「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その2

2016-02-27 | 古代史

この百嶋さまの考えが正しければ、わたくしは、日子坐王は、孝霊=景行=長髄彦=草部カヤベ吉見(健磐龍命?)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命と同一人物で有った。と想われます。神八井耳命が、開花天皇と同一人物である謂う事になります。神代の初代が神倭伊波礼毘古命(本当の神武天皇)で、人代の初代が若倭日子大毘毘命(開花天皇=神八井耳命)の考えが成り立ちます。

 

神武天皇は、『古事記』では、神武天皇は即位した後、伊須気余理比売命と結婚して、 日子八井耳命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)の三柱の御子を儲けた。とされ、

一方の『日本書紀』には、日子八井耳命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井耳命、神渟名川耳尊のみが生まれたとされ、『先代旧事本紀』には、日子八井耳命は弟・神八井耳命の御子とされています。

亦、『古事記』の、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄であります『多芸志美美命』を殺し、その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ話になっており、日子八井命は登場しておらず、混乱を招いています。

 

百嶋系図では、草部吉見の父とされます神沼河耳命が日子八井耳は草部吉見=ニギハヤヒ=吾勝=安日(長髄彦?)=海幸彦と同一人物とされ、神俣姫との間にて國龍=大年神=天児屋根命=忍骨(天忍穂耳命)=支那津彦を儲けたことに為っています。

わたくしの考えでは、神八井耳命が開花天皇を意味し、日子八井耳が日子坐王の事で、神沼河耳が崇神天皇を暗示している様に思えます。

日子八井耳・草部吉見・健磐龍命・吾勝・安日(長髄彦?)・海幸彦・國龍・大年神・天児屋根命は総て同一人物と想われます。

そして、香春神社の辛国息長大姫大目命は、天宇受賣命=猿女=宇迦之御魂神=豊受姫=豊玉姫=罔象女=息長水依比賣命=市祁島姫=宇佐神宮や奈良の春日神社を含めての比咩神=龍神で有った。と謂う解釈になります。ひょっとしたら、由布院の『宇奈岐日女命』もイコールで有ったのかも知れません。考察をしてみましょう。

香春神社にて祀られています『辛国息長大姫大目命』の由緒に崇神天皇の御代に帰座された。と述べられており、魏志倭人伝で述べられています、記述を考察しますと、時間軸が合致し、『辛国息長大姫大目命』と『宇奈岐日女命』は同一人物と考える事ができます。何故ならば、勘注系図の『宇那比姫』(宇奈岐日女命)は尾張氏(建田氏)と考えられており、此の尾張氏は和邇氏(≒息長氏)と関係が深いと考えられています。『宇那比姫』は第6代孝安天皇の兄であります『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』の妻とされており、

 

つまり、『宇那比姫』(宇奈岐日女命)の夫の『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』は『日子坐王』の事である。と考えられます。根拠は『大足彦』の『大』の字の上に『一』を付け足して『天』の字に改竄が行なわれている、と考えられ、『天足彦』の実体は景行『大足彦忍代別命』と想われます。そして、『天足彦国押人命』(第6代孝安の兄とされています)を儲けたのは、尾張連祖『瀛津世襲』(私見では、=神大市姫=燕エンジ媛=袁媛=卑弥呼)の娘である『世襲足媛』(第5代孝昭天皇の皇后)とあり、『世襲足媛』とは、=『市来島姫』=『息長水依姫』と考える事が出来ます。此の『市来島姫』=『多祁理比賣命』の子であります『下照姫』=『伊香色謎命』=『玉依姫』(記紀では、豊玉姫と玉依姫は姉妹捏造されていますが、実態は『伯母と姪』と考えられます。)が『崇神』=『雷神』を生んでいると考えられます。

亦、記紀では、第7代とされます孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)の皇后『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘。と述べてあり、大目とは香春神社の辛国息長大姫大目ウズメ命、即ち、高天原(ゆふいん)の天宇授賣ウズメ命=宇奈岐日女命が移動をして、香春町の方へ遣って来ている事が理解出来ます。理由は金属鉱山に有ったと考えられます。スサノオは金鑽大神とも、天之御影神とも考えられ、天之御影神の娘が息長水依比賣命とされています。わたくしの説では孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)は(根子は開花天皇を意味する。)日子坐王の事で、日子坐王は記紀に於いては息長水依姫を娶っており、総ては香春町の辛国息長大姫大目ウズメ命に繋がってきます

わたくしの考えでは、『瀛津世襲』の娘である『世襲足媛』と、『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘の記述は、磯城県とは、久留米市城島シキ~大牟田地区を指し、十市県とは、北九州苅田市~行橋市~勝山黒田~豊津町~豊前市~香春町~赤村と想われ、『世襲足媛』が『細媛』と同一人物と想われ、『細媛』は辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=猿女=宇奈岐日女命=天豊津姫と、同一人物であると理解出来ます。(記紀で述べられています第四代懿徳天皇=大倭日子鉏友命の本質は日子坐王、即ち景行天皇であった。と考える事ができます。

わたくしが述べたい事は、記・紀編纂過程での歴史の積み増しが行われた痕跡が、認められる。と謂う事です。

 

《その後の考察に拠る訂正》

『瀛津世襲』は、百嶋系図と整合を考えますと、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神(瀬織津姫)と同一人物であろう。と考えられます。世襲足媛が辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=市祁島姫=豊玉姫=細媛=阿蘇津姫=寒川姫=天豊津姫=罔象女=龍神姫=支那津姫=稲荷神(表に出ておられますのは、宇迦之御魂と謂う事になっていますが、一般的には猿田彦=景行天皇=風神=2代目支那津日子の事と考えられています。しかし、根本は豊受大神と、その一族を指しています。宇迦=大神氏オオガ氏→ウガ氏=葛木氏の御霊である。と考えられます。)(罔象女は、百嶋系図では神大市姫と同一人物とされています)

 

 

振り返って、日本書紀の記述を思い出すと、景行天皇(猿田彦)の熊襲討伐の折、久留米市北野大城の『赤司八幡宮(当時は豊咩神社と呼ばれていた)』に水沼君『猿大海』を呼び寄せ、『比咩神』を祀るように述べた。とあり、此処田主丸一帯は日子坐王(猿田彦)の出身地であり、『赤司八幡宮』の赤司も『赤』を『司る』と考えれば、田川(鷹羽)の我鹿・吾勝アカツハヤヒの『赤村』が想像されます。

亦、『赤司八幡宮』の南に北野町大城地区が筑後川傍にあり、此処には『豊比咩命』の霊廟と言い伝えられます塚島古墳があり、豊比咩神社(赤司八幡宮)のある稲数邑内の『蚊田宮』で神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う伝承があり、潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」で産湯を使った。とされています。

『大城村郷土読本』には「此所(蚊田宮)往古柳川海より連続而筑肥を隔当社之西而漫々而北背に廻り筑前国上座郡迄入海御座候」と記述があり、朝倉辺りまで船での往来があったものと思われます。天武・鸕野讚良・草壁皇子時代の筑後大地震(679年)で筑後平野が隆起したものと考えられます。

百嶋説では、福岡県宇美町の『宇美八幡神社』は、『神武天皇』の名を騙った『崇神』の嫁であります『久留米市荒木』の『しず』ちゃんが子供を産んだ場所と述べられています。

実は、この神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」から筑後川を挟んだ南向こう岸に、吾が(秋永氏)父の出身地田主丸町以真江があります。

此の傍に磐鹿六雁命の出身地と考えられます『鹿狩ロッカリ』地区が在り、以真江の由来は、『以』は今村氏『真』は馬渡氏『江』は江口氏から名付けられたと謂う事で、川向こうの太刀洗町高橋地区の『今村』(百嶋氏の先祖の出身地)と関係が考えられます。高橋区には弥生時代~古墳時代に架けての遺跡が残っており、漢人(大蔵氏)が平城を築いたとされ、多くの氏族が此処から派生して散らばったと考えられます。

『猿大海』とは、『襲武媛』(そのたけひめ)に生ませた、大善寺玉垂宮(水沼→水潴→三潴)に居た『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)を意味している事であり、『猿田彦』=景行天皇(彦坐王)の子が『猿大海』である事を暗示しています。息長氏には漢族『袁氏』の血が流れていると考えられます。

此れも編纂者が『國乳別之皇子』と明確に書けなかった時代背景があり、当時の権力者であります藤原氏に対しての精一杯の抵抗であった。と解釈されます。

『猿田彦』の別称は比良神(比良山神)と謂われ、朝倉市の長慶天皇の墓所(黒巖山)近くに『比良松』と謂う地名が残っており、近くに比良山と呼ばれた山が在ったと考えられます。ひょっとしたら、黒巖山が以前は比良山と呼ばれていたのかも知れません。

近くの高木邑の北に佐田地区があり、

百嶋説では、朝倉市把木(ハキ)町の『大山祇神社』では、(大國主命の父と謂われています)大山祇(=月読尊)の母?と考えられています、蒙古から遣って来た『王昭君』(中国四大美人の一人)を、『王昭君』の名前を隠して『白粉オシロイ祭り』行事として残されており、加藤清正が造った熊本城の大広間『王昭君の間』は、豊臣秀吉の妻『寧々』の木下家(家紋が桐)が『王昭君』の末裔との情報が、当時有ったものと考えられる由。

亦、豊前には『四公シコウ神社』(祭神は猿田彦)が数社残っており、此れは赤米研究の猿田彦が、四公六民の米の分配を行なった。と解釈されています。

わたくしの考えでは、猿田彦とは袁氏(漢民族)である処の妃(息長水依姫=辛国息長大姫大目命=天宇受賣アメノウズメ命=猿女)を娶った日子坐王(=猿田彦)を指し、四公六民は稲の分配を意味する。との解釈は正解と謂えます。

滋賀県高島市鵜川の琵琶湖近くの白髭神社の祭神は猿田彦も、日子坐王(稲荷神=息長水依比賣命の夫)と理解する事が出来ます。(以前のブログでは稲荷大明神は天御影神=息長水依比賣命の父、ではなかろうか。と述べていましたが、此れは正解で、

その後の考察にて、天御影神は『魏の大臣』の事と考えられ(京都、東寺。高野大師行幸図画に記入)、此れは、後漢の蜀の太守であった『高躬』が『曹操』の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を持って、大分県日田市田島のダンワラ遺跡に遣って来たと解釈されます。)傍に在ります琵琶湖竹生島の瀛イン神社で祀られています弁財尊天(息長水依比賣命=市祁島姫→固有名詞ではなく、『斎き奉る姫』と解釈するのが正しい。と考えられます。)との関係も納得できます。天御影神は、蜀の太守であった『高躬』と、考えられます。

滋賀県近江地方には筑紫(倭)から多くの人々が地名と伴に渡って往っていると考えられます。例えれば、朝倉の夜須→野洲市 久留米の高良→犬上郡甲良町 田主丸の鷹取山→甲良町の高取山 糸島の曽根→曽根 博多の高宮→高宮 糟屋郡須恵町→須恵 八女→八目 熊本県大津市→大津 志賀之島→志賀 朝倉の比良松→比良 高島市安曇川には田中・旭・古賀の地名があり、筑後地方にも多くあります。

苅田市の多賀清瀧窟(全国にあります清瀧の元と謂われています)が多賀町清瀧山 豊前の古(胡)表神社が多賀町胡宮神社 と、謂った具合に胡人(西域から遣って来た人)との関係が偲ばれます。

  

根拠の2として、宇佐公康氏の『古伝が語る古代史』には、景行天皇は阿蘇で亡くなった。と述べられている事です。ひょっとしたら、上益城郡山都町に在ります『猿丸太夫の墓』は通常は、猿丸太夫は山背大兄王(聖徳太子の子)の子である弓削王の事と考えられていますが、古代の『孝霊天皇』=『景行天皇』=『猿田彦』=『健磐龍命』の事かもしれません。

亦、『幣立神宮』は『健磐龍命』が遣って来て御幣を立てたことからの伝承があり、主祭神は神漏岐命(かむろぎ)・神漏美命(かむろみ)・大宇宙大和神(おおとのちやまと)・天御中主大神(あめのみなかぬし)・天照大神を祭り(わたくしの感では、元々の祭神では無いと想われます。百嶋さまも同意見です。)、『東の宮』は、天児屋根命風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神を祀っており、別に『水神宮』で龍神、『健磐龍宮』で健磐龍命を祀っており、景行天皇は此処、山都町で亡くなっているものと考えられなくも無いです。亦、、もう一箇所の候補地は高森町に在ります下がり宮で有名な『草部吉見神社』周辺です。

景行天皇は、『志賀高穴穂宮』で亡くなった。とされ、此の解釈は、以前に『志賀氏』が治めていた『高千穂』『穴穂の宮』と考えられます。高森町には御所・祭場の名称があり、如何も景行天皇の痕跡が漂っています。

亦、近くに在る祖母山の名前の由来はウガヤフキアエズ(私見では開花天皇の事と考えています。)を儲けた豊玉姫(神武天皇=崇神天皇の祖母)を意味している。と伝わっており、

豊後・豊前・日向ではウガヤフキアエズの痕跡(大神氏=緒方氏・春日氏・藤原氏ほか)が残っており、ウガヤフキアエズは宮崎日向の鵜戸神宮で、豊玉姫がお産小屋が間に合わず岩の上に橿の葉を敷き詰めて生まれたとの伝承があります。

宇佐公康氏の記述には此れまでは間違いが無く、信頼が持てます。

 

 

※ 高良玉垂宮神秘書では『龍神』は二人居た。とされ、崇神(自称、神武=孝元天皇=彦穂穂出見尊=崇神の実父を名乗った人)を産んだと考えられます伊迦賀色謎命が、記紀で述べられています『玉依姫』の事で、『豊玉姫』と『玉依姫』の関係は『伯母と姪』と考えるべきです。そして、この『玉依姫』も『龍神』・『比咩神』と呼ばれたものと考えられます。後に息子であります崇神に『十字剣=イスラエルのモリヤ山の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割』を与えます。此れが崇神が神武天皇を名乗った理由と考えられます。(玉依姫は百嶋説では3名居た事になっており、この玉依姫は、豊玉姫の子の活イク玉依姫の事。と考えられます。)

 

この様な、多くの登場人物を作り出して、世代の建て増しと、神々の歴史と神脈の複雑化が行なわれて、改竄が行なわれており、記紀では卑弥呼を記入できない事になり、歴史学者を悩ましたものと考えられます。

 

 

※ 神大市姫とは、ウィキペディアでは以下のように説明されています。

日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神=豊受大神と猿田彦と豊玉姫を指しています。)と大年神を産んだ。

2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。

亦、大年神【ホツマ伝より大己貴命の事と解釈します。】は

  • 天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子に
    • 奥津日子神(おきつひこ)
    • 奥津比売命(おきつひめ) - 別名 奥津比売命神(おほへひめ)。(かまど)の女神。
    • 大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
    • 庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
    • 波比岐神(はひき)
    • 香山戸臣神(かぐやまとみ)
    • 羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
    • 庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)、土の神。

の10柱神を儲けているとされ、大年神【=大己貴命】と天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)の子が大山咋神(おほやまくひ)=大國主命=山王(日吉)権現と奥津比売命(おきつひめ)=竈(かまど)の女神を儲けている事になります。竈門神社が大宰府に在り、玉依比賣命を祀っており、奥津の文字は当て字と考えれば瀛津比賣命、息長氏(袁氏)、即ち瀛(いん)氏=秦氏=稲荷神がイメージされます。亦、『美豆比売』の『美豆』を当て字と考えれば、本質は『水比賣』と考えられ、『息長水依比賣命』が重なります。

 

伊勢神宮外宮であります『豊受大神宮正宮』では、『玄松子の記憶』に拠りますと以下のように祭神を祀っています。

御祭神
豊受大御神(とようけのおおみかみ)(ゆふいんの『天の宮』=『日高見=日田かみ』にて、イザナミの子であります、つまり、豊受大神の孫のアマテラスと月読命に陰陽道を教えていた。と、『ホツマ伝』から解釈されます。ゆふいん塚原霧島神社では伊邪那岐命と伊邪那美命を祀っており、理解できます。天香具山と考えられます鶴見岳の山上ではカグツチを祀っています。)
相殿
御伴神三座 (東一座 西二座)
一説に
天津彦々火瓊々杵尊(ホツマ伝に拠りますと賀茂別雷命=天君とされています。) 天児屋根命私見では=彦座王=長髄彦=景行天皇=阿蘇津彦=草日部吉見=猿田彦=稲荷神=風神=孝霊天皇=大年神【元来の大歳神は大己貴命の事です】=春日大神であると想われます。因みに春日若宮=御歳神【元来の御歳神は蛭児】その後=春日神は、天児屋根命の子である天村雲命であると想われます。)太玉命

境内 式内社
伊勢國度會郡 高宮 大 月次新嘗
豊受大神宮別宮 多賀宮私見では=青瀧権現=息長水依比賣=市来島姫(斎奉る姫)=天宇受賣=辛国息長大姫大目うずめ命=猿女=八街比賣命=天知迦流美豆比売==豊玉姫=罔象女=稲荷神の妻=比咩神=龍神と同一人物と考えられます。)


 たかのみや 豊受大御神荒御魂  伊勢國度會郡 度會國御神社
豊受大神宮摂社 度會國御神社 わたらいくにみ 彦国見賀岐建與束命

その他の境内社
豊受大神宮別宮 風宮 かぜのみや 級長津彦命 級長戸辺命→(級長津日子命はスサノオ=周に繋がる熊本県玉名の白王家の将軍=太白太子で、鉄を求めて出先国を創った白=新羅シラから、娘の級長戸辺命=天知迦流美豆比売=息長水依比賣と伴にアカル姫=博多の大幡主命系大山祇の娘である神大市姫=天照大神=卑弥呼を追って倭に帰って来た天日鉾命と考えられます。)
豊受大神宮別宮 土宮 つちのみや 大土御祖神=(大年神=日子坐王=猿田彦か、大己貴命と天知迦流美豆比売=息長水依姫=猿女=多祁理比賣命が儲けた大土神)
豊受大神末社 大津神社 おおつ 葦原神
豊受大神所管社 上御井神社 かみのみいの 上御井鎮守神 一般不可→(私見では、日子坐王=猿田彦と息長水依比賣との間に生れた御井津比賣命を指します
豊受大神所管社 下御井神社 しものみいの 下御井鎮守神
豊受大神所管社 御酒殿 みさかどの 御酒殿神 一般不可→(私見では、大年神【大己貴命】と天知迦流美豆比売が儲けた『大山咋神』を意味しています。)
豊受大神所管社 四至神 みやのめぐりのかみ(私見では、、古事記における日子坐王=猿田彦と息長水依比賣=猿女=豊受姫との間に生れた比婆須比賣・弟比賣・歌凝比賣・円野比賣の四人の娘を意味しているものとも?と考えています。) 

 

 

百嶋さまは、酒造蔵の玄関先に吊るす『杉玉』のルーツ研究に、我が由布院(木綿の院)に秘密が隠されていると考えられて、ゆふいんの神社研究をされておられたようですが、亡くなられた現在は伺い訊ねる事ができません。

わたくしが棲んでいます由布院では、『宇奈岐日女命(宇那比姫)』神社(通称『六所宮』と呼ばれ、第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月に創祀された。(西暦258年と考えられます)と記され、景行天皇は速津媛(宇奈岐日女命の後裔と考えられます)に迎えられ、土蜘蛛(崇神天皇のことと考えられます)を討伐した時、当地の「二株一幹之霊杉」を見て、皇祖霊と崇め天神地祇皇祖を祀った社であるという。とされ、神紋は十六葉重菊と五七の桐です。國常立尊 國狹槌尊彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊を祀っています。

宇奈岐日女命神社には、『蹴破り権現伝説』があります。

(古代のゆふいん盆地は湖であったのを、宇奈岐日女命が権現に命じて山を蹴破らせ、湖の水を抜いた。との伝承です。)

わたくしの頭の中では、『六所宮』(宇奈岐日女命神社)は表面上の神を祀っており、本当に祀っていますのは『宇奈岐日女命』であり、歴史上の都合で『幣立神宮』同様に隠されたものと想われます。

※ 『幣立神宮』は第20代安康天皇(穴穂天皇)が、安康3年8月9日、皇后と連れ子の『眉輪王』を連れて避暑の為に来ていて、『眉輪王』から殺された場所と考えられます。

 

此の宇奈岐日女命神社は慶長元年(西暦1596年)の豊後大地震後の大雨に於いて、『椿山』の崩壊が起こり、当時の『』(使者が馬を乗り継ぐ為に、全国の要地に造られていた)の在った馬場浅間ばばせんげん部落が埋まり、『宇奈岐日女神社』も被害をうけ少し移動したものと、研究者に考えられています。

わたくしの考えでは、由布院の『椿山』『椿』の名が、後に、三重県鈴鹿市山本町の『椿大神社』『猿田彦』に繋がっているものと思っています。鈴鹿市には能煩野『王塚古墳』『日本武尊』息長氏が考えられ、秋永町があります。『宇奈岐日女命』の夫は『天足彦国押人命』=『景行(大足彦)』=『日子坐王』=『猿田彦』=『八街毘古命』・・・等々とイメージされます。

『宇奈岐日女命』は『息長水依比賣命』『辛國息長大姫大目うずめ命』『天宇受賣命』『猿女=袁氏の女=漢族』『八街比賣命』『比咩神』『市来島姫』『豊玉姫』・・・等々と同一人物であり、『天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)』とも同一人物である仮定すれば、

 

宇奈岐日女命が命じた権現さんは『大山咋=八咫烏=賀茂建角身命』と『大土神』を意味しており、西暦234年(甲寅)~241年(辛酉)当時、神武=崇神東征頃は倭の大乱第2幕の時期でもあり、多くの人々が近畿に移住したものと考えられますので、それ以前に土木工事を行なったものと考えられます。

この『大山咋=八咫烏=賀茂建角身命です。』は『酒の神』と謂われ、京都の『松尾大社』で『市杵島姫』=『息長水依比賣命』と伴に祀られています。『大山咋』と『大土神』は、『宇奈岐日女命』から命じられ、騒乱を避け『建田氏』と伴に近畿天橋立の籠神社に渡ったものと想われます。

『杉玉』の発祥は『ゆふいん』かも知れません。百嶋推理は正しかった。と考えられます。

 

《その後の調査での補追》

ゆふいん町川北の石武に『石光天満神社』が在ります。由緒沿革には、祭神は、菅原神・高オ神・天照皇大神・天御中主命とされ、天照皇大神は字『大久保』、天御中主命は字『谷』に鎮座の處、明治12年本社に合併。菅原神は、川北字『松尾に鎮座の處、大正5年9月29日許可を得て、同年12月28日合祀する。とされ、元『松尾天満神社』の傍では鉢山(八山)=亀山石棺が文化財として出土しており、当時、別府大学の教授であった故、賀川光夫さまが調査に当たられたと謂われています。

わたくしは、この『松尾』が佐賀の『松尾』に『武内宿禰』の父の『彦太忍信命』に繋がり、『山下影姫=宇豆比古の妹』がゆふいん(木綿院)に居たと謂う根拠でもあります。ゆふいんには『山下湖』があり、傍の『小田の池』周辺では鏃が数多く発見されています。

 

根拠の2としては、ゆふいん町石松に在ります『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)オオゴシャでは、椎根津比古命=宇豆比古命を主祭祀しています。この椎根津比古命は崇神(=勝手に神武と名乗った人)を舵取りとして長髄彦の処へ道案内した。とされています。因みに鳥居の脇に鎮座していますのは、狛犬ではなく狛猿で、ゆふいんに猿田比古命=宇奈岐日女命の夫が居たと考えられる根拠でもあります。このゆふいんの『松尾』は京都の『松尾大社』『日吉大社』にまで繋がり、ゆふいんが『松尾』の根源で在ったと考えられます。亦、丹後半島の元伊勢宮と謂われる『籠神社』でも、海部氏先祖として椎根津比古を祀っており、ゆふいんから『建田背』(宇那比姫=宇奈岐日女の長兄)が移動したものと考えられます。

 

百嶋さまの研究の凄さは、平成12年考の百嶋系図には大足彦(景行天皇)の横に彦坐王と朱字で書かれており、その先の息長水依姫と線で結ばれており、つまり彦坐王と大足彦(景行天皇)は同一人物で在る事を神社研究にて解っておられたのであります。わたくしがこの事を、記・紀と宇佐公康氏伝承を元に解明したのは昨年(平成27年)でした。

亦、熊本県『山鹿灯篭まつり』で歌われます、『ヨーヘホ』『ヨーヘホ』の合いの手は、景行天皇(わたくしの解釈では景行天皇=猿田彦)を褒め称える意味である。相だそうです。

百嶋神社考古研究は、記・紀や先代旧事本紀の不足分を埋める大きなヒントを与えてくれました。先人(研究資料)に感謝であります。生前お会いし、語り合いたかった想いで、残念です

 

考古研究には、フィールドワークが大切であり、其の事に気が付かれました久留米地名研究会の『古川清久』さまは、全国の神社を車中宿泊で調査中であります。鬼気迫る迫力を感じます。古川さまに感謝至極。)

 

《追補2》

宇奈岐日女命の正体は、その後の考察にて、伊弉冉で在ったと考えられます。

 

 

 

 


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1 コメント

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景行天皇 (未来)
2016-04-11 12:39:31
日本古代史に興味があって読ませてもらいました。ちょっと気にかかったところがありました。孝霊=景行(大足彦忍代別天皇)=長髄彦が兄で、その弟が崇神天皇であるならば、崇神天皇は長髄彦の妹を娶った義理弟のニギハヤヒということになるのではないですか。あと、宇佐神宮や奈良の春日神社を含めての『比神』=『龍神』で有ったとありますが、宇佐神宮は龍神(和邇あるいはサメ)にいじめられた兎神とみるべきではないでしょうか。『記紀』の海神や大山ツミ神は龍神と兎神をごちゃ混ぜにしているように思えます。海神はわたつみと読みますけど、それは十二支の兎・辰・巳なのですから。
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