県厚木市小野428 にある神社である。
そこの由緒に『阿羅波婆枳(あらはばき)神』という名前が載っており、気にかかるので、調べてみた。

http://omesh.sakura.ne.jp/jinja/kanagawa/atugi/37-02/01.htm


この中の「愛甲三郎」の本家は横山氏と出ていた。ますます関係がありそうである。
愛甲三郎とは、愛甲季隆のことのようである。

次回はアラハバキ神について、またまた古代へ戻ってしまうが、書いてみたいと思う。
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横山氏(6)つづき 小野湖山

2016-11-26 | 横山氏
wikipediaよりのコピー

小野 湖山(おの こざん、1814年3月3日(文化11年1月12日) - 1910年(明治43年)4月10日は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。


1814年3月3日(文化11年1月12日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師横山玄篤(東湖)の長子として生まれた[1][2]。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。

当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、1826年(文政9年)父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。1830年(天保元年)九州への漫遊の途上彦根に立ち寄った梁川星巌に会し入門を許され、翌年江戸に向かい、尾藤水竹・藤森弘庵・林大学頭に師事し、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり頭角を現した。

江戸において生地の領主である松平信古の求めに応じ三河吉田藩儒者となり藩政に関与、後に正式に藩士(60石取り)に取り立てられた。1839年(天保9年)水戸に出遊し、藤田東湖・武田耕雲斎と交友し徳川斉昭と面閲を得て、勤皇の念を篤くし、師梁川星巌・頼三樹三郎・藤森天山・勝野台山等と共に国事に奔走していたところ、安政の大獄が起こり吉田藩は湖山の身を守るため敢えて吉田城内に幽閉した。

桜田門外の変後、幽閉を解かれた湖山は吉田に留まり藩政に関与し、後に京二条家より招かれると藩主と共に上京、朝廷より国事掛に命じられ、幕末より勤皇の士として巌谷一六等と奔走した。明治維新後は従五位に叙せられ、新政府の総裁局権参事・記録局主任となったが、1871年(明治4年)廃藩置県の後、家督を子息に譲り、東京で詩酒自適の生活を送った。その間、政府の再要請を固辞し、詩壇の重鎮として詩作を続けた。1883年(明治16年)明治天皇より硯を賜り、感激して書斎を賜硯楼と名付けた。1910年(明治43年)4月10日、太東岬の別宅において老衰により死去。湖山は少壮より経世の志し有り詩を以って家名の有ることを欲せず。詩は豪胆淡雅・格調が高いと評されている。

~~~*~~~

次に、国立国会図書館のデジタル図書より(抜粋)

【小野湖山翁小傳】 豊橋市教育會編
生立及家系

舊名 横山仙助
滋賀県 近江国東浅井郡田根大字高畑なる横山玄篤(東湖)の長子として生まれる。

父 玄篤は醫を業とし農を兼ね、妻を磯氏といった。

浅井郡は面積三十一方里、之を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及び若狭に接し。
田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂ひ…東鑑に「建久元年近江国田根庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。

~~~+~~~
ココでストップである。この大納言朝房は、他の本(中世久我家と久我家領荘園 岡野 友彦著 続群書類従完成会)には、朝方の間違い…と出ており、大納言朝方が正しいようである。



~~~+~~~

続きを書く。
翁の家名は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一萬石)と同族である。
故に翁はもと横山姓を称し、名を仙助といった。
第十二世の祖横山掃部頭家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に傳へられている。高次は近江の人、織田・豊臣・徳川の三氏に仕へ、大津城主となった。その妻は淀君の妹なるを以って、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが應ぜず。家康の東征中に西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避したことあり。
横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦死し。一弟が帰農して世々館趾を守り。今も二百余年を経た建物が存し…

其祖小野篁の古墳は紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭州と号し詩文を能くす)と謀り墓碑修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して建てた。



~~~+~~~
以上が、九里とかかわりのありそうな箇所であると思う。

この小野篁の系図は、次回に載せたい。
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横山氏(6) 小野湖山 

2016-11-25 | 横山氏


湖山に関しては、明日書く予定であるが、先行してご紹介。下記の本の中に、わたしにとって重要な情報があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B9%96%E5%B1%B1

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209441 (コマ17)

湖北の観音様文化って、すごい! 時代も古い!
http://guide.travel.co.jp/article/4886/
http://butsuzoworld.com/osusume/takatsuki.html
http://kitabiwako.jp/kannon/


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高月町横山の横山神社

2016-11-24 | 横山氏

11月8日から~2か月間
http://www.nagahama-kannon-house.jp/NEWS/128.html

http://www.jisyameguri.com/chiiki/shiga/yokoyama-jinja/

神社の場所は、もっと奥であるようだが、情報がいろいろで、よくわからない。
〒529-0402 滋賀県長浜市木之本町杉野
〒529-0201 滋賀県長浜市高月町横山297-1

どちらが、本当なのだろうか。

">

http://letuce.at.webry.info/201508/article_9.html

http://www.kokouan.net/htm01/midokoro.html

もしも、この横山氏とつながっているとなると、私の系は井口中原の系図の九里とつながっているのだと思う。


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横山氏(5) 近江の中の「横山」の地図

2016-11-24 | 横山氏
(4)の記事の中に出てきた「横山」の場所を確認してみた。
湖西 武曽横山



伊香郡横山荘は高月横山ではないだろうか。
この地図の中には、磯野・井口・雨森・富永・物部・赤尾と九里と九里の前身の中原と関係のありそうな地名が入っている。
この中の横山荘は、調べがいがありそうである。



最後に蒲生郡の横山である。



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横山氏(4) 姓氏家系大辞典 26.に飛ぶ。

2016-11-22 | 横山氏
横山氏の姓氏家系大辞典、どうもぴんとこず、4~25は飛ばして、26番に進む。
26.佐々木氏族
近江の豪族高島氏の族にして、尊卑分脈に「佐々木信綱ー高島隠岐守高信ー出羽守頼綱ー河内守頼信(横山三郎 従五下、左衛門)阿波守頼有(同五郎)」と載せ、又佐々木系図に「頼信ー頼有(横山五郎左衛門尉)ー頼冬(左衛門尉)」と見え、又、「高信ー泰信ー泰氏ー師頼?順?〈漢字が潰れている)-下坂次郎左衛門重秀ー豊前守高重ー高兼(横山養子)」とあり、また中興系図に「横山・佐々木定綱末、高島高信の孫頼綱長男三郎頼信・之を称す」と。

高島郡横山村より起りしにて、織田信長のために亡さる。或は曰く此の横山氏は佐渡守高長也と、又興地誌略に
「武曾城(武曽村)は横山下野守が居城跡也。下野は佐々木の庶流、高島七頭の一員也。佐渡守高永といへるは、此の下野守がことにして、武曽横山を領す」と。

之より前、文安年中御番帳に「佐々木横山」を載せ、また平居系図等に見え、又浅井三代記、京極家臣に横山掃部頭家盛を挙ぐ。


27.近江 前項参照。
また、浅井郡(伊香郡)にも横山荘あり、興地誌略に「元暦元年、源頼朝・當庄を園城寺に寄付のこと、寺門記に見えたり。所在詳ならず。」と。また東鑑にみゆ。

又蒲生郡にも横山村在りて、横山喜内は蒲生家に仕ふ。これより前、横山太郎左衛門・応仁の初、御陣甲賀山の記に出づとぞ。
喜内は氏郷に従いて、奥州□川城(□は潰れていて見えず)壱萬三千石を領し、蒲生喜内と云へり。後蒲生備中真令と云ひて、石田三成に仕ふ。その男大膳・ともに関ケ原に死す。

又、伊香郡横山村に横山大明神あり、私考に「横山和泉の氏神、神主横山氏(和泉守と別系)」と載せ、また當国に「丸に剣かたばみ」を家紋とするあり。

~~~*~~~

以上が、近江関係の「横山氏」であった。

横山氏と小野氏との関係も大変興味深いものがあるが、あまりに手ごわそうなので、あきらめ、近江国内から起こった「横山氏」を書きだしてみた。が、心の中では、武蔵七党の横山党と関係があるのではないか…と思っている。

宇津木氏が武蔵七党と関係し、佐々木哲氏のブログ内に

「東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族であり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。
横山党は縁戚関係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元が補任されましたが、
宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。

・・・とあり、また、別のweb情報でも、

「宇津木氏_武蔵七党_横山党_小野氏
 横山家光の後裔である三郎某が南多摩の小宮村大字宇津幾を本拠とし宇津木を名乗ったことから始まる。この宇津木三郎は建久元(1190)年に源 頼朝の上洛に供奉した。後に、名字の地を離れ、上杉管領家を経て後北条氏に仕える。小田原城落城の後は彦根の井伊家に仕えた。」

・・・とあり、またほかの情報には、

「慶長六年(一六〇一)井伊家が近江国佐和山(後に彦根)へ転封に伴って宇津木氏も近江に移った。」とあった。

この宇津木氏も祖は小野篁となっているため、横山氏と同じである。



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横山氏(3)のつづき

2016-11-20 | 横山氏
横山氏 姓氏家系大辞典より書き出している。

3.武蔵国造族説
文字がつぶれていたり、薄くて判読できないところもある。
『横山猪股□党は、小野系図に拠るも、七党系図より云ふも、小野姓であって、敏達天皇の皇子春日親王後裔、小野朝臣篁より出ずとなっている。

小野氏を春日皇子の後裔とするの非なるは、従来屡々(しばしば)述べたところであって、今更論ずるまでもないが、篁の後裔とすることも果たして事実であろうか。

之を説明する前に、横山党の祖義隆の祖時資の父なる孝泰に至る系図を載せると次の如くである。

篁ー保衡ー忠範ー義村ー忠時…(前記事の2、と同じである。)」

時代が篁から八代子孫であるはずの孝泰なのだが、その時代には小野郷も既にあり、小野神社もある。孝泰が武蔵守となり、初めて此の地に来たために、小野氏が此の地に出来たとは云えないと思う。~との見解が示されている。
また、小野神社の祭神も本社祭神を「武蔵国造祖兄武日命祖神」としている。
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横山氏(3) 姓氏家系大辞典より

2016-11-16 | 横山氏
横山
延喜式、加賀国に横山駅を収む、和名抄に加賀郡駅家郷とある地と云ふ。
其の外和泉、武蔵、近江等に横山庄、又遠江、駿河、上総、近江、陸前、陸中、羽前、越前、丹波、周防、薩摩、大隅等にこの地名存す。

1、小野姓 武蔵の大族にして、南多摩郡横山庄より起る。この地は東鑑、建暦三年五月七日條に「横山庄・大膳大夫」と載せ、新編風土記に「此の横山の名は古き唱へなり。七党系図、横山党の祖従四位下武蔵権守義隆・初めて横山に住してより、子孫横山氏を称し、数代此の地を傳領せしが、横山右馬允時兼が代に、建暦三年五月、和田乱に討死し、家絶えけるよし東鑑にみゆ。


2.出自 小野氏系図に拠れば、此の氏は小野篁の後也と云い「篁(参議)-保衡(阿波守)-忠範(出羽守)-義村(二位中将)-忠時(常陸介)-
時仲(上総守)-時季(治部大輔、相模介、従四位下)-隆泰(孝康、従四位下、武蔵守)-義隆(武蔵権介、義孝、號武蔵大夫、初めて横山に住し、横山大夫、野大夫と號す。)-資孝(野別当、助高、あるいは助孝、又資孝、號野三別当。八幡殿源陸奥守・長元元年戌辰十月、相模国柳下に生れ給ふ時、□・御引目の生悪に仕え、鳴絃の役を兼ぬ。…

この辺でひと休憩。45まである。
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スーパー・ムーン 

2016-11-15 | 日記

大きく、輝いていて、ウサギの模様もはっきりと見える、素晴らしい月夜でした。
しかし、カメラにはその柔らかな金色が出ません。雰囲気が違ってしまいます。

眼で見ることの素晴らしさを実感しました。
また、カメラとこんなに違っているのだと…再認識させられました。
web上、新聞上の画像は、実際とは違うということを普段忘れていたようです。

あっ、ただカメラマンの腕次第なのかもしれません。



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