【九里】を探して三千里

【くのり】と読む曽祖父の苗字を調べております。
各地の九里情報・伝承をご存知の方、是非教えて下さい!      

伊藤忠兵衛と九里氏

2016-07-28 | 九里バラバラ情報
伊藤忠兵衛が、前回の記事の近江国【豊郷】の出身であった。

それだけなら、何のことはないと思う。

しかし、大坂に出店するにあたり、九里庄治郎氏の家屋を借りているのである。

中原季仲の系と共に、九里もやはり豊郷に縁のある人がいたのだと思う。

こんなに時代が離れているのに~と思う方もいらっしゃるかもしれないが、私にはつながっているように思えてならない。





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藤白鈴木氏と佐々木秀義六男 亀井六郎重清と近江国の新宮氏

2016-07-28 | 源義経周辺 バラバラ情報
藤白鈴木氏が気になるので、調べている。

姓氏と家紋の「鈴木氏」によると、
「 鈴木氏は佐藤氏についで日本第二位の姓となっている。鈴木氏の出自は、桓武平氏北条氏流・同千葉氏流・ 秀郷流小山氏一族・清和源氏仁科流などいろいろあるが、最大の系統は、熊野発祥の物部氏系穂積氏流の鈴木氏だ。」ということである。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/suzuki.html

https://miss-suzuki.com/history



亀井六郎重清が佐々木秀義の六男ではないか~のほかにも、その亀井氏の尼子氏に入った系に「山中鹿之助」が婿養子にはいっている。


そして大きな自分なりの発見としては、中原成行の孫季仲(または秀仲)の系に佐々木六郎重清がいるのではないか~という仮定であり、その重清は吉田厳秀自身か、近い人物であろう…という仮定である。

なぜならば、歴博のデータベース

【国名】 近江
【郡名】 愛智
【荘園名】 日吉庄
【フリガナ】 ヒエ
【重複コード】 2112009 2112010
【参考市町村】 犬上郡豊郷町
【市町村コード】 25441
【明治村字名】

【史料村郷名】 上庄・下庄
【領家・本家】 円城寺領・愛智新宮領(日吉社末社)
【初見年和暦】 文永六年
【初見年西暦】 1269
【出典】 東寺百合文書・中原氏系図
【遺文番号】 カ10471
【記録類】
【関係文献】 無
【地名辞典】  荘園志料=神崎郡建部庄内に上日吉村(八日市市)、山前五箇庄内に下日吉村(五個荘町)あり・角川地名=五個荘町、八日市市=日吉末社愛智新宮領か
【備考】  平凡地名=旧愛知郡日枝村とする説あり・→2112018「日吉保」参照・神崎郡説とあれば五個荘町とするが、いま犬上郡豊郷町説をとる

の、犬上郡豊郷町をしらべると、地図の中に愛知神社(これが成行の孫が養子に入った新宮社であることを願うが…)と吉田、そして目加田までもが揃っているのである。
もう少し深めないと説得力はないと思うが、今日のところは収穫有!という感じがする。

どうして「新宮」にこだわって来たのか…自分でもわからなかったが、なぜかつながったのである。
これが、九里とつながればうれしいのだが、ともかく中原氏とはつながった。



以前書いた記事 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0838ad751681bd213cf7a506129d8ee3




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面白い記事を見つけた!

2016-07-27 | コラム


http://www.shigahochi.co.jp/old/bno/2008/08-04/n080410.html


本当だったかもしれない

栗見大宮天神社の言い伝え

東近江市史編さん室
補強する事実確認
=古地図から愛知川洪水の爪痕=




▲栗見大宮天神社(東近江市新宮町)

◆東近江・東近江市◆

 むかしむかし、愛知川の洪水で宮さんが流れ着いてきたー。これは十六世紀中頃、愛知川の大洪水を伝える東近江市新宮町(能登川地区)、栗見大宮天神社の言い伝えだが、このほど発刊された同市史「明治の古地図 能登川」では伝承を補強する見解が紹介されている。

 同書によると、神社文書では天文十三年(一五四四)七月の洪水で、本庄村(現彦根市本庄町)にあった社殿が押し流され、漂着した現在地で新しく社殿が営まれたとされ、ここに愛知川の移動を求める説があるという。

 これは「言い伝え」の域を出ず、事実関係は明らかでないが、近くの集落にも十六世紀中頃に洪水に関連する伝承が残るため、この頃に愛知川の移動が起こった可能性が高いとされてきた。

 東近江市史編さん室が、空中写真と過去の洪水による田のゆがみが記録された明治時代の地積図を手がかりに、旧河道を判読したところ、愛荘町川原付近から分岐して、南北およそ五キロの範囲で振り子のように移動していたことが読み取れた。





 北方では、現在の河口から北五キロ、彦根市薩摩町で琵琶湖へ注ぐ旧河口があった。明治期までの神崎・愛知郡の境界はこの旧河道に沿っていたことから、彦根市史にも同様の記述がある。

 東近江市側でも現河口から西三キロ、同市乙女浜町辺りで大中湖(戦後干拓で消滅)へ注いでいた旧河口をはじめ、いくつもの旧河道が判明した。

 現在の愛知川は十六世紀中頃にはほぼ定まったと推定され、河口には急速に土砂が積もって百年余りで陸地化し、江戸時代の栗見新田村、栗見出在家村の開発に結びついた。

 同書は「旧河道の中では主流路がさらに動き、河口域で複数の流路が存在するなど、河道は不安定な存在であったのではないだろうか。十六世紀中頃にまとまって残る洪水の伝承は、このような原生的な洪水を記録した可能性が高いと思われる」と指摘している。

 栗見大宮天神社 祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、菅原道真、誉田別尊(ほんだわけのみこと)。五穀豊穣を祈る春祭り「川原祭」は、二十日に営まれる。川南、阿弥陀堂、福堂、乙女浜、新宮西、新宮東の六集落によるもの。豪華な神輿を担いで突進する勇壮な「走り込み」は、午前十一時過ぎから神社近くの愛知川河原、正午には境内で執り行われる。
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義経周辺の藤白鈴木重定

2016-07-27 | 源義経周辺 バラバラ情報
源とは書かれてはいないが、同時代の重定で気になっていた【藤白鈴木氏】の重定。

源行家の母親が、藤白鈴木氏の鈴木重忠か・・・といわれている~とwikipediaにあったため、以前調べてみた時に【鈴木重定】なる人物を発見。

しかも、重定の甥である鈴木重家と亀井重清が、源義経に仕える。

その義経のはからいで、重家と(実は佐々木秀義の六男であった)=重清と義理兄弟となったというではないか。

…そう、佐々木氏がここで登場する。重家は1156年生まれ、そして重清は1161年あたりの生まれであろうと仮定する。

1113~1136年あたりが重家の父親重倫の生まれた時期と考えると、1156年に合戦デビューを果たした可能性の高い源重定も藤白鈴木重定も、ほぼ同じ時代を生きている。

保元の乱の時に源重定が16歳で、1140年生まれであったなら、藤白鈴木重倫の弟であるといわれても、年齢的には違和感がない。

鈴木重定のwikipediaはないが、父親の重邦の息子の欄に「鈴木重定 - 系図に「衣川没落終為宇都宮家客」。下野鈴木氏の祖。」とある。



重定のすぐ上の兄重善の記事があるが、非常に興味深い。

wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%96%84

この記事によると、甥たちを追いかけたが、途中で義経と共に果てたのを知り、三河に土着した。それが三河鈴木氏~となっている。

その居ついた先が、三河国加茂郡矢並郷だそうである。そして、足助という名前も見える。(時代は戦国時代になってしまうが…)

この三河鈴木氏はのちに、彦根城の普請にかかわったりと井伊直正とつながるのである。


足助氏といえば、源重遠~浦野重直~六男 足助重長(加茂六郎)となり、これはもう、源と藤白鈴木の関係はあるのでは!と予感から確信になってくる。

ぐるりと、外側から回ってきた感じはするが、もう一度【源行家】を見ると、やはり、行家の母親が【鈴木重忠の女?】

そして、行家の娘を山田重忠(浦野重直の息子)に嫁がせている。名前が同じなのは、どちらかが違っているということなのだろうか? それとも別人なのであろうか?


…とても怪しい、と思う。


そして、藤白鈴木氏の本拠は、新宮である。

新宮十郎、こと源行家である。








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木曽義仲の周辺を調べてみる その2.源定宗~重宗~重実~重定(貞)

2016-07-25 | 木曽義仲 バラバラ情報
義仲の周辺で、九里と関係があったのでは…と気になっている人が何人かいる。

wikipediaによると、

【源 義平】(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将。源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。母は京都郊外の橋本の遊女または三浦義明の娘であり、源頼朝・義経らの異母兄にあたる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3

その中の「逃避行」の欄に、近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」の名前が一族として挙がっている。源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。
兄弟が同じ側に立っているとは限らないのだが、この周辺に生きていた事は、確かだ。

もう少し、調べてみると、

重成の父は、重実、祖父は重宗である。
重成の曽祖父は、定宗である。

定宗は、源満政の孫にあたる。
定宗の母は、藤原斉信の娘である。

【源重定(貞)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E8%B2%9E

角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
【備考】  比牟礼神社あり・カ22661嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)

もしも比牟礼神社の代官が重定であったならば、80歳は過ぎていると思う。
長生きだったようなので、可能性はゼロではないと思う。



つぎに、義仲の兄である【源仲家】である。

【源 仲家(みなもと の なかいえ)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E5%AE%B6
平安時代末期の河内源氏の武将。八条院蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。

久寿2年(1155年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。ただし『平家物語』は六条院蔵人としている。

治承4年(1180年)5月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた>。のち以仁王らと奈良へ向かったが、5月17日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。

前出の義平と仲家はいとこ同士であるが、大蔵合戦の時は、敵対関係にあったらしい。
以仁王と共に活動しているため、九里のことを知っている人かもしれず、気になっている。














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北海道の空 宇宙を感じます~!

2016-07-25 | 日記
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木曽義仲周辺を調べてみる。

2016-07-24 | 木曽義仲 バラバラ情報

コメントに「北陸宮」と「木曽義仲」と共に行動していた九里の先祖がいたという古老の口伝があった~という情報をいただいたので、その周辺をしらべてみたい。

先祖が江州中原氏となってはいるが、外記に多い中原氏でも、木曽に赤ん坊だった義仲を匿った兼遠の系でもないと思う。

しかし、そのあたりと江州【中原氏】との接点があったのだろうと思う。


以前書いた記事が、本当の事となるかもしれないので、慎重に進めなくては!(ドキドキ…)

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/f14a129edaae46d49ead0df5787479cd

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0838ad751681bd213cf7a506129d8ee3

そして、富山県の南砺市五箇所に「九里」(くり)さんのお名前を見かけたとも書かれて有ったので、以前【田舎の2000年歴史ロマン】の24話越中における井口の記事とも重なり、ちょっとテンションが上がっている!

http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_24.html


http://pcpulab.mydns.jp/main/inokuchijyo.htm


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山中氏と九里との接点(想像)

2016-07-22 | 山中氏バラバラ情報
まず、【差出】 伊庭満隆
【宛所】 山中太郎左衛門殿/九里次郎左衛門殿 …とあるように、共に同じような立場であった可能性があること。しかし、たった一通しかない書状で、しかも内容も不明であるためなんとも言えないが、ともに室町幕府の御家人だったのではないだろうか。

また、山中氏が伊勢神宮の御厨の地頭(代官)であったように、九里も賀茂神社の御厨である舟木庄の代官であったため、ここでも、立場が似ていると思う。



そして、九里がもしも真野氏と関係があるならば、【鈴鹿】との関係があるところも、また似ている。

山中氏は【鈴鹿土山町山中村】とかかわりがあり、九里氏が真野氏だとすると、深尾氏に分かれ、系図によると

平治の乱に敗れて【伊勢鈴鹿山中の員弁郡深尾谷】に隠遁し深尾氏を冒す。

文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕へる。

等、web情報にあったので、いなべ郡深尾谷とかかわりがある。

ここの村は、ダムの中に水没しており、場所を掲載しておこうと思う。









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山中新左衛門 その2.

2016-07-21 | 山中氏バラバラ情報
甲賀五十三家 wikipedia
https://nortonsafe.search.ask.com/web?q=%E7%94%B2%E8%B3%80%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%B6&o=APN11915&geo=ja&prt=&ctype=&ver=&chn=&tpr=121

名前を見ていると、見知っている名前もある。佐治氏、服部氏、青木氏、芥川氏…

山中氏は、はじめは今の鈴鹿山土山町山中村に住んでおり、応安七年(1374年)十一月の山中文書に

『譲興 處分之事

在近江国甲賀郡山中村地頭職幷仁警固役、同柏木御厨五□郷之所職名田山林荒野等事

   合

一 山中村地頭職幷警固役事
一 上山村郷友行名田畠・山林・荒野観音寺幷地蔵堂院主職・山等事
一 上山村郷助房名事
一 中山村郷石武名幷屋敷・山林・荒野等事、山村三□所ニ在之、但石武内畑村六人百姓幷炭二石毎年在之
一 柏木御厨内祭主保之保司職事
一 柏木御厨内宇田村前河原事
   
…とまだ続くが、これらは山中道俊が相伝していたもので、嫡子助次郎範俊に譲る~浄俊(花押)~ということであるらしい。

この浄俊というのが、道俊の事と思うが、もしかすると、道俊から浄俊にわたり、これから範俊に渡す・・・という意味かもしれない。


さて、六番目に宇田村と出てくる。
鈴鹿山麓山中村の山中氏の一部が柏木郷に移り住み宇田村の山中氏となり『宇田氏』となったようである。



【柏木御厨】に関して、コトバンクで調べたのでコピペしておこう!

近江国甲賀郡にあった伊勢神宮領の御厨。現在の滋賀県甲賀市のうち旧水口(みなくち)町域。もと源義光の所領で,園城(おんじょう)寺金光(こんこう)院を建立してその住持に子の覚義をあて,柏木郷・山村郷を仏聖灯油料などとして寄進した

中世の伊勢神宮領の御厨(荘園)。現在の滋賀県甲賀郡水口町の西北部にあった。12世紀初期に源義光が柏木・山村両郷を摂関家の牧として寄進したのに始まると伝えるが,1165年(永万1)に伊勢外宮領として立荘された。以後荘域が確定するとともに開発が進み,1331年(元弘1)の検注では,本郷・酒人郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷の5ヵ郷で見作田299町歩余となった。その間に伊勢神宮は祭主保も設けたので,現地の荘官としては惣郷の検断職,各郷の下司職,祭主保の保司職があった。



【山中氏】より


…橘諸兄(もろえ)の後裔といい,義清の代に山中氏を名のる。1216年(建保4)俊直が俊信に山中村地頭職と柏木御厨の上山村友行名を譲っているが,平安・鎌倉期の動向には不明な点が多い。ただし67年(文永4)俊信跡の大番役を有俊が務めているところからみて,御家人であったことは確かなようである。…




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山中新左衛門 その1.

2016-07-20 | 山中氏バラバラ情報
甲賀二十一家の中の柏木三家

柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部の三氏については、柏木三家といわれる。

姓氏家系大辞典での近江の山中氏の解説をかいつまんで書くと以下のようである。

甲賀二十一家柏木三家の一にして、「鶴見系譜に伊予守為俊の女は山中氏室」と載せ、応仁略記に山中の民部、細川両家記に「甲賀の谷山中新左衛門」(細川條に詳か也)、其の外、山中遠江守、山中また三郎等見え、鈎の陣には山中十郎・武功を記す。…

この細川家記載の山中新左衛門こそ九里と共に闘っていた新左衛門ではないのだろうか。

手稿の修史館の記載を見ると、細川政元が六月二十四日に殺されたとあるので、1507年永正五年の事と思われる。(宣胤卿記)
そして二十六日に細川澄元、同被官三好(之長)と共に、江州甲賀郡青地城甲賀山中新左衛門(名ハ為俊、実隆公記 永正八年八月二十一日ニ見ユ)之城へ御移云々

・・・・とある。

そして、澄元ハ三好筑前守以下馬廻少々相俱シ、江州サシテ被落、甲賀郡ニテ山中新左衛門尉ニ憑テソ被居ケル、玄蕃頭元治子息源五郎元全ハ手定戦テ、手勢十余人ニテ、是ハ若狭国へソ落ラシケル。

二十七日、六角氏網京師ニ在り、将軍義澄其謁見ヲ許サス、是ニ至り将ニ近江ニ帰ントス。義澄之ヲ召シ、幕府ヲ警守セシム。

…六角四郎氏綱が甲賀被官人三雲ヲ初トシテ、同心ニ六郎澄元三好之長ヲ討テ可進…となっており、詳しくはわからないが緊迫している様子が感じられる。

~~~*~~~

山中氏は初めは鈴鹿峠ふもとの土山町山中村を本拠とし、地頭職にあって鈴鹿の関の警護役などを務めていたそうである。
土地の売買・高利貸しのような役割も担っていたそうである。
 
この後のことは、その2.に書きたいと思う。

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