【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

絵師とはな、命がけで気ままをするものだ。 葉室鱗 『乾山晩愁』より

2016-09-27 | コラム
『乾山晩愁』は尾形光琳と弟の乾山のお話
光琳の曽祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉 法秀~とあった。

乾山のお皿。
http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/29973146.html

『永徳翔天』 狩野永徳がまだ源四郎と呼ばれていた若いころから亡くなるまでの話だが、信長の存在が武士たちに波紋を呼び起こしたように、絵師たちをも時代の渦に巻き込んでいったのだ。

次の『等伯暮影』も、絵師のお話。永徳の次の時代を担った新しき旗手長谷川等伯の話。あの松の墨絵は七尾の松林~と…

『雪信花匂』 この話は井原西鶴が花魁に聞いた話・・という形をとっている。
狩野派の久住守景の娘「清原雪信」の話だ。
このなかに、今日の題にした「絵師とはな、命がけで気ままをするものだ。」があった。

ストーリーは実話をベースにしていると思われるが、しっとりとしていて良い話である。

清原雪信という女性画家がいたことや、その娘春信のことも初めて知った。
webで画像を調べたら、とても優しくほんわかした表情が気に入った!
欲のない顔だと思う。

那須の与一。
http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/29972378.html

いいなぁ、葉室鱗。

最後の『一蝶幻影』は、たぶん九里氏に関係のある話。でも内緒デス。
本阿弥も多賀氏と関係があり、いま北海道新聞に連載で書かれている小説も柳沢吉保のあたりで、九里氏が近いデス。

この本は【乾山】が気になって借りたものでしたが、最後の一話に極近の話が…やはり、神様の采配かな。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

豪栄道さま、おめでとうございます。

2016-09-25 | 日記
やんちゃ坊主のような豪栄道を応援しておりましたが、とうとう全勝優勝~信じられない~嬉しいデス。

夕焼け、今夕素晴らしかった!未来を感じさせてくれる!



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

鏡 水神 稲作 道具

2016-09-25 | 古代からのつながり
鏡神社という名前に出会い、そこには久里大明神という旧称があったことがわかり、古代のことも含めて思い出してみる。そして再考してみる。


中原景経の記事より http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/fbd2df1f1f5be5c36b293c078adc3638

ここで、もう一度中原景経の事をご紹介したい。
九里の祖の一代前 経任の兄にあたる人物である。(以下は佐野静代 水と環境教育の論文紀要より)

井口系図によれば、もと中原氏より出て近江国に来たり、中原景経を祖と伝えている。
この中原景経に関しては、井ノ口日吉神社書中のその名を記す一節があり、今は損失した「富永荘御鎮守新日吉神社 文永五年」銘の写し中に、願主の一人として「御庄奉行人仲原景経」の名がある。
この記録に従うならば、井口氏の来歴は富永庄の在地荘官としての位置づけにルーツを求めることが可能となろう。井口氏系図中にも、富永荘内の各郷の地頭職を相伝していたとの記述もみられる。…景経が寄進した日吉神社の鐘は現存していないが、それは「神池」に沈められたままになっているからであるという。鐘が水神祭祀と関係していることは、三井の晩鐘型説話によって明らかであり、この場合の「神池」の祭祀に井口氏があずかっていた可能性を示すものと考えられる。…

以上が佐野氏の論文紀要であったが、井口氏がそしてその祖である中原景経が水神祭祀とかかわっていた可能性があり、鐘が水神祭祀に関係があることがわかる。


そしてここに古代に水祭祀の遺跡のある賀茂氏と中原氏と井ノ口氏のつながりが生まれるのではないかと思うのである。
佐味族らが鐘を作っていたこともあるかもしれないとも思うのである。
江州中原氏は景経以前から余呉付近に住んでいたことが、近江国御家人井口中原系図よりわかる。(私の追記)

1231年「富永庄」
郡名 伊香郡
領家:青蓮院門跡領・延暦寺領・山門領
史料村郷名:雨森郷・落川郷・高野郷・唐川郷・野村郷
出典:円満院梵鐘銘・青蓮院文書・井口日吉神社文書


鴨別雷神社の社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。
これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。
成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神賀茂別雷命である。また、父は乙訓社の雷神であったという。

また、乙訓坐大雷神社には火雷神が祀られており、玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。
…と、云うことである。

~~~*~~~

下記も以前考えたり調べたことだが、今見直してみても、丹生関係神社など、九里の足跡と思われる箇所と見事に一致している。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/1072af81cb3d6dcd11a8e23afcb7f50b

やはり、古代の久利・久里・九里一族は、鏡や鐘を湖や池に沈めて、水神を鎮める神人であり、(賀茂族も水の祭祀をしていたという。)
稲作や畑作のために農耕の道具を、また鏡や鐘のために祭祀の為の物を作る人でもあって(佐味族などと共に)
移動をしていた民だったのではないだろうか。(道具をつくるためには、資源である丹生・火の神の力も必要となる)

そして、水との関係とともに、農耕に必要なのは太陽の光であるが、それが比触につながると思う。

web情報では、

比牟礼八幡宮は、もとは延喜式内社の大島神社(大島郷)と奥津島神社(奥島村)を併せた形ですが、これに船木郷の比布礼社が加わる形となっており、比布礼社は大島神社と合わさったときに比牟礼社になり、それがさらに比牟礼八幡となりますが、日触八幡という別称もありました。

「比布礼・日触」というのは、近江の和珥氏族の祖のヒフレのオミ、すなわち「和珥臣の祖・日触の使主(『書紀』応神段)、丸邇の比布礼の意富美(『古事記』応神段)」のことであり(志賀剛著『式内社の研究』第七巻)、真野臣や櫟井臣はその一族の後裔とされます。

・・・とあり、さらに目賀田・深尾・山内氏…と関係が出てくるあたりも、九里氏と合致していると思う。

賀茂族系の中原氏と和邇族系の真野・櫟井氏が結ばれて、近江国の九里が誕生しているような、そんな場所にいると思う。

そして、紀州の記事でもあったように井ノ口(井口)は田畑に水を持って来るための設計ができる技術を持った人々であったという。
佐味族は鉄を作ることや、農耕に秀でていた人々である。

こうした集団とともに行動していたのが久利・久里・九里一族だと思う。

(久利の九州の遺跡では(久里双水古墳)青銅鏡も発掘されている。)…水と関係している。

近江国の鏡神社の周辺に高木・新川という地名もあって、驚いた。
高木は肥前国高来・新川は越中の新川郡と、ともに九里(深江)や井口と関係のある地名が、鏡神社からほど遠くないところにある。

鏡神社や、鏡氏も、気になる存在である。六角佐々木鏡氏の前に鏡に住んでいた人々を知りたい! 額田王の鏡村???
新羅人の後裔(えい)か???







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

坂上氏と草野氏そして、松浦党。

2016-09-23 | 坂上氏 バラバラ情報
今、坂上末満氏の著書【総括・坂上氏族の盛衰】【完結・坂上氏族の盛衰】を借りて読んでいる。

ご自分のルーツを探して、一族に関することをまとめて書いた本である。

その中の九州坂上氏の再調査という章より気になる点を書いていきたい。

姓氏家系大辞典よると「九州の坂上氏は藤姓高木氏流なり」とある。
高木氏系図を見ると、藤原道隆-隆家の子孫で佐賀郡高木(肥前)より起るとある。
高木文定が祖である。

草野系図を見ると、高木文貞の裔の篤兼が大隈国に配流されたが、その子孫は坂上・河俣、加治木(梶木)、牛糞等を名乗ったとある。詳しくはわからない。

大隈国配流の主は、奥州栗屋川城主安部宗任であったというから、安部氏の流刑地に藤原ー高木氏流の篤兼が送り込まれたということか。

安部宗任は、前九年の役で敗れ、四国に流されたが数年後に再び九州松浦郡(肥後)に流されたとある「草野系図」
最終的には大隈国に送られたのであろう。

高木氏にはもう一つの流れがある。草野系図によると、高木永経の子永平は、文治年間(1182年~1189年)に城を築いて草野太郎を称したとある。
永兵の兄は松浦郡を賜わり、松浦党を名乗っているから、草野氏と松浦氏は同族である。


蓮忍が松浦郡高来の地頭となっている。
「平家没家領、本所は仁和寺・寛元2高来東郷地頭有馬朝澄」と深江家文書に残っており、其の朝澄の次の地頭が、深江入道蓮忍となっている。(有馬左衛門尉平朝澄)

この蓮忍は、九里の祖である【中原中太蓮忍】と同一人物だろうか。そうであると私は思っているのだが…

このあたりの他の情報も欲しいのだが、出てこないでいる。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

七久里

2016-09-22 | コラム
別所温泉に寄られ、7ヵ所の温泉を開き入浴遊ばされ、「長い年月の沢山の 苦しみが離れた」と愛でて、七苦離(七久里)の湯と名づけられたと言う。

なるほど、それでは九里は、苦離とも読めるのだ~!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

新免氏が徳大寺氏・井口氏と関係するとなると・・・

2016-09-22 | 井口氏 バラバラ情報
新免氏として赤松氏の中に入った人物は『徳大寺実孝』の息になるのだろうか?
その徳大寺実孝(1293年~1322年)を調べてみると、【室は西園寺公相の娘】とある。

ということは、公相の曽祖父が実明の兄 実宗になる。


そして徳大寺には、西園寺公重(公通の弟=実宗・実明の叔父)が養子に入っている。

さらに、中原とのつながりを以前に書いた記事があるのだが、そことリンクすると思う。



http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bb9440b5d4b0b6c3f8dea1f557935d58


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

井口氏 赤松氏流 他

2016-09-22 | 井口氏 バラバラ情報
井口氏には、
1.利仁流藤原姓(越中)
2.能登の井口氏
3.江州中原氏流
4.佐々木氏流
5.土岐氏流
6.若狭の井口氏
7.参河の井口氏
8.遠江の井口氏
9.甲斐の井口氏
10.相模の井口氏
11. 武蔵の井口氏
12. 丹波の井口氏
13. 紀伊の井口氏
14. 播磨の井口氏
15. 赤松氏流
16. 藤原姓
17. 其の他(大舘日記に井口清右衛門、石田三成の家臣に井口清左衛門、越後魚沼郡に井口氏、佐州役人帳井口氏・清和源氏に収め、徳川時代龍野脇坂藩重臣、大州加藤藩側用人、秋田佐竹範用人、に此の氏あり。また信濃にも存す。)

姓氏家系大辞典より

その15.赤松氏流 が気になったので、ここにメモを残しておく。
美作国吉野郡赤田村井口上の山塀高城(大野城)中興城主井口長兵衛貞詮と云ふ。新免家記によれば、長兵衛は新免伊賀守宗實の一族にして、赤松左馬助頼則の二男なり。


「新免家譜」によると、その祖は藤原北家徳大寺実季に出ている。実季は『諸家知譜拙記』に「権中納言正二位、元亨二年(1322)正月十七日死去、三十」とあり。『公卿補任』でも同じである。「家譜」はその子大納言に注して「建武年中、後醍醐天皇の勅勘を蒙り、作州粟井庄に左遷、武家より御所を作りて、垣内御所と号す。云々」などとあるが、これは少々怪しいものである。大納言の子則重のとき、勅免を得て新免氏と号し、その初代となったとする。また、将軍義詮から粟井庄・広山庄・吉野庄を賜ったという。この則重の嫡子が長重で次男が助隆で、ともに赤松方の有力な部将であった。(web武家家伝より)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sinmen.html

この徳大寺は、またまただが、西園寺通季の弟の系なる。

浅井氏は、二男三条実行の末裔となり、(母:藤原基貞女)
九里氏は、三男通季の末裔となる。(…のではないか?)
(母:藤原光子(藤原隆方女) - 堀河、鳥羽天皇の乳母 )
新免氏は、四男実能の末裔(徳大寺)となる。

公実の妹に藤原苡子(1076-1103) - 堀河天皇女御、鳥羽天皇の母がいる。



ともかく、九里が足利義澄を匿っている際に水茎岡山城にて生まれた息(亀王丸=義晴)を赤松氏に預けることになるのだが、そこに関係してくるようにも思える。

「亀王丸は播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。」とwikipediaにもある。

赤松義村と新免氏とは一族の中では近くはないのかもしれないが、赤松氏の一族の中に井口氏・新免氏・徳大寺氏がいることが、気になる。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

中原兼遠の息たち 次男樋口兼光 今井四郎兼平 

2016-09-21 | 井口氏 バラバラ情報

中原中三兼遠の息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、落合五郎兼行は、皆な義仲に臣事する。
兼平の妹は巴御前である。
落合兼行は甥であるそうだ。


讃岐文学より

中原兼遠の斎藤実盛に寄す友情は大きく深かった、この人実盛が名残りを惜しまれて木曾を辞したのは、三月…


「樋ロ二郎兼光と名付け申した、実は御願いが御座って、この兼光を雪になる頃まで使って下さらぬか、時折兵法なり文章なり教え下されい、従者二、三も」「お、、承知致した、喜んでお預り申す、呑気な実盛の宫仕えで御座るからな」兼遠は絶えず木曾の若者を ...

もしも、このやり取りが真実と近ければ、兼光は斎藤実盛(平維盛に仕えていた)の許にいたということになる。(京)

今日は、覚明・中原康定・中原基兼と時代の勉強。
未だ書けそうにないです。

行家が紀州名草に逃げた~と言う一文をみつけた!
姉婿を…とあったのは、熊野別当行範のこと!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

北海道の朝の月

2016-09-21 | 日記
今朝のお月さま。
きれいです~!







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

井口氏&石黒氏

2016-09-20 | 井口氏 バラバラ情報


【ヰノクチ ヰクチ】姓氏家系大辞典より、気になる処を書いていこう。

井口氏三郎は越中井口に住し、郷なを以て氏と為す也。(且つ越中井口氏の祖は利仁にして、斎藤氏というは誤れり。又同譜(富樫家譜)に承久三年法皇の勅に因て、越中の井口氏は。富樫家春と俱に、越後越中の境川に東郡を防ぐと云えども、負けてひくとあり)

また、昨日の記事の「井口條を見よ」の件は、下記のようになる。
又、同郡木舟に石黒氏あり。…
木舟城主の歴代は、又次郎光直ー大炊助光教ー大炊左衛門成親ー左近蔵人成綱(信長に誅さる)-左近
又、成綱の弟に湯原八丞國信あり。

國信(高畠古典本に、國信兄石黒左近自刃後、越中を退き、紀州まで至り、二三年を経天正十二年下向、國祖是を召出され、同十四年賜二千五百石とあり。(長太夫祖)其の弟を治郎と云ふ。・・・

紀州まで至り・・・とある。誰かを頼って行ったのではないだろうか。
次に紀伊の井口氏を読んでみると、


【紀伊の井口氏】
…また、在田郡大谷村舊家井口平右衛門條に「樋口兼光の子井口次郎右衛門兼貞、其の子平右衛門兼元なり」と見ゆ。しからば、信濃の樋口氏か、されど微證なし。…

この兼光は、中原兼遠の次男である!木曽義仲を赤ん坊のころに預かってきた其の人の次男である。

木曽義仲の乳母子であるため、共に育ち、共に闘っていた一番義仲に近い家臣である兼光。
もしも、このことが本当ならば、やはり、紀伊国の井口氏と越中国の井口氏とは関係があるのではないだろうか。

明日に続く。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加