「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

本当の笠縫邑の場所と、日高彦穂穂出見尊の正体。

2018-01-17 | 古代史

わたくしの出身地久留米市から、鳥栖市~基山・小郡~甘木・朝倉~浮羽・吉井~田主丸を囲む内には、東方の九重・久住・玖珠・日田方面から、西の久留米市に流れ、南に曲がり有明海に注ぐ筑後川があります。

此の筑後川の周辺には勿体島・扇島・浮羽島・唐島・西島・新島・四三島・金島・中島・干潟・船越(水路と水路のあいだの陸地を、船を丸太棒に載せて大人数の人力で引っ張り、移動させた場所)・浮地の名称が残っており、以前は有明海の汐が筑後平野の奥まで遣って来ており、海水と真水が混じる淡水海(おうみ)→近江と呼ばれていた場所も有ったものと考えられます。

滋賀県の近江は、九州の阿蘇氏の志賀氏等が移動をして、近江(淡水海)と呼ばれるように成ったものと考えています。

(琵琶湖沿岸の地名には、『彦根市柳川町』・『彦根市薩摩町』・『大津市』・『甲良町』と謂った九州の地名が数多くあり、近江の地名も筑後の淡水海(おうみ)が滋賀の近江に成ったものと考えられます。)

ホツマ伝の叙述では、イザナギ伊弉諾命(斎名タカヒト、幼名:カミロキ(神漏岐) 最期は兵庫県淡路市一ノ宮多賀で神上る)や、その姉のココリ姫=白山姫、久留米市白山町から、日田市日高町ダンワラ古墳群が在ります地区に居たと考えられます耶蘇杵ヤソキネの元に嫁に行き、大宮姫ミチコを生み、大宮姫ミチコはアマテルの東の院(大分市東院)の局の『典侍』に為っています。

※最近『大宮』の地名が日高町の傍にある事を発見し、大宮姫は此処で生れたものと考える事が出来、『此の耶蘇杵や豊受大神の居た場所の考察は間違いのないもので、ホツマ伝の叙述も正しい』と考えられます。

※ココリ姫=菊理姫=白山姫が、久留米市白山町から日田~うきは市の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主に嫁いだと考えられます根拠を申し上げます。

久留米市白山町の隣は大石町で、微高地に為っていて、近くに『水天宮=白山姫=天御中主命』総本宮が在ります。この大石町には、『伊勢天照御祖神社』=通称『大石神社』が、『天照國照彦天火明尊』の親代りの『豊受大神=高躬結び神』を祀っています。

この『大石神社』の御尊体は、巨大な川石であります。此の『大石』が『大石町』の由来と謂われており、傍に流れています筑後川は、下流域に当たり、砂が堆積をしています。研究者は、『如何して此の様な大石が在るのであろうか。何処からか運んできたものであれば、何処からの由来であろうか。』と、猜疑されています。

わたくしは、御尊体の『大石』は、高躬神・耶蘇杵の本貫地である、筑後川中流域うきは市の『筑後大石』から大山祇命一族=橘氏一族=月氏=物部氏の源が、耶蘇杵と白山姫=菊理姫の婚姻を祝って運んだものと、考えています。此の、うきは市『筑後大石』は、『高見』と地区名が為されています。

白山姫(クグリ姫)は、後には、根国=越中・越後で神上っています。父親のアワナギ沫蕩尊は、「根の国からサホコチタル国まで法をもって治めた」と述べられ、此の解釈は「島根県から新潟県周辺までを法をもって治めた」と考えられます。

ですから、豊受大神の時代には、日本列島の各地には、数多くの人々が移動を始めており、王の権威の頒布が、国家形成上、必要と考えられたものと想われます。

 

島根県から福井県~新潟県迄には、佐賀・筑後物部氏の移住者が、数多く渡っているものと考えています。金折=住吉神(ホツマ伝にて『金折が住吉神である。』と述べられています。)=ウガヤフキアエズ(※『高良玉垂宮神秘書』に、『鵜葺草葺不合尊ハ住吉大明神也』と記入されています。)=開花天皇(若倭根子日子大毘毘)の子である速秋津姫アキコとアマテルの間の子、『天津彦根命』(天御影神の父)も若狭・近江へ渡ります。(当時の船での九州から本州への航法は、日本海沿岸航路が主であったと考えられます。)

景行天皇のヤマトタケ日本武尊の足跡を辿る追悼の旅では、博多湾から出雲~気比の地名が在ります久美浜湾、若しくは丹後半島を廻り込んだ籠神社・天橋立が在ります宮津湾・若狭湾から上陸して、綾部~琵琶湖大津~伊吹山~鈴鹿・能褒野(ヤマトタケ日本武尊の霊魂を弔う)~愛知(熱田宮)~静岡(佐賀県の富士町の『富士』が静岡に渡っています。亦、徐福伝説も一緒に関東に渡ります。)~関東(千葉・茨城・群馬)~三重県伊勢(倭姫に会いに行く)~奈良~大阪~兵庫・淡路(一之宮)~尾道~苅田(黒田)~別府湾~阿蘇・高森(穴穂部宮)と考えています。

 

倭人は、倭ヤマト政権(トヨケ~イザナミ・イザナギ~アマテル・スサノオ)の当初よりも以前から、日本各地への分散進出が進み、『倭人の統一支配が課題であった。』と認識されます。

金折=住吉神は、そう謂う意味では北海道を含めた全国に足跡を残しており、(民謡や神社で理解できます。)次の世代の景行・崇神に大きな影響を与えたものと想われます。

崇神=ミケイリ・カンタケは、日高彦穂穂出見尊=伊香色謎命の間で生まれ、久留米市城島シキの住吉神=金折=開花に育てられ、住吉神=金折=開花から『白羽の壐オシデ』・母から『十字剣』を拝受し、後には※1、イスラエルのモリヤ山の神を守る『神武』(カムヤマトイワレヒコ=大昔からヤマト倭に伝承のモリヤ守屋山の神を守るオトド臣)を名乗り、※2、アマテル・ホアカリ由来の田川(多賀)のアスカの宮を奪いに往征します。

これが、記・紀で謂う処の『神武東征』であります。福永晋三氏の説も、概要は略一緒であります。

 

※    3、崇神(神武)は最初の海路で失敗し、陸路で二回程遠征をしますが、此処を守っていたのが、長髄彦命で、長髄彦命とは、固有名詞ではなくて、単に『脚の脛が長かった』ので、呼ばれた『仇名』であろう。と考えられ、此処『アスカの宮』を守って居たのはアマテルの右の羽である景行天皇=猿田彦=彦坐王=天之児屋根命(春日尊)と考えられます。

 

※    1、高良玉垂宮神秘書P143~P144の叙述の解釈に拠ります。

※    2、ホツマ伝《39文》より解釈しました。

※    3、福永晋三氏《神武は、筑豊に海路で一回、陸路で二度遠征した。》・《香春~赤村がアスカの宮であった。》、地区・神社伝承分析研究説を支持します。

 

景行=猿田彦=彦坐王=天児屋根命(春日尊)は、崇神(神武)の猛攻で、一旦近畿に引き、近畿で西暦251年に即位します。そして、258年8月末に近畿物部氏(拓跋氏)の大軍?を率いて行橋に遣って来ます。勝山黒田に行宮をつくり、ゆふいん(高天原)の速津姫(スサノオが求婚したお方)に崇神(神武の名を騙った人)の動静と居所、支持者の数等を、確認後、杵築に居た崇神(神武)を攻め、殺します。(宇佐公康氏の記述による解釈に寄ります)崇神(神武)は杵築の『小熊山古墳』に埋葬されますが、後に近畿奈良纏向の『行燈山古墳』に移されます。

続いて景行(猿田彦)は、豊後直入~阿蘇に入り、崇神(神武)に味方した、志賀氏・矢田氏(八田)・中臣氏(藤原)を討ちます。

(高森に在ります草部吉見神社の神紋の『鷹羽5枚』の内にあります『3本揃い鷹羽』は志賀・矢田・中臣を表しているものと考えています。)

景行は一旦、筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)に行宮を創り、六年程過ごし、熊本菊池郡に居たと考えられます熊襲梟師クマソタケルを、二人の娘(市乾鹿文イチフカヤ・市鹿文イチカヤ)を騙して、酒を飲ませて殺害し、滅ぼします。熊襲梟師クマソタケルとは、紀元前473年以後に倭に遣って来た『呉』の王族と、犬祖伝説を持って倭に遣って来た人達の混血と考えられます。この末裔が菊池氏や松野・松隈・松井と謂う、松の付く姓を持つ人。と考えています。

 

筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)はアマテル(=瓊瓊杵尊と思います。)が一時居たイサワ(現在は三沢と呼ばれています)の基山町『伊勢宮』の傍で、景行の後には、日本武尊(小碓命)の子であります、仲哀天皇が陣を設けて羽白熊鷲と対峙した『御勢大霊石神社』があります。仲哀天皇が陣を設けた理由は、『伊勢』(アマテル=瓊瓊杵尊の居た聖地であり、景行が6年程駐屯した由緒ある、友軍の地)をバックに甘木・朝倉の羽白熊鷲(大国主命=事代主神=崇神派=天津麻占=大山祇派=雷神派)との戦いを有利に進める目的があった。と想われます。

 

『アマテル』(天照大神)は『伊勢』に居た事が『ホツマ』には述べられており、此の『伊勢』の本来の場所は、現在の三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の『伊勢』の事と考えられ、『アマテル』は『ゆふいん・日田ダンワラ』と『基山』の間を往来していた。と考える事ができます。基山町白坂には、猿田彦(景行)の立派な石碑があります。

羽白熊鷲とは、大己貴命(初代大物主)~大國主命(事代主神)~崇神(彦穂穂出見尊と玉依姫の子~天津麻占=大山祇)=雷神を支持する族一派の事であると想っています。

崇神は、久留米城島シキ、玉垂宮(磯城瑞籬宮)に居て、崇神八年十月に筑後國御原郡の高橋邑(現在の太刀洗町高橋)の『活日イクヒ』に酒を造らせて、意富多々泥古(オオタタネコ)=ホツマ伝の編者です。に、倭大國魂神(豊受大御神と想われます)・大物主神(大己貴命=物部氏の初代首領)を甘木・朝倉の御諸山(三輪山=大神山オオミワ山)にて、祀っています。

神武(崇神)は長髄彦(景行)を追い出した後は、柏原で即位したと記紀では述べられていますが、(百嶋説では、本当の字のカシハラは『橿原』や『樫原』では無く、『柏原』と書くそうです。)

(わたくしは、以前にはゆふいんの『カシハラ樫原』で即位したものと述べていましたが、最近『柏原』が佐賀県神崎市『日の隈』公園の傍に在るのを発見、『柏原公民館』の前には寄せ集められた由緒の有りそうな古い石群があり、崇神(神武)は、此処、和邇氏の郷(景行派=猿田彦派)『日の隈』(日は天照大神を表す)を制圧し、復活再蜂起を恐れて、駐留したものとも考える事が出来ます。

多分、佐賀県和泉の『柏原』にて、記紀に謂う、神武(崇神)が即位を宣言した場所で有ろう。と思います。

 

久留米市磯城(城島)の瑞垣宮に居た崇神は、天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。と日本書紀(崇神六年条項)にあり、この笠縫邑(カサヌイムラ)の場所は、麻底良山(ア)マテラ(ル)ヤマ(295m)が在ります朝倉市志波地区を指しているもの。と考えています。

書道家の井上悦文氏の解明された、草書体での解読では、『アマテラス=2代目天照大神向津姫』と読める説を支持しています。

笠縫カサヌイ』とは、地名ではなく人名仇名の名称で、『日本書紀』神代下第9段では、『手置帆負神タオキホウイノカミ』が『作笠者カサヌイモノ』と述べられており、

先代旧事本紀』の「天神本紀」では「笠縫氏の祖は天津麻占(アマツマウラ)」である。と記しています。

と、謂うことは、『手置帆負神タオキホウイノカミ』の正体は『天津麻占(アマツマウラ)』の事。と解釈することが可能です。

『先代旧事本紀』は、その後に、「曾々笠縫等ノ祖天都赤麻良」と記入され、テが欠落?の『赤麻良アマラ』とは、『麻底良山(ア)マテラ(ル)山』が在ります朝倉市志波地区を意味しており、此処が天照大神を祀った笠縫邑(カサヌイムラ)の場所と考えられます。また、『天都』とはアメのミヤコとも解釈され、『先代旧事本紀』が編纂された時代以前には朝倉に王権の所有者が居たことを証明するもの。と解釈されます。『麻底良マテラ山』の麓は『政所マンドコロ』と謂い、普門院と謂う、鎌倉期(筑後川の中島に在って、洪水に遭うので移築された)の寺があります。

 

ホツマ伝では、天津麻占(アマツマウラ)は、サクラウチの孫で、父は『大山橘統オオヤマカグツミ』です。大山橘統の妹が、アマテルの内宮の『ホノコ』(向津姫・天照大神)になります記・紀では、ホツマ伝での天津麻占(アマツマウラ)を大山祇(オオヤマツミ)と述べています。

 

ホツマ伝での『天津麻占(アマツマウラ)』は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)のと述べられています。天津麻占(アマツマウラ)の兄が『橘山統、カグヤマツミ』で、タキコ{スサノオと不倫したハヤ子(アマテルの内侍)の生んだ三つ子の第2子タキコで『江の島姫』とも呼ばれます}を娶り、天香語山(手栗彦)と妹の天道日女命を豊後(ゆふいん~宇佐・日出・杵築=紀伊の熊野と、当時は呼んでいた。)で生んでいます。

 

ホツマの伝承を信じますと、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)は、朝倉市志波地区周辺に棲んでいた(生れた)と、考えられます。後には、糸島の『大卒』(ヒタカミ国・ホツマ国の出張所と考えられます。)に移動している。と考えられます。

 

糸島の『(一)大卒』の爾支(ニキ・ニシ)とは、基山の『伊勢・妹背』から移動したニニギネ(=アマテル)を指し示しているものと考えられます。

記・紀では、ゆふいん(高天原)から糸島へ、猿田彦の途中までの案内で天降った。と述べられています。(わたくしの解釈による)

 

ホツマ伝では、スサノオと櫛稲田姫の子として順に、大屋毘古オオヤビコ・大屋姫・枛津ツマツ姫・事耶蘇コトヤソ・大己貴オオナムチ・大歳倉稲魂命オオトシクラムスビ・葛城一言主カツラギノヒトコトヌシ・須勢理スセリ姫の8子を儲けた。とされ、スサノオと櫛稲田姫は相当の長期に渡って一緒に生活をしたものとも考えられます。

しかし、古事記では八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)は櫛名田比売(櫛稲田姫)の子とされ、八島士奴美と兄弟とされる大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子と述べられています。(古事記では、櫛名田比売と神大市比売は別人と認識されます。)

先代旧事本紀でも、大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子とのべられて、神大市比売は大山祇の子とも述べています。

先代旧事本紀が述べる、大山祇とは、ホツマ伝では天津麻占(アマツマウラ)の事で有ります。天津麻占(アマツマウラ)の娘は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)がいます。如何も、神大市比売は磐長姫と同一人物に思えます。

磐長姫が笠縫氏の朝倉地区で育ち、大年神・宇迦之御魂神(稲荷神)を儲けたと解釈できます。

 

第50代桓武天皇(父は、天智天皇の孫の光仁天皇・母は、百済第25代武寧王が田主丸唐島で儲けた子の末裔、高野(竹野タカノ)で生れた『新笠』です。)の生母の『新笠』とは、朝倉の笠縫氏の邑(大山祇氏一族→代表に日野氏が居ます。→室町の足利義政の妻、日野富子が有名です。)と関係を考えられます。

 

大己貴が、別名『佐田大神』の事で、大歳倉稲魂命が『佐田彦大神=猿田彦=宇迦之御魂神』の事と考えられます。

 

宇迦ウカ→ウガ』とは『御食ミケ』の事でありますが、陸地を開墾し食料増産に大きな功績を残した『大神オオガ→ウガ』氏とも解釈され、本来の『宇迦之御魂神は豊受大神』と考えられます。豊受大神の後を継いだのが猿田彦(景行天皇)で、百嶋研究においては、豊前の『四公神社』では、猿田彦を祀っており、{猿田彦は『赤米』研究、増産を行なっていたもの。}と百嶋氏は述べられています。

 

『大神氏』とは『豊受大神の一族の総称』を謂うもの。と、捉えるべきであります。

 

『大神氏』とは『阿蘇氏』の事で、『阿蘇氏』の中で一番有名なのが、日本各地に足跡を残しております、日高彦火火出見尊と豊玉姫が生んだ。と記紀で述べられています処の、ウガヤフキアワセズ=住吉神=開花(若倭根子日子大毘毘の母は内色許売命、父は大倭根子日子国玖琉)=金折(金崎)でしょう。

 

塩土翁神とは、高躬の長男の耶蘇杵(白山姫の夫で、大幡主命と想われます。)の事と想われます。

天草で製塩を行い(古川清久氏の研究)全国※に頒布したものと考えています。塩は魚介類・野菜の保存に欠かせないものでした。亦、住居の土間の粘土にも、海藻・塩の混合が欠かせず、民謡と一緒に能登~東北~北海道~三陸まで足を運んでいる。と、考えられます。(神社研究の百嶋由一郎氏や、民謡の蒐集家竹内勉の研究。)

※ホツマツタエでは、瓊瓊杵尊(右の羽は天児屋根命=景行)が、『八洲巡り』をした。と、述べられています。

阿蘇山には、『根子岳』や『西の宮』(正式の西の宮は早岐にあります。)の名が、祖母山(ウガヤを生んだ豊玉姫の事と謂われています)宮崎には、鵜戸神宮、金崎町があります。福岡博多には、住吉神社(筑前国一之宮)、熊本天草には塩田跡地があります。(古川清久氏の塩田研究発見によります。)能登半島珠洲の塩田(江戸時代以前より行なわれていた由)~宮城県には鹽竈神社(陸奥之國一之宮)

故、竹内勉さまの民謡の研究では、鹿児島おはら節が→熊本牛深ハイヤ節→日本海沿岸→佐渡おけさ節→北海道ソーラン節まで繋がっている由。

 

※    『市祁嶋姫』は、記・紀では宗像三女神の事とされていますが、(ホツマ伝では)宗像三女神(タケコ・タキコ・タナコ)は、スサノオと根国の守であるクラ杵の娘コマス姫ハヤコの不倫の子で、本来の『市祁嶋姫→斎き奉る姫』は『豊玉姫』を指します。『豊玉姫』は対馬にも伝承があり、『豊玉姫』が新羅国から対馬経由で帰還したもの。と考えることが出来ます。

 

『豊玉姫』は宇佐の『大元宮(ウモトの宮)』亦の名を『アカルの宮』に暫くいましたが、田川香春町(軽の宮)に移動して(息長=秋永の本貫地)、磯城(久留米市城島)から移動した孝元(兵主命ツワモノヌシ=日高彦火火出見尊)と暮らします。孝元は、新羅に渡ったものと考えられ、対馬の神社伝承にも彦火火出見尊が数多く祀られています。

新羅国で『スサノオ』に出会った『アカル姫=スサノオ(天日鉾)の妻』は、玉依姫の伯母の『豊玉姫=本当のアカル姫』に、間違われて伝承されています。

 

(百嶋由一郎さまは、日高彦火火出見尊を『豊玉彦』=猿田彦と呼んでおられますが、正解は、猿田彦とは、景行天皇(天児屋根命=長髄彦=彦坐王)の事です

 

田川『香春神社』の由緒にも、『息長大姫大目命=豊玉姫=天鈿女命』が、「崇神天皇の御代に辛國(韓國)の経営に当たられて帰国された旨」が述べられており、『日高彦火火出見尊(兵主命=孝元(大倭根子日子国玖琉命)』と一緒に韓國へ渡って、帰国たもの。と考えても良さそうです。

 

 

 

 《追補》2019年9月17日

カサヌイムラ笠縫邑とは、

紀元前210年頃『秦』の後で興った『漢』の王家の一族(阿智王)が、応神天皇期に韓半島を経て、豊前・豊後→筑紫・筑後へ渡来して、佐賀県神埼市~鳥栖市~小郡市~朝倉市~うきは市~糸島市~久留米市~大牟田市に散らばり、機織り・製紙・木工・造船・彫金細工・養蚕・農耕・土木等々の技術の進歩を齎します。この時、『漢字』や『佛教』も『倭』(九州)に這入って来ている。と、考えられます。『倭』では、『東漢』『坂上』『大蔵』『原田』『田尻』『平田』『谷』『山口』『桜井』等の名前を使用しています。

カサヌイシ笠縫氏の呼称は、『漢』を興した『劉邦』リュウホウに由来している。と、想われます。

『笠縫』氏は、『リュウホウ』氏と呼べます。

 

 

 

 


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