【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

永久三年 源経方卒ス(徳源院本)

2016-08-23 | 雑記
いろいろな系図があるが、今回のは京極氏とかかわりの深い「徳源院」のものである。部分だけだが、興味深い。
それに、乾氏もいて、嬉しい! どれが正しいかは、神のみぞ知る!


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今朝の散歩~♫

2016-08-21 | 和歌

台風過 海の香りの山並みと 風吹き渡るつゆ草の朝

けぶる山空の雲とがつながって 柔らかな風大きく吸い込む






一つ目の台風が去り、朝に散歩した。

日陰の下り坂を歩いているとき、海の香りの風、そしてけぶる山々に感動した。
カメラを持っていなかったのが残念!!! 幻想的~

なかなかうまくは言葉にならないけれど、ここにこんな日もあったことを記しておく。
いつもとは、違う空気!


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熊野社領 上総国 畔蒜庄(あびる‐しょう)

2016-08-21 | 佐原氏バラバラ情報

【相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで】鈴木かほる著 新人物往来社
より、気になる部分をピックアップしてみよう。
上総介広常が頼朝に対し、不遜な態度をしていた・・・と言うあたりに、その箇所はあった。

「上総介と源氏の関係を遡ってみる。頼朝の祖父為義は、熊野別当と深くかかわっていたことから、熊野社領・上総国畔蒜庄(千葉県君津市)の管理のため嫡子下野守義朝(頼朝の父)を下向させたが、この義朝を養公として迎えたのが、譜代の郎党・上総介広常の祖父常春(常時)である。義朝を上総の御曹司と称するのはそのためである。」

まず、畔蒜庄を歴博で調べると、

『文治2地頭職は熊野別当、地下は義兼と領家職は熊野社領か・寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊←母鶴熊=熊野関係者か・弘安6関東下知状=南庄内亀山郷=北条時頼、将軍家祈祷料所として円覚寺に寄進=和田乱没収地か・応永18』

佐々木秀義の乳父母的存在として山内首藤経俊がいる。清俊は、その経俊の曾孫にあたる。その母=鶴熊。なので孫宗俊の妻が、鶴熊なのであろうか?

東京大学史料編纂所DB


寛元元年7月28日
将 軍 家 政 所 下 散 位 藤原 清 俊 可 令 早 領 知 熊 野 山 領 相 模 国 愛甲預 所 并 下 司 両 職 事 、 右 、 任 母 堂 鶴 熊 今 日 譲 状 、

・・・とあり、1243年に将軍家政所を辞職し、母鶴熊の持っていた相模国愛甲の領主職を安堵されているらしい。

そして、1235年喜禎三年八月十五日の吾妻鑑には、愛甲三郎季隆という人物が見えるので、関係者かもしれない。



「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

畔蒜荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名上総国のうち古代畔蒜郡のほぼ全域が荘園化したものと考えられ,広大な荘域の北部は畔蒜北荘,南部は畔蒜南荘とも呼ばれた。

「吾妻鏡」文治2年6月11日条に,「熊野別当(所脱カ)知行上総国畔蒜庄也,而地頭職者,二品令避付于彼人給,於其地下者,上総介・和田太郎義盛引募云処」と見える熊野別当の知行する熊野山領で,地頭職も源頼朝から熊野別当に安堵されたが,「地下」は上総介足利義兼と和田義盛の両名が引き募っていたと伝えるついで,寛元元年7月28日の将軍藤原頼経家政所下文では,「熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職・備中国穂太庄預所并下司職」が,藤原(山内首藤)清俊に譲与されている(毛利文書/県史料県外)当荘領主職を含むこれらの所領は,清俊が母鶴熊から譲られた所領であるが,3か所とも熊野山領であるから,鶴熊は熊野別当の縁につながる者とも考えられる。

前掲「吾妻鏡」では地頭職は熊野別当の知行とするが,「吾妻鏡」の地の文は必ずしも一級史料とはいいがたい点を考慮すれば,熊野別当が知行したのは当荘領主職で,「地下」を引き募ったとされる足利義兼・和田義盛両名が,当荘地頭職を知行していたのではなかろうか。
この史料は当荘が南北に分かれていたことを示しているが,足利義兼・和田義盛が南北を分掌していたとも考えられる。

その後,弘安6年7月日付北条時宗申文・同年7月16日付関東下知状により,「上総国畔蒜南庄内亀山郷」が将軍家御祈祷所として,北条時宗から鎌倉円覚寺に寄進されていたことが知られる(円覚寺文書/県史料県外)なお応安3年2月27日の円覚寺文書目録により,弘安6年6月8日付北条時宗寄進状の存在も確認される(円覚寺文書/相州古文書2)。

これらの史料から畔蒜南荘内亀山郷が,弘安6年以前に北条氏領となっていたことがわかる。」

愛甲庄の方の情報としては、以下のとおりである。


【国名】 相模
【郡名】 愛甲
【荘園名】 愛甲庄
【フリガナ】 アイコウ
【重複コード】
【参考市町村】 厚木市
【市町村コード】 142123
【明治村字名】 愛甲・船子
【史料村郷名】 船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】 熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】 寛元元年
【初見年西暦】 1243
【出典】 長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】 カ6207
【記録類】
【関係文献】 有
【地名辞典】  平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】  『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書


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三浦佐原氏と紀伊守護

2016-08-19 | 佐原氏バラバラ情報
【紀伊国守護】

鎌倉幕府
代 氏名             在職期間        出身家

1 豊島有経 としま ありつね 治承8年 - 不詳1184年 - 不詳 豊島家

2 佐原義連 さはら よしつら 不詳 - 建仁3年 不詳 - 1203年 三浦家

3 後鳥羽上皇御          建永2年 - 承久3年 1207年 - 1221年

4 三浦義村 みうら よしむら 承久3年 - 不詳  1221年 - 不詳 三浦家

5 佐原家連 さはら いえつら 貞応2年 - 嘉禎3年1223年 - 1237年 佐原家

6 北条久時 ほうじょう ひさとき 弘安3年 - 不詳 1280年 - 不詳 赤橋流北条家

7 北条時兼 ほうじょう ときかね 正応4年 - 不詳 1291年 - 不詳 普恩寺流北条家

8 北条氏  不詳 - 元弘3年    不詳 - 1333年        北条家

紀伊国と関係が深かった三浦佐原氏であった。

しかも、義連! 盛連は、会津だが、盛連の六男時連(矢部禅尼の三男目)が新宮を名乗る理由は、ココだったのではないだろうか。
つまり、六男が紀伊国守護であった時代もあったのではないだろうか。家連の後にくるのでは?

家連に関して(コトバンク)さはら-いえつら
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉

いつの間にか、また新宮氏関係に戻ってきている。きっとここに何かがあるのだと思う。

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尊卑分脈のヒントから、佐々木季定(為俊)周辺

2016-08-16 | 雑記

『尊卑分脈』によると、宇多天皇の皇子・敦実親王の息 源雅信から、扶義~成頼~義経~経方~季定(為俊)と続いて近江源氏の佐々木秀義、佐々木定綱の系につながっていく。

これに対して「佐々木宮神主」と注記された、季定の弟である【行定】の系は「本佐々木」と呼ばれて、佐々木秀義・定綱とは「一族にあらず」とされていると【吾妻鏡】文治一年一〇月一一日条に書いてあるそうである。

後者の系は宇多源氏の系ではなく、古よりの在地豪族や佐々貴山氏の系の人々である可能性が高いということとなり、本来はつながらない系図をつないでいるのかもしれない。

名前だけを見ると、為俊は為義から一字いただいたかな…?という気がし、秀義も義を為義からいただいたかな~という気がする。

秀義の母親は、為義の姉か妹となる女姓である。

ということは季定の妻が為義の姉か妹ということである。

さらに不思議なのは、季定の息一人であるにもかかわらず、秀義は為義の猶子となっていることである。

他に子はいなかったようである。

また、経方の子達である季定と行定他が別の系とすると、経方の子=季定とすると、他の行定他の系には、またそれぞれの在地豪族の父親がいたのかもしれない
 
ただし、他の兄弟~行定・行実・家行・行範のなかで、【家行】だけは、本当の兄弟かもしれない。なぜなら初名が【行俊】という。中屋冠者で、愛智四朗大夫である。
愛智郡愛智川村に住んでいたそうだ。

中原成行と関係がありそうである。

追記&訂正
秀義…兄弟おりました。私の見ていた系図は省略されているものだったらしいデス。スミマセン。























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押立神社が愛智新宮なのか?

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
平成13年の記事に▽5月30日「愛智新宮押立神社祭礼の謎を解く」湖東町歴史文化資料館・森容子学芸員~というのが載っており、押立神社を探してみた。
住所は東近江市北菩提寺町356である。

百済寺にほど近く、湖東歴史民俗資料館のすぐそばである。

ここが、愛智新宮と何らかの関係があるのだろうか~と前回の記事の古地図を見てみた。
ありました! 日吉領 黒い点になっております。角井村 百済寺領・延暦寺領と共に。

ここですか! 


神社の説明がありましたので、ここに転載します。

田園の中にある押立郷(おしたてごう)の総氏神(そううじがみ)で、「大宮さん」の名で親しまれています。
開基は奈良時代後期といわれ、火産霊神(ほうぶすながみ)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っています。
木々がうっそうと茂る静かな境内には、南北朝時代に建立された大門と本殿が落ち着いた構えを見せ、どちらも国指定の重要文化財になっています。
普通、本殿は拝殿より高い位置にあるとされていますが、この押立神社は、本殿と拝殿が同じ高さにあることが珍しいです。
 
60年に一度行われる大祭のドケ祭は、鬼の面を被り、太鼓を持った踊り手が囃しに合わせて踊り狂う奇祭です。
祭神である2神を祭ったお渡りの儀式がそのまま残ったもので、ドケという名前は、道化がなまったものといわれています。
最近では、昭和46年に行われ、次回祭が行われるのは平成43年です。また、祭りで使われる装束などが境内右手にある宝物殿に展示され、見ることができます。

<重文>本殿、大門

~~~*~~~60年に一度~~~*~~~ 今までよく伝わってきたものだと、感心します。

この神社がなぜ愛智新宮と関係があるのか、知りたいです。



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愛智郡の古地図

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
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新宮社をめぐる謎~古くの愛智郡の範囲に豊浦も入るのだろうか?

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報
『尊卑分脈』によれば、源経方は近江国初代佐々木荘下司である。

佐々木荘の一部の領家だった大宮齋院悰子内親王(堀河天皇皇女(1099-1162) - 賀茂斎院)が、佐々木荘一部を伊勢神宮の【佐々木御厨】にしている。

佐々木御厨(下豊浦)には新宮神社の摂社大神宮があるそうである。これと、今まで記事に書いていた愛智新宮領と関係はあるのだろうか?
愛智新宮の方は日吉社の関係だったと思うが、その後に変わった…とも考えられるだろうか?


永治二年(一一四二)当時の佐々木荘の領家は白河院の養子左大臣源有仁であった。(源行真申詞記)。

経方は近江佐々木荘をその白河院に寄進して、自らは管理の立場である下司となっている。(佐々木哲学校より)

養子であった源有仁とは、どのような人物であろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E4%BB%81

永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣となるはずであったが、院の孫鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから元永2年(1119年)源姓を賜り臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に任ぜられる。

妻に藤原公実の女がおり、その公実の三男が西園寺通季である。つまり、有仁の妻であった女と待賢門院=藤原璋子は、姉妹である。

その西園寺通季の孫にあたるのが、藤原実明である。

こちらの下豊浦、古くは愛智郡でもあったのだろうか?

ここの、新宮神社 摂社大神宮のことは、以前にも記事で書いたものだろうか?↓

~~~*~~~

安土に安土新宮大社がある。(web情報)

当神社は往古より早玉神社として速玉之男神・事解之男神二柱の御神霊を祀り朝野の崇敬篤く社領千町田に及んだとされる。

社伝に寄れば、75代崇徳天皇の御代天承元年(1131)近家十二代豊浦冠者行実(ゆきざね)なる人が紀伊熊野本宮より伊弉冊の大神を勧請したとされるが確証はないとのこと。

又同年、白河法王の皇女仁子女王外宮が豊受大神に水田二十町三反を御寄進遊ばれ、伊勢より天照皇大神を勧請併祀し社名を新宮大社と改め祭礼を三月五日と定められた。

豊浦冠者…1131年。。。また源行真申詞記に近くなってきてしまった。。。



~~~*~~~

本当に、源行真申詞記に関係があったのだ。ここで、新宮に関してはおしまいにして、次へ進もう!


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三浦為俊と佐々木為俊

2016-08-16 | 新宮氏バラバラ情報

新宮氏と佐々木氏との間に、三浦佐原氏や中原氏、亀井氏、などが見え隠れしている。

そして昨夜『相模三浦一族とその周辺史』 鈴木かほる (新人物往来社)のなかに、佐々木氏の中にいる初名為俊で、後の季定を見つけてしまった。

千寿丸(中右記)河内守。 使。白河院の御寵愛…院の切れ者・三浦為俊となっている。

さらにこの本から該当の部分を抜き出してみたい。

『平家物語延慶本』第一本巻一に、平安時代の三浦氏の動きを知る一節がある。
(北面)は上古はなかりけり。白河院の御時、初めて置かれて、衛府どもあまた候けり。中にも為俊、盛重、童より千寿丸、今犬丸などとて切れ者にて有けり。千寿丸はもとは三浦の者也。後には駿河守になさる、今犬丸は周防国住人、あとは肥後守とぞ申しける。…

確かに三浦の者とある。

そして、佐々木為俊に関するweb記事にも、同じように童から活躍している為俊がいる。(佐々木学校)
http://blog.sasakitoru.com/200507/article_15.html

もしも、どちらも正しいと考えると、

為俊(=季定)~秀義~定綱~信綱~重綱のラインの始まりが三浦為俊ということにもなってしまう。

三浦氏のほうでは、為俊の父は章俊、祖父は為資、曽祖父は善里である。
佐々木氏もさかのぼってみると、父は経方、祖父は義経(初名章経)、曽祖父は佐々木成頼である。

さらに善理を調べてみると、訂正増補百家系譜に「 桓武天皇–葛原親王「時忠—時實時發 _ — —有親時繼親顯| -國王惟範「購- - —伊望—善理—僧正覺慶-行親—定家–時範—實親—範家—親範—基親西潤院- (實弟) (實弟)行時- -時當時慶 T 時直時真時成時國時光範篇時容-時義信庸信順・・・」とある。Google booksでは、よくわからない。。。

この中の、善理という人が気になり、調べてみると以下の系図となる。
章俊の下に続くのが為俊である。


佐々木経方の妻は新羅三郎源義光の女となっている。このあたりから何か見えてこないだろうか。
新羅三郎義光~~~義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した。とwikipediaにある。

経方は源経方(平氏の時もある)であり、1115年62歳で没とあるので、だいたい中原成行とほぼ同時代を生きていた人となる。1053年生まれ
ということは、孫である佐々木秀義と中原季仲が同時代ということになる。

そして、新宮行範が実綱・家仲であるとすれば、年代的にはあっていることになりそうである。
秀義の妹聟である熊野別当行範も年代はあっていると思われる。

秀義娘が鳥居禅尼であった場合は、年齢の離れた夫であった場合、年代可能である。

~~~*~~~

ここにこだわっていたら、中原の九里の系である【経行】の方が進まない心配が出てきてしまった。

もう少しで何かがつかめそうな気もするが、深追い禁物である。

しかし、成行と経行、経行の息子で成行の方についた人物もいるのではないか・・・・と思うほど、九里と関係がありそうなのである。

新宮氏は、また何かの機会があるまで寝かせておこう~と思う。






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藤白鈴木氏 穂積氏から鈴木氏へ

2016-08-15 | 新宮氏バラバラ情報

865年生~926年 穂積基行 → 鈴木基行となる。藤白鈴木氏の始祖

子:良氏・良勝

良氏→従5位下 検非違使 妻:橘広方(熊野国造)の娘…熊野国造には楠木正遠(正成の父)・和田氏・真砂氏などがいる

良氏の子:重氏 984没 押領使・美濃権介

重氏の子:重豊・重実

重豊→従5位下左近将監 娘が藤原実方に嫁ぎ、熊野別当泰救を産む
重実(庄司)(940‐998年)→従七位上 出羽大掾 妻:侍従藤原定時の娘
                 定時の妻が左大臣【源雅信】の娘
                 定時の息が「実方」・・・重豊の娘の嫁ぎ先

この【源雅信】(920‐993年)の息子【成頼】が近江国佐々貴郷(蒲生郡)に住むことになる。

このあたりで、近江国佐々木氏と藤白鈴木氏と関係ができたのではないかと思う。



 



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