【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

松原定吉 大正から昭和時代 染色家

2017-06-28 | 雑記
web情報だが、九里の名前が出てくる。

https://iwano.biz/clothes/clothes-ma/post_420.html

松原定吉氏の経歴の中にあったのだが、

大正から昭和時代の染色家であり
重要無形文化財「長板中形」の保持者。

富山県魚津市に生まれる。

幼い頃に上京し、日本橋本町の川辺屋の九里正三郎に師事。
長板中形の型付けを学ぶ。

さらに亀戸町竹中竹次の下で修行を続け、
22歳の若さで亀戸に板場を設けて独立した。

昔から長板中形の業界では分業であった
型付けと染屋の仕事を一貫し、自ら全行程を手掛けた。

1955年に重要無形文化財として認定されるが
その年の暮れに惜しくも逝去した。

松原定吉年表
1893年 富山県魚津市に生まれる
1903年 上京し、九里正三郎に弟子入り
1931年 型付けと染屋を一貫作業として行う
1955年 重要無形文化財「長板中形」の保持者に認定されるが年の暮れに、逝去

この方の御子孫が松原伸生氏 受け継がれていて、嬉しい限りである! 今度お会いしてこなくっちゃ!
http://www.studio-y.jp/saijiki_ART_Matsubara.html

~~~*~~~
どのようなものが「長板中形」なのだろうか?
知らない私がピックアップするので、もしかすると見当違いかもしれないが…

http://www.kimono-shop.co.jp/item-yukata/yukata-ai+10002/index.html

http://www.gofukuyasan.jp/SHOP/OKD-NT-0034.html

まるで、イギリスのアンティーク!
ウィリアム・モリスのようで、カッコイイ!

https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%83%a2%e3%83%aa%e3%82%b9+&qpvt=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%83%a2%e3%83%aa%e3%82%b9+&qpvt=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%83%a2%e3%83%aa%e3%82%b9+&qpvt=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%83%a2%e3%83%aa%e3%82%b9+&FORM=IGRE


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九里平左衛門(3)御用達商人であった。

2017-06-28 | 九里バラバラ情報
以前にも「九里平左衛門」はご紹介していた。2016・5・26

「この九里平左衛門とは? googlebooksからそのまま載せますと、

十村の大淹村平左衛門は郡奉行九里平左衛門より「御座間」工事について質問され、寺院内に領主通り路椽が残っている旨
答え、その見図りを大工に行わせ一貫六〇〇目を算出したと長安寺が町側に伝えた。(近世在郷町の研究)

松平大炊頭内岸清助、松平丹波守内鵜飼十蔵、美濃弓削十郎兵衛、京都居住
町人九里平左衛門、^、対上手二つ三つ、御直坪田翫碩、京極主膳正内渡辺太郎
左衛門、同木村伝左衛門、江戸住居町人河瀬四郎右衛門、三枝丹波守、対上手三つ (近世風俗見聞集, 第 3 巻)」← 将棋の話である!

今回は、平左衛門さんがメインなので、もう少しアップしてみようと思う。

紅花文書にそれは3通あったのだが、

伊勢屋源助家文書; 223 : 永代賣渡申山藪地之事 .1紙 , 文政10年5月日 (1827年) - 出:喜兵衛, ほか3名 受:華厳寺 ; 九里平左衛門
伊勢屋源助家文書; 224 : 預リ申山藪地之事 .1紙 , 文政10亥年5月 (1827年) - 出:裔宗華厳寺 受:九里平左衛門, 善八
伊勢屋源助家文書; 225 : 永代賣渡之申山藪地之事 .1紙 , 文政10年5月 (1827年) - 出:喜兵衛, ほか3名 受:華厳寺, 九里平左衛門

その前に【紅花文書】とは…以下をクリックすると詳しい情報が出てきます。
http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/yamabiko/yamabiko40/40-6.gif

「* 目録データの著作権は,山形大学附属図書館,山形大学附属博物館及び山形県立博物館にあります。」ということなので、あまりご紹介はできないが、3通あり、文政10年(1827年)には、九里平左衛門は華厳寺にいたようである。

松室村とあるので、京都の華厳寺であることがわかる。裔宗華厳寺となっている。
代々華厳寺だった…という意味だろうか?

将棋や計算が得意だった【九里平左衛門】紅花=山形県とのつながりがあるようである。

そして、鶴舞藩の御用を云い遣っていた商人であった節もある。その鶴舞藩の京の留守居の一部にも住んでいたのかもしれない。

土屋氏・松平氏の御用達も東京大学史料編纂所データベースに【土屋妥女正・松平縫殿頭用達九里平左衛門 請書 慶応三卯年十二月十六日】とあるように、請け負っていたようである。

この土屋妥女正や松平縫殿頭が鶴舞藩であったのか??

論文の「京都留守居研究覚書」(浅井良亮氏)より一部ご紹介すると


で、遠州浜松・参州 奥殿にも商人として繋がりがあり、またたぶん店が【堺町 御池下】であるそうだ。

さて、この九里平左衛門さん我が家の系の最後の兄弟であった二男政邦や五男復吉と関係はあるだろうか?


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新情報 鶴舞藩 九里平左衛門 (2)メモ

2017-06-27 | 九里バラバラ情報
簿冊番号
明04-0026
簿冊名
旧藩々邸奉還並売却件
作成課
土木課
年度
明治05年度
件名番号
156
件名
元鶴舞藩邸家屋舗上邸に付、召出され御尋になったが、何の沙汰も無い旨返答、その後鶴舞藩より別紙の通り申越したから此段お届の事 書面の邸地、12日官員出張受取りの事
年月日
明治5.9.7
西暦
18720907
差出人/作成者
左京28区衣棚二条下る九里平衛門
宛先
京都府
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新情報 鶴舞藩 九里平左衛門 メモ

2017-06-27 | 九里バラバラ情報

当町元鶴舞藩家屋敷1ヶ所所持し来ったところ、旧来用達の九里平左衛門が願切のまま、明3年6月別紙写の通り下り置かれたので、此度同人名儀に譲替したく刻印頂戴したい事 (口上書)
簿冊番号
明04-0026
簿冊名
旧藩々邸奉還並売却件
作成課
土木課
年度
明治05年度
件名番号
155
件名
当町元鶴舞藩家屋敷1ヶ所所持し来ったところ、旧来用達の九里平左衛門が願切のまま、明3年6月別紙写の通り下り置かれたので、此度同人名儀に譲替したく刻印頂戴したい事 (口上書)
年月日
明治5.3.
西暦
-
差出人/作成者
下京廿五番組白川筋三条下る年寄小山忠兵衛・伍人頭山崎茂兵衛
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佐々木氏の中の岡田氏

2017-06-24 | 岡田氏 バラバラ情報
京極佐々木氏の中に岡田氏が存在する。

京極高氏の系である。

高氏~秀綱~秀隆(岡田)である。
その弟が家綱(松田)
弟秀信(濱河)
弟秀豊(松下)
…となる。

系図の名前は何だったであろうか? 







…ということで、京極高氏の孫になるものの中に、岡田・松田がいたのである。

この秀隆の跡が、webの「京極家」でていた。

岡田秀隆京極高氏子秀綱子?四郎
  豊清秀隆子
  重綱豊清子
  信清秀隆子
  正綱信清子

同じ名前【重綱】が柏原織田家臣系譜に出てくる。時代も違い別人ではある。

以前もご紹介はしたが、
京極高次の分限帳の中に「岡田清左衛門」がいる!
そして九里次郎左衛門もいる!
さらに佐々九郎右衛門もいる!

この佐々九郎右衛門は後に松江藩に行くのだが、九里次郎右衛門も松江藩に行く。
其の後佐々氏が津軽に配流される際追随していったのだろう九里も津軽へ行き、最後は自害する。


岡田は?
佐々は?
永田は?

松江で購入してきた本をじっくりと読むべき時が来たようである。







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永田氏と九里氏(2)

2017-06-24 | 永田氏
今度は、永田氏を中心に九里氏との関係から探ってみようと思う。

それにぴったりな『戦国期近江における湖上ネットワーク 佐々木永田氏の場合』小風真理子氏の論文を見てみよう。
【中世後期の琵琶湖水運に着目して湖西の国人領主連合「高島七頭」の一員たる佐々木永田氏による・・・】と書かれているように、永田氏が中心に据えられた嬉しい論文である!

【九里氏は戦国初頭より蒲生郡船木荘九里を本拠地とし、近在の要港船木をおさえる在地領主であり…】とある。そうか、九里村は隋心院領とあるが「村」になったのは江戸時代と聞いていたので気にかかっていた。
それ以前は「船木荘」だったのだ。

以前にも記事にしたが、近江国には4つ「船木・舟木」に関する荘園があり、歴博のデータベースには混同要注意とある。
しかし、湖の向かいにあるお互いの荘園、何等か関係がなく同じ名前にしたのだろうか? 疑問である。

とりあえず、そこは気になりつつも横に置いておいて、比べてみよう。

➀高島郡安曇川町
北船木・南船木
賀茂別雷社領・賀茂社領・醍醐寺領・三宝院領
寿永三年 1184
賀茂注進雑記・建武以来式目追加・東寺文書・康正段銭引付・醍醐寺文書
角川地名=安曇川河口の南舟木、北舟木あたりが荘域=寿永3頼朝、安曇川御厨など賀茂社領への武士の濫妨停止=海津、今津から大津に通ずる湖上運送の寄港地
平凡地名=醍醐寺三宝院領以外は、高島郡船木庄の可能性を否定、蒲生郡船木庄の情報の混入とする(私としては?)

➁高島
安曇河御厨
高島郡安曇川町
賀茂社領・賀茂別雷社領
寿永三年 1184
山城賀茂別雷神社文書・吾妻鏡・賀茂注進雑記・東鑑・朽木文書
角川地名=寛治4堀河天皇、賀茂上下社に不輸租田600余丁寄進=下賀茂社が安曇川半分の領有を主張したが、上賀茂社領となった=大治1寄人52人神田15
寛治4堅田御厨網人等解状=神人52人、公田人別3町を引募り、毎日朝夕の贄の魚を備進・天文11安曇川庄御公用銭算用状=御競馬料あり=天文頃には安曇川庄と呼ばれたか

➂ 近江 蒲生
船木庄
近江八幡市
法勝寺領・禁裏御料所・皇室領・醍醐寺領・三宝院領賀茂別雷社領・賀茂社領・南禅寺領・三鈷寺領
寿永三年 1184
加茂別電神社文書・長命寺文書・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・後奈良院宸記・日吉社并叡山行幸記・大島奥津島神社文書・南禅寺文書・菅浦文書
『実隆公記』文亀2,12,1・『民経記』天福元,4,15・『後奈良院宸記』天文年間・『言継卿記』元亀2,12,11・『満済准后日記』応永34,1,23
角川地名=舟木とも=寛喜1法勝寺領、立庄経過不明=『輿地志略』は「船木郷」を多賀、北之庄、南津田、奥島4ケ村の総称とする
平凡地名=船木町、小船木町、加茂町が中心・舟木関は室町幕府御料所・→2102019「船木庄(高島郡)」参照・→4204006「船木庄」参照

➃ 近江 蒲生
小船木庄
近江八幡市
弘安七年 1284
近江長命寺文書
荘園志料=なし・角川地名=庄号なし→小舟木(近江八幡市)=白鳥川右岸平野部
近江八幡市小船木に関係あらん・船木庄の一部か・→2106003「船木庄」参照

➃は弘安だが、他の三つはいずれも寿永三年1184年であり頼朝の息もかかっているとみた。
そして【賀茂】という文字を紫にしてみたので、多いことがわかる。
【三宝院】とは京都伏見にあるが『永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。』とHPにあるが、寿永の時代は三方院と醍醐寺は別々に○○領と書かれていることからも、全く同じではないらしい。

この湖を挟んで両端に荘園を持つということが、非常に効率よく便利だったに違いない。物流・交通・観光・贈答品(鮒ずし)に関しても・・・である。

近江国というのは地図を見てみるとウエストがくびれていて、非常に効率よく他の国に行ける良い立地であるが、琵琶湖が足を止めてしまう…
そこで、湖の利権を持っていることが重要だったのではないだろうか。信長が使ったように早船?があるとどちらにも行ける!

…ということで、同じように頼朝も考えたと思う。そこを直接的な武力と離れた「賀茂」という神社関係に託したのかな?(ココは適当)

ともかく、大事な場所に九里氏は関わっていたのだ。対岸の永田氏とお互いに手を結べば…と、どちらからか歩み寄りがあったのであろう。

婚姻関係を結んだ両氏であったが、残念ながら伊庭・九里氏は六角勢力の圧力で衰退していく。
永田氏は織田信長に仕ええることで、急成長していく。
特にお相撲の好きだった信長だが、永田景弘は躯体も大きく、相撲試合でも勝っている!ことからも、気に入られていたようである。

また、堂々巡りだが、「永田景弘」が『称九里』で、「九里甚左衛門正貞」だったのではないだろうか? 
永田辻と九里氏を考えるときに、いつもココでそのような気がしてしまう。

その甚左衛門正貞が永田氏として、信長に気に入られていたからこそ加賀で活躍していくのではないだろうか。

一方、信長に誅された永田義賢のことは、昨日の記事に出てきたように永禄十一年に没している。
同じく、永禄十一年=元亀元年に九里三郎左衛門が信長に誅されて、所領が景弘に渡っている。

この九里三郎左衛門は秀雄ではないかと思う。(浅井日記の中に出てくる。)
まさかとは思うが、この永田義賢は実は九里三郎左衛門で『称永田』だったのではないだろうか?(お互いに相手の氏よりお嫁さんを迎えたとか。。。)

【蜷川親俊日記 天文八年十一月十三日の条には、六角定頼の被官永田刑部少輔の名を記しその傍注に「西佐々木」と記している。】と前述の論文中にあるように永田刑部少輔は西佐々木であるにもかかわらず、六角定頼友つながりを持っていた。
西佐々木でありながら、西と東のパイプ役になっていたのが「永田刑部少輔」の系だったのであろう。
論文の中では、永田氏の中にいくつかのグループがあったとみているようである。

菅浦とも奥嶋とも関係のある永田氏。九里氏の衰退の後ではなく応永期とあるので、まだ九里は活躍していた時代に同じところに縁があったというのだ。

そして同じ論文中に【材木座由緒記】に【近江が京極氏の治世であった頃、高島郡舟木は永田氏と九里氏の支配下にあって…】とあり、永田氏と九里氏の誰であったのかの比定を試みている!

京極氏の近江守護在任期と考えれば、高詮の1370年から1377年頃か、京極持清・政高の1469年から1473年、また京極高清の1508年頃となるそうである。
其の後突き詰めていくと、永田氏と九里氏がともに「高島郡司」と記され、九里四郎次郎員秀であろうとみている。

永田氏の方は刑部少輔の系ということで、享徳に亡くなった永田重政の次の刑部少輔と言えば、景弘となる。

この濃密な両氏の関係が柏原藩での養子縁組につながる所以と考えられないだろうか?
もしもそうなのなら、柏原藩の九里・永田氏もまた、近江出身と言えるのではないだろうか?

柏原藩には他にも多数の近江国出身者が存在する。ここが認められると、わが九里直系も元は近江国だったこととなる。

次は、佐々木氏の中の岡田氏に関して書いてみたい。


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佐々氏と永田氏 (1) 

2017-06-23 | 永田氏
柏原織田家臣系譜(国立国会図書館デジタルより)コマ19 佐々氏

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393

佐々直賢の弟が永田氏に廣満として養子に入り(義理の姉妹となる永田女子は九里八郎右衛門政方の妻である。)
今度はその息が佐々直賢の息【直期】(もと永田廣満三男)となる。
その直期の妻は、直賢の娘【市】である。

その二人(直期と市の次男)が九里八郎右衛門修政となる。

~~~*~~~

織田信長の時代に九里三郎左衛門・永田景弘が元亀1年5月17日の【信長文書】に舎兄九里三郎左衛門…
【永田刑部少輔殿 右、九里ハ…】と書き出しにあったように、

また、永田氏の系図の一部に「称 九里」と書いてあったように、

永田=九里の可能性もあるんじゃないだろうか? 

また、長岡藩に入っている永田氏の伝承に「牧野殿の所が良いと、九里に聞いた」というものもある。

そして、永田氏はもともとは佐々木氏であると思う。
諸家系図纂と柏原織田家臣系譜では、永田の書かれている場所も、名前も違うのだが…

この柏原の系図にある永田義賢は、「為信長被滅」とあり、系図が終わっている。
永禄十一年のことである。
武家家伝六角氏の系図に拠ると、この義賢につながる系は不詳となっている。

もう少し粘って調べてみようと思う。






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甲賀の忍者情報

2017-06-20 | 雑記
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170602000133

甲賀にも関係のありそうな九里。

「くのいち」は「十」になるのではなく「女」になる粋な忍者語。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170403000089

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久々の新情報 相良家文書に載っている九里!

2017-06-19 | 九里バラバラ情報
久々に新しいピカピカの情報に出会った。



内容はよくわからないけれど、桜本坊を調べてみた。果たして桜本被官と関係あるのかどうか??

http://www.sakuramotobou.or.jp/since/index.html

天武天皇~。おまけに大和宇陀と接している吉野に九里がいた! この情報貴重だと思う。「九里但馬」とは誰だろうか。


はやとちりか…。調べてみると桜本坊とは足利義輝の使僧桜本坊のことで、
【中世武家儀礼の研究】(二木謙一著)一に「義輝の使者として僧桜本坊が、御内書を携えて下向」とある。

…ということは、桜本坊というお坊さんで、その人に仕えていた九里但馬ということになると思う。

誰だろう。足利義澄・義晴と関係があった九里。義輝に近い所にもいた可能性はあると思う!

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岡田氏 柏原織田家臣系譜 

2017-06-19 | 岡田氏 バラバラ情報
岡田氏の一般的に名の通っている「岡田善同」とその周辺を見ていきたい。

まず、岡田善同は、どんな人物であったのか「細川家資料」より

岡田善同(おかだよしまさ)
【原文表記】
将監、伊勢守
【メモ】
将監。はじめ織田信長に仕え、次いで加藤清正に属し、のち豊臣秀吉に仕う。慶長五年関ヶ原戦には徳川家康に属し、六年六月知行五千石。美濃国奉行並に近江・伊勢・筑後等の郡代を兼ぬ。のち山田奉行。寛永六年九月従五位下伊勢守。八年五月二十九日没。年七十四。

そして東京大学史料編纂所データベースによると、「岡勝五」=「岡田善同」であることがわかる。

その岡田善同と佐々政次(勝通)(? - 1560年)・佐々孫介(勝重)(? - 1556年)(私の追記;佐々成政の次兄)は共に【小豆坂七本槍(あずきざかしちほんやり)】として活躍し、織田氏の配下にいた。

連歌研究の展開(金子金治郎著)に、その重能と父重頼が登場している。
『大永六年は小幡城築城の前年にあたる。; 0 岡田重頼と重季が八剣宮を祀った。
「熱田神宮記」によると、八剣宮は熟田神宮の別宮で、「比,一草-薙劎-徳,祝一一八-洲安-国一
」と言われる。』

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_okada.html播磨屋さんの系図より(もしかすると「尾張群書系図部集」を参考に作っているのかもしれない)
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E3%80%80%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%AE%B6%E8%87%A3&viewRestricted=0コマ16岡田氏

播磨屋さんや尾張群書系図部集と柏原織田家臣系譜は違うが、柏原織田のほうは明治二十四年になってからの出版で、それまで藩に提出してきた系図や記憶をもとにして作ったものだと思う。

さて、どちらが正しいのだろう。

https://books.google.co.jp/books?id=nWc3pUoc9XsC&pg=RA3-PA21&dq=%E5%B2%A1%E7%94%B0%E3%80%80%E8%89%AF%E6%B2%A2&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjdxraAmsbUAhXLUbwKHdatDyQQ6AEIOjAE#v=onepage&q=%E5%B2%A1%E7%94%B0%E3%80%80%E8%89%AF%E6%B2%A2&f=false

尾張群書系図部集より。

詳しいところにまで深入りせずに、ポイントだけに言及すると、岡田重矩が尾張群書の方では治左衛門となっているが、柏原の方では市十郎改め「十右衛門」となっている。

この岡田重矩の養子が【重容】=「永田廣満二男 廣方」であり、この永田廣方の弟「廣行」が佐々茂左衛門直賢の養子【直期】になっている。(永田の兄弟が岡田家と佐々家に養子に入っている。)

しかも、永田廣満は佐々宗明二男である。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393 コマ24 九里

何だか複雑なのだが、この佐々直期の二男が九里八郎右衛門修政となり、この岡田重容の孫が九里八郎右衛門政敬となる。(九里の系図では、父修政、息政敬である。)

妻の氏を見てみよう。
九里政直 妻?
九里正道 早川氏
九里政方 永田氏
九里良顕(=水野氏) 妻?
九里良朴 妻 岸江氏
九里修政 妻?
九里政敬 妻 田辺氏
九里政忠 妻 佐原氏
九里政得(敬三) 妻 横山氏
九里圭治(=大井氏)

また、妻として嫁いでいった先は、浅井氏・秋田岡氏・荻野氏・瀧氏・栗林氏である。
また、他家へ養子として出て行った人物と先は、九里政邦(雄蔵)別為支家・三郎 播州福本藩片部氏である。

このコマ24の最後の方だが、政邦(雄蔵)に関しては、他の九里家へ養子として入った可能性もあり、調べてみる必要があると思う。
又、頣吉は早世し、復吉は静岡県伊豆河津佐ケ野に移り、その後どこかへ又移動しているものと思われる。

政得(敬三)の息大井令蔵四男 圭治が私の曽祖父となる。




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