【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

今朝はマイナス12度、美しい朝でした!

2017-01-13 | 日記




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サムハラ神社

2017-01-13 | 雑記
「サムハラ」とは、何語なのだろうか?
「アラハバキ」がもしもシュメール語として、この「サムハラ」もシュメールから来た言葉ということはないだろうか?

シュメールは今のペルシャ湾の近くであるが、聖徳太子の時代より(それ以前か?)ペルシャ人は日本に来ていて、数学などを教えていたそうである。
それと共にこれらの話が入って来たのであろうか?

シュメールから一方はゲルマンや北欧に、一方はアジアへ・・・と広がっていたのであろうか?

以上は私的メモ。
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古代からのつながり(10)の追記 神々の考古学より(大和岩雄)その2.

2017-01-04 | 古代からのつながり
大和岩雄氏の著作より

八尾の鏡作坐天照御魂神社

冬至は一年の終わりと始まりの日だから、藤方義男・吉村貞司は、倭人伝の「春耕秋収の年配」を冬至正月とみている。…
このような自然暦に中国の暦法が加わったのが立春正月である。

立春正月を「日読み」の基本として、立春の朝日が三輪山山頂から昇るのを拝する位置に、最初の前方後円墳の石塚を築造したのだが、石塚は三輪山から昇る立春・冬至の朝日だけにこだわっているのではない。三輪山を基点として巨大なカレンダーを作っている。春分・秋分の巻向(纏向)山、夏至の竜王山は、三輪山の準じる聖山であった。このような三輪山山頂と石塚古墳の中軸線の結びつきを延長すると、田原本町八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。三宅町石見の鏡作坐天照御魂神社は、第八章の「天照大神の考古学」で述べたように、三輪山山頂から昇る冬至を拝する位置にあるが、八尾の場合は314の図のような位置にある。(314とは…三輪山山頂との線は立春立冬と結ぶことのできる線)

八尾の鏡作坐天照御魂神社の宮司夫人の観察によれば、立春の前日の節分の日に、朝日は三輪山山頂から昇り、(立冬の前日にも三輪山山頂から朝日は昇る)立春・立冬の夕日が二上山の雄岳・雌岳の鞍部に落ちるというから、この地は立春・立冬の前日が三輪山頂から昇り、立春・立冬の夕日が二上山の鞍部から沈むのを拝する聖地である。
この地でおこなわれる立春祭事は、現在まで継続されている。神社の御田植祭は田植え時期に行うのが普通だが、八尾の鏡作坐天照御魂神社では二月におこなう。(今は二月の日曜日をえらんでおこなう。)
二月の御田植祭は、節分や立春に三輪山山頂から昇る朝日を拝して、五穀豊穣を祈った祭事が、御田植祭とよばれたのであろう。・・・

この神社が「鏡作」の地にあって「天照御魂」の神社であることからみても、太陽祭祀「日祀り」のための神社であることは明らかである。鏡は日神アマテラス形代であることは、記・紀神話にはっきり書かれている。

~~~*~~~


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古代からのつながり(10)の追記 神々の考古学より(大和岩雄)その1.

2017-01-02 | 古代からのつながり

以前書いた記事の続きとなるようなことが本の中に書かれていたので、メモ的に書いておきたい。追記

古代からのつながり(10)の続き
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/41005fb917f997288a5dbf94a3de5fe3

奈良県田原本町八尾にある鏡作神社(天照御魂神社)
http://www.genbu.net/data/yamato/kagami1_title.htm
この神社を基点とし、二至・二分の方位線の先に山があるという、暦(コヨミ)的役割を示していた場所なのだ。

では、大和氏の本よりその箇所を書きぬいておきたい。

八尾の鏡作坐天照御魂神社
本居宣長は、「真暦考」で、
天地オノズカラナルコヨミニテ、民ハ授ケザレドモ、時ヲバミヅカラヨクシルコトニテ、マズ去年マキオキシ青菜ノ花ノ咲ルヲ見テハ、
苗代時ヲシリ、ツクリオキシ麦ノ穂ノアカラムヲ見テハ、田植ルトキヲシリ、又ソノ穂ノ刈時ヲモテ、又麦マク時ヲシルガ如ク、年々カクシテモユカバ、イカデカ其時々ノシリガタキコトアラム と書く。

この素朴な農業暦を古代日本人の「コヨミ」と宣長がみるのは「魏志」倭人伝の「春耕秋収」という表現にこだわったからだが、われわれの先祖は縄文時代から二至・二分を「観測」し太陽祭祀をおこなっていたから、太陽の運行にもこだわっていた。素朴な太陽暦と農業暦がミックスしたのが、古代日本人の「コヨミ」である。

その「コヨミ」の一年とは、日照時間の一番少ない日の朝日が、彼らの集落地から見て一番右端の目的物(山頂、稜線の突起したところ。山の鞍部や、巨岩・巨木など)から昇るのが、一年の始まりで(当時)、そこから朝日の昇る場所は毎朝左に移動して、左端に至って(夏至)、又最初の目標物に戻って、一年は終わるとみていた。

続きは、明日に。


読みにいらしてくださっている方々へ 

いつも見えざる方々に力をいただいております。ありがとうございます。

皆様にとりましても、健康で充実の年となりますよう祈念いたします!



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佐々成政の姉の夫は前野氏

2016-12-18 | 九里バラバラ情報
記事がバラバラになってしまって申し訳ないのだが、12月12日の記事の続きである。

国立国会図書館のデジタル図書にある柏原織田家臣系譜の佐々氏系図を見ると,どこに佐々氏があるのだろうか…と思うが、中途で線が途切れて「宗直」とある。この人の妻が佐々成政の姉であり、宗能の母親となる人である。



http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393



http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217a.htm#001

佐々成政の子孫についてはほかの方の記載で、以下のようなものがあったのでご紹介したい。
その前に成政の正室は「慈光院」で村井貞勝の娘であり、その村井家の姉妹に福島高晴室・がいるので、ひょっとすると九里もこの伝(つて)で、大和宇陀松山藩に勤めることになったのだろうか?
ちなみに佐々成政の母は、菅原姓余語氏だそうで、余呉という地名と何等か関係があるのではないだろうか。しかも菅原姓!
前田玄以も、同じく村井貞勝の娘を正室に迎えている。


佐々成政の子どもたち。

長女→家臣松原五郎兵衛室
次女→甥佐々清蔵室、関白鷹司信房後室

・どうやら成政は清蔵(長兄の息からの養子)に後を託していたようだが、清蔵は本能寺の変で戦死。

三女→織田信高(信長七男)室
四女→家臣神保氏興室
五女→ 山岡景以室

庶女子→画家・狩野孝信室
庶女子→秀吉の人質となり処刑される

となっている。
唯一の跡継ぎと思っていた清蔵が亡くなったため、佐々成政の子孫を名乗るのは成政の姉の子孫の方が多い。
東京大学史料編纂所DBには、以下のような文書が残っている。

佐々成政判物写  蠧簡集残編(22840008)

【差出】 成政K
【宛所】 前野久三郎殿

此の久三郎こそが、柏原の系図に出てきた【直勝】のことである。



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鏡神社のある近くの「夕日岡城」と永田氏と九里氏

2016-12-13 | 九里バラバラ情報
鏡神社近くの「夕日岡城」は、信長文書の下記のことではないだろうか?(東京大学史料編纂所DBより)
元亀1年5月17日

信長文書

近江永田景弘宛朱印状写 舎 兄 九 里 三 郎 左 衛 門 跡 与 力 ・ 家 来 、 寺 庵
簡(肝) 要 候 、 仍 状 如 件 、 五 月 十 七 日 信 長 朱 印 元 亀 元 也 、              
            永田刑部少輔 殿 右 九 里 ハ 、 江 州 野 州 郡 入 日 岡 城 主 也 、

九里となっていた永田刑部少輔は、永田景弘のことである。九里七郎右衛門とも名乗っていた。(法名・高宗)
この人が、入日岡の城主である…ということで、しかも九里の舎弟である。つまり九里三郎左衛門の実の弟か、義理の弟であろうと思われる。『武家雲箋』にも、その名前は載っている。

永田氏と九里氏とは江戸時代初期になっても婚姻関係があり、近しい関係である。


信長の指揮のもと行われた相撲大会に始めは行司役として、その後では力士として出場している。番外編で出場した永田氏だが、確か負けそうになりながらも勝ったような記憶がある。(↓に以前書いた記事があり)
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f7a5115674366e94ab9afe0efc19a40d


夕日岡と入日岡、是は同じお城だったのかどうか…『近江の城郭探訪』のブログに【夕日ヶ丘城(向山城・入日ヶ岡城) 近江国(野洲)】とあるので、どちらも同じお城であることが分かった。(ありがとうございます!)地図や写真も付いている。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/6903d1a0d860054a4140ee7e32ab5618

鏡神社と九里、やはり関係があるかもしれないと思う。何を探ればいいのだろうか。

永田刑部少輔景弘は本名を正貞という。九里にも正貞がいる。(以前も書いたが…)

【綱文和暦】 元亀1年5月17日(15700050170) 1条
【綱文】 織田信長、近江の永田正貞に所領を安堵せしむ、
【区分】 大日本史料
【人名】 織田信長,永田正貞
【官職】
【地名】 近江
【事項】 安堵

九里正貞(加賀藩の九里系図)

「九里氏姓源本出越前一乗谷 世々仕朝倉家朝倉喪亡之後、曽祖甚左衛門正貞天文十一年壬寅生、
矣壮歳于尾列信長公頗従洲俣之役興信長公相俱以馬渡俟河甚有軍功、其後復帰越前仕柴田勝家 一日辞禄而去 
至同州府中始奉拝謁 高徳公天正八年

公就封於能列之日正貞扈従賜采地弐百石 正貞容貌長大あり勢力故毎臨軍窶々有殊功 平日誇シ武晩年好禅學 元和五年致仕譲次子定則 剃髪號宗智…」九十三歳、最後は禅を学び、宗智と號し、没している。
天文十一年に生まれ寛永十年に亡くなっている。(1541年~1634年)

(そして、永田氏の高宗の孫が宗智と號しており、ひょっとして記載する場所を一行間違ったのではないか…と思ってしまう。)


さて、墨俣の役の時(1566年)、一緒に河を渡ったそうだが、信長32歳、九里甚左衛門25歳の時である。
1570年元亀元年に九里三郎左衛門がスパイ容疑で没収された与力・家来・寺庵が永田刑部少輔(右九里ハと言われ、系図にも称九里とある)に渡るが、これも、もしかすると九里甚左衛門正貞のことなのかもしれないと思ってしまう。


どなたかに解明していただきたい事案である。


 
   
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大和宇多松山藩 九里八郎右衛門と磯野長左衛門が弓大将、佐々茂左衛門の名前も!

2016-12-12 | 九里バラバラ情報

土平博氏の論文「歴史地理学 大和松山藩織田氏の廃絶に伴う居館・侍屋敷地区の耕地化」に織田氏の石高別家臣団構成(一部)と家臣名と職名が表になっていた。

そのなかの150石のところに下記のように書かれていた。

九里八郎右衛門(弓大将),

磯野長左衛門(弓大将)

200石の中には、其の何代か後には九里の養子となっている系である水野九郎右衛門、100石のところには、同じく養子となっている系である佐々茂左衛門の名前があった。

下記のアドレスには、柏原藩の佐々家の系図(コマ19)が載っている。

二十五というページ数の下あたりに、「宗明」「宗淳」と兄弟名があり、宗明の方から九里に養子に入っている。(宗明の曾孫となる修政=九里八郎右衛門)

宗淳とは、「水戸黄門の助さん」である。


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393


二十四のページ宗直の息にも、九里に養子に来ている十助がいる。この人、佐々成政に仕えていたそうだ。

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大雪 朝起きたら50センチ、これからさらに50センチ 

2016-12-10 | 日記
昨晩かなり降って、車が出ません。50センチ以上は降っております。

これからさらに50センチ降るそうです。…ということは、一日で1メートル。

山に住んでいるので、きっとそれ以上。。。

あ~あ、今日は一日吹雪の中の雪かきかなぁ。

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古代からのつながり(20) アラハバキ神 阿羅波婆枳(あらはばき)神 荒脛巾神 

2016-12-01 | 古代からのつながり

聞きなれない神様だったのだが、調べてみた。

いろいろな説がweb上に展開されているが、
まずは、こちらのページにまとまっている。
http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E9%96%80%E5%AE%A2%E7%A5%9E

しかし、私が一番自分が考えていたことに近いなと思ったものは、【人類史に於ける日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明する!!!!!!スミルノフ学派DR佐野千遥】というブログの記事であった。

記事が多いので、なかなか思った記事にたどり着かないのだが、左下に検索の窓があるのでそこで「アラハバキ」という言葉を入れると詳しい記事が出てくる。

この方の記事が、私としては納得であったので、ご興味のある方はぜひ検索し、ご一読してみることをお勧めします!



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小野氏(1) 小野神社

2016-11-30 | 小野氏
2つのweb情報をコピーし抜粋し、まとめると以下のようになる。

小野神社

小野神社(おのじんじゃ)
御祭神 天ノ下春命〔あめのしたはるのみこと〕
瀬織津姫命〔せおりつひめのみこと〕
稲倉魂大神〔いなくらたまのおおかみ〕
伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕
素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕
大己貴大神〔おおなむちのおおかみ〕
瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕
彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕

東京都多摩市一ノ宮一丁目18-8 

創建年代 安寧天皇18年(紀元前532)


宝亀三年(772)の太政官符には、「多磨郡□野社」の記述があり、これがおそらく多摩の小野神社の事で、史料としては初見であろう。
正史である「日本三代実録」には、元慶八年(884)に従五位上から正五位上に昇格との記載がある。

延長五年(927)に編纂された「延喜式神名帳」では、小社に列格する「武蔵国多磨郡 小野神社」と記載されており、これが当社とされている。

但し、当社の他に府中市にある「小野神社(小野宮)」も比定社(論社)となっている。

両社の関係は、かつては同じ神社であり、多摩川の氾濫に伴う水害によって遷座が行われた結果二社に分けられたとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるとも云われている。
個人的には、創建時は府中市の「小野神社(小野宮)」にあったものの、水害の影響もあり後に当地に遷座してきたものと推測している。

~~~*~~~

横山氏の系図を見ると、その始祖は【横山野大夫小野朝臣経兼】という人物であり、本貫地は【武蔵國多摩郡横山庄】とある。
小野朝臣経兼は、八幡太郎義家に従ひて功あり、武蔵國多摩郡横山庄並びに相模國下足柄郡を賜ふ。 而して武蔵國多摩郡横山庄に住して、氏を横山と称せり。

小野朝臣経兼=横山経兼が出てくるまでは、小野氏である。
小野氏をずっと遡っていくと、敏達天皇となる。
敏達天皇(538-585)の息が 難波皇子で、橘氏の祖となる。(後には楠木氏につながる)
もう一人の祖が春日皇子(560-615)(=小野氏祖)である。

「横山神社」(所在 東京都八王子市元横山2丁目15番27号)

また、もう一つ「小野神社」で気になったのが、神奈川県厚木市小野428 にある神社である。
そこの由緒に『阿羅波婆枳(あらはばき)神』という名前が載っており、気にかかるので、調べてみた。

http://omesh.sakura.ne.jp/jinja/kanagawa/atugi/37-02/01.htm


この中の「愛甲三郎」の本家は横山氏と出ていた。ますます関係がありそうである。
愛甲三郎とは、愛甲季隆のことのようである。

次回はアラハバキ神について、またまた古代へ戻ってしまうが、書いてみたいと思う。
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