「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

田主丸町唐島にいた、コンキ昆支王が第24代仁賢天皇の事で、昆支王の子『牟大』が百済第24代東城王と、考えられます。

2019-02-05 | 古代史

日本書紀・古事記を鵜吞みにして、歴史を信じている人には、正しい歴史は解明出来そうにもありません

どちらの書も、本当の事。と、本当とはハッキリしていない事。噓をついている事。を交えて記入している。ので、其処の取捨選択が求められ、研究者を悩ます事になります。

 

日本書紀での武寧王の各加羅島での誕生項は、全くの出鱈目の噓であります

 

此れは、武烈天皇(武寧)が倭王を投げ捨ててしまって、百済王と為って韓半島に行った事で、倭人(後の藤原不比等等日本書紀編纂者)は、(武寧王の倭での足跡を消したかった為に)武寧王が生まれて直ぐに百済に送り返された。とされ、武烈天皇は悪逆非道の天皇と有らぬ悪口を日本書紀に書き残したものと、考えられます。(武烈天皇の悪口雑言は古事記には一切出てきません。)

武寧王(父は加須利君=蓋鹵王です。)は誕生して直ぐには百済に送り返されてはおらず、誕生の場所は、佐賀県唐津市鎮西町の各加羅島では無くて、福岡県田主丸町唐島秋永氏(息長氏)の地区であります。

義父のコンキ昆支王(多分、此のお方が倭の『第24代仁賢天皇字名はシマノイラツコ嶋郎とされている。と考えらます。)と、5人の子(内の一人は百済の『東城王』に為ります『牟大』、もう一人は『タシラカノヒメミコ手白香皇女=欽明天皇の母』?と考えられる)が、武寧王(父はカスリ加須利君=ガイロ蓋鹵王です。コンキ昆支・文周王とは、年の離れた母違いの兄弟になります。)と一緒に暮らしていた。と、考えられるのです。

(百済第21代ガイロ蓋鹵王は、即位455年~475年です。子に第22代文周王・即位期間は475年~477年です。・昆支王・第25代武寧王即位期間は502年~523年です。)

 

百済史を研究され、ブログを起こされておられます、

kei-wataさまの『ピグの部屋』を読んで、『百済の歴史』を勉強してください。

 

 

 百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

より、ほぼ全文掲載します。

 

倭国に滞在していた、百済の王子のひとり、斯麻(しま)。五〇一年、急きょ、百済に戻ることとなった。百済王である牟大(むだい・むた)が、家臣の衛士佐平・苩加(はっか)に討たれたとの急報が届いたからだ。

 

斯麻が百済の王都である熊津に戻るのは、これが最初ではない。養父で、牟大王の実父でもある昆支(こんき)も、父・毗有(ひゆう)王の命により、兄の慶司(けいし)の代わりに倭国に赴くのだが、時おり百済に帰っていた。昆支が最後に百済に戻ったのが四七五年、蓋鹵王(がいろおう、慶司)が高句麗の攻撃により 都の漢城を奪われ殺害されたため、南遷した慶司の遺児である文周(ぶんしゅう)を助けるために。昆支の代わりに、倭国には牟大と斯麻が残ったのだが、翌年(四七六年)、昆支が急死、そして、文周王も解仇(かいきゅう)一派により殺害されたため、牟大が百済に戻り、翌年、百済王になった(東城王)。

 百済にいる牟大と、倭国にいる斯麻。牟大に子がいたかどうかは不明だが、どちらにせよ、牟大の子が倭国に赴くことは無かっただろう。王の長男が倭国に赴くというのは、わずかに阿華王が長男の腆支を送り込み、腆支が久爾辛を送り込んだ事例はあったが、それ以外は、王の弟が倭国に赴くこととなった。牟大と斯麻、実の兄弟かどうかはわからないが、牟大にとって、頼りになる弟分は、斯麻をおいてほかにいなかっただろう。三国史記によると、斯麻は牟大の子となっている。これは、実の親子関係というよりは、前に書いたように、政治的な養子関係からきたものだろう。歳の離れた(義)兄弟であり義理の父子関係と、互いに信頼しあう関係から、次の王は斯麻がふさわしいのではと、多くの百済の豪族が思っていたことだろう。古代ローマの帝位継承の事例は知らずとも、古代中国の堯から舜への禅譲のことはよく知っていたはずである。

 百済に戻り、殺害された牟大の後を継いで王になった斯麻。即位式などは後回しで、早速、苩加の討伐に乗り出す。自らも軍を率いて、牟大がかつて築いた牛頭城を拠点に置く。そして、解明の率いる軍勢が苩加軍を破る。破れた苩加は牛頭城に送られ、そこで王命により処刑された。

都に戻るやいなや、王は使者を梁に送った。牟大の後を継いで、王になったことを報告するために。中国南朝も、南斉が滅び、梁が建国しているので、祝賀も兼ねて。祝賀の使節は、まだ倭国にいた際にも送っているのだが、今度は百済王の肩書きで。

 続いて、斯麻は、高句麗に兵を送った。百済にとって、高句麗に奪われた、かつての都である漢城の周辺は、回復すべき失地。肝腎の漢城周辺は、一応高句麗の領土ではあるのだが、直接統治されておらず、そのため、もともとこの地にいる百済の残党が隙を見て一時的に占領し、それを高句麗軍が取り戻す、ということがたびたびおこなわれていたようだ。とはいえ、高句麗領には変わりなく、これまでの百済軍も、大軍を送り込む時間的余裕も兵力も無く、手をこまねいて望郷の念を抱くしかなかった。今回、即位して幾許も経たないうちに、高句麗に兵を送るというのは、失地を取り戻すという、高句麗に対する百済の強い意志表示を表明したことになる。もっとも、この時点に於いては、さほど良い結果は得られなかった。むしろ、食糧難に悩まされたり、隙を突いて靺鞨軍が攻め込んできたりと、痛手を受けることが多かったのだ。

 やがて、疫病がはやり、水不足に苦しむ民と豪族は、国の蔵を開けてほしいと嘆願した。そこで、王は、国の蔵を開けて、彼らの飢えをしのいだ。

 先代の牟大の時は、国の蔵を開くことを許さなかった。前にも書いたが、米ならば豪族の蔵にたくさんあるので、そちらを開いたほうが民のためになるという、もっともらしいことを言って、豪族の力を削いでいった。けれども、それが豪族たちの離反と恨みを買い、結局、苩加の反乱として返ってきたのだ。今回も、同じことをすれば、民や豪族は靺鞨や高句麗に逃れ、第二の苩加を生み出すかもしれない。敵に自ら力を与えることはできないし、そもそも、豪族に昔日の勢いは無く、王権も安定している。今必要なのは、民、豪族たちと力を合わせ、靺鞨や高句麗を退け、漢城の地をとりもどすこと。漢江流域をとりもどすことといったほうが表現的にはよいだろうか。

 高句麗は、五〇七年、将軍高老が軍を率いて、漢城にやってきた。そこで、斯麻は自ら軍を率いて、高句麗軍を退けることに成功した。

 その五年後、再び高句麗軍は、今度は大軍を率いてやってきた。史料には具体的な数字は書かれていないが、おそらく二、三万ほどだろうか。北方の城は次々と落ちていく。斯麻は、今回も自ら軍を率いていく。今度は、精鋭の騎兵隊三千を引き連れて。

 高句麗軍は、百済軍の軍勢をみて、これを破るのは容易いと思い、特に作戦は立てず、数にものをいわせて叩きつぶすことにした。たしかに、数だけをみれば、それも当然だろう。けれども、高句麗軍にそう思わせて油断させるのが、斯麻の思うツボだった。

 

 斯麻が自ら選んだとされる、三千の精鋭たち。騎兵というのは、文字通り、馬に乗って走らせて、攻めること。一般的に、騎馬隊といっても、実際には高官が馬にまたがって陣頭指揮するだけで、ほかは歩兵で戦うものだ。日本の戦国時代に川中島で五度も戦った武田方と上杉方の騎馬隊もそうだった。ところが、騎兵の場合は、みんな馬にまたがって戦うのだ。そうすることで、機動力が活きるため、すかさず敵の背後に回り込むことができるのだ。そして、虚をついて、一斉攻撃する。日本人が騎兵を用いたのは、源義経の逸話(史実か不明)を除けば、日清戦争もしくは日露戦争からといわれている。さすがの高句麗軍も、百済の騎兵による奇襲攻撃には対処できなかった。騎兵戦術はむしろ高句麗のほうが得意としてはいたが、まさか、百済軍が騎兵戦術を採ってくるとは予想だにしなかったからだ。こうなると、兵が多いことがかえって不利に働いた。兵が多すぎるため、かえって統制がとれず、いたずらに犠牲者が増えていくのだ。結局、高句麗軍はほぼ全滅してしまった。

 これまで、高句麗軍は、斯由王が百済の攻撃により戦死してから、その子である伊連の代に、その息子の談徳以来、百済には勝ち続けていた。一時期、腆支王の軍に負けたことはあったものの、四七五年にはついに百済王城を落とし、百済王慶司を捕らえて殺し、恨みを晴らした。それから、百済のほうが国内に問題があったことと、高句麗も王の交代があって、直接刃を交えることが無くなっていたが、百済が武寧王の即位により高句麗と抗争することとなり、今度は失地回復に執念を燃やす百済のほうが、恨みを晴らして久しい高句麗よりモチベーションが高かったためか、百済の方に戦いが優位に進んだといえる。

 此度の戦により、漢江の周辺は、およそ四十年ぶりに百済に戻ってきたのだ。これで、百済にも「恨」が消えたことになる。元は同じ扶余族でありながら、さながら春秋時代の呉と越の関係のごとく、互いに「臥薪嘗胆」「不倶戴天」の敵として争ってきた高句麗と百済。ここで、両国は停戦と相成ったのだ。もはや互いに「恨み」は消え、これからは、相対する国と国との関係となるのだ。決して友好的ではなく、この後も両国の抗争は続くのだが、ひとまず両国は呉越ではなくなったのだ。

 早速、このことを梁に知らせる。翌年(五二一年)、梁の高祖・武帝(簫衍)はこのように冊命した。

 「行都督、百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王隆(りゅう、斯麻のこと)は、(梁の)藩屏(はんぺい)として守り、遠くから貢を納め、忠誠を尽くしている。朕はこれを喜ばしく思い、前例に倣い、使持節都督・百済諸軍事・寧東大将軍という、栄誉ある爵号を授けることとする」

 武寧王の「寧」は、「寧東大将軍」から採られた。「武」は、高句麗を破ったことからとも、梁の武帝の武から来ているとも言われている。もしかしたら、倭王武の武も考慮されているかもしれない。
 
 高句麗を破り、漢江を取り戻し、とりあえず高句麗とは停戦したが、ふたたび攻め入ってこないとも限らない。そこで、斯麻は漢城に赴くと、北方の防衛のため、隻峴(そうけん)城を築かせることとした。これは王の存命中は完成しなかったが、後年、高句麗の軍勢をこれでくい止めることとなる。

 五二三年、斯麻王は、六十二年に及ぶ波瀾万丈の生涯を閉じた

 

 

 

以上が、

kei-wataさまの『ピグの部屋』

百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

でした。

勝手に掲載して申し訳ございません。

 

 

武寧王は、倭の唐島(加羅島)で462年から501年まで暮らしており、その間に、昆支王(475年百済に帰り、翌476年崩御)の子で有ります所の、

 

牟大がサンキン三斤王(477年即位479年没)の後で、百済王(第24代東城王479年即位しますが、501年に殺されます。)に為っております。其の後が武寧王(502年~523年)で有ります。

 

この時代に平群氏が出てきますが、糸島には武内氏・平群の地名が認められ、研究者は『糸島』に目が行きがちですが、当時の政治の中心地は朝倉~うきはで有った。事を見逃してはいけませんね。平群氏や蘇我氏(司馬氏)・大山祇命(橘氏)の所謂、『月氏』は筑後川中流域(日田~うきは~朝倉)で活躍しているのです。

 

継体6年4月(512年)、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣します。この時、筑紫国の馬、四十頭を、百済の武寧王(倭に居た武烈王の事で、梁の王から、寧東大将軍→征東大将軍の称号を賜ります)の依頼で、与えます。筑紫の馬を飼っていた場所は、

 

田主丸町唐島の一つ手前(久留米市寄り)のバス停の場所が『』です。此処で筑紫の馬を飼育したもの思われます。

 

523年武寧王が亡くなった後、倭では、527年に『磐井の乱』が起こり、531年倭王家(日田上宮王家)が滅びます。

 

そして、532年倭の『金官伽耶國』が、新羅の『法興王』によって、併合されます。

 

 

 

 

 

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川原宮を考える。武烈天皇・天智天皇の正体。(武烈天皇は武寧王に為った。天智天皇は武寧王の末裔。と考えられる。)

2019-02-02 | 古代史

日本書紀に拠りますと、

 

斉明天皇は斉明7年7月24日(661年8月24日)朝倉広庭宮にて、崩御されますが、遺体を奈良県明日香村の川原寺迄運んで、其処で、斉明7年11月7日モガリ殯をした。と述べられています。

 

わたくしの解釈では、殯の場所が違います。

 

舒明天皇{田村皇子(押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子の子)の事で、聖徳太子(=厩戸皇子=用明天皇と穴穂部間人皇女の儲けた子)の子の山背大兄王と天皇位を争った人。蘇我蝦夷の推挙で628年推古天皇崩御後、629年即位します。}と皇極天皇(寶皇女=天豊財重日足姫630年=37歳で皇后になります。後の斉明天皇です。)は、田川赤村の岡本宮で過ごし、(福永晋三さまが、解明、発表されました。)

 

舒明天皇崩御(641年=寶皇女48歳の時)後、642年1月15日(642年2月19日)に皇極天皇として、田川赤村の岡本宮で即位しました。

 

即位して14日後の、皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。

 

皇極元年4月8日(642年5月12日)には追放された百済の王族、『ギョウキ翹岐』が、従者を伴って来日します。

 

皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・寶皇女50歳の時)に田川飛鳥板蓋宮(赤村から香春町よりの宮殿跡地出土の場所が考えられます。)へ遷都します。

 

皇極2年11月1日(643年12月16日)、山背大兄王が蘇我入鹿に襲われ、11月11日には自害に追い込まれます。

 

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日、寶皇女52歳の時)田川飛鳥板蓋宮板葺殿にて『オッシ乙巳の変』が起きます。

 

 

中大兄皇子は、皇極天皇が626年(33歳時)に産んだとされ、『乙巳の変』での年齢は中大兄19歳であります。妹にハシヒト間人皇女(第36代孝徳天皇の皇后)と、弟に大海人(天武天皇)が産まれた。事にされています。

 

が、しかし、

中大兄皇子の『中』とは、2番目を意味しており、1番目は(蘇我入鹿に殺された、山背大兄王=上宮王家の欽明→用明→厩戸皇子の血脈者)誰であったのかと、疑念が生じており、娘のハシヒトノヒメミコ間人皇女を弟(孝徳天皇=軽皇子)の嫁にしております。これもまた、尋常では無くて、異常であります。

 

天武天皇に至っては、天智天皇の弟ではない。と述べる研究者が多くおられ、(兄から弟の天武へ、4人の娘、大田皇女、ウノノササラ鸕野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女を嫁がせていること。天智天皇と天武天皇の年齢差を考慮すれば、これは、明らかに不自然で、説明できない。)とされています。

 

最近では殆どの研究者が此の説を支持しておられ、天智天皇と天武天皇は、兄弟では無くて、天武が天智天皇(=中大兄皇子=ギョウキ翹岐)を殺した。説が優勢です。

 

当時としては遅い、37歳で皇后に成った皇極天皇が、中大兄皇子・ハシヒトノヒメミコ間人皇女・大海人皇子(天武天皇)を、産んだのかが、疑問視されています。

 

 

秦氏(波多=幡)の先祖とされる弓月君は、応神天皇の時代、百二十県の民を率いて百済から倭に渡ってきて帰化した渡来人です。匈奴・烏孫(兎孫)・月氏に繋がっています。

 

上宮王家とは、日田~ゆふいんの豊受大神一族の末裔の事で(日=太陽を祀り神とする民の事です。)、

 

ゆふいん(豊受大神・伊邪那美)~田川飛鳥(アマテル=ホアカリ=饒速日命=瓊瓊杵尊)~日田(豊受大神・耶蘇杵・高木神・白山姫・彦火火出見尊=孝元天皇)~うきは市(大山祇命・橘氏・平群氏・蘇我氏は、月氏=拝火神の民、である渡来人(大半が応神期に渡来)です。~田主丸町(タカノ竹野)(天鈿女=ミズハノメ=豊玉姫に繋がる息長氏=秋永氏の本拠地で、此処、唐島で、百済25代武寧王(斯麻王=倭では『武烈天皇』と記されています。

このお方は『宋書』の謂う、倭の五王の『武』ではなく、倭王『武』は雄略天皇と考えています。西暦462年誕生。)と第26代聖明王が誕生し、育っています。

 

武寧王、又は聖明王の末裔が、タカノ高野(竹野)の新笠=秦氏の援助で平安京が成立、平安遷都した第50代桓武天皇(737年~806年、即位は781年、父は光仁天皇。)の生母です。

 

武寧王(倭王『第25代武烈天皇』)は(501年)40歳の時に、『倭王』として百済に渡ります。その時に、聖明王も一緒に渡ります。

 

宋書に拠りますと、5世紀の時代、百済と倭は、王家が姻戚関係を結んでいた統一国家状態であった。と解釈されます。

 

501年に倭王が突然に、百済に渡り、倭に王がいなくなり、福井県に居た息長氏(第26代継体天皇になるヲホド袁本抒を大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、倭(九州から山陰・近畿地方迄の領域)に、迎える事にします。

 

ヲホド袁本抒は、『武烈天皇』(武寧王になった人)の義理の姉(昆支の娘)で有ります『手白香皇女=欽明の母』を507年4月2日皇后に迎える事で即位しますが、『上宮王家』の反対があり、19年後の526年田川飛鳥宮に入り、

翌527年、田川勾金の『安閑』と佐賀和泉の『宣化』の協力を得て、田川飛鳥宮入りに妨害していた『上宮王家』の日田石井地区(ガランドヤ古墳・穴観音古墳等が残っています。)を攻め滅ぼそう。とします。

 

記紀では『磐井=石井の乱』として記述しています。

 

しかし、『安閑』・『宣化』の息長氏は継体後、直ぐに暗殺され、継体天皇(近江息長氏)も531年に朝倉で亡くなり(これもまた暗殺?)、三島の『合』に葬られます。(内倉武久さまが解明されました。)

 

上宮王家(ヲホド袁本抒=近江息長氏)の血を引く、欽明天皇が即位し、安定します。

 

此の、竹野郡唐島で育った武寧王(倭王としては『第25代武烈天皇(泊瀬列城宮に居た人)』の事です。百済に帰った後、502年『梁の武帝』から『征東大将軍』の位を得ます。)・聖明王の末裔が百済王族の『ギョウキ翹岐』と考える事ができます。

 

『翹岐』は、倭王の息長氏(秋永氏)の血脈を継承していたものと、考えられます。

 

『上宮王家』の『聖徳太子=厩戸皇子』(うきは市の『橘寺』=柏寺=大生寺=五台山大聖寺近くの厩所で産まれた。用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれている。と、記されています。)の子である、斑鳩に居た『山背大兄王』を643年に襲い、自殺に追い込んだ『蘇我入鹿』を許し難い事と捉え、従者『藤原鎌足』と伴に田川飛鳥宮板葺殿での行為に及んだものと考えられます。

その時に、『中大兄皇子』(翹岐)は「韓人殺鞍作臣吾心痛矣」

 

「韓人(からひと)である翹岐が、鞍作(入鹿の事)を心痛めて、殺しました。」

 

と、皇極天皇に奏上します。

 

つまり、豊受大神一族が代々続いていた『上宮王家』(欽明→用明→厩戸皇子→山背大兄王の正当皇統)が滅んだ事に、心を痛めて、鞍作(司馬氏)の蘇我入鹿に天誅を行なった。となります。

 

 

『翹岐』はその後、『中大兄皇子』と日本書紀に記載され、『天智天皇』とされた。ものと、考えられます。

 

654年弟の第36代孝徳天皇(軽皇子)崩御後に、歴史上初の重祚(皇極天皇→斉明天皇)が、中大兄皇子(翹岐)が実務を取り仕切って、飛鳥宮板葺殿で行われます。斉明天皇元年655年1月3日62歳時ですが、その年の冬に飛鳥宮板葺殿は火災で焼失し、斉明天皇は『川原宮』へ一時遷都をします。

 

『川原宮』の場所は『うきは市』を流れます、筑後川支流の『隈の上川』傍の『川原町』であろう。と考えています。後に中大兄皇子(翹岐)が『川原寺』にします。

※ 『川原寺』(僧寺)と『橘寺=柏寺』(尼寺)は一本道で繋がっています。後に、藤原氏が奈良に同様の配置で『川原寺』(僧寺)・『橘寺=柏寺』(尼寺)を造ります。

 

663年の『白村江の戦い』以後に、多分667~668年頃『川原寺』は、奈良県に移築されます。

 

わたくしは、前回のブログで朝倉広庭宮が在ったのは、『うきは市中島地区』であろう。普門寺は、当時は川原寺と呼ばれていたと思われます。其処が『斯鬼斯麻宮』の事であろう。と述べていましたが、現地調査をしました処、普門寺が川原寺と呼ばれたのではなく、川原寺は別の場所であります『うきは市』川原町』に在った。と、考えを改めました。

 

『川原』は全国津々浦々に存在しているので、研究者たちから、根拠を要求される。と思います。

 

川原宮(川原寺)の根拠は、『隈の上川』に架かる2橋の名前です。国道210号バイパスを跨いで、『上御所橋』と『下御所橋』があります。

『御所』とは、『天皇』もしくは『上皇』が居られる場所を指します。

 

此れは、斉明天皇が居を構えたと考えられます『川原宮』を意味している。とも考えられ、

 

つまり、斉明天皇が亡くなり、殯をした場所は、奈良県の川原寺では無くて、うきは市の『川原寺』であった。

 

と、解釈する事ができます。

 

しかし、日本書紀では、

 

斉明天皇7年(661年)7月24日朝倉広庭宮にて崩御後の記述は、

    • 8月1日 - 皇太子(中大兄皇子)が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮(泊瀬)に到着。2か月と6日後の
    • 10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。16日間かけての
    • 10月23日 – 斉明天皇の喪が難波津に着く。2週間後の
    • 11月7日 - 飛鳥の川原で、殯りをした。9日まで発哀。

とあり、この記述を如何判断するか。が、求められます。

 

全体を見て、感じられます事は、『飛鳥の川原』は倭(九州)から、遠く離れた近畿奈良に存在している。(様に記入されている。)と感じられます。

 

しかし、よく検討をしますと、疑念を抱かせます記述があります。

 

つまり、斉明天皇が7月24日に亡くなり、8月1日に中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と述べられている事です。

 

中大兄皇子が、近畿の飛鳥宮から6日~7日で遣って来るのは、不可能・不可思議な記述であります。如何やって連絡を執ったのでしょうか。

 

此の問題で、唯一の解答が得られますのは、田川の飛鳥宮近くの『難波津』で、中大兄皇子が船に乗って出発して、有明海から、又は太宰府の水城水門を通って、筑後川を遡って朝倉の泊瀬(磐瀬)宮に着いた。と考えるのが常識でしょう。

 

此の記述は、噓を書く事を強要された、編纂者の良心的な反抗と、捉えられます。

 

日本書紀の記述を信じれば、田川飛鳥の『川原』で殯をした。と謂うことになります。

 

『川原』は『香春』とも解釈できます。斉明天皇の人生の大半は、赤村~香春~大任で過ごしています。

 

しかし、中大兄皇子が泊瀬(磐瀬)の広庭宮に2か月と6日も滞在したと述べられており、これもまた不可思議な理解不能な行いです。通常は速やかに遺体を連れ帰り、殯を行います。

 

やはり、うきは市の『川原宮御所』で殯を執り行った。可能性が高い。との結論が付けられます。

 

『川原宮御所』近くの『月の岡古墳』は、如何も『雄略天皇陵』、『日の岡古墳』が『欽明天皇陵』の匂いがします。

 

ひょっとすると、此処が『川原宮御所』で有った。とも考えられます。

 

 

 

 

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佛教の伝播は、欽明天皇期では無くて、雄略期である。

2019-01-14 | 古代史

伊藤正子さま。と謂う、

 

若年から長年に渡って古代史大好きな研究者が、昨年(2018年)8月に4回に渡り、阿蘇西原村で講演をされた記録CDを、古川清久さまから分けて頂き、拝聴させて頂きました。

 

古代史研究者は、一般的には、文献調査派が多いのですが、

 

彼女は、文献研究知識と埋蔵文化財発掘調査研究が、『半端ない』専門的な知識を積み上げられて、持っておられ、両面から古代史解明に挑まれている『凄い!!』。と、傾聴に値する意見を持った第一級の研究者で有られます。

 

我々研究者には、鵜吞みにしない猜疑心と知識のバランス感覚、深い洞察力が必要だと感じ摂れました。

 

皆様にも、伊藤正子さまの講演会の『力業』拝聴をお薦めします。

 

(女性研究者として、侮る事勿れ。正子さまの言葉には、男性研究者の顔色なし。の強い力量があり、話術には説得力があります。う・う・ウーㇺ・・・。 気弱な?わたくしには、無理です。)

 

(伊藤正子さまは、普段はとても優しい女性的なお方とお見受けいたします。)

 

講演の要旨は、『聖徳太子と法隆寺・それに纏わる寺』の謎です。

 

聖徳太子由来の、『法隆寺』伽藍配置が九州に多い方式(川原寺方式と謂う、金堂・五重塔が東西に位置配置された方式)で創建されている。近畿には、他にはない。故にパンフレットには、『東西』と書かず『左右』と書いて、九州方式の印象を消そうとしている。

 

天智天皇8年9年の火災は若草伽藍であった。とされていますが、その地から出土の瓦のパルメットは推古天皇期の特徴と謂われているが、何となくスッキリしない。

 

釈迦三尊像後背に彫られた銘文・薬師如来像の台座の木材の材質が檜とクスノキに分かれて製作されており、クスノキが近畿で入手出来なかった為。であろう。

 

薬師如来像と釈迦三尊像との製作年代比較検討。本尊を入れ替えた疑念が持たれる。

 

明治迄秘仏として隠されていた東院伽藍夢殿の『救世観音菩薩像』(聖徳太子の等身大の仏像と謂われています)への疑念。

 

法隆寺が保有する木造仏像(飛鳥佛)が殆ど、『楠木』を使用して作成してあり、此のクスノキは福岡市立花山が北限と謂われている。

 

 百済観音像は、クスノキの『一木彫』であり、百済には、クスノキの大木は無くて、倭(九州)で造られたと考えられる。

 

『法隆寺』がミササギ陵山として大切にしています、近くの『藤ノ木古墳』の『家型石棺』に埋葬されています、大王級の2体の遺骸の副葬品(飾り金銅製足履が1足ずつしか履いていなかった・三つ折りにされた金帯に小刀が挟まって在り・冠が足元に置かれている)の配置状況の異常さと、副葬品(馬具・鏡・等)の種類が、どの地域の古墳出土の副葬品と似ているかを調べてみたところ、佐賀(九州)であった。

 

飾り金銅製足履の加工技術に付いて、倭で作られたのか、韓半島からの輸入品なのか?を学者に尋ねると、『この時期には、韓半島では造ってはいなかった。』と謂われ、

 

ならば、倭國での制作が考えられ、『藤ノ木古墳』周辺の古墳群からも出土すべきであるのに、近畿では全く出土しないのは何故か。

 

 

発掘調査の初期に出土した土器(埴輪)では、五世紀の墓であろう。と専門家が予測したのが、副葬品(硝子製品の色)の調査で六世紀後半とされた。そして、未盗掘(須恵器の祭祀用品が壊れていない)の古墳であろう。と専門家が述べられたので、

 

埋葬者と副葬品は、別の場所(九州)から運んで搬入されたものと、考えざるを得ない。と、述べられます。

 

九州熊本県『江田船山古墳群』から出土した、豪華な副葬品を、専門家(学者)が、この時期は日本には、そこまでの加工技術の進展は無くて『輸入品』である。と解釈をしている事に疑念を持っておられ、万一『国産』であれば、古代史の歴史がひっくり返る事になる。と、述べられ、九州から運んだ可能性を指摘されます。

 

また、聖徳太子の廟と謂われています、叡福寺の棺は、木製で、麻布に重ね漆塗りの『キョウチョカン夾紵棺』で出来ており、此れは7世紀中~末頃と考えられ、時代的に疑念が感じられる。と、述べられます。

 

 

『随書』を読解しても、「阿蘇山在り。」と述べられていて、楽浪郡系土器が出るのは九州だけで、近畿では出土せず、俀(倭?)國が在った場所は九州で有り、『法隆寺』や、その『佛像』等は九州から持ち込まれた。としか、考えられない。と述べられ、この時代(聖徳太子=622年没)までには、佛教が浸透していた地域が在り、其処が近畿では無くて、九州であろう。と述べられています。

 

伊藤正子さまは、石棺のルーツは四国では無くて、熊本が石棺のルーツであった。と考えられる。と述べられ、熊本の専門家も同じ事を謂っている。

 

九州には、全ての石棺の形がありますが、6世紀の九州石棺で使われた『切欠き加工』技術は畿内(中合わせ)に伝わった。ものと考えられる。

 

『月の岡古墳』に在ります『長持ち型石棺』を、畿内説の学者は、そのことを畿内の勢力が九州に進出した事に、論を張っていますが、それでは、畿内の石棺に阿蘇溶結凝灰岩が使われているのは、九州から畿内に進出した事にならないのでしょうか。と一蹴されますが、畿内説の学者は、我田引水的に、それは、九州豪族が畿内に献上したものと嘯く。

と謂って、畿内説の学者が、自分に都合のいい解釈をしている事に立腹されています。

 

 

如何も、畿内説の学者にとっては、『月の岡古墳』と、其の出土副葬品は都合の悪い意味合いを持つものとも、感じられます。

 

うきは市吉井町若宮八幡神社内に在ります『月の岡古墳』『日の岡古墳』を調査する必要があります。

 

実は、『月の岡古墳』は、志波長田橘泊瀬『広庭宮』に在った。と考えられる、『川原寺』(普門寺)から南に直線距離が2㎞位しか離れていない場所にあります。

 

わたくしは、『広庭宮』が『斯帰斯麻宮(欽明天皇)』・『斯鬼宮(雄略天皇)』の事であろう。と考えていますので、気になります。

 

志波長田橘『広庭宮』には、わたくしの考えでは、

 

第20代安康天皇(穴穂天皇・第19代允恭天皇の第2皇子)は、阿蘇の高地(幣立神宮)に避暑に行き、皇后(長田大郎女)の連れ子『眉輪王』に殺されます。

 

その弟で有ります朝倉山田長田橘泊瀬『広庭宮』に居た、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武・大長谷若建命・第19代允恭天皇の第5皇子)が即位します。

 

つまり、第21代雄略天皇が『月の岡古墳』周辺での存在が、想像されるのであります。

 

わたくしは、伊藤正子さまの講演のCDでの埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土の金錯銘鉄剣と、熊本県江田船山古墳出土の銀象嵌太刀の銘文の比較の話を拝聴して、ネットのウィキペディアで『稲荷山古墳出土の鉄剣』を見てみる事にしました。

 

わたくしは、表裏に描かれた115文字の銘文を眺めて、驚きました。

 

裏面には

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 

(訳)

其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

と、銘が彫られています。

 

わたくしは、

 

『獲加多支鹵大王在斯鬼宮』の文字

ワカタケルの大王の寺、斯鬼の宮に在る時』、に釘付けになりました。

 

『ワカタケル大王の寺』とは、わたくしの説では、『広庭宮』の川原寺』(普門寺)を意味します。

 

と、謂う事は、456~479年の雄略期には、倭朝倉広庭宮に寺(川原寺)が在り、佛像や仏具が造られ、行事が執り行われていた事になります。

 

橘寺から法隆寺に渡り、現在国立博物館収蔵の『飛鳥仏像』群は雄略期迄を考慮して、製作年代の特定を再考慮するべきです。

 

つまり、仏教が伝播したのは、欽明天皇の時代では無くて、少なくとも雄略天皇期以前には、日田~うきは~朝倉~田主丸の筑後川地区には、橘氏(大山祇→月読命→月氏)・蘇我氏(斯波→司馬→月氏)・平群氏(後の『平氏』月氏)が居て、仏教が栄えていた。と考えるべきです。

 

 

 

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聖徳太子の墓所は南大分の『千代丸古墳』と思われます。

2018-12-04 | 古代史

朝倉の志波政所に在ります、真言宗普門院は天平19年(747年)に、第45代聖武天皇の勅願により、行基が創建。

場所は現在の地では無くて、すぐ横を流れる筑後川の泊瀬の向こう岸の中島に位置していた。と謂われ、

中島は、現在は筑後川の放水路となって狭くなっており、朝倉水害の土砂の廃土を搬入し、当時の面影を失っています。

中島の対岸が『恵蘇八幡宮』です。『恵蘇八幡宮』の地は、『恵蘇の宿』と謂い、筑後川の瀬が側に在り、船舶の宿泊地であった、『泊瀬』と覗えます。

記・紀にて、『泊瀬部』と謂う場所は、此の朝倉の『恵蘇宿』の地を指し示しています。

 

わたくしは、此の、中島地区こそが第37代斉明天皇が661年、来訪した朝倉『広庭宮』であった。と考えています。

何故、斉明天皇が来訪したのかは、『泊瀬部』の付く歴史上の人物を調べれば、理解する事ができます。

『泊瀬』・『朝倉』の号の付く人物は、全て此の地に居たか、朝倉で産まれた。と解釈するべきです。奈良県ではありません。泊瀬は、初瀬→長谷に繋がり、奈良県の長谷寺は、此処の地、朝倉『泊瀬』が源であろうと考えられます。

つまり、斉明天皇の夫の第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の、前々の(蘇我馬子から殺された)第32代崇峻天皇(泊瀬部=長谷部若雀天皇)や、

第21代雄略天皇(大泊瀬幼武・大長谷若建命)、第29代欽明天皇(天國排開広庭天皇)及び、その第3皇女の穴穂部(阿蘇のカルデラや盆地の事)第31代用明天皇(橘豊日天皇・池辺皇子=幼少期は南大分『東院』(後宮と呼ばれていた。)に推古天皇と一緒に暮らして居たものと、考えています。後の時代に男子禁制になります。)に嫁いだハシヒト間人皇女(聖徳太子の母と謂われています。)、

そして、斉明天皇の子であります『ハシヒト間人皇女』は、この地に居られた事が想像される。のであります。

第33代推古天皇額田部皇女豊御食炊屋姫尊)は小墾田宮(南大分『古国府』近辺と考えられます。)で亡くなるのでありますが、子でありました早世した竹田皇子の墓の傍に埋葬する事を遺言して、恵蘇八幡宮に在ります1号・2号古墳に埋葬されたものと、考えています。

この事柄を真実と考えますと、斉明天皇が朝倉広庭宮に来た理由が紐解けます。

 

佛法を重んじた娘の『ハシヒト間人皇女』(第36代孝徳天皇の皇后)が此の朝倉の地に棲んで居たと思われます。

孝徳天皇(天万豊日天皇)は、難波長柄豊碕宮(大分の明野~鶴崎地区『葛木』と考えています。)で政務を摂り、奈良には行かず、654年11月に豊後長柄豊碕宮で病気で亡くなり、『ハシヒト間人皇后』は、その後仏教の盛んな朝倉の橘氏の『尼寺』(栢寺)に来ていたと思われます。

記紀は『行宮』と、嘘を述べて、ごまかしています。

 

奈良の長谷寺も、朝倉普門院と同じく、神亀年間に造られた『木造十一面観音立像』(本地佛では、『十一面観音像』とは、『天照大神=アマテル=ワカヒト』=本来の『若宮』を意味しています。『水波能比売命=豊玉姫』が『不動明王』の事です。)を本尊にしています。そして、奈良の長谷寺には『普門院』があります。

 

当時の、朝倉の普門院(普門寺)は、『広大山普門寺』と号して、現在は、神亀元年(724年)に行基に依って造られた『木造十一面観音立像』(1.74m)を本尊にしています。普門院と称するのは、天和年中(1681~1684年)だそうです。

 

弘法大師も、唐から帰国した翌年の大同2年(807年)に此処朝倉の『普門寺』を訪れて、真言密を修した。と伝わっており、『筑前国続風土記』には、「この寺の仏堂広からずと雖も、その営作の精巧なること国中第一なり」と記されており、此処は特別の地であった。と考えるべきです。

 

わたくしは、朝倉中島(筑後川の川原)に在った『普門寺』の、以前の名は『川原寺』と呼ばれた。と思っています。『川原寺』を奈良県の『長谷寺』に移築?したもの。と考えています。

『川原寺』と対を為す、『ハシヒト間人皇后』と関係があります『橘寺』(尼寺)は、浮羽町流川に在ります行基創建由来の古刹『大生寺』ではなかろうか。と思っています。

此の浮羽町~吉井町地区は『橘氏』が大勢います。現在も、鎮西身延山『本佛寺』や『延寿寺』・『満願寺』・『妙福寺』が橘氏地域に在り、近くの古墳群との考察から、耳納山麓に『橘寺』と呼ばれた『寺』があり、多分「栢寺」と思われます。

 

九州政権が、白村江の戦以来、近畿へ遷都し、「栢寺」荒廃後に『行基』が『大生寺』※を創建したものと考えられます。

 

※『大生寺』は、何となく『大聖勝軍寺』とも関係がありそうです。

『大生寺』の元の名前の由来は、『大聖勝軍寺』(587年物部氏との戦いで、聖徳太子が発願、594年創建で、推古天皇が命名した。)であった。と、考えられます。

根拠は、うきは市『大生寺』は桓武天皇期(延暦元年782年)に『五台山大聖寺』として、勅願寺となります。1391年『大生寺』となりました。

桓武天皇の母親は、タカノ竹野郡(田主丸町唐島)の『新笠』(百済、武寧王ー聖明王の末裔)です。『新笠』は唐島の秋永氏=息長氏集落で育ったものと、思われます。

『栢寺』=『大聖勝軍寺』と思われます。『大聖勝軍寺』は、後に大阪八尾市太子堂に移されます。

 

鎮西身延山『本佛寺』は、明治の初期に、山梨県の身延山から、日蓮聖人の御真骨分安聖地と鎮西栴檀林(学校)として九州総括寺を兼ねて創建されており、何故、この様な耳納山の中腹地に立派なお寺が造られたのか。首をかしげます。

 

その理由は『橘氏の寺』が以前に存在していて、此処から佛教が全国に広がった聖地と捉えられていた。からと考えられます。

その証拠に、『本佛寺』の本殿の垂幕には、井桁の中に『橘紋』がハッキリと這入っています。

此の地に『厩所』があり、厩戸皇子(聖徳太子)がハシヒト間人皇女から、産まれた。と、考えられます。

 

此処、『橘氏の寺』に集められた聖徳太子(穴穂部=阿蘇→若狭に避難したハシヒト間人皇女が産んだ子、父は用明天皇と言われています。)(南大分の向原寺は、蘇我稲目が仏像を欽明天皇と相談して、自分の寺へ持って帰った場所です。その後は豊後国分寺になり、現在は大分市歴史資料館に成っています。)由来の48体(多くの仏像が、九州が北限の『楠木』で造られています。)の仏像は、後に奈良法隆寺へ運ばれます

 

応仁の乱(1467~1477年)の兵火に遭い、朝倉の『普門寺』(以前は『川原寺』と呼ばれた。と、考えています。)は焼失しますが、再興を行ったのは、何んと!!!『斯波時勝』であった。と伝わっています。

『斯波』は、『宋書』夷蛮伝倭国条に記入されています、元嘉2年(425年)の使者『司馬曹達』の『司馬』に関係があると考えられます。

『斯波』(司馬)氏は、元は、軍馬を養成する役割の渡来人だったとも考えられます。『曹達』が名前でしょう。

 

聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれ、『馬』との関係が暗示されており、聖徳太子の研究には、『馬』を考察する必要性を感じます。そう謂へば、『蘇我馬子=聖徳太子』の説。の研究者がおられましたね。

 

法隆寺の釈迦三尊像を創ったとされます、『鞍作止利』は、司馬氏で有ります。

 

聖徳太子(622年没)は斑鳩宮に居たとされ、斑鳩宮は南大分の東院と考えています。聖徳太子の埋葬されています場所は、大分市東院宮苑に在ります、『千代丸古墳』(7世紀初頭築造)と思っております。後に、穴穂部間人皇后(母=621年没)の遺骸と伴に大阪河内の叡福寺磯長陵古墳に移されます。

父で有ります用明天皇は『磐余池辺双規宮』(勝山黒田~豊津町周辺と考えています。)で病気で亡くなります。用明天皇の埋葬地は田川郡大任町秋永地区に在ります、名前の附いて無い古墳(磯長=秋永陵)と思っています。

 

この時、病気平癒を願って四天王寺(別名を堀江寺と謂い、此れは行橋市の堀江に造られて、後に大阪に移築された。と考えています。)や、法隆寺(別名を斑鳩寺です。後に奈良県に解体移築されます。わたくしは、向原寺の事と考えています。)が造られています。

 

推古天皇は飛鳥宮赤村~香春町と考えています。)で政務を執ります。この飛鳥宮は、アマテル=ホアカリ=饒速日命がゆふいんから移動して来て、創った宮です。第34代舒明天皇(赤村の岡本宮)や第35代皇極天皇も、此処で政務を執ります。

 

第35代皇極天皇(飛鳥宮板葺殿にて)の時に、息子の中大兄皇子が、中臣鎌足と組んで、『蘇我入鹿』を誅するのですが、その時に、『蘇我入鹿』を『鞍作』と呼び、蘇我氏は『司馬=斯波』氏であった。と理解されます。蘇我氏は馬の『鞍』を造ったり、香春岳で産する銅で『佛像』を創った技術者であった事柄が、解りました。

 

やはり、斯波氏・朝倉氏のルーツは此の朝倉長田志波(笠縫氏)地区であったことが理解できます。    2018年11月9日 記

 

 

 

 

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朝倉長田志波に在る、『日鷲神社』から導かれる『天太玉命』と『猿田彦』の関係。

2018-09-08 | 古代史

2018年9月3日、古川清久さまから、「朝倉志波に在る、宝満宮を調査した所、脇宮に『日鷲神社』が有りました。一度ご覧いただきたい。」との由。

 

わたくしのブログでは、此の、筑後川の泊瀬の傍の、朝倉長田志波地区(斯波氏・日下部氏・彦座王・日野氏・大山祇・継体天皇・欽明天皇・推古天皇・崇峻天皇・雄略天皇・斉明天皇・・・等と関係がある。と考えられる。)は、

 

田川香春町~大任町(アマテル=ホアカリ=饒速日命・日高彦穂穂出見尊・・天児屋根命=長髄彦=景行天皇=猿田彦・神功皇后・応神天皇=宇佐押人・仁徳天皇以降の歴代の天皇の存在が考えられます。)(辛國息長大姫大目命=豊玉姫=秋永氏の本貫地)~赤村(仁徳・舒明・皇極・斉明天皇)~勝山黒田~豊津町地区(懿徳天皇・孝霊天皇・景行天皇・蘇我蝦夷・入鹿・)と、

 

双璧を成す、倭王朝の拠点であり、

 

久留米磯城=城島の瑞垣宮=玉垂宮に居たと考えられます、崇神天皇=神武天皇=スサノオが、『アマテラスの御魂霊』(向津媛の魂)を豊鍬入姫トヨスキイリヒメに命じて、笠縫カサヌイ邑=朝倉志波の麻底良山(井上悦文氏の草書体での解読では、『アマテラス』と読める。由。)に祀って、後に、景行天皇(天児屋根アメノコヤネ命=猿田彦=長髄彦ナガスネヒコ)の妹とされる倭姫命が『アマテラスの御心霊』を三重県伊勢に移動した。と謂う考え方であります。

 

笠縫邑とは、地名由来の固有名詞では無くて、笠縫者(作笠者)が多く居た邑。と解釈をするべきである。と考えています。

 

此の、朝倉志波地区の『麻底良山』周辺が、笠縫者(作笠者)が多く居た邑と考えている、わたくしとしては、『日鷲神社』がある。との知らせに、驚きました。

 

 

 

天日鷲命アメノヒワシは、

 

『古事記』では、天照大神が岩戸隠れの場面で、神々の踊りが始まり、天日(鷲)命が弦楽器を奏すと、弦の先に鷲が止まり、多くの神々が、吉祥を表す鳥として、喜び、天日命に鷲の字が加えられ『天日鷲命』になった。とされています。

 

 

先代旧事本記』では、思兼命(ホツマ伝では、天太玉アメノフトダマ命の兄とされています。)発案のもと、天太玉命が御幣を作り、天太玉命と天児屋根命が一緒に祝詞奏上して、その時には天日鷲命が木綿(白和幣)を作った。と述べられています。

 

 

『日本書紀』神代上第七段一書第三では、天太玉命の率いた者として、

 

天日鷲命アメノヒワシ(阿波忌部の祖) 作木綿者=白幣・紙

手置帆負命タオキホウイ(讃岐忌部の祖) 作笠者=笠・蓑

彦狭知命ヒコサチ(紀伊忌部の祖)  作盾者=木工

櫛明玉命クシアキタマ(出雲玉作の祖)  作玉者=勾玉

天目一箇神アマノマヒトツノカミ(筑紫伊勢忌部) 作金者=鉾・鍬

 

 

 

『古語拾遺』では、天太玉命の孫の天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波の国へ行き、穀・麻を植えた。

 

 

と述べられています。

 

 

ホツマ伝での、ヒタカミとは日田市とその周辺の事で、豊受大神の子、『耶蘇杵』と、妻の『白山姫=クグリ姫』が、タカキネ=高木神・少名彦命・大宮姫ミチコ(アマテル典侍)・七夕姫コタエ(アマテル内侍)を儲け、

 

長男のタカキネ=高木神が、子を順に、思兼命・天太玉命・天櫛玉命・ヨロマロ・アイミタマ・天活玉命・アヨミタマ・𣑥幡千千姫(天忍穂耳命の内宮)・美保津姫(櫛彦=大國主命【大己貴命と宗像三女神の長女タケコの間の子。※このタケコが、記・紀では多祁理比賣命とされ、本来の市祁島姫で有ります『豊玉姫』と混同されて、混乱を起こしている。】の妻)儲けています。

 

ホツマ伝を信じれば、天太玉命は日田市日高町ダンワラ地区の出身であろう。と考えられ、日田・杷木・朝倉に

天日鷲命(阿波忌部の祖) 作木綿者=白幣・紙

手置帆負命(讃岐忌部の祖) 作笠者=笠・蓑

彦狭知命(紀伊忌部の祖)  作盾者=木工

櫛明玉命(出雲玉作の祖)  作玉者=勾玉

天目一箇神(筑紫伊勢忌部) 作金者=鉾・鍬

 

の存在があると、受け取れます。

 

日田・杷木・朝倉から阿波・讃岐・紀伊・出雲へ進出した事が想像されます。筑後平野には、技術者集団のアヤヒト漢人=綾部が大勢遣ってきています。

 

 

天太玉命』は、阿波の一の宮であります、(鳴門市大麻町に在ります),『オオアサヒコ大麻比古神社』で主祭神として祀り、配祭神としては、『猿田彦』が祀られており、『天太玉命』と『猿田彦』の関係が議論を呼び、本来の主祭神は、『天日鷲命』であろう。と、暗に『猿田彦』を否定的に考えられているようですが、

 

徳島市明神町に在ります、宝暦8年(1758年)に、吉田神道(吉田兼倶カネトモ)で有名な、京都、『吉田神社』の許しを得て創建された、『オオマヒコ大麻比古神社』では、主祭神として、『猿田彦』を祀っています。

 

此の問題は、わたくしの説、天児屋根命=猿田彦=景行天皇=長髄彦を補完する事柄に考えられます。

 

つまり、『天児屋根命=猿田彦』である。事を『吉田神道』は知っていた。と読み解けます。

 

因みに、『吉田神社』の祭神は健御賀豆智命(豊玉彦)・伊波比主神(経津主神)・天之子八根命(猿田彦)・比賣神(豊玉姫)であります。

 

何れのお方も、倭の形成に重要な役割を果たされた人物です。

 

流石、吉田神道。

 

 

 

 

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猿田彦は、やはり景行天皇であった。

2018-03-12 | 古代史

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯象嵌の剣の文字と、熊本県玉名市和水町の江田・船山古墳から出土した銀錯象嵌の剣の文字は、どちらも『ワカタケル大王』と解読され、この『ワカタケル大王』は第21代雄略ユウリャク天皇(大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるみこと)=第19代允恭インギョウ天皇の第5皇子の事で有った。とされ、ヤマト王権が当時は九州から関東まで及んで居た。と研究者には理解されており、一般の研究者は、九州と関東の中間に在ります近畿奈良大和にワカタケル大王が居たのもと思い込んでおられるようですが、此れは間違いで、わたくしの考察では、雄略天皇は福岡県朝倉市山田『恵蘇の宿』辺りに棲んでいた。と考察されます。

根拠は、福永晋三さまの『真実の仁徳天皇』の考察があります。

第15代応神天皇の崩御の後、皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)皇子と大鷦鷯皇子(仁徳)も、互いに皇位を譲り合ったが、菟道稚郎子皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)条項は、三年の皇位の空白があり、福永晋三さまは、菟道稚郎子は応神天皇の崩御の後に即位しており、大鷦鷯皇子(仁徳)の計事によって自殺に追い遣られたものと、和歌から読み解かれ、菟道稚郎子も大鷦鷯皇子(仁徳)もどちらも福岡県田川郡香春町周辺に棲んでいた。と述べられています。

わたくしは、仁徳天皇のイメージは大阪河内に在ります仁徳天皇陵が浮かび、近畿の出来事と思い込んでいましたが、考察には説得力があり、同感を得ました。

 

宇佐公康さまの伝承では、『神功皇后』と『品牟陀別皇子=武内宿禰の子』は『御諸別命』と『宇佐押人=崇神の孫』の軍に敗れ、香春町に幽閉され、どちらも其処で生涯を閉じた

と述べられており、此れは宮原地区にて明治36~37年頃出土の四基の石棺と四面の青銅鏡(内行花文の後漢鏡)とも考えられます。

応神(宇佐押人=崇神の孫)は『豊明宮』で即位した。とされ、此れは香春町『古宮八幡神社』(神紋は阿蘇神社と同じ、『丸に違い鷹羽』=田主丸秋永家の紋)に在った『豊明宮』と解釈されます。(清祀殿跡もあります。)そうすると、古宮八幡神社から宇佐神宮への四年に一度の神幸会の行事が理解できます。

(別の説では、応神(宇佐押人)は田川川崎町の『帝階八幡宮』にて即位した。との伝承があります。=内倉武久氏より)

亦、『古宮』は『胡人の宮』と解釈され、秦氏は西域からのルーツを持って遣って来た事を意味しており、スサノオを祭る京都祇園祭では山車飾りの緞帳は西域の図柄を用いており、スサノオとは、スーサ(サウジアラビヤに在る都市スーサ)から遣って来た男の意味とも解釈されており、修験者の出で立ちや行為はイスラエルのモリヤ山にルーツがある。と考えられており、インドガンダーラを経て、京都の鞍馬寺や田主丸石垣神社・人吉市の青井阿蘇神社にはイスラエルのダビデの星が見受けられます。

垂仁時代の野見宿禰に始まる『相撲』もヘブライ語では『シュモ』と発音するそうで、彼ら西域人が齎したものと想われます。

 

で、あれば、菟道稚郎子皇子と大鷦鷯皇子(仁徳)は香春町で育った謂う解釈が成り立ちます。

と謂うことは、応神(宇佐押人)の墳墓が香春町にある事に為り、以前にお会いした香春町郷土史研究会会長の柳井秀清さまに案内された宮原の『おうきん(大君)さん』と地元で呼ばれます墳墓は『おうじんさん』の変化か、間違いで、応神天皇(宇佐押人=崇神の孫)を埋葬しているものと考える事が可能です。

亦、内倉武久さまの研究では浦松遺跡では八棟分の大型建物跡が発見されており、其処が宮殿跡かもしれない。とされ、

わたくしの考察であります、アマテルが『ホツマ國ゆふいん』から香具山の地名を持って移動してきた。アマテルの子『忍骨神=天之忍穂耳命』も香春神社で祭られています。(天之忍穂耳命は多賀宮=田川宮で育ったとホツマ伝は述べています。)

ホアカリが『飛鳥宮』の『初代オウキミ皇君』とホツマ伝で述べられており、『おうきん(皇君)さん』はホアカリの事。とも考えられ、ホアカリはニニギネの兄ではなく、アマテル=ホアカリ説が考えられます。

亦、記・紀では、第4代懿徳天皇(軽=香春に居た。天豊津姫を娶っています。が、天豊津姫は豊玉姫とも考えられ、ホツマ秀真伝では何も述べておらず、第7代孝霊天皇と伴に、歴史を積み増す為の捏造とも考えられます。)

日高彦穂穂出見命=第8代孝元天皇(日高彦穂穂出見命=兵主命=山幸彦(百嶋由一郎さまは、此のお方が猿田彦とされています。しかし、わたくしの考察では、猿田彦は景行天皇であります。景行=天之児屋根命=長髄彦=猿田彦は日高彦穂穂出見命の家来であった。と考えられ、ホツマ伝では、ムメヒト(ホアカリ)の臣と述べられています。

ホツマ秀真伝では、景行天皇の子、『日本武尊』が崩御した葬儀時には、猿田彦が『御顔当をした』と述べており、『御顔当』を出来るのは通常『喪主』であり、即ち、『猿田彦』は『景行天皇』を意味しており、わたくしの説が正解であります事が理解されます。

 

日高彦穂穂出見命は日田市ダンワラ地区出身で、久留米磯城県から新羅国に出向き、後に香春町=秋永氏の本貫地で亡くなったものと考えています。古事記には、カル軽=香春の宮に居たと述べています。)

第12代景行天皇=日子坐王=長髄彦は、日高彦穂穂出見命に仕えた田主丸竹野郡=秋永氏本拠地、出身の天之児屋根命(ヰチヂ市千魂命=春日殿の子)のことで、

日高彦穂穂出見命の皇后であった豊玉姫(龍神姫=秋永氏)を妃にして、宗像物部氏を纏めて、覇権を、崇神=スサノオ(日高彦穂穂出見命と玉依姫の子)=神武=高良王権=ウガヤ王(日高彦穂穂出見命と豊玉姫の子)と、後継者争いをすることに為ります)

第14代仲哀と神功皇后・第15代応神天皇、そして福永晋三さまの第16代仁徳天皇と内倉武久さま説の第28代安閑天皇が香春町周辺で考えられ、第34代舒明天皇(飛鳥岡本宮=赤村=福永晋三さま説を支持します。)・第35代皇極天皇・第36代孝徳天皇・第37代斎明天皇・第38代天智天皇・第39代天務天皇まで、此処香春町~勝山黒田~豊津町が倭の中心地であったのは、間違いないものと考えられます。

ですから、蘇我氏(南大分が本貫地)四代は総べて九州(倭)での出来事であります。

 

 

 

 

 

 

 

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日本武尊の東國征討に疑義あり。正しい『伊勢』は綺宮=基宮=基山宮だった。

2018-02-14 | 古代史

わたくしの説では、ホツマ伝の解釈から景行天皇時代=崇神天皇時代=スサノオ時代=アマテル時代は、『伊勢=妹背』の場所は、佐賀県基山町の『伊勢』と謂う事になっており、近くの鳥栖市柚比『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』に架けての『梅が坂古墳群』は、景行が六年程逗留した、『日向高屋宮』の場所である。と考えを進めますと、

日本武尊が、伊勢の倭姫命(景行天皇の妹)を訪ねて、父、景行天皇から命じられた東国・蝦夷・陸奥への討伐への思いを述べ、スサノオがアマテルに献上した『天之叢雲剣』=『草薙之剣』と『火打石』を倭姫命から授かって、出発しますが、此の『伊勢=妹背』は三重県の伊勢ではなく、基山の『伊勢=妹背』であろう。とも考えられます。

 

何故ならば、『日高見國』とは、日田市日高町『ダンワラ古墳群』周辺の山々で、『ホツマ國』の『浅間宮』とは、ゆふいんの『浅間宮』を指し、当時、山深く、道も無いような獣が出る不便な場所を『エミシ蝦夷』の居る『ミチノク陸奥』と、蔑視して呼んでいたものと、ホツマ秀真伝から読み解けます。

 

『日高見國』『秀真國』は、『ヤマト邪馬台国』の事であります。

『豊受大神』とその息子の『耶蘇杵』、『耶蘇杵=大幡主=瓊瓊杵尊と想われます。』の嫁の、久留米から嫁いだ『白山姫』、『耶蘇杵』の弟で『根国』に渡った『カンサヒ神狭日』、『神狭日』の妹の『イザナミ』、その『イザナミ』の弟の『ツワモノヌシ兵主命』(磯城県主=久留米)=『日高彦穂穂出見命』=『孝元天皇』(高良神社下宮社で祀られています)=最後は軽(香春町)に居た後で、滋賀県シノ宮で亡くなった。と考えられます。『耶蘇杵』の子の『高木神』と弟の『少彦名命』、『イザナミ』が生んだ『アマテル』・『月読命』・『イザナミ』の子に養子された。と考えられます、(『日高彦穂穂出見命』と『玉依姫=八咫烏(賀茂建角身命)の娘です。』の子であります)『スサノオ』=後に崇神(神武=彦火火出見尊=孝元=崇神の実の父親を名乗ります。)と為ります。

八咫烏(賀茂建角身命)は、阿蘇氏(賀茂健雷男之命=豊玉彦)の息子に為り、姉が阿蘇津姫命=豊玉姫(日高彦彦穂穂出見尊の嫁で、ウガヤフキアエズ=住吉神=開化天皇を儲けます。)=水波能女命=龍神姫命=秋永(息長)氏の元=猿女(二度目の結婚を、景行天皇=猿田彦=天之児屋根命として、久須姫命=五百野皇女イオノノヒメミコ=伊勢宮のアマテル斎司をした人。を儲けます。)と、呼ばれます。

その他、『大宮姫ミチコ』=活津彦根命(滋賀県に渡った人)の母・『七夕姫コタエ』(小郡の七夕神社・鳥栖市姫方の姫古曽神社)と謂った錚々たる人物を輩出している。と考えられます。

継体期に起こった『磐井の乱』は、古事記には、『石井の乱』と述べられており、此れは、日田市石井地区(ガランドヤ・穴観音古墳があります)の『豊受大神』に繋がる日田~うきは・朝倉一族へのクーデターの乱と考える事が出来ます。

 

ネットにて、景行天皇の九州熊襲征討を研究した『松倉文比古』龍谷大学教授の論文『景行紀の構成』を拝読しました。

本質を捉えた、細心の感性と猜疑心、周到な学問的な配慮、確りした論考と考証が行なわれており、第一級の研究者であることが判ります。皆様にも是非読んで頂きたいと思います。

わたくしが、気に留めたのは、景行12年8月から景行19年9月までの九州熊襲征討をしました後、翌20年2月に、景行の妃(景行の皇后は八坂入姫命)で有ります、『ミズハノイラツメ水歯郎媛』(私見では、このお方が豊玉姫)が生んだ『イオノノヒメミコ五百野皇女』を『伊勢』に遣わして天照大神を祀らしめた。と、日本書紀が述べており、その後、景行40年10月に景行の子であります『日本武尊』が、東征の為、垂仁天皇の第4皇女で、景行の妹に為ります『倭姫命』の居た『伊勢』に出向き、スサノオがアマテルに献上した、『天之叢雲剣』(草薙剣)と『火うち石の這入った袋』を授かります。

この『倭姫命』が奈良県の笠縫邑から、十数年掛けてあちこちを鋒鋩した末に三重県の『伊勢』に落ち着いたのが、垂仁25年3月と記述され、景行20年2月の『イオノノヒメミコ五百野皇女』の『伊勢』での天照祭祀派遣は、既に『倭姫命』が祭司として居るので、疑義が生じる事になり、筆者(松倉氏)は景行の熊襲征討や日本武尊の川上梟帥の再熊襲討伐、東國の蝦夷・陸奥国征討を解説しておられます。松倉氏の考察は鋭く、日高見國の蝦夷が『叛く』と記述された条項の解釈は、『王権』の領域内の「王化」に従わない人々と謂う理解の上に立っている。とされ、「王化」が貫かれている事に着眼されておられます。また、日高見國は伊勢を間にして日向と向き合う場所に在った。と考えられる。と述べられています。

正に、わたくしの説、日向高屋宮(鳥栖~基山)-伊勢(基山)―日高見國(日田)を言い当てておられます。

氏は亦、景行天皇は、九州熊襲討伐を九州熊襲・親征討と表現され、考察の深さが目に付きます。

景行天皇は、日本武尊の足跡と、東國巡狩の旅(景行53年8月~9月)の後、伊勢にて暫く滞在するのでありますが、

(景行53年12月)日本書紀の記述は、「東國より還りて、伊勢に居します。是を綺宮と謂ふ。」とされています。

キノミヤ綺宮とは、キノミヤ基宮→基山宮→伊勢宮

つまり、景行天皇が東國より帰還したのは、基山の『伊勢宮』であった。と解釈されます。

と、為れば、日本武尊の立ち寄った伊勢は、三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の伊勢とも考えられ、東國の定義が変わって来る事に為り、日本武尊の足跡の再考証が必要となります。

美濃(日田市に在ります。)や三重(大分大野郡が元です。)や尾張(大分鶴崎が本貫地)甲斐(大分から山梨に移動した人々の事で、武田=竹田氏も元は大分です。)『相模』は原文には『佐賀牟』と書されています。『五百野皇女』の別名は『久須姫』とも謂うので、『玖珠の姫』とも想われます。玖珠は『名草』の地名があり、神武天皇(崇神のこと)が誅したと考えられます『名草遺跡』があります。

また、日本武尊の崩御した、伊勢の近くの能褒野の場所の解釈の問題もあります。近江=淡水海の伊吹山とは、近畿ではなく九州?

遺骸から魂が白鳥と成って飛び立ち、降り立った河内の場所(大阪の河内ではなく、香春町の河内と考えられます。景行天皇は豊前京都郡勝山黒田~香春町に居たものと考えています)や、飯塚・田川に在ります数社の『白鳥神社』の由来とは?。久留米のサキ佐岐神社との関係が、有りや無しや、辞世の歌、倭は國のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭うるわし の解釈等、

色々な古代への謎が思い浮かびます。

みなさまの考えをお聞かせ下さい。

 

                                          大分県ゆふいん温泉在住   秋永 祥治

 

 

 

 

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崇神はスサノオで有った。と考えられます。

2018-02-02 | 古代史

前回のブログにて、「豊玉姫は、『日高彦火火出見尊(兵主命)』と一緒に韓國へ渡って、帰国たもの。と考えても良さそうです。」と述べましたが、実は、その後よくよく考えを深めますと、わたくしに於いての、城島(シキ)久留米に於ける登場人物は、崇神、孝元、兵主命、豊玉彦、天日鉾、スサノオ、日高彦火火出見尊が同時代に生きて居る事になります。(わたくしの考察では、ホツマ伝の叙述より、スサノオは、景行天皇時代の登場人物者であります。)

前回のブログにて、孝元、兵主命、豊玉彦、天日鉾、スサノオ、日高彦火火出見尊は全て同一人物で有ろうと、ホツマ伝と百嶋氏説で解釈しましたが、考察を深めますと、天日鉾=スサノオと、豊玉彦と、孝元=兵主命=日高彦火火出見尊を一緒にするのには、豊玉姫=アカル姫との関係の論理に無理があります。改めて考え直してみることにしました。

 

わたくしの説には、ウガヤ(開花)が可愛がった崇神は、久留米と杵築で、出現しており、スサノオ(杵築で出現)の面影が重なり、歴史の謎が深まります。

 

私の新見解では、

本来の崇神(神武)の母は、(豊玉姫の弟である『賀茂建角身命』の子の、)『玉依姫』であります。父は『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』と考えられます。(此れまでは、大山咋としていました)

 

記・紀では『玉依姫』を『豊玉姫』の『妹』としています。『賀茂建角身命』は、八咫烏として神武(崇神)を、吉野(玖珠・山国町)を通って、ヤマト飛鳥宮へ案内する場面に、登場しています。

しかし、ホツマ伝では、『豊玉姫』の弟、『賀茂建角身命』の娘の『玉依姫』が、『白羽の矢』との間で、ミケイリ神武=崇神を生んだ。と述べられ、『白羽の矢』の解釈が伏せられています

わたくしは、大山咋と玉依姫の恋愛伝承から、『白羽の矢』は『大山咋』の事と解釈しましたが、これは間違いで、『白羽の矢』の正体は『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』であった。と考えられます。

『白羽の矢』の意味は、『白羽の矢』を持つお方は『天下人』を意味していると考えられ、此れは『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』を措いて、他は為りません

もし、此の考えが正しければ、『ウガヤ=開花=住吉』と『崇神=神武』は、母違いの年の離れた兄弟であった。と考えられます。

『ウガヤ=開花=住吉』は豊玉姫が産み、『崇神(神武)=スサノオ』は玉依姫が生んだものと考えられます。

 

(ホツマ伝とわたくしの解釈での新見解)

孝元=兵主命=日高彦火火出見尊は、豊玉姫=アカル姫と玉依姫を一緒連れて、物部の雄、『ハテツミ(果て統み)』=『豊玉彦』=『健御雷神』=『八大竜王』=『大綿津見神』と、『豊玉彦』の息子の『賀茂建角身命』=『ハエミカタマ速瓶玉命』=『大山咋』=『松尾神』=『琴平神』=『賀茂別雷命』=『綿津見神』を軍神将軍として、倭の榎津(大川市)から、壱岐・対馬経由で韓半島に渡って、その後の孝元=兵主命=日高彦火火出見尊は、如何なったかが不明ですが(新羅にて亡くなったか、病気になったものとも考えられますが、多分元気に帰還したものと考えられます)、少なくとも『豊玉姫=アカル姫=息長大姫大目命』と、『玉依姫』・『賀茂建角身命』・『豊玉彦』は、倭の姫島・国東半島八幡奈多・宇佐大元宮(ウモトノミヤ)=アカル宮(ホツマ伝の記述に因る)に帰還をしたものと考えられます。

其の時、新羅王にするべく韓半島に、『日高彦火火出見尊』『玉依姫』の間の子を、置き去りにしてきたのが、スサノオ(天日鉾)と考えられます。スサノオ(天日鉾)は豊玉姫=アカル姫と、母の『玉依姫』を追って国東半島へ遣ってきます。

 

其処で、豊受大神やその息子の耶蘇杵(スサノオの伯父に為ります。)から、「アマテル(イザナミの子)は、ホツマ(ゆふいん塚原)の高天原を治めよ、スサノオは海を治めよ」と、命じられます。(イザナミ=兵主命の姉 の養子になり、アマテルの弟にされます。)

スサノオは、杵築『アサヒ宮』で見初めた『早吸姫』への求婚が叶わず、年の離れた兄、『ウガヤ』の実力を眼にして、年下の『アマテル』に従わない行動を(アマテルの北局大内宮の妻二人に手を掛けて妊娠させ、杵築の八坂川を挟んでの誓約)します。

結果、豊受大神(生きて居たか不明)・耶蘇杵(兵主命の長兄)・高木神(耶蘇杵の長男で、弟が少彦名命、妹に大宮姫ミチコ=アマテル東局典侍と、七夕姫コタエ=アマテル東局内侍が居ます)・アマテル等に、爪剥ぎの刑と倭から韓半島(→根国)へ追放されます。

根國に落ち着いたスサノオは、根国のオロチ(=愚霊・蛇)に為っていた、天忍日命(兵主命の兄であるカンサヒ神狭日の子)・シラヒト白人(根國の守の臣)・モチコ(元はアマテル国東半島杵築大内の北局の典侍で、天之穂日命を生むがスサノオとの不倫がバレて、解任され根国に返された人)・ハヤコ(モチコの妹で、同じくアマテル北局の内侍で、スサノオとの不倫で、解任された人)人々を粛清します。そして、アマテルに『天之叢雲剣』を送り、許しを受けたもの考えられますが、スサノオのその後は、ホツマ伝は何も述べていません。

 

問題は、同時代の崇神であります。

崇神は、『ツヌガノアラシト都怒我阿羅斯等』とも呼ばれ、福井県の敦賀~若狭へ、韓半島アラカヤ阿羅伽耶から、アカル姫を追って国東半島・姫島へ出現した人物の当人であろう。とされています。

わたくしには、{久留米城島(シキ)に認められる。と考えられます}崇神は、(記・紀に於いては、)孝元=兵主命=日高彦火火出見尊と豊玉姫が生んだ、ウガヤ=住吉神=開花天皇が、伊香色謎命(玉依姫)との間にて儲けた事にされて、隠されています。

 

(記・紀に措いては)『豊玉姫』の妹とされる『玉依姫』は、

ホツマ伝では、『豊玉姫』の弟の『賀茂建角身命』の子が『玉依姫』と述べられています。

『豊玉姫』と、弟である『賀茂建角身命』の父は、『カゴ宮』の主『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦』と述べられています。

つまり『豊玉姫』と『賀茂建角身命』は、姉と弟で、『豊玉彦』と『豊玉姫』の関係は、親と子でした。

そして、論理を進めると『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=八大竜王』とは、『建御雷神』を意味している。事に為ります。

『建御雷神』の子が、『比咩大神豊玉姫=本来の市祁島姫』です。{ホツマ伝で、ウモト大元宮=アカル宮(=宇佐神宮の元宮の事)と述べられ、景行天皇が、サルオウミ猿大海=猿淡水海に、宇佐神宮で祀られています、『比咩大神』を祀る事を命じ、サルオウミ猿大海が居たと考えられます久留米市北野町大城、宮司に在ります『豊比咩神社』(傍の畑にて銅矛が出土)にては『豊玉姫』を祭神としており、『比咩大神』とは『豊玉姫』を指します。}

中臣(藤原)氏の祖とされます、賀茂別雷命(=『賀茂建角身命』)とは、(建御雷神の孫の)『玉依姫』(母はイカコヤ伊可古夜姫)が生んだ崇神=神武=スサノオを意味します。

ホツマ伝では、『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=八大竜王』は、本拠地はカゴの宮(籠の宮=鹿児島宮)です。籠の宮=鹿児島宮は、『ゆふいん大杵社=椎根津彦=宇豆彦』を経て、京都府宮津湾に在ります『籠』神社の『椎根津彦=宇豆彦』に繋がっています。

『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』は、人生の途中には、『阿蘇の宮』に一時棲んで居た。と述べられており、『豊玉姫』と『賀茂建角身命』も、阿蘇に住んだことがあると考えられます。阿蘇山の『根子岳』は『稚倭根子日子大毘毘命=開化天皇=住吉神=ウガヤフキアエズ=豊玉姫と日高彦穂穂出見尊との間の子』を意味しています。

『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=建御雷神=八大竜王=大綿津見』と『健磐龍命』は同時期の人で、(ホツマ伝に依ると)『健磐龍命』は、娘の『阿蘇津姫』を『孝元=兵主命=日高彦火火出見尊』のユナ斎餞として『内侍』に侍らせて居ます。

如何も、『ハテツミ(果て統み)=豊玉彦=建御雷神=八大竜王=大綿津見』と阿蘇神社の『タケイワタツ健磐龍命』が重なり、『豊玉姫』と『阿蘇津姫』が重なります。

と謂うことは、『ハエミカタマ速瓶玉命』は『健磐龍命』の子である。

と、『國造神社』の由緒にありますので、『カモタケツヌミ賀茂建角身命』が、阿蘇國造神社の『ハエミカタマ速瓶玉命』の事。と考える事が出来ます。

鴨=賀茂とは、中国、海南島の地名の事で、「河が会う」と謂う意味があります。ホツマで、『賀茂建角身命』は、『ニニギネ』から『河会の国』を賜った。と述べられ、『河会の神』と呼ばれた。とされ、此の解釈は、田主丸町タカノ竹野の『河会邑』を賜った事に考えられ、(河会小学校があります)後に、京都の『河合』(賀茂川と高野川)へ移動しています。{久留米市宮の陣を流れています筑後川地区に高野の地名があり、当時、此の地区(久留米市宮の陣タカノ高野~田主丸タカノ竹野)を流れます、筑後川を高野川と呼んでいたものとも考えられます。}亦、筑後の御井・三井の名前も京都下鴨神社の三井社に移動しています。

 

『玉依姫』と、『孝元』(白羽の矢)との間で儲けた子、ミケイリ三毛入野命(崇神=スサノオ)は、ウガヤ=住吉神=開花に育てられて、カンタケ神日本磐余彦尊(神武)=を名乗ります。

{ホツマ伝では、ウガヤ=開花の臨終に際して、父の『孝元』=『兵主命』=『日高彦穂穂出見命』から受け継いだ『白羽のヲシテ璽』を『崇神』=『スサノオ』は受け取り、神武(カムヤマトイワレビコ)を名乗ります。}

大幡主命=塩土老翁神=耶蘇杵命から、筑豊の『物部氏』を背景に、田川(多賀)アスカ宮で『豊玉姫=天宇受賣命=息長大姫大目命(崇神の伯祖母に為ります。)』を娶っている長髄彦=天之児屋根命=猿田彦=景行が居る事を聞き、倭から追放して、王権の統一と領土拡大をしょうとした行動が、記・紀の述べる、『神武東征』の実態と考えられます。

 

この様に、崇神(神武)はスサノオであった。との解釈が得られます。

 

 

 

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本当の笠縫邑の場所と、日高彦穂穂出見尊の正体。

2018-01-17 | 古代史

わたくしの出身地久留米市から、鳥栖市~基山・小郡~甘木・朝倉~浮羽・吉井~田主丸を囲む内には、東方の九重・久住・玖珠・日田方面から、西の久留米市に流れ、南に曲がり有明海に注ぐ筑後川があります。

此の筑後川の周辺には勿体島・扇島・浮羽島・唐島・西島・新島・四三島・金島・中島・干潟・船越(水路と水路のあいだの陸地を、船を丸太棒に載せて大人数の人力で引っ張り、移動させた場所)・浮地の名称が残っており、以前は有明海の汐が筑後平野の奥まで遣って来ており、海水と真水が混じる淡水海(おうみ)→近江と呼ばれていた場所も有ったものと考えられます。

滋賀県の近江は、九州の阿蘇氏の志賀氏等が移動をして、近江(淡水海)と呼ばれるように成ったものと考えています。

(琵琶湖沿岸の地名には、『彦根市柳川町』・『彦根市薩摩町』・『大津市』・『甲良町』と謂った九州の地名が数多くあり、近江の地名も筑後の淡水海(おうみ)が滋賀の近江に成ったものと考えられます。)

ホツマ伝の叙述では、イザナギ伊弉諾命(斎名タカヒト、幼名:カミロキ(神漏岐) 最期は兵庫県淡路市一ノ宮多賀で神上る)や、その姉のココリ姫=白山姫、久留米市白山町から、日田市日高町ダンワラ古墳群が在ります地区に居たと考えられます耶蘇杵ヤソキネの元に嫁に行き、大宮姫ミチコを生み、大宮姫ミチコはアマテルの東の院(大分市東院)の局の『典侍』に為っています。

※最近『大宮』の地名が日高町の傍にある事を発見し、大宮姫は此処で生れたものと考える事が出来、『此の耶蘇杵や豊受大神の居た場所の考察は間違いのないもので、ホツマ伝の叙述も正しい』と考えられます。

※ココリ姫=菊理姫=白山姫が、久留米市白山町から日田~うきは市の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主に嫁いだと考えられます根拠を申し上げます。

久留米市白山町の隣は大石町で、微高地に為っていて、近くに『水天宮=白山姫=天御中主命』総本宮が在ります。この大石町には、『伊勢天照御祖神社』=通称『大石神社』が、『天照國照彦天火明尊』の親代りの『豊受大神=高躬結び神』を祀っています。

この『大石神社』の御尊体は、巨大な川石であります。此の『大石』が『大石町』の由来と謂われており、傍に流れています筑後川は、下流域に当たり、砂が堆積をしています。研究者は、『如何して此の様な大石が在るのであろうか。何処からか運んできたものであれば、何処からの由来であろうか。』と、猜疑されています。

わたくしは、御尊体の『大石』は、高躬神・耶蘇杵の本貫地である、筑後川中流域うきは市の『筑後大石』から大山祇命一族=橘氏一族=月氏=物部氏の源が、耶蘇杵と白山姫=菊理姫の婚姻を祝って運んだものと、考えています。此の、うきは市『筑後大石』は、『高見』と地区名が為されています。

白山姫(クグリ姫)は、後には、根国=越中・越後で神上っています。父親のアワナギ沫蕩尊は、「根の国からサホコチタル国まで法をもって治めた」と述べられ、此の解釈は「島根県から新潟県周辺までを法をもって治めた」と考えられます。

ですから、豊受大神の時代には、日本列島の各地には、数多くの人々が移動を始めており、王の権威の頒布が、国家形成上、必要と考えられたものと想われます。

 

島根県から福井県~新潟県迄には、佐賀・筑後物部氏の移住者が、数多く渡っているものと考えています。金折=住吉神(ホツマ伝にて『金折が住吉神である。』と述べられています。)=ウガヤフキアエズ(※『高良玉垂宮神秘書』に、『鵜葺草葺不合尊ハ住吉大明神也』と記入されています。)=開花天皇(若倭根子日子大毘毘)の子である速秋津姫アキコとアマテルの間の子、『天津彦根命』(天御影神の父)も若狭・近江へ渡ります。(当時の船での九州から本州への航法は、日本海沿岸航路が主であったと考えられます。)

景行天皇のヤマトタケ日本武尊の足跡を辿る追悼の旅では、博多湾から出雲~気比の地名が在ります久美浜湾、若しくは丹後半島を廻り込んだ籠神社・天橋立が在ります宮津湾・若狭湾から上陸して、綾部~琵琶湖大津~伊吹山~鈴鹿・能褒野(ヤマトタケ日本武尊の霊魂を弔う)~愛知(熱田宮)~静岡(佐賀県の富士町の『富士』が静岡に渡っています。亦、徐福伝説も一緒に関東に渡ります。)~関東(千葉・茨城・群馬)~三重県伊勢(倭姫に会いに行く)~奈良~大阪~兵庫・淡路(一之宮)~尾道~苅田(黒田)~別府湾~阿蘇・高森(穴穂部宮)と考えています。

 

倭人は、倭ヤマト政権(トヨケ~イザナミ・イザナギ~アマテル・スサノオ)の当初よりも以前から、日本各地への分散進出が進み、『倭人の統一支配が課題であった。』と認識されます。

金折=住吉神は、そう謂う意味では北海道を含めた全国に足跡を残しており、(民謡や神社で理解できます。)次の世代の景行・崇神に大きな影響を与えたものと想われます。

崇神=ミケイリ・カンタケは、日高彦穂穂出見尊=伊香色謎命の間で生まれ、久留米市城島シキの住吉神=金折=開花に育てられ、住吉神=金折=開花から『白羽の壐オシデ』・母から『十字剣』を拝受し、後には※1、イスラエルのモリヤ山の神を守る『神武』(カムヤマトイワレヒコ=大昔からヤマト倭に伝承のモリヤ守屋山の神を守るオトド臣)を名乗り、※2、アマテル・ホアカリ由来の田川(多賀)のアスカの宮を奪いに往征します。

これが、記・紀で謂う処の『神武東征』であります。福永晋三氏の説も、概要は略一緒であります。

 

※    3、崇神(神武)は最初の海路で失敗し、陸路で二回程遠征をしますが、此処を守っていたのが、長髄彦命で、長髄彦命とは、固有名詞ではなくて、単に『脚の脛が長かった』ので、呼ばれた『仇名』であろう。と考えられ、此処『アスカの宮』を守って居たのはアマテルの右の羽である景行天皇=猿田彦=彦坐王=天之児屋根命(春日尊)と考えられます。

 

※    1、高良玉垂宮神秘書P143~P144の叙述の解釈に拠ります。

※    2、ホツマ伝《39文》より解釈しました。

※    3、福永晋三氏《神武は、筑豊に海路で一回、陸路で二度遠征した。》・《香春~赤村がアスカの宮であった。》、地区・神社伝承分析研究説を支持します。

 

景行=猿田彦=彦坐王=天児屋根命(春日尊)は、崇神(神武)の猛攻で、一旦近畿に引き、近畿で西暦251年に即位します。そして、258年8月末に近畿物部氏(拓跋氏)の大軍?を率いて行橋に遣って来ます。勝山黒田に行宮をつくり、ゆふいん(高天原)の速津姫(スサノオが求婚したお方)に崇神(神武の名を騙った人)の動静と居所、支持者の数等を、確認後、杵築に居た崇神(神武)を攻め、殺します。(宇佐公康氏の記述による解釈に寄ります)崇神(神武)は杵築の『小熊山古墳』に埋葬されますが、後に近畿奈良纏向の『行燈山古墳』に移されます。

続いて景行(猿田彦)は、豊後直入~阿蘇に入り、崇神(神武)に味方した、志賀氏・矢田氏(八田)・中臣氏(藤原)を討ちます。

(高森に在ります草部吉見神社の神紋の『鷹羽5枚』の内にあります『3本揃い鷹羽』は志賀・矢田・中臣を表しているものと考えています。)

景行は一旦、筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)に行宮を創り、六年程過ごし、熊本菊池郡に居たと考えられます熊襲梟師クマソタケルを、二人の娘(市乾鹿文イチフカヤ・市鹿文イチカヤ)を騙して、酒を飲ませて殺害し、滅ぼします。熊襲梟師クマソタケルとは、紀元前473年以後に倭に遣って来た『呉』の王族と、犬祖伝説を持って倭に遣って来た人達の混血と考えられます。この末裔が菊池氏や松野・松隈・松井と謂う、松の付く姓を持つ人。と考えています。

 

筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)はアマテル(=瓊瓊杵尊と思います。)が一時居たイサワ(現在は三沢と呼ばれています)の基山町『伊勢宮』の傍で、景行の後には、日本武尊(小碓命)の子であります、仲哀天皇が陣を設けて羽白熊鷲と対峙した『御勢大霊石神社』があります。仲哀天皇が陣を設けた理由は、『伊勢』(アマテル=瓊瓊杵尊の居た聖地であり、景行が6年程駐屯した由緒ある、友軍の地)をバックに甘木・朝倉の羽白熊鷲(大国主命=事代主神=崇神派=天津麻占=大山祇派=雷神派)との戦いを有利に進める目的があった。と想われます。

 

『アマテル』(天照大神)は『伊勢』に居た事が『ホツマ』には述べられており、此の『伊勢』の本来の場所は、現在の三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の『伊勢』の事と考えられ、『アマテル』は『ゆふいん・日田ダンワラ』と『基山』の間を往来していた。と考える事ができます。基山町白坂には、猿田彦(景行)の立派な石碑があります。

羽白熊鷲とは、大己貴命(初代大物主)~大國主命(事代主神)~崇神(彦穂穂出見尊と玉依姫の子~天津麻占=大山祇)=雷神を支持する族一派の事であると想っています。

崇神は、久留米城島シキ、玉垂宮(磯城瑞籬宮)に居て、崇神八年十月に筑後國御原郡の高橋邑(現在の太刀洗町高橋)の『活日イクヒ』に酒を造らせて、意富多々泥古(オオタタネコ)=ホツマ伝の編者です。に、倭大國魂神(豊受大御神と想われます)・大物主神(大己貴命=物部氏の初代首領)を甘木・朝倉の御諸山(三輪山=大神山オオミワ山)にて、祀っています。

神武(崇神)は長髄彦(景行)を追い出した後は、柏原で即位したと記紀では述べられていますが、(百嶋説では、本当の字のカシハラは『橿原』や『樫原』では無く、『柏原』と書くそうです。)

(わたくしは、以前にはゆふいんの『カシハラ樫原』で即位したものと述べていましたが、最近『柏原』が佐賀県神崎市『日の隈』公園の傍に在るのを発見、『柏原公民館』の前には寄せ集められた由緒の有りそうな古い石群があり、崇神(神武)は、此処、和邇氏の郷(景行派=猿田彦派)『日の隈』(日は天照大神を表す)を制圧し、復活再蜂起を恐れて、駐留したものとも考える事が出来ます。

多分、佐賀県和泉の『柏原』にて、記紀に謂う、神武(崇神)が即位を宣言した場所で有ろう。と思います。

 

久留米市磯城(城島)の瑞垣宮に居た崇神は、天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。と日本書紀(崇神六年条項)にあり、この笠縫邑(カサヌイムラ)の場所は、麻底良山(ア)マテラ(ル)ヤマ(295m)が在ります朝倉市志波地区を指しているもの。と考えています。

書道家の井上悦文氏の解明された、草書体での解読では、『アマテラス=2代目天照大神向津姫』と読める説を支持しています。

笠縫カサヌイ』とは、地名ではなく人名仇名の名称で、『日本書紀』神代下第9段では、『手置帆負神タオキホウイノカミ』が『作笠者カサヌイモノ』と述べられており、

先代旧事本紀』の「天神本紀」では「笠縫氏の祖は天津麻占(アマツマウラ)」である。と記しています。

と、謂うことは、『手置帆負神タオキホウイノカミ』の正体は『天津麻占(アマツマウラ)』の事。と解釈することが可能です。

『先代旧事本紀』は、その後に、「曾々笠縫等ノ祖天都赤麻良」と記入され、テが欠落?の『赤麻良アマラ』とは、『麻底良山(ア)マテラ(ル)山』が在ります朝倉市志波地区を意味しており、此処が天照大神を祀った笠縫邑(カサヌイムラ)の場所と考えられます。また、『天都』とはアメのミヤコとも解釈され、『先代旧事本紀』が編纂された時代以前には朝倉に王権の所有者が居たことを証明するもの。と解釈されます。『麻底良マテラ山』の麓は『政所マンドコロ』と謂い、普門院と謂う、鎌倉期(筑後川の中島に在って、洪水に遭うので移築された)の寺があります。

 

ホツマ伝では、天津麻占(アマツマウラ)は、サクラウチの孫で、父は『大山橘統オオヤマカグツミ』です。大山橘統の妹が、アマテルの内宮の『ホノコ』(向津姫・天照大神)になります記・紀では、ホツマ伝での天津麻占(アマツマウラ)を大山祇(オオヤマツミ)と述べています。

 

ホツマ伝での『天津麻占(アマツマウラ)』は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)のと述べられています。天津麻占(アマツマウラ)の兄が『橘山統、カグヤマツミ』で、タキコ{スサノオと不倫したハヤ子(アマテルの内侍)の生んだ三つ子の第2子タキコで『江の島姫』とも呼ばれます}を娶り、天香語山(手栗彦)と妹の天道日女命を豊後(ゆふいん~宇佐・日出・杵築=紀伊の熊野と、当時は呼んでいた。)で生んでいます。

 

ホツマの伝承を信じますと、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)は、朝倉市志波地区周辺に棲んでいた(生れた)と、考えられます。後には、糸島の『大卒』(ヒタカミ国・ホツマ国の出張所と考えられます。)に移動している。と考えられます。

 

糸島の『(一)大卒』の爾支(ニキ・ニシ)とは、基山の『伊勢・妹背』から移動したニニギネ(=アマテル)を指し示しているものと考えられます。

記・紀では、ゆふいん(高天原)から糸島へ、猿田彦の途中までの案内で天降った。と述べられています。(わたくしの解釈による)

 

ホツマ伝では、スサノオと櫛稲田姫の子として順に、大屋毘古オオヤビコ・大屋姫・枛津ツマツ姫・事耶蘇コトヤソ・大己貴オオナムチ・大歳倉稲魂命オオトシクラムスビ・葛城一言主カツラギノヒトコトヌシ・須勢理スセリ姫の8子を儲けた。とされ、スサノオと櫛稲田姫は相当の長期に渡って一緒に生活をしたものとも考えられます。

しかし、古事記では八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)は櫛名田比売(櫛稲田姫)の子とされ、八島士奴美と兄弟とされる大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子と述べられています。(古事記では、櫛名田比売と神大市比売は別人と認識されます。)

先代旧事本紀でも、大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子とのべられて、神大市比売は大山祇の子とも述べています。

先代旧事本紀が述べる、大山祇とは、ホツマ伝では天津麻占(アマツマウラ)の事で有ります。天津麻占(アマツマウラ)の娘は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)がいます。如何も、神大市比売は磐長姫と同一人物に思えます。

磐長姫が笠縫氏の朝倉地区で育ち、大年神・宇迦之御魂神(稲荷神)を儲けたと解釈できます。

 

第50代桓武天皇(父は、天智天皇の孫の光仁天皇・母は、百済第25代武寧王が田主丸唐島で儲けた子の末裔、高野(竹野タカノ)で生れた『新笠』です。)の生母の『新笠』とは、朝倉の笠縫氏の邑(大山祇氏一族→代表に日野氏が居ます。→室町の足利義政の妻、日野富子が有名です。)と関係を考えられます。

 

大己貴が、別名『佐田大神』の事で、大歳倉稲魂命が『佐田彦大神=猿田彦=宇迦之御魂神』の事と考えられます。

 

宇迦ウカ→ウガ』とは『御食ミケ』の事でありますが、陸地を開墾し食料増産に大きな功績を残した『大神オオガ→ウガ』氏とも解釈され、本来の『宇迦之御魂神は豊受大神』と考えられます。豊受大神の後を継いだのが猿田彦(景行天皇)で、百嶋研究においては、豊前の『四公神社』では、猿田彦を祀っており、{猿田彦は『赤米』研究、増産を行なっていたもの。}と百嶋氏は述べられています。

 

『大神氏』とは『豊受大神の一族の総称』を謂うもの。と、捉えるべきであります。

 

『大神氏』とは『阿蘇氏』の事で、『阿蘇氏』の中で一番有名なのが、日本各地に足跡を残しております、日高彦火火出見尊と豊玉姫が生んだ。と記紀で述べられています処の、ウガヤフキアワセズ=住吉神=開花(若倭根子日子大毘毘の母は内色許売命、父は大倭根子日子国玖琉)=金折(金崎)でしょう。

 

塩土翁神とは、高躬の長男の耶蘇杵(白山姫の夫で、大幡主命と想われます。)の事と想われます。

天草で製塩を行い(古川清久氏の研究)全国※に頒布したものと考えています。塩は魚介類・野菜の保存に欠かせないものでした。亦、住居の土間の粘土にも、海藻・塩の混合が欠かせず、民謡と一緒に能登~東北~北海道~三陸まで足を運んでいる。と、考えられます。(神社研究の百嶋由一郎氏や、民謡の蒐集家竹内勉の研究。)

※ホツマツタエでは、瓊瓊杵尊(右の羽は天児屋根命=景行)が、『八洲巡り』をした。と、述べられています。

阿蘇山には、『根子岳』や『西の宮』(正式の西の宮は早岐にあります。)の名が、祖母山(ウガヤを生んだ豊玉姫の事と謂われています)宮崎には、鵜戸神宮、金崎町があります。福岡博多には、住吉神社(筑前国一之宮)、熊本天草には塩田跡地があります。(古川清久氏の塩田研究発見によります。)能登半島珠洲の塩田(江戸時代以前より行なわれていた由)~宮城県には鹽竈神社(陸奥之國一之宮)

故、竹内勉さまの民謡の研究では、鹿児島おはら節が→熊本牛深ハイヤ節→日本海沿岸→佐渡おけさ節→北海道ソーラン節まで繋がっている由。

 

※    『市祁嶋姫』は、記・紀では宗像三女神の事とされていますが、(ホツマ伝では)宗像三女神(タケコ・タキコ・タナコ)は、スサノオと根国の守であるクラ杵の娘コマス姫ハヤコの不倫の子で、本来の『市祁嶋姫→斎き奉る姫』は『豊玉姫』を指します。『豊玉姫』は対馬にも伝承があり、『豊玉姫』が新羅国から対馬経由で帰還したもの。と考えることが出来ます。

 

『豊玉姫』は宇佐の『大元宮(ウモトの宮)』亦の名を『アカルの宮』に暫くいましたが、田川香春町(軽の宮)に移動して(息長=秋永の本貫地)、磯城(久留米市城島)から移動した孝元(兵主命ツワモノヌシ=日高彦火火出見尊)と暮らします。孝元は、新羅に渡ったものと考えられ、対馬の神社伝承にも彦火火出見尊が数多く祀られています。

新羅国で『スサノオ』に出会った『アカル姫=スサノオ(天日鉾)の妻』は、玉依姫の伯母の『豊玉姫=本当のアカル姫』に、間違われて伝承されています。

 

(百嶋由一郎さまは、日高彦火火出見尊を『豊玉彦』=猿田彦と呼んでおられますが、正解は、猿田彦とは、景行天皇(天児屋根命=長髄彦=彦坐王)の事です

 

田川『香春神社』の由緒にも、『息長大姫大目命=豊玉姫=天鈿女命』が、「崇神天皇の御代に辛國(韓國)の経営に当たられて帰国された旨」が述べられており、『日高彦火火出見尊(兵主命=孝元(大倭根子日子国玖琉命)』と一緒に韓國へ渡って、帰国たもの。と考えても良さそうです。

 

 

 

 《追補》2019年9月17日

カサヌイムラ笠縫邑とは、

紀元前210年頃『秦』の後で興った『漢』の王家の一族(阿智王)が、応神天皇期に韓半島を経て、豊前・豊後→筑紫・筑後へ渡来して、佐賀県神埼市~鳥栖市~小郡市~朝倉市~うきは市~糸島市~久留米市~大牟田市に散らばり、機織り・製紙・木工・造船・彫金細工・養蚕・農耕・土木等々の技術の進歩を齎します。この時、『漢字』や『佛教』も『倭』(九州)に這入って来ている。と、考えられます。『倭』では、『東漢』『坂上』『大蔵』『原田』『田尻』『平田』『谷』『山口』『桜井』等の名前を使用しています。

カサヌイシ笠縫氏の呼称は、『漢』を興した『劉邦』リュウホウに由来している。と、想われます。

『笠縫』氏は、『リュウホウ』氏と呼べます。

 

 

 

 

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ホツマ伝から、スサノオは景行天皇時代の人物であった。と考えられます。

2017-11-01 | 古代史

前回のブログで

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で『赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

 

と、述べていますが、スサノオの求婚が何故、叶わなかったのでしょうか?

疑問が残ります。此れをわたくしなりに、考えてみたいと思います。

 

赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』は、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事で、大分県佐賀関の『早吸日女神社』に出現しており、 現在の『早吸日女神社』祭神は、

 ・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)

 ・大直日神(おほなほひのかみ)

 ・底筒男神(そこつつのをのかみ)

 ・中筒男神(なかつつのをのかみ)

 ・表筒男神(うはつつのをのかみ)

 ・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

とされており、肝心な本来の『早吸日女(速津姫・速来津姫)』は隠されており、『八十枉津日神(やそまがつひのかみ)』が『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事かも知れません。

大分県には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり、此のお方は景行天皇時代に登場されています。(豊後風土記・速見郡記)

『ゆふいん』は、以前は速見郡に属しており、景行天皇が遣って来て、天之御中主命を祀るゆふいん金鱗湖畔の『天祖神社』の伝承では、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』が景行天皇から、「天之御中主命を祀るよう」の命を受けて、『天祖神社』の祭神となった。

と、されています。

亦、『肥前風土記・彼杵郡』の条項でも、『速来津姫(早吸日女)』が景行天皇熊襲遠征時に、出て来ており、『彼杵ソノギ郡』の名前の由来が述べられています。

ホツマ伝では、金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻が『西宮』の別名『広田宮』にて、斎奇船(イワクス船)に乗せられた『蛭児』を拾い、育てた。と述べられ、其の場所は、長崎県大村湾と繋がる佐世保湾の『早岐』と、考えられます。

この『早岐』は、佐世保湾と大村湾とを結ぶ、潮流の速い『早岐の瀬戸』で有名であります。早岐には『住吉神社』もあり、『蛭児』が後に『早岐神』と呼ばれたものとも考えられます。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は『蛭児』以外に、自分達の子であります『速秋津姫アキ子』(アマテルの西局の典侍)を儲けて、ゆふいんのホツマ國(叉はヒタカミ國=日田市日高ダンワラ地区)へ嫁にやって、アマテルとの間で天津彦根命(後に滋賀県近江彦根へ渡ります)を儲けた。と述べられています。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊とも考えられ、(根拠は、此れまでのブログ考察に拠り『崇神』と『神武』は同一人物。から導かれます。)

大分県内陸部の日田市には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり

八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外

・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命

・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外

・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)

・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命

・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)

・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

昭和49年 高原三郎著 『大分の神々』より

七瀬川 浩氏のブログ『ひとつあがりのカフェテラス』18、【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)より転写しました。詳しくは、七瀬川氏のブログをお読みください。

 

此れは、金折カナサキ(金崎)=伝統あるウガヤ朝末裔の海の将軍=住吉神=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊が、大分~宮崎~鹿児島(カゴノミヤ)~熊本~長崎(西宮=ヒロタノミヤ広田宮)~福岡(シキノミヤ久留米市城島宮・ウカワノミヤ鵜川宮=大刀洗町高橋地区に現在鵜木川が流れています。)~山陰・中国~四国・近畿(住吉神社)を、船で縦横に、頻繁に行き来していた、海人・物部族のリーダーの一人で有った。(他に宗像・糟屋氏が居たものと考えられます。)

と考えられ、『倭の内陸部』をサクラウチ=桜大人・桜大刀自(大山カグツミ橘統みの父)を配下に統治していた、トヨケ=豊受大御神と、其の息子耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命に匹敵する『海の大将軍』で有った事が理解できます。

トヨケ=豊受大御神と、金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇とは20歳程の差があったものと推察され、トヨケ=豊受大御神の娘であります伊弉册命・息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命と同年代の新進気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇は、自分の娘『速秋津姫アキ子』を、『倭の王』トヨケ=豊受大御神の孫『アマテル』の嫁としてホツマ国=ゆふいんに献上すべく、豊後杵築の『赤土氏』に預け、養育していたものと考えられます

そう謂う事情が有ったので、スサノオの求婚が叶わない事となり、アマテル(=瓊瓊杵尊)と自分(スサノオ)との立場と待遇の違いに不満が生じます。

また、スサノオは、トヨケ=豊受大御神と息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命(=瓊瓊杵尊)から『海を治めよ』と『海人族の王』命じられますが、気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇が、伝統あるウガヤ王朝の実力者として海人族を纏めており、

(『秦』・『南粤ナンエツ』からのルーツを持って、紀元前111年頃串間~西都原に遣って来た人々。と考えられます。)

『形だけの添えられた王』としてのストレスが溜まったものと考えられます。此れが、豊後杵築の八坂川を挟んでのアマテル(=瓊瓊杵尊)とスサノオの誓約ウケイを生じさせる結果となり、スサノオの乱行と追放に繋がったものと考えられます。

その後、アマテル(=瓊瓊杵尊)もアスカ宮(田川香春町~赤村)へ、ヒタカミ國の耶蘇杵やタカキネ高木神より移動を命じられます。

スサノオの追放後に、世情混乱{伝統あるウガヤ王朝派=伽耶系と、徐福=紀元前219年頃に来倭したと考えられます。(秦)に繋がる大幡主=和邇氏・新羅派と、周の太伯タイハクに繋がる熊本の、『呉』の末裔(紀元前473年頃以後に倭に遣って来た人々)、松野氏族=新羅派系(姫氏)の諍い}が生じ、

『倭』の将軍(初代大物主=物部氏の首領)を指名されたのは、鹿児島県曽於郡に居た太耳フトミミ=玉壁を携えて中国雲南省から遣って来た多(大)将軍=耳族 の娘を娶って、朝倉市林田※『余名持』で生まれたと考えられます、耶蘇=八十杵の子=瓊瓊杵尊『大己貴命』ですが、スサノオが、『倭』から追放された事による渡来人等々の混乱を収める事が出来ず

 

甘木朝倉からゆふいん~杵築~伊予~スサノオの居る島根出雲に逃げて、其処に居付こうとし、倭からの独立を目指しますが、

 

ヒタカミ國の耶蘇杵の子の、第7代ヒタカミムスビ神・斎名タカキネ・幼名フリマロ(記・紀で謂う高木神の事)と、ホツマ國=ゆふいんの、大祭祀神官アマテル(瓊瓊杵尊と考えられる。)出奔後の瀬織津姫(向津姫)が、新しい天照大御神として大神官位に即し、『大己貴命』に國譲りを迫ります。使者となったのは『事代主=大国主命=大己貴命の息子=蛭児=経津主命』と『武御雷男神』(阿蘇氏豊玉彦=秋永氏の初祖)です。

 

ホツマ伝(10文)では、この様を次のように述べています。

 

『タカギ勇みの ミカツチや フツヌシ副えて カシマタチ』(カシマタチ=曲がった、邪な、事や心を直す事)

 

『カシマタチ』(=曲がった、邪な、事や心を直す事)は成功し、

『大己貴命』は島根出雲を『倭』に返します。

武御雷男神タケミカツチは『カシマ尊』の名称を第7代ヒタカミ國(=大分県日田市日高)タカキネ高木神から拝命し、後に関東茨城県鹿島市に渡ります。

{ホツマ伝で、武御雷男神タケミカツチの一人娘『比咩神』と述べられています水波能女命=豊玉姫を娶ったのが、天之児屋根命=春日尊(神)=景行天皇です。天之児屋根命は、ヰチチ゛市千魂命とフツヌシ経津主命の妹アサカ朝霞姫との間の子とされています。

わたくしの考えでは、天之児屋根命=春日尊は、開花天皇(ウガヤ)の子の彦坐王(景行天皇=長髄彦)の事であります。ヰチチ゛市千魂命が棲んでいたのは、筑後太刀洗町高橋、春日地区と考えられます。此処に棲んでいたヰチチ゛市千魂命は『春日殿』と呼ばれています。

田主丸竹野(タケノ・タカノ)で、開花(ウガヤ)と竹野姫(豊姫)との間で生れた彦坐王(彦湯産隅命)を養子にして育てたものと考えられます。

 

竹野姫(豊姫)はゆふいんの宇奈岐日女命の甥(武諸隅)の子と、勘注系図から窺えますが、『宇奈岐日女命』は、スサノオから逃げて倭に帰ってきた『アカル姫』とも、アマテル(=瓊瓊杵尊)の内宮の『瀬織津姫(向津姫)』とも、トヨケ=豊受大御神の娘であります『伊弉册命』とも考えられ、『宇奈岐日女命』の実体が不明です。しかし、『宇奈岐日女命』が『卑弥呼』であろう。と考えています。

 

景行天皇は、後に幼少時に育った太刀洗町高橋地区に遣って来て、※水沼君『猿大海』に、豊後宇佐の『ウモト大元の宮』、亦の名を『アカル宮』にて祀られています『道主貴ミチヌシノムチ』=『豊比咩命』を祀るように命じています。『豊比咩命』は、如何も『アカル姫』の事に想われます。

 

※水沼君については、

郷土史の研究家の間では、赤司八幡宮の宮司『宮崎』様が、戦国時代迄は『水沼・水間』の姓を名乗っていたが、豊後から日田・浮羽に遣って来たキリシタン大名の『大友氏=大伴氏』が、うきは~筑後の神社を軒並みに焼き払い、困った邑役達が相談して、上高橋の今村地区を大友氏=大伴氏の『飛藩地』として献上する事で、大友宗麟の息子と話し合い合意し、焼き払いを避け、難を逃れた。と、考えられています。現在も『今村キリスト教会』が在ります。

元の『止誉比咩神社』の所在地は、筑後川南岸の『宮地』(銅鉾が出土しています。)地区に在った。と謂われています。(現在の『豊比咩神社』で、欽明期の『金刺宮』=大城町金島と、考えられ、当時は筑後川の蛇行が激しくて、洪水後の堤防・河川敷工事等にて、当時の面影を残していません。)

大城町小学校校庭には、(神功皇后(秋永氏)が、品陀和気命を産んだ時に産湯として使った。と伝承がある。)井戸が残っています。

雄略期にも『嶺県主泥麻呂』ミネノアガタヌシマロ(県主泥麻呂アガタヌシマロ→タヌシマロ→田主丸町の由来と考えられます。『嶺』は、景行・日本武尊期には、『平群』の山々と謂われていたものと想われ、『耳納連山』を意味しています。)が、『養鳥人』を雄略に献上した。として、登場しています。

雄略(息長氏=秋永氏)は、うきは・朝倉~田川飛鳥宮(河内)がホームグランドと、考えるべきです。

 

 

幼馴染みの磐鹿六雁命イワカロッカリノミコトを大膳=宮廷調理長に摂り立て、八坂姫を連れて、オウス小碓命(日本武尊)の足跡を辿り、三重県能褒野{小碓命(日本武尊)の埋葬地}から関東千葉~茨城(香取・鹿島と考えられます)迄肢を延ばしています。

 

磐鹿六雁命の出身地と想われます、田主丸『ロッカリ鹿狩』地区は、現在は『シバカリ柴刈』に呼び名が代わっており、川会小学校が在ります処の唐島以真江地区(秋永氏集落)では、百済國第25代王に為ります『武寧王』(西暦463~523年・在位502~523年)が生れて育ち、暫く滞在して居て、倭で子・聖明王を儲けたものと考えられます。

『武寧王』の末裔の※高野新笠タカノノニイガサ(西暦720~790年)が桓武天皇(山部王)の生母です。『和氏ヤマトウジ』と述べられ、此れは『倭氏』と解釈され、元々は、日本人を意味しています。つまり、倭と百済王統は、血統が繋がっている。と解釈する事ができます。 ※、高野は竹野(タケノ・タカノ)の『当て字』と考えられます。

 

『柴刈』の西には『宮司』の地名があり、其処には『豊比咩神社』(祭神は豊玉姫)が在ります。

もし、『豊比咩命』が『豊玉姫』であるならば、『豊玉姫』は『アカル姫』と同一人物と考えられ、『開花天皇』を産んだ『ウチシコメ欝色謎命』とは、『豊玉姫』を意味している。事に考えられます。

そして、『孝元天皇』とは、ニニギネと木之花開耶姫の間の子『火遠理命=山幸彦(耶馬幸彦)=天津日高日子穂穂手見命』(日田市日高の『耶蘇杵』の弟『ツワモノヌシ兵主命』と考えられます。)を意味する事に為ります。

ホツマ伝では『ツワモノヌシ兵主命』は父のトヨケ豊受大神から磯城県主に任じられた。とあり、此れは久留米市城島シキを意味しており、物部氏族の巣であります。高良山の下宮にも『孝元天皇』を祀っています。

フツヌシ経津主命と、妹アサカ朝霞姫は、ゆふいんホツマ國『宇奈岐日女命』関連の祭祀を行なう家系の血縁人物と考えられます。

ひょっとしたら、竹野姫はアサカ朝霞姫の事かも知れません。フツヌシ経津主命はホツマ國の香具山カグヤマ=ハラミ山=別府鶴見岳を治めた事から、『香取尊』と呼ばれます。}

 

『大己貴命』の子の『クシヒコ=大國主命=第2代大物主=物部氏の首領』は倭でタカキネ高木神の娘のミホツ姫を娶り、『コモリ子守尊=第3代大物主=物部氏の首領』を儲けます。

 

この様に、『倭の大乱』は、スサノオの『倭王』追放から、物部氏の混乱が生じている考えられ、其の存在時間軸は、ホツマ伝のハヤスフ姫=『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の陳述により、景行天皇の時代(崇神天皇)と時を同じくしている。と考えられます。

早吸日女命は景行天皇{彦坐王=彦湯産隅命=長髄彦=天之児屋根命=猿田彦}の義妹で、アマテルの西局の典侍となり、『天津彦根命』を儲けた。と考えられます。

・ 早吸日女・天速津姫・速来津姫=速秋津姫(秋子)=住吉神の娘

・  住吉神=金折=ウガヤフキアエズ=神武の父、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=崇神の父

・  神武と崇神は同一人物である。事から、ウガヤと開花は同一人物である。と考えることが出来、玉依姫と伊香色謎命が同一人物である。と導かれます。

 

 

 

 

 

 

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今、ホツマ伝が面白い。(ホツマが伝える日本古代史の解明。)

2017-10-04 | 古代史

わたくしの考えでは、豊受大御神(西暦206年頃)の司った『ホツマ國』とは九重町~ゆふいん~安心院~院内の山間部を示しており、平野部に未だ進出をしていなかったものと考えられます。

ヒタカミ國』の範囲とは、日田市を中心とした『ホツマ国』を含む福岡県田川市・添田・英彦山~大分県大分市~直入郡豊肥地区~阿蘇高森~大分県津江~熊本県山鹿と謂った、やはり山間部を指し、未だ、水稲による平野部での大規模水田耕作には至らず、陸穂と水稲による段々丘陵と、焼畑・狩猟・採集生活が主であった。と考えられて、魏志倭人伝(東夷伝)に書かれています平野部での大規模二重環濠や楼閣を備えた集落は、佐賀県神崎市の『吉野ヶ里遺跡』や福岡県朝倉市の『平塚川遺跡』といった、一部の地区にて、西暦206年頃より以後に始まったものと考えています。

ヒタカミ國の中心地は日田市日高の求来里邑(ダンワラ古墳・法恩寺山古墳群)で、豊受大御神(5代目ヒタカミムスビ)やその子であります耶蘇杵(ヤソキネ)(6代目ヒタカミムスビ)=神皇産霊尊=伊弉册尊の兄=大幡主命=白山神=久留米市に居たアワナギ沫蕩尊(根国~若狭~山陰・山陽サホコチタル国の守を勤めた人で、ソアサ=四国を治めた天萬尊アメヨロズの子に為ります)の子である白山姫(クグリ姫)=伊弉諾尊の姉を娶り、タカキネ高木神(7代目ヒタカミムスビ)・弟のスクナ彦名・妹の大宮姫ミチコ(アマテルの東局=大分市古国府(東院)に在ったと想われます。の典侍になり、イキツヒコネ活津彦根=斎名ハラキネを産みます)・妹の七夕姫コタエ(アマテルの東局=大分市古国府の内侍になりますが、後には福岡県小郡市に在る『七夕神社』にて祀られます)が、ホツマ伝に記されています。

    因みにアマテル東局の『下侍』にはツクバハヤマ筑波早馬の娘であります、ソガ蘇我姫が為っています。

    蘇我氏の本拠地は、南大分東院~向原と思われますので、地理的には納得出来ます。現在、筑後地方には『速馬行事や早馬神事』として残影があります。うきは市大生寺(大聖寺→後に、大阪の大聖将軍寺と、野中寺に、礎石が運ばれます。)で生れた聖徳太子は、『厩戸ウマヤドの皇子』と呼ばれた蘇我氏であります。蘇我氏と馬(宇摩)(氏)は関係が有りそうです

 

 

スサノオは天日鉾命として、アカル姫を追って国東半島の姫島に遣って来て、豊後杵築を中心に活躍するのでありますが、『記・紀』や『ホツマ伝』では天照大神の末弟と述べられています。

ホツマ伝では伊弉册命が生理中に孕んだので、其の穢れがスサノオに宿って大いなる隈(苦魔)となり、後に騒動を起こします。

現在の医学では生理中に孕む事はありません。此れは豊受大御神が、孫の『アマテル』と同年代の『新羅の王子スサノオ』を『伊弉册命』の養子としたものと考えられます。

ホツマの伝によりますと、

スサノオは、常に雄叫び泣き喚んでいたと述べられ、新羅国に帰りたかった想いが伝わります。

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

『イサワ大内宮』には、出雲(根国)の守で有ります『クラキネ蔵杵』の娘『マス姫モチ子』(典侍で、天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(内侍で、俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)がアマテルの妃として(ある意味では、人質として)侍っていました。

因みに、『下侍』としては山背(香春町~苅田)のカダ(苅田)(浮殿古墳・御所山古墳が残っています。)の娘『アチ子』が居ました。

スサノオは『マス姫モチ子』と、その妹『コマス姫ハヤ子』と肉体関係を持ちます。

 

ゆふいん塚原の『ハラミの宮』にて、二尊伊弉諾命・伊弉册命)に大老翁ウオヤオキナとして仕え、その後ココノエ九重の内宮の高御座に居ます、アマテルの右臣と為った実力者桜大人サクラウチ・桜大刀自サクラノオオトジ』の娘、

 

橘氏の元祖で、大山カグツミ(大山橘統み)のであり・大山祇(天津真浦)の祖父。アシツ姫=木之花開耶姫とその姉であるイワナガ姫の曽祖父になります。}

 

『桜谷瀬織津姫サクラ谷セオリツ姫』『ホノ子』(南の局の典侍)に依る『北の局』とスサノオの関係行状の告発により、スサノオは豊後杵築より追放され、根国(出雲)に居付く事になります。

瀬織津姫は、功績により、ゆふいん『浅間宮』アマテルの『内宮』(皇后の事)になり、その後天之忍穂耳命(第8子=最後の子)を生みます。

 

北の局を解任された『マス姫モチ子』(典侍で天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)は、杵築から程遠くない山香~宇佐~赤村に棲んでいたと考えられます『赤土アカツチ』が引き取り、赤土宮=宇佐宮(安心院)の自分の局で養いますが、『マス姫モチ子・天之穂日命』と『コマス姫ハヤ子』は出雲(根国)の守で有ります父『クラキネ蔵杵』の元へ逃げ?亦は送り帰されます。

 

(現在でも、山香・宇佐は、『粘土赤土』の産地で有名です。『粘土赤土』は水稲を作る田んぼの土地や、ため池の下地材料として必要不可欠なものです。また、壁材として建築には必要で、『赤土』氏は粘土・水銀を生業にしていた人であった。と考えられます。)

 

タケコ・タキコ・タナコの三つ子は、『赤土』氏の『宇佐宮』に放置された為、瀬織津姫の要請により、宗像氏の娘『豊比咩アヤ子』(西局乙下侍)が養育係として派遣され、その後、豊比咩アヤ子は杵築北局『大内宮』の『内侍』になり、アマテルとの間に『熊野クスヒ尊』(第7子)を儲けます。

この『熊野久須毘クスヒ尊』が紀州熊野に渡って『熊野本宮大社』で祀られます。『熊野』の元は、豊後国東半島杵築に在ります『熊野』が本貫地と思われます。

 

ホツマ伝によりますと、

赤土アカツチ氏の弟が、『足名椎アシナツチ』であります。『足名椎』は、安心院佐田邑の『粗長アラオサ』(住民を大まかに束ねる押さえ役)をしていたとされ、妻の『手名椎テナツチ』との間に『稲田姫』を儲けたとされ、『稲田姫』は『スサノオ』と結婚して、大屋毘古・大屋姫・柧津ツマツ姫・事八十神コトヤソ・大己貴命オホナムチ・葛城一言主ヒトコトヌシ・大年=大歳オオトシ蔵クラムスビ・須勢理姫スセリの8子を儲けたと述べられています。

(古事記では、スサノオが『櫛稲田姫』の後に娶った、『神大市姫』=『大歳御祖神』が、『大年神』と『宇迦之御魂神』を生んだと述べています。ホツマ伝と、伴に信じれば、『櫛稲田姫』=『神大市姫』=『大歳御祖神』と謂う事に為ります。)

 

しかし、百嶋神社考古学では、『金山彦』と『オチノ姫』の間に『稲田姫』が熊本県山鹿市にて儲けられた。とされ、如何も『足名椎』=『金山彦』、『手名椎』=『オチノ姫?』=『神大市姫』が推察されます。『足名椎』=『金山彦』は、その後、全国を股に(『鉱山』を求めて)渡り歩いたものと考えられます。

 

また、『大己貴命』と『大年神』は同一人物では無く、スサノオの子の『兄弟』で有ったと述べられている事が驚きです。

 

わたくしは、2017年8月28日『崇神の父親は開花ではなく、大山咋(大国主命)であった。』のブログの考察にて『大己貴命』と『大年神』は同一人物である。と述べていました。

ホツマ伝は、『大己貴命』は佐田大神と述べており、記紀での記述は、『猿田彦』(佐田彦大神)は同じ安心院の佐田地区に居て、ニニギの天孫降臨の場面にてゆふいんの天宇受賣命と、※天八衢アメノヤチマタ地界と天界の領域の境界の事であります。放射線状に四方八方に道が広がった状態ではありません。勘違いをされておられる方が多いようです。)

にて出会ったたもの。と考えています。(天の八衢の場所は別府市『天間』地区と考えています。)

 

わたくしは、『大己貴命』と『大年神』と『猿田彦』の関係を再度考えて見る事にしました。

大年神社』は安心院佐田地区に在り、スサノオを表す『竜王山』・『三女神社』も近くに在ります。

 

百嶋神社考古学研究では、『大年神』は『天児屋根命』(春日尊)とされて、『佐田大神』と『佐田彦大神』は別神とされています。

わたくしには、『大己貴命』と『大年神』は兄弟である。とのホツマ伝の記述と照合して考察しますと、『佐田大神』は『大己貴命』と解釈され、『佐田彦大神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)であろう。と考えられます。

 

わたくしの最新の説では、『八衢毘古神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『登美能那賀須泥毘古』=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』がイメージされます。

因みに、『八衢比賣命』は、『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『市来島姫(弁財尊天)』=『水波能女命(ミズハノメ)』です。

 

そう謂えば、故郷の久留米市御井町に高良神社下宮『幸神社』が在りました。

 

 

アマテル・月読命は、幼少期に母である伊弉册イザナミが亡くなり、豊受大御神(斎名、タマ杵)(祖父)が治世の基礎であります人間性(人格)形成を指導した。と述べられており、此の場所は、ゆふいんの『浅間宮(坂下り宮)』の生誕地と、『豊受大御神』と息子の『耶蘇杵ヤソキネ』が通常時居たと考えられます、日田市『日高』のダンワラ古墳地域と考えられます。

アマテルは、人生後半には一時、基山町の『伊勢=妹背』に棲み、孫のニニギネを育てたと考えられ、ニニギネの足跡が『基山山頂』や『荒穂神社』の祭神に残っています。

ニニギネの兄の『櫛玉火明命』は、父の『天之忍穂耳命』から『飛鳥田川(多賀宮)の央君』を命じられ田川郡香春町~赤村へ移動します。『ニニギネ』はホツマ国(ゆふいん・九重)の『央君』です。

『櫛玉火明命』は、『スガタ姫』・『ハツセ姫』・『天道日女命』の三人を娶りますが、子が無くて『天香語山=カグ山ツミ(橘山統み)の子』の子の『高倉下』を養子にしますが、『ハツセ姫(豊マドの娘)』に憎まれて追放された。と述べられ、世継が無くて亡くなります。(わたくしの見解では、此の人がアマテルではなかろうか。と想われます。)

二代目『飛鳥田川(多賀宮)の央君』は、ニニギネと『アシツ姫=木之花開耶姫』との三つ児の第一子であります『火明ホアカリ命 斎名ムメヒト 二代目ハラの央君』と、『コモリ=大国主命の子で、3代目大物主』の二女の『タマネ姫』が儲けた『国照ク二テル』(ニギハヤヒ)が就任します。

 

 

《 ホツマ伝39文より、》
 
ヒノカミココニ   ひのかみここに    日の神ここに(日の神=アマテル)
                                        
ミチマナフ カレヒタカミソ  みちまなふ かれひたかみそ    道学ぶ       故 日高みぞ (日神が学び高まる所は日田市日高地区)
                                             
アメノミコ チチヒメトウム  あめのみこ ちちひめとうむ    陰陽の皇子(オシホミミ=アマテルと瀬織津姫の子)  チチ姫栲機千千姫=オシホミミの内宮と生む
                                 
ミコフタリ ヱハアスカミヤ  みこふたり ゑはあすかみや    皇子二人   兄はアスカ宮(斎名、テルヒコ=櫛玉天火明命は飛鳥宮に居る)
                                          
トハハラミ  とははらみ    弟はハラミ(斎名、キヨヒト=ニニギネは高天原=ゆふいん塚原)
                               
ソノトキクニオ   そのときくにお     その時テルヒコとキヨヒトの時代に国を
タマワリテ ソヨノハツコノ  たまわりて そよのはつこの     賜わりて  十四の裔の其の先ずっと
 
ワレマテハ ヨソノタウケス  われまては よそのたうけす     我までは現在までは  よその治(他の豪族の介入) 受けず
  
ソレノキミ アスカオウチテ  それのきみ あすかおうちて   それの君(神武天皇=崇神天皇が)  アスカを討ちて(ニギハヤヒ=櫛玉火明命に仕えるナガスネ彦=景行天皇=猿田彦=久那土神=天児屋根命の居る香春町~赤村)
                                        
クニオトル カミニタカエリ  くにおとる かみにたかえり   国を盗る      上(御上・公)に違えり(国を盗む、間違った行為である)
                                          
カレナレス イママタキタリ かれなれす いままたきたり  故 和れず  今また来たり(神武=崇神が再度遣って来た)
 
トラントス コレモカミカヤ  とらんとす これもかみかや  盗らんとす  これも上かや
 
スヘキミヨ   すへきみよ   皇君よ」
  

と、述べられています。《スヘキミヨ=皇君よ》とは、神武=崇神=スサノオを指している。と考えられて、飛鳥宮とは、櫛玉火明命がゆふいん高天原から(ニニギネにホツマ央君を譲り)、田川赤村~香春町周辺に移動した場所で在ったと考えられます。現在の香春町の柳井秀清さま達が守っておられます『央君さん』の墓は、『櫛玉火明命』(アマテルかもしれません?)の墳墓と考えられます。

 

此処に居たのが、『ホアカリ(ムメヒト)の臣』とホツマ伝で述べられている『登美能那賀須泥毘古』=『猿田彦』=『八衢毘古神』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』と、

妻であります『八衢比賣命』=『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『本来の市来島姫(弁財尊天)』=『豊玉姫』=『水波能女命』と謂うことに為ります

 

『豊玉姫』は、元来は孝元天皇=日高彦穂穂出見尊(日田市日高町ダンワラ古墳地域の出身です)の皇后であって、韓半島に渡り、姪の『玉依姫』と『孝元』との間に出来た『天日鉾』=『スサノオ』を新羅に置いて倭(別府湾奈多海岸→宇佐大元宮→田川=多賀飛鳥宮へ移動)に帰って来た。と考えられる。お方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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北朝鮮の真の狙い。

2017-09-15 | 日記

 昨今の世界情勢は、北朝鮮の核開発実験・ミサイル開発に依る、東アジア地域の不安定化を恐れる米国トランプ政権と金正恩労働党委員長の確執が、北朝鮮・韓国・日本・米国を巻き込む核戦争を齎しかねない、と謂う理由で国連を含む国際社会が翻弄されています。

 

米国トランプ政権と日本の安部首相は、北朝鮮との国境を接する中国の習近平やロシアのプーチンに、北朝鮮に対する経済制裁強化を求めて国連安全保障常任理事会決議を求めましたが、北朝鮮への原油輸出は、北朝鮮の人民生活者への影響が大きく、中国・ロシアの賛同が得られず、「200万バレル迄の輸出を認める。」といった、全面禁輸出という究極の制裁とは為らず、今後も北朝鮮の核・ミサイル開発は一段と進展するものと考えられます。

 

わたくしは、何故北朝鮮が世界の国々の意見を聞こうとせず、軍事拡大に邁進するのか考えてみる事にしました。

 

現在の韓半島の北朝鮮は、満州族(女真族)であります。歴史は扶余~高句麗(BC37~668年)に遡り、当時の高句麗の領土は中国の東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)俗に謂う満州~朝鮮半島北部に至る現在の数倍もの領土を有していました。その後、高句麗~渤海国~金国~後金国~清国となり、中国の歴史では、満州国が『清王朝』(1644年~1912年)を打ちたてて強大な中華国家を築いています。

民族は、ツングース系で、韓半島南部の秦韓(辰韓)=秦・燕から逃げてきた人々と倭人(南方系白族)が混血した国家。 とは全く系統が違います。

 

つまり、金正恩の役割は、誇り高い満州人の国家『清国』再興への野望です。

 

先ず、強大な軍事力で、アメリカ合衆国や各国に、北朝鮮が核・ミサイル大国である事を認めさせ、次に、中国の習近平と、中国の東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)の北朝鮮への割譲を迫る交渉の狙い。が読み取れます。

北朝鮮にとって韓国は小眼中にしかありません。満州族人の統一国家が、民族統一の最終目標でありましょう。

トランプや安部さんが、北朝鮮(扶余・高句麗)の歴史を勉強して、対処される事を祈ります。

 

 

 

 

 

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崇神の父親は開花ではなく、日高彦穂穂出見尊(孝元天皇)であった。と考えられます。

2017-08-28 | 古代史

 此れまでのわたくしの考えは、『倭の大乱』の切っ掛けの推察は、

スサノオを追放の後の倭を治めていた大己貴命(筑紫)と少彦名命(豊後)(スサノオ系大幡主命=神皇産霊尊派)は、スサノオが新羅から連れて来た磯城(城島)周辺の人々が、筑前朝倉で起こしたクーデターにて、大己貴命がゆふいんに居た父である神皇産霊尊(耶蘇杵)・少彦名命を頼って逃げ、ゆふいん塚原(高天原)で、追ってきた新羅系・スサノオ派を迎え撃ちしましたが、敗れて逃走。

日出~杵築の大屋毘古命の助けで、愛媛に逃れ、少彦名命の傷の回復後に、島根のスサノオの居ました出雲に移動したことに為っています。

しかし、ホツマ伝(解読ガイド書)の如述からは、『倭の大乱』の切っ掛けは『二人の天照大神』が原因と考えられます。

ゆふいんのトヨケ(豊受大御神=ホツマ君・東の君・大物忌大神・アサヒ神・5代タカミムスビ・タマキネ・木公)の子、ヤソキネ(トヨケの長男で、白山姫=ココリ姫=イザナギの妹、と結婚して白山神とも呼ばれた)の子は四人(タカキネ・少彦名命・ミチコ[アマテル東局典侍]・コタエ[アマテル東局内侍])と述べられ、如何もヤソキネ(トヨケの長男)とトヨケは、最初は日田市日高町『求来里クコリ邑』(ダンワラ古墳傍)に棲んで居た。と考えられます。その後ヤソキネは博多湾周辺に移動したのもと考えられます。(百嶋神社考古学では、ヤソキネは、大幡主命=神ムスビ神=刺国大神(トヨケ?)の子、に相当するお方と考えられます。)

ココリ姫(父アワナギ・母不明)の弟のクラキネ(根国=島根周辺を守るマスヒト=領主)の子、マス姫モチ子[アマテル北局典侍]が、天穂日命(アマテル第1子)を生み、次に(クラキネの子)コマス姫ハヤ子[アマテル北局内侍]が、タケコ(第2子)・タキコ(第3子)・タナコ(第4子)=俗に謂う『宗像三女神』を儲けます。

通常であれば、天之穂日命(マス姫モチ子が生んだアマテル第1子)がアマテルの後を継ぐのでありますが、ホツマでは第8子=末子とされています処の、天忍穂耳命(母は瀬織津媛(穂の子)=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)が後継します。

モチ子とハヤ子はアマテルの弟スサノオと関係を持ち、子を儲けた事に解釈され、天穂日命はアマテルの後継者を外されたものと考えられます。

{記紀では、天之穂日命は、その後大己貴命の国譲りの使者として、ゆふいん高天原の高木神(ヤソキネの子・第7代タカキネ)と天照大神(瀬織津媛穂の子=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)の意向で、出雲へ向かいますが、出雲に居着き、帰って来ません。}

 

ホツマ伝(解読ガイド書)の如述では、スサノオと櫛イナダ姫(父は足名椎・母は手名椎)が儲けた第五子に、オオナムチ大己貴命・斎名クシキネ(初代大物主・佐田大神・日隈君・田中神・八重垣臣・カル君・顕国玉・大黒様)が述べられ、その子がクシヒコ櫛彦(二代目大物主・初代コトシロヌシ・大國主命・エビス神)で、クシヒコはミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚して、コモリ(子守尊・ミホ彦・水分神)を儲けた。とされ、驚きました。

 

大己貴命=佐田大神=田中神=日隈君=大黒様と、大國主命=事代主命=恵比寿神は、親子の別人で有りました。

 

大己貴命が佐田大神と同一人物とされ、甘木朝倉の『大己貴命神社』と島根松江の『佐太神社』(佐太大神=佐田大神=大己貴命)が納得できます。出雲大社は『日隈の宮』とも呼ばれ、『日隈君=大己貴命』が納得されます。大己貴命(スサノオの子クシキネ)が倭(九州)から島根出雲へ、息子のクシヒコ(大國主命)と伴に逃げた?ものと、解釈されます。そして、クシヒコ櫛彦=大國主命(恵比寿神)=事代主命は、ミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚しており、国譲り後に、タカキネ=高木神から赦されたものと考えられます。

 

大己貴命はアマテルの娘タケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)を妻として、クシヒコ(大國主命)を産むのでありますが、タケコ(田心理姫)は、スサノオとアマテル北局(大内宮=杵築の大内地区に在ったもの。と考えられます。)コマス姫ハヤコの不倫の子と考えられて、一般にはスサノオの子と呼ばれますが、正式にはアマテルの第2子で有ります。大己貴命とタケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)の血縁関係は、母違いの兄妹?婚か、従兄妹?婚か、本当のところは不明です。

 

此処で問題と為るのが、『大己貴命は佐田大神である。』と述べられている事です。甘木朝倉には『大己貴命神社』が有り、朝倉黒川地区には『佐田』地区の名前があり、此れまでのわたくしの考えでは、

安心院町佐田邑(ホツマ国)に居た、猿田彦(佐田毘古命)が、ゆふいん塚原(高天原)の天宇受賣命=猿女=辛国息長大姫大目命=市祁嶋比賣命と結婚して、高木神の家来として、朝倉~英彦山に移動したものと考えていましたので、猿田彦(佐田毘古命)と佐田大神(大己貴命)の関係が問われる事になります。

 

実は、百嶋由一郎さまの神社考古学研究では、佐田大神(甘木朝倉)と佐田毘古命(猿田彦)は別人とされ、間違わないように。と釘を刺(指)されています。

と、謂うことは、大己貴命(クシキネ)と大国主命(クシヒコ)の関係同様に、佐田大神(大己貴命)佐田毘古命(猿田彦)は別人で有った。と考えられます。

 

と、謂うことから導かれます解釈は、金比羅神社で祀られています大物主命は、大己貴命(クシキネ)=初代大物主命の息子であります、大国主命(クシヒコ)=二代目大物主命で有ったと理解できます。

玉依姫(賀茂建角身命=大山咋の娘=息長氏)が、記紀での第9代開花天皇の妻、伊香色謎命の事であります。

ホツマ伝では、ウガヤフキアワセズは、最初は内宮の『ヤセ姫』との間にて、『彦五瀬命』を儲け、その後、玉依姫と結婚しており、『玉依姫』は『白羽の矢』との間に生まれた『ミケイリ』(日本書紀では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」、古事記では「御毛沼命(みけぬのみこと)」と表記されています)を連れ子して、ウガヤと結ばれた、とされています。

ホツマ伝では、ウガヤと玉依姫との間で『イナヰイ』(稲飯命)と『カンタケ』(神日本磐余彦火火出見尊=神武天皇 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)- 古事記表記  斎名タケヒト)を儲けた事になっており、『ミケイリ』と『カンタケ』は父違いの兄弟と如述してあります。

ホツマ伝の如述では、『二人の天照大神』と同様に、真実を隠しています。

 

ウガヤの子とされています『カンタケ』の実体は、玉依姫の連れ子『ミケイリ』であった。と考えられます。『玉依姫』と『白羽の矢』の関係は、百嶋説を採用しますと、『白羽の矢』は『大山咋』の事であります。

つまり、『大山咋』と『玉依姫』の禁断の親子婚の子が『神武天皇』=『崇神天皇』で有った。事になります。有っては為らない問題が生じて、此れは間違いです。

 

記紀では、大己貴命と大国主命は混合されて、二世代を一世代として世間の解釈を欺かしています。

ホツマ伝では、

カンタケ=神武(崇神)は、ウガヤ(豊玉姫と日高彦穂穂出見の子)が世を身罷る時にウガヤが居た宮崎宮にタネコ天種子命を連れて行き、『白矢羽のヲシデ』=倭王の璽シルシを賜り、ツクシ(私見では、糸島と想われます)でアイラツ姫を娶り、タギシミミを生むのでありますが、

此の『白矢の羽』は、わたくしの考えでは日高彦穂穂出見尊』を暗示しており、カンタケ(神武=崇神)が『日高彦穂穂出見尊』(豊玉姫の夫)と『玉依姫』(賀茂建角身命の娘)の間に生まれたものと、考えています。

 

と、謂うことは、阿蘇神社の『健磐龍命』と阿蘇国造神社の『速瓶玉ハヤミカタマ』は親子の関係と由緒にあり、元来の『健磐龍命』は『豊玉彦』の別名である。

と解釈され、捏造でないとすれば、景行天皇の時代以後に春日氏(藤原氏=阿蘇氏)が他の阿蘇氏と伴に祭神名を不明朗にしたものと思えます。

 

そして、『彦坐王=景行天皇』と『崇神』は兄弟では無かった。事になります。

 

ホツマ伝では、『御年神』は『蛭児』の別名と述べられ、ヰチヂ市千魂命=ココトムスビが春日殿とされ、フツヌシ経津主命=香取尊の妹、アサカ朝霞姫を娶って、天児屋根命春日尊を儲けた。と述べられ、天児屋根命ヒメ比賣尊(健御雷神=カシマ尊の子)が儲けたのが、オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮と述べられています。

オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮の子がアメノタネコ天種子命(神武=崇神の鏡臣=左大臣で、直入中臣氏の祖)を儲け、その子がウサマロ宇佐麻呂(宇佐津臣=綏靖天皇の鏡臣=左大臣で三笠』氏を賜ります。)と述べられ、天種子命は三笠山に葬られた事に為っています。

 

 豊後高田市草地に『三笠山』があります。『天種子命』の埋葬地かも知れません。

 

百嶋神社考古学では、八幡神社の『大年神』は『天児屋根命』で、『御年神』は『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の事とされています。

 

しかし、史書では、『大年神』の子が『御年神』である。と述べられ、ホツマ伝でも同じです。ならば、『天児屋根命』と『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』は親子と考えなければならない事になり、百嶋神社考古学では、『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の父は『開花天皇』とされ、『天児屋根命』と『開花天皇』は同一人物と謂う事になり、一考を要する事に為ります。

 

わたくしの解釈では、『大鷦鷯尊』は八幡神(藤原氏)の関与が『祭神すり替え』として考えられ、本来の祭神は、オシクモネ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮が『御年神』で有った。と考えられます。『八幡神の御年神』と限定して解釈するべきかも知れません。『蛭児』も忌み嫌われて、隠されたものと考えられます。

 

私見ですが、最初に近畿に渡って其処で生涯を閉じた王は、垂仁天皇で、景行天皇は少しの間は近畿(丹波~播磨)に居ましたが、亡くなったのは、阿蘇であります。

成務天皇は阿蘇(志賀の高穴穂宮)で育ち、杵築市御塔山古墳(岬の多々波池後陵)に埋葬されたもの。と考えられ、

『神功皇后・品陀和気命』と『応神=宇佐押人』と『本当の仁徳=菟道稚郎子』『安閑天皇』『舒明天皇』は田川香春町~赤村で亡くなり、

『仁徳に為り代わった人=大鷦鷯尊』(鮮卑族拓跋氏=物部氏の中核)が近畿・難波宮(高津宮)へ行って、政務を司り其処で亡くなります。(福永晋三氏の説『真実の仁徳天皇』を支持します。)仁徳以後は第37代斉明天皇までずっと倭(九州)であります。

近畿に天皇が居つくのは、『天智天皇』が西暦668年近江大津宮で即位した『天智・天武天皇』時代からであります。壬申ジンシンの乱』が起きたのは近畿でありますが、乙巳イッシの変』西暦645年は、田川赤村飛鳥宮大極殿で起きた出来事であります。『大化の改新』『冠位12階制』『17条の憲法』も、『聖徳太子』も皆、倭(九州)の飛鳥宮(田川赤村)での出来事であります。

蘇我氏の寺(向原寺=国分寺跡大分市歴史資料館)や、九州各地の寺・古墳の遺骨遺品は全て解体され、近畿に改めて建築・造営(法隆寺・東大寺)されたものと、考えています。糸島の古墳群を調査した学芸委員は、全ての古墳は遺骨・遺品等が一切残っておらず、まるで掃き清められた様であった。と盗掘とは考えられない旨の言葉を残しています。

 

近畿の古墳からは多くの阿蘇天草溶結凝恢岩が使用され、長年朝日新聞文化部で考古学に携わられた、内倉武久さまの説、犬祖伝説を持つ熊曽=阿蘇氏が阿蘇凝恢岩を近畿に持って行った。(熊曽は日本中を席巻した)

串間市の古墳から江戸時代に出土した、南粤ナンエツ由来と考えられます王族が身に着ける『玉璧』ギョクヘキ(=翡翠)から推察された、「日本人は南方から黒潮に乗って遣って来た。」と謂う解釈の件。

そして、燦然と輝く「継体天皇は甘木朝倉の『合』に埋葬された。」の論文は、説得力があり、通説の日本古代史学会に大きな波紋となっています。今後は大いに評価されるものと思われます。

 

《追補》2019年11月23日

訂正が遅くなり申し訳ありません。

その後の検討で、ホツマツタエより、崇神=スサノオ(息長氏)の父親は、豊受大神の(袁氏の血を引いた妻を娶った蜀の太守、『高躬』と考えられます。神紋は木瓜に唐花亦は丸に唐花。)息子の日高彦穂穂出見尊であります。母親は玉依姫=伊香色謎命=息長帯姫(神功皇后=息長氏の神紋は丸に違い鷹羽)⁇です。

 

 

 

 

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天照大神は二人居た。やっと解明したニギハヤヒの正体。

2017-07-10 | 古代史

ホツマ伝の伝承を信じますと、アマテル(天照大神 斎名ワカヒト)は男性である。と考えられます。わたくしを含めて(古事記)『天照大御神』・(日本書紀)『天照大神』を、別名、『大日孁貴おおひるめむち神』『大日女おおひるめ尊』と呼ばれ、女性をイメージしていましたので驚きました。今日は、この事を皆様と一緒に考察してみたいと思います。

捏造の認めらる処の記・紀も、多くの真実が語られ、現代人である我々の誤った解釈で理解をしているものとも考えられ、此れを修正しなければ為りません。

考察(洞察)のポイントは、記紀での天照大神の『岩戸隠れ』の解釈。とニニギの兄とされています火明命(ホツマ伝では、斎名テルヒコ)の行方不明の件と、百嶋神社考古学研究におけます、『高良玉垂宮 神秘書』の解釈であります。そして、根本となる信頼の源はホツマ伝の伝承であります。

ホツマに拠りますと、アマテル(天照)=男性は、内宮にイザナギ・イザナミ(ハラミ宮=ゆふいんに居たと考えられます)の二尊に仕えたサクラウチ(ウチ氏?私見では国東半島に居たと考えています。)大老翁=大山祇の祖=橘氏の祖を右大臣として、その娘ホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ、亦は、桜谷・滾つ背の姫サクラタニニギタツセノヒメ 亦は、向津ムカツ姫と呼ばれた)を迎えて、天忍穂耳命(第8子で末子)を儲けたとされ、

根国(島根)北局の典侍クラキネ(イザナギの弟)の娘マス姫モチ子から天穂日命(第1子)、妹のコマス姫ハヤ子(北局内侍)から3つ子のタケコ(奥津島姫第2子)・タキコ(江島姫第3子)・タナコ(市杵島姫第4子)宗像3女神を儲けます。

第5子として、筑紫西局(佐世保早岐)の金崎(金折)=住吉神の娘であります、ハヤアキツ姫アキ子(西局の典侍)との間に天津日子根命(天御影神の父と述べています。)を儲けています。金崎(金折)の先代は志賀とされ、志賀氏の先代はオキ津彦、オキ津彦の先代がシマ津彦と述べられています。

第6子として、ヒタカミ国ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神、神皇産霊尊、シラヤマ神)の娘オオミヤ姫ミチコ(日田市大宮町で誕生して、東局=大分市と考えられます。の典侍になります。)との間にて活津彦根命(滋賀県の彦根の由来に繋がります)を儲けます。

第7子は宗像のトヨ姫アヤコ(西局下侍で後に内侍)との間にて熊野久須毘命を儲けています。この熊野久須毘命は後に熊野神(イザナミ)を守る役を仰せつかります。

このように、ホツマ伝ではアマテル(斎名ワカヒト)の子は八人居り、第1子が天穂日命とされ、此れは、百嶋氏では豊玉彦=天穂日命と述べられています。

 

記・紀では、アマテラスとスサノオの間にて誓約を、天安河(私見では、豊後杵築市の八坂川)を挟んで行ないます。近くに真那井の地名もあります。

アマテラスはスサノオの十拳剣を噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神を、順に多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命を(宗像三女神)を儲けます。

次にスサノオはアマテラスの首に掛けた勾珠を受け取り、噛み砕き、吐き出した息の霧から、順に、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(第1子)天穂日命(第2子)天津日子根命(第3子)活津日子命(第4子)熊野久須毘命(第5子)を儲けます。以上はアマテラスとスサノオとが生んだ合計八人の子です。

ホツマ伝と記・紀で比べますと、誕生順は異なりますが、人物は全く一致しており、ホツマ伝では母親・父親・祖父母の親族関係と生存位置(宮)まで詳細に述べており、その信頼性は『記・紀』より優れている。と考えざるを得ません。

 

しかし、天照大神は『記・紀』では女性とされ、ホツマ伝では男性であります。

 

この問題は、わたくしには、『天照大神は二人いた。』ものと考えられます。

 

記紀に述べられていますアマテラスの岩戸隠れは、スサノオの乱行が原因とされ、スサノオは倭を追放されます。

このスサノオの乱行は、(ホツマ伝では)アマテルの北局『大内宮』の典侍で第1子天穂日命を産んだモチ子及び、北局内侍で、モチ子の妹ハヤ子(宗像三女神を生んだ)は、スサノオとの関係を結び、アマテルの内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)が此れに気付き不倫が発覚、モチ子とハヤ子は子を置いて、父クラキネ(イザナギの弟)の居た島根に逃走、残された三女神は宗像氏の豊姫アヤコが宇佐宮(安心院)にて乳母養育した。と述べられています。

『大内宮』の『大内』は杵築市に地名があり、アマテルの北局(島根)は杵築市に設けられて居た。と考えられます。

 

事実と想われ、わたくしの見解では、兄のアマテルは弟スサノオの乱行に嫌気を覚え、ゆふいんから海部氏・尾張氏と伴に田川(多賀)へ移動したものと考えられます。(もうひとつの理由と考えられますのは、鉄・銅の金属生産の増産の為であった。と考えられます。)突然高天原(ゆふいん塚原)から天照が居なくなり、トヨケ(豊受大神)以来の『ハラの央君』が出奔され、ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神神皇産霊尊・白山姫と結婚して白山神と呼ばれます)と、耶蘇キネの子・タカキネ=高木神の事、等にスサノオは責任を執らされます。死罪の判決が出ますが、アマテル内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ=向津姫)の嘆願で、爪剥ぎ刑と追放に減刑になります。

ヤソキネ(耶蘇キネ)は6代目タカミムスビ神と呼ばれますが、此のタカミはヒタカミ国を表しムスビ統括する人の意味と解釈されます。トヨケ(豊受大神)が居た秀真国(ホツマ国=東國)は、九重町・湯布院町と安心院町と院内町・宇佐市を指し、ヒタカミ国とは、ホツマ周辺の玖珠町・日田市・耶馬溪・山国町・東峰村・添田・田川郡赤村・香春町・大任町辺り全部と考えられます。ヤソキネは神皇産霊尊の事とされ、此の方は百嶋神社考古学では、博多の大幡主命と同一人物にされています。

 

ホツマ伝には書かれていませんが、倭の各地の宮の君がゆふいんに集り、新しい天照を選出します。此れが天之岩戸から出てきた女性のアマテラスと考えられます。

つまり、ホノコ(アマテルの内宮)(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)がアマテルの後の天照大神に就任したものと想われます。天照大神の別名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、神詞で謂います。

 

わたくしの故郷の久留米市大石町に『伊勢天照御祖神社』が在りますが、祭神は天照國照彦天火明尊と為っていますが、天照の御親はイザナギ(根国の守)とイザナミ(豊後東の宮)の二尊でありますが、この場合は、御祖ミオヤとは祖父豊受大御神を指すものと考えられます。イザナミは早逝し、アマテルを教育したのは祖父の豊受大御神であります。祭神間違いか、故意捏造と考えられます。それとも天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の子ではなく、まさか!!!真か!!!真か!!!

高天原(ゆふいん塚原)から出奔して田川(多賀)に渡ったアマテルその人で有ったのかも!!!

ニギハヤヒは北九州に伝承が数多くあります。

『記・紀』は天火明命(ホツマ伝では斎名テルヒコ=照彦)の記述を避けています。

『高良玉垂宮 神秘書』には、地神五代として、

第一 天照大神(ホツマ伝では斎名ワカヒト)  第二 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(ホツマ伝では斎名オシヒト)   第三 天津彦彦火瓊瓊杵尊(ホツマ伝では斎名キヨヒト)  第四 彦火々出見尊(ホツマ伝では斎名ウツキネ)  第五 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ホツマ伝では斎名カモヒト

が記入され、天照大神ノ御子、四人ヲハシマス、三人ハ、天照大神ヨリ、四代マデ次タモウ 云々と述べられ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の事は出てきません。

多分、初代天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ワカヒト=テルヒコ=クニテル)であり天照=国照彦テルヒコ=天火明命=櫛玉饒速日尊は同一人物と、先代旧事本記は述べている。ものと感じられます。歴史から消された天火明命は天忍穂耳尊の子として記録され、天照(ホツマ伝の斎名ワカヒト)=国照彦クニテルヒコ=天火明命(ホツマ伝の斎名テルヒコ)=饒速日尊(ホツマ伝の斎名クニテル)の妻である次代天照大神が、天疎向津媛命アマサカルムカツヒメ=瀬織津姫(初代卑弥呼)であった。ものと考えられます。

 

 

 《追補》

ホツマ伝に拠りますと、アマテル(ホアカリ)はヒタカミの『サカオリ宮』(浅間宮=ゆふいん)からヤマトアスカ宮へ移動して初代アスカ央君と為りますが、此れは福永晋三氏が解明された福岡県田川郡赤村~香春町周辺がヤマトアスカ宮と想われます。その後、倭の大乱(二人のアマテラスになった元因のスサノオの乱)が始まり、田川(多賀)に行ったと考えられます。

香春町には、天照アマテル大神(大君さん=央君=ハラ央君・万葉集)の痕跡が残っております。柳井秀清様たちが守っている墳墓は、大いにアマテル大神(饒速日命・天火明命)の可能性があると考えられます。

 

 

 

 

 

 

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ゆふいんに豊受大神は居た。ハイキ神の本質は蛭児である。と考えられます。

2017-07-01 | 古代史

 

平成29年6月11日(日)に古川清久さんより、杵築・豊後高田の神社めぐりを誘われました。関東の『ホツマ伝』の研究者のお方も御出でになる。との事で、パソコンで『ホツマ伝』を開いてみました。

この『ホツマ伝』は、オオタタネコ(別名オオカシマ)が景行天皇(大足彦忍代別)に奉じたと述べられ、記・紀ではオオタタネコは崇神天皇記で登場された人物であります。わたくしの説では、景行(猿田彦)と崇神は同時期に活躍したお方なので、納得できます。

景行は崇神を西暦258年10月に討伐していると考えられ、それ以後に書かれたものと認識出来ます。

このホツマ伝の記述を参考にして、古事記・日本書紀は7世紀後半に作成されたと一部の研究者では囁かれ、記・紀の不述の真実を得る手懸かりと考えられ、最近重要視されています。今日はこのホツマ伝の記述を信じて、記・紀と百嶋神社考古研究と比較考察してみる事にします。

序では、

オオタタネコの祖父のオホミケヌシは、「開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)(春日・須久・岡本、→行橋・苅田・豊前、後に久留米大善寺玉垂宮)の禁忌に触れる后選びを諫めた。」が、断行されたので、オホミケヌシは職を辞して隠居をした。と記述されています。

わたくしの考えでは、

『禁忌に触れる后選び』とは、伊香色謎命=玉依姫(久留米市大善寺玉垂宮)を娶った事で有りましょう。

玉依姫は、孝元天皇=日高彦穂穂出見尊の『妃』に為って天日鉾命=崇神天皇=スサノオを儲けており、孝元天皇の正妻である皇后、『豊玉姫』(内色許賣命と伏せられています。『玉依姫』と『豊玉姫』の関係は、『姪』と『伯母』になります。)は、後継者のウガヤフキアエズ=開花=住吉神を儲けており、

天日鉾命の処遇に困った、孝元と豊玉姫は、新羅王にするべく、対馬経由(対馬の大勢の神官を連れて帰って、基山の伊勢~筑後~筑豊に住まわせています。)で『新羅』に渡り、『天日鉾』を置いて帰ってきますが、天日鉾は、その後、豊後杵築に大勢の新羅人と共に遣って着ます。

豊後杵築に留め置かれた『天日鉾=スサノオ=崇神天皇』は、高幹(高木神)に依ってゆふいん『高天原』の『アマテル』の弟とされ、待遇に怒った新羅人が暴れて混乱が生じます。『天日鉾』は新羅経由で出雲へ流されますが、出雲から、『アマテル』へ『天叢雲の剣』を献上して許されます。

そして、母違いの兄であります『開化天皇=住吉神=ウガヤフキアエズ』が、玉垂宮で『天日鉾』の母である『玉依姫』を娶った。と謂う事です。

 

系図を眺めますと、

イザナミの父はトヨケ(豊受大神)とされ、『ホツマの君』『東の君』『大物忌大神』とも呼ばれ、贈り名は『アサヒ神』。斎名は『タマキネ』で、ヒタカミ国の『天の宮』とも『アマツ宮』とも『ヤマテ宮』と呼ばれます場所(=日田)に居て、現在は伊勢神宮外宮で主祭神として祀られています。如何も、このお方がホツマの中心人物で在りましょう。

 

トヨケ(豊受大神)の子イザナミは、イザナギ(父はアワナギで兄弟にクラキネとココリ姫=白山姫がいます)との間にヒルコ・アマテル・ツキヨミ・ソサノオを儲けています。ヒルコは父が42歳母が33歳で生まれ、忌み嫌われて斎奇イワクス船に乗せて流され、金崎(金折)夫妻がヒルコを助けて、育てた。と述べられています。

 

ツキヨミとアマテルはトヨケの下(ヒタカミ国の『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』)で『陰陽の教え』を受け、16歳から87歳まで『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』に居たとされています。

系図順に、アマテル(男性であります。海人=天照る 斎名ワカヒト)━オシホミミ(斎名オシヒト)━ニニギネ(斎名キヨヒト=賀茂別雷命=天君とされ、八島廻りをされたお方で、記・紀に於いては、ニニギはゆふいんの『高天原』から天孫降臨して、糸島の笠狭岬へ行った。と解釈されて、異なっています。)

 

この人物が百嶋さまの述べられる所の豊玉彦=八咫烏=賀茂建角身命=記・紀では天穂日命=大國主命への使者として出雲へ派遣された、スサノオと天照大神の間で生れた?お方。と感じられます。ホツマの賀茂別雷命と記・紀の賀茂建角身命の関係が勘繰られます。

賀茂氏の本貫地は豊後国東半島杵築=スサノオが居た場所と考えています。

 

オシホミミ(斎名オシヒト)は彦山~田川香春神社(忍骨神)で存在が考えられ、傍の苅田町には多賀宮青龍窟があり、百嶋説では『後に滋賀県近江に移動した。』とされています。ホツマの『多賀宮』は苅田市~香春町に在ったと考えられます。この苅田と香春町の間の山並みを『山背』と呼んでいたものと考えられます。亦、『美濃』の地名も日田市上野に『美濃』があり、ホツマでの場所は一部を除いて殆んどが九州(倭)での記述であり、例えれば、アマテルが『伊勢』に行っていた。と述べられ、此れを三重県の『伊勢』と解釈されますお方が殆んど。でありますが、此れは間違いで、佐賀県基山町の『伊勢』の解釈が正しいと思われます。亦、『高島』が地24文に多く出てきますが、此れも基山町に『高島』地区が在り、滋賀県の『高島』と、勘違いをなさらぬよう注意しなければ為りません。『西宮』は蛭児が居た早岐の事で、『神崎』は尼崎の神崎では無く、佐賀の『神崎』です。

 

如何もホツマの『ヒタカミ国』(日高見→日田かみ)とは、日田~耶馬渓~豊後~豊前(田川)周辺を指していると考えられます。

『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』とは、高天原、即ち『ゆふいん』を意味しており、此処『ゆふいん』にトヨケ(豊受大神)がいて、イザナミを儲けた事を想像できます。

鶴見岳頂上では、軻具土命カグツチを祀っており、カグツチはイザナミが生んだ子であり、それが元でイザナミが亡くなります。

塚原(高天原)に在る創立後1900年以上の古社である『霧島神社』では、イザナギとイザナミを祀っています。日田市日高町東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳)では金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が出土。弥生時代中期の後漢鏡と考えられて、重要文化財になっています。倭王に匹敵する豪族が棲んでいたと考えられています。ホツマで述べられていますヒタカヒコ(日高彦)とも考えられます。日田市日高町には『伊勢神宮』や『法恩寺山古墳群』があり、現在は日田市田島町に在ります『大原八幡宮』の『元大原八幡宮』は日高町傍の『求来里クグリ邑』であり、伊勢(妹背)は此処かも知れません。

亦、久留米市にも『伊勢』と繋がる『伊勢天照御祖神社』が『水天宮』(天御中主命=白山姫=クグリ姫)傍に鎮座しています。久留米は筑後川の真水と有明海の海水が交じる『淡い海→淡海→近江の元)とも考えられます。

 

亦、ホツマでは『ハラ』と謂う場所が出てきますが、此れは『高天(ゆふいん)』を指している。と考えるべきであります。例えばオオモノヌシのコモリが副オオモノヌシに任命して三島(内倉武久氏説の甘木朝倉の三島と考えられます。)の溝咋ミゾクイをハラアサマ(浅間)宮の守りをさせた。と述べられていますが、『ゆふいん』にはアサマ(浅間)と考えられます『馬場浅間』ババセンゲンの地名が伝承で在り、高天原(ゆふいん)の『浅間宮』の事と理解できます。

ホオデミ(彦火火出見尊)の時、オシクモ(天忍雲根命)ヒタカヒコ(日高彦=日田市に日高町が在ります。)が、ハラアサマ宮(ゆふいんの浅間宮※)でホツマ国の政をとる。と述べられています。

 

※    ゆふいんには、以前に『驛』が造られており、一般には、『驛』では常時100頭の馬が飼育されていたと謂われ、此の場所は、ゆふいんの『椿山』の麓に在り、『馬場浅間』部落と呼ばれ、慶長の大地震の後の大雨で『椿山』が崩壊して、埋没した場所であります。

『ハラミ山』とは、『高天見る山』か『妊娠山』と解釈すべきで、形状から天香具山(別府鶴見岳)を指し、『サカヲリ宮』(坂下りる宮)とは、鶴見岳(天香具山)の坂下の塚原(高天原)地区か、ゆふいん地区を意味しており、塚原かゆふいんに『サカヲリ宮』が造られたものと考えられます。その後はニニキネが『ハラ浅間宮』に改装した。と述べられていますので、此れは、ゆふいんの『浅間宮』を意味している。と、解釈されます。

アマテル(天照大神)は、ハラミ山の『サカヲリ宮』にて、一月一日(若日)に生まれたので斎名をワカヒトと呼ばれます。

此れは『天照大神』は『ゆふいん』で生れた事になります。

亦、トヨケ(豊受大神)と孫のアマテル(天照大神)はアサヒハラの洞に入り、神上る。と述べられ、アサヒハラ(アサヒバル)とは、真名井原の事とされ、『真名井』とは、聖井戸、即ち水源地を意味され、

第一候補には、ゆふいん塚原の霧島神社の清水『真名井』が浮かびます。塚原高原は朝日原とも考えられます。

 

しかし、『アサヒ』の名前の伝承は九重町飯田高原(朝日)長者原に有り、『アサヒ』の場所とも考えられ、此処には『真名井』と想われます、龍神伝説の『男池』があります。

最後は、『日出ひじ町』の『真那井』です。『日出町』は『朝日』を意味している。とも採られ、場所もスサノオ・大屋毘古命・賀茂建角身命・崇神天皇の居た杵築「紀氏」熊野の本貫地であります。大いに考えられます。

 

トヨケ(豊受大神)は『ホツマの君』とも『東の君』とも呼ばれており、倭(九州)に『西の君』が居た事を意味しており、『西殿』は『ヒロタの宮』とされて金崎(金折=住吉神)夫妻が捨てられたヒルコを拾って育てた場所とされています。

金崎(金折)は住吉神と述べられ、此れは底筒男の『ウガヤフキアワセズ』や『開花=若倭根子日子大毘毘命』中筒男『崇神』表筒男『安曇磯良』が想像されます。『西の君』が誰かが気に為ります。亦、『西殿』の場所も気になります。検討してみる事とします。

 

地図上でゆふいんの西に目を遣りますと、佐賀県鳥栖市があります。

わたくしの妻の知人に、鳥栖市にお住いの金崎さまが居られます。鳥栖市弥生ヶ丘~三ヶ敷地区が『ヒロタの宮』であったのかも。と推察されますが、鳥栖市には『ヒロタ』の地名は在りません。如何も此処ではないようです。

 

倭(九州)にて『ヒロタ』の地名は長崎県佐世保市早岐ハイキに広田が在ります。『ゆふいん』からは地図上で真西にあたります。

 

わたくしには、此処『早岐のヒロタ』が、豊受大神の時代(オオタタネコの時代?)に『西殿のヒロタ宮』と考えられ、金崎夫妻(本貫地は、宮崎県出身と考えられます)がヒルコを育てた場所と想われます。

と謂うことであれば、ホツマの『西殿の君』とは、金崎(金折=住吉神)夫妻か、『早岐ハイキ神』を措いて考えられません。もっと考えれば、『ヒルコ』が成長して『早岐神』と同一人物として隠された。とも想われます。

記・紀では『ハイキ神』と謂う名前のみしか出ておらず、『ハイキ神』の正体が不明で研究者を悩ましていました。

佐世保市早岐に在ります『早岐神社』は須佐之男を祀っていますが、此れは意図的に隠されたものと考えられ、『早岐ハイキ神』の本質は、須佐之男の姉の『蛭児ヒルコ』である。と考える事ができます。

ホツマに拠ると、『蛭児ヒルコ=ワカ姫=稚日女尊=たか姫=シタテル姫=御歳神=ニフの守』はその後、思兼命=阿智彦アチヒコと結婚して手力男命タジカラヲを儲けた。事に為っていて、「ヤマトヤス宮(筑前夜須) 引き移し アメヤスカワの ヒルコ姫 御子オシヒト(天忍穂耳命=アマテルの子)を 養します 根(島根)とサホコ国(場所不明) 兼ね治む」6文。と述べられ、如何も甘木朝倉に居たと考えられます、病弱の幼い天忍穂耳命の面倒をみた。とされています。亦、思兼命はアマテルの左大臣として仕えた。と述べられ、

アマテル(斎名ワカヒト)の出生地は、トヨケ(豊受大神=アマテルの祖父)の居た『ゆふいんハラ浅間宮』で、月読命と伴に修行をして、16歳まで育ち、その後は基山町の『伊勢』にも居たものと考える事ができます。現在『伊勢山神社』が残っており、西暦955年(天暦9年)第62代村上天皇時の県主が、伊勢神宮の別霊を勧請して出来たもの。と由緒にあり、『伊勢山』の地名が残っており、以前はこの地区は『伊勢』と呼ばれていたと考える事ができます。

近くには、『西島』『新島』『御勢大霊石神社=神功皇后と仲哀天皇が羽白熊鷲と戦い、陣を構えた場所で、仲哀と天照大神を祀っています』の地名があり、この傍には宝満川が有明海方面へ流れており、伊勢と呼ばれていたものと考えられます。

基山町の古社、『荒穂神社』では瓊瓊杵尊(斎名キヨヒト)を祀っており、キヨヒト(瓊瓊杵尊)は祖父アマテル(斎名ワカヒト)が居た基山伊勢で育った。様です。

亦、井上悦文氏の説(甘木朝倉の『麻低良山マデラヤマ』に在る『麻低良布神社マデラフジンシャ』は書道の草書体で書けばアマテラスを意味している。ので此の朝倉の地に天照大神が居た。と謂う説)どおりに朝倉の地区でも存在が考えられます。アマテルの御子(斎名)オシヒト(天忍穂耳命=アマテルとホノコの子 )は此処朝倉地区(ヤマト夜須宮)からタガ若宮(鷹羽宮=多賀宮=香春古宮八幡神社周辺)へ移動した。と解釈されます。

ホツマ本の触りを端折って解釈しましたが、

このように、ホツマの記述は信頼性が認められ、歴史の解明に役に立ちそうで、ホツマ伝の研究を皆様にもお勧めできそうです。

ホツマでの倭の領域は、九州~出雲(根)~気比(北陸)~瀬戸内~愛媛と考えられます。富士山や浅間山の関東以北の領域の解釈は無理があるようです。

 

 

 

 

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