「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

田主丸町唐島にいた、コンキ昆支王が第24代仁賢天皇の事で、昆支王の子『牟大』が百済第24代東城王と、考えられます。

2019-02-05 | 古代史

日本書紀・古事記を鵜吞みにして、歴史を信じている人には、正しい歴史は解明出来そうにもありません

どちらの書も、本当の事。と、本当とはハッキリしていない事。噓をついている事。を交えて記入している。ので、其処の取捨選択が求められ、研究者を悩ます事になります。

 

日本書紀での武寧王の各加羅島での誕生項は、全くの出鱈目の噓であります

 

此れは、武烈天皇(武寧)が倭王を投げ捨ててしまって、百済王と為って韓半島に行った事で、倭人(後の藤原不比等等日本書紀編纂者)は、(武寧王の倭での足跡を消したかった為に)武寧王が生まれて直ぐに百済に送り返された。とされ、武烈天皇は悪逆非道の天皇と有らぬ悪口を日本書紀に書き残したものと、考えられます。(武烈天皇の悪口雑言は古事記には一切出てきません。)

武寧王(父は加須利君=蓋鹵王です。)は誕生して直ぐには百済に送り返されてはおらず、誕生の場所は、佐賀県唐津市鎮西町の各加羅島では無くて、福岡県田主丸町唐島秋永氏(息長氏)の地区であります。

義父のコンキ昆支王(多分、此のお方が倭の『第24代仁賢天皇字名はシマノイラツコ嶋郎とされている。と考えらます。)と、5人の子(内の一人は百済の『東城王』に為ります『牟大』、もう一人は『タシラカノヒメミコ手白香皇女=欽明天皇の母』?と考えられる)が、武寧王(父はカスリ加須利君=ガイロ蓋鹵王です。コンキ昆支・文周王とは、年の離れた母違いの兄弟になります。)と一緒に暮らしていた。と、考えられるのです。

(百済第21代ガイロ蓋鹵王は、即位455年~475年です。子に第22代文周王・即位期間は475年~477年です。・昆支王・第25代武寧王即位期間は502年~523年です。)

 

百済史を研究され、ブログを起こされておられます、

kei-wataさまの『ピグの部屋』を読んで、『百済の歴史』を勉強してください。

 

 

 百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

より、ほぼ全文掲載します。

 

倭国に滞在していた、百済の王子のひとり、斯麻(しま)。五〇一年、急きょ、百済に戻ることとなった。百済王である牟大(むだい・むた)が、家臣の衛士佐平・苩加(はっか)に討たれたとの急報が届いたからだ。

 

斯麻が百済の王都である熊津に戻るのは、これが最初ではない。養父で、牟大王の実父でもある昆支(こんき)も、父・毗有(ひゆう)王の命により、兄の慶司(けいし)の代わりに倭国に赴くのだが、時おり百済に帰っていた。昆支が最後に百済に戻ったのが四七五年、蓋鹵王(がいろおう、慶司)が高句麗の攻撃により 都の漢城を奪われ殺害されたため、南遷した慶司の遺児である文周(ぶんしゅう)を助けるために。昆支の代わりに、倭国には牟大と斯麻が残ったのだが、翌年(四七六年)、昆支が急死、そして、文周王も解仇(かいきゅう)一派により殺害されたため、牟大が百済に戻り、翌年、百済王になった(東城王)。

 百済にいる牟大と、倭国にいる斯麻。牟大に子がいたかどうかは不明だが、どちらにせよ、牟大の子が倭国に赴くことは無かっただろう。王の長男が倭国に赴くというのは、わずかに阿華王が長男の腆支を送り込み、腆支が久爾辛を送り込んだ事例はあったが、それ以外は、王の弟が倭国に赴くこととなった。牟大と斯麻、実の兄弟かどうかはわからないが、牟大にとって、頼りになる弟分は、斯麻をおいてほかにいなかっただろう。三国史記によると、斯麻は牟大の子となっている。これは、実の親子関係というよりは、前に書いたように、政治的な養子関係からきたものだろう。歳の離れた(義)兄弟であり義理の父子関係と、互いに信頼しあう関係から、次の王は斯麻がふさわしいのではと、多くの百済の豪族が思っていたことだろう。古代ローマの帝位継承の事例は知らずとも、古代中国の堯から舜への禅譲のことはよく知っていたはずである。

 百済に戻り、殺害された牟大の後を継いで王になった斯麻。即位式などは後回しで、早速、苩加の討伐に乗り出す。自らも軍を率いて、牟大がかつて築いた牛頭城を拠点に置く。そして、解明の率いる軍勢が苩加軍を破る。破れた苩加は牛頭城に送られ、そこで王命により処刑された。

都に戻るやいなや、王は使者を梁に送った。牟大の後を継いで、王になったことを報告するために。中国南朝も、南斉が滅び、梁が建国しているので、祝賀も兼ねて。祝賀の使節は、まだ倭国にいた際にも送っているのだが、今度は百済王の肩書きで。

 続いて、斯麻は、高句麗に兵を送った。百済にとって、高句麗に奪われた、かつての都である漢城の周辺は、回復すべき失地。肝腎の漢城周辺は、一応高句麗の領土ではあるのだが、直接統治されておらず、そのため、もともとこの地にいる百済の残党が隙を見て一時的に占領し、それを高句麗軍が取り戻す、ということがたびたびおこなわれていたようだ。とはいえ、高句麗領には変わりなく、これまでの百済軍も、大軍を送り込む時間的余裕も兵力も無く、手をこまねいて望郷の念を抱くしかなかった。今回、即位して幾許も経たないうちに、高句麗に兵を送るというのは、失地を取り戻すという、高句麗に対する百済の強い意志表示を表明したことになる。もっとも、この時点に於いては、さほど良い結果は得られなかった。むしろ、食糧難に悩まされたり、隙を突いて靺鞨軍が攻め込んできたりと、痛手を受けることが多かったのだ。

 やがて、疫病がはやり、水不足に苦しむ民と豪族は、国の蔵を開けてほしいと嘆願した。そこで、王は、国の蔵を開けて、彼らの飢えをしのいだ。

 先代の牟大の時は、国の蔵を開くことを許さなかった。前にも書いたが、米ならば豪族の蔵にたくさんあるので、そちらを開いたほうが民のためになるという、もっともらしいことを言って、豪族の力を削いでいった。けれども、それが豪族たちの離反と恨みを買い、結局、苩加の反乱として返ってきたのだ。今回も、同じことをすれば、民や豪族は靺鞨や高句麗に逃れ、第二の苩加を生み出すかもしれない。敵に自ら力を与えることはできないし、そもそも、豪族に昔日の勢いは無く、王権も安定している。今必要なのは、民、豪族たちと力を合わせ、靺鞨や高句麗を退け、漢城の地をとりもどすこと。漢江流域をとりもどすことといったほうが表現的にはよいだろうか。

 高句麗は、五〇七年、将軍高老が軍を率いて、漢城にやってきた。そこで、斯麻は自ら軍を率いて、高句麗軍を退けることに成功した。

 その五年後、再び高句麗軍は、今度は大軍を率いてやってきた。史料には具体的な数字は書かれていないが、おそらく二、三万ほどだろうか。北方の城は次々と落ちていく。斯麻は、今回も自ら軍を率いていく。今度は、精鋭の騎兵隊三千を引き連れて。

 高句麗軍は、百済軍の軍勢をみて、これを破るのは容易いと思い、特に作戦は立てず、数にものをいわせて叩きつぶすことにした。たしかに、数だけをみれば、それも当然だろう。けれども、高句麗軍にそう思わせて油断させるのが、斯麻の思うツボだった。

 

 斯麻が自ら選んだとされる、三千の精鋭たち。騎兵というのは、文字通り、馬に乗って走らせて、攻めること。一般的に、騎馬隊といっても、実際には高官が馬にまたがって陣頭指揮するだけで、ほかは歩兵で戦うものだ。日本の戦国時代に川中島で五度も戦った武田方と上杉方の騎馬隊もそうだった。ところが、騎兵の場合は、みんな馬にまたがって戦うのだ。そうすることで、機動力が活きるため、すかさず敵の背後に回り込むことができるのだ。そして、虚をついて、一斉攻撃する。日本人が騎兵を用いたのは、源義経の逸話(史実か不明)を除けば、日清戦争もしくは日露戦争からといわれている。さすがの高句麗軍も、百済の騎兵による奇襲攻撃には対処できなかった。騎兵戦術はむしろ高句麗のほうが得意としてはいたが、まさか、百済軍が騎兵戦術を採ってくるとは予想だにしなかったからだ。こうなると、兵が多いことがかえって不利に働いた。兵が多すぎるため、かえって統制がとれず、いたずらに犠牲者が増えていくのだ。結局、高句麗軍はほぼ全滅してしまった。

 これまで、高句麗軍は、斯由王が百済の攻撃により戦死してから、その子である伊連の代に、その息子の談徳以来、百済には勝ち続けていた。一時期、腆支王の軍に負けたことはあったものの、四七五年にはついに百済王城を落とし、百済王慶司を捕らえて殺し、恨みを晴らした。それから、百済のほうが国内に問題があったことと、高句麗も王の交代があって、直接刃を交えることが無くなっていたが、百済が武寧王の即位により高句麗と抗争することとなり、今度は失地回復に執念を燃やす百済のほうが、恨みを晴らして久しい高句麗よりモチベーションが高かったためか、百済の方に戦いが優位に進んだといえる。

 此度の戦により、漢江の周辺は、およそ四十年ぶりに百済に戻ってきたのだ。これで、百済にも「恨」が消えたことになる。元は同じ扶余族でありながら、さながら春秋時代の呉と越の関係のごとく、互いに「臥薪嘗胆」「不倶戴天」の敵として争ってきた高句麗と百済。ここで、両国は停戦と相成ったのだ。もはや互いに「恨み」は消え、これからは、相対する国と国との関係となるのだ。決して友好的ではなく、この後も両国の抗争は続くのだが、ひとまず両国は呉越ではなくなったのだ。

 早速、このことを梁に知らせる。翌年(五二一年)、梁の高祖・武帝(簫衍)はこのように冊命した。

 「行都督、百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王隆(りゅう、斯麻のこと)は、(梁の)藩屏(はんぺい)として守り、遠くから貢を納め、忠誠を尽くしている。朕はこれを喜ばしく思い、前例に倣い、使持節都督・百済諸軍事・寧東大将軍という、栄誉ある爵号を授けることとする」

 武寧王の「寧」は、「寧東大将軍」から採られた。「武」は、高句麗を破ったことからとも、梁の武帝の武から来ているとも言われている。もしかしたら、倭王武の武も考慮されているかもしれない。
 
 高句麗を破り、漢江を取り戻し、とりあえず高句麗とは停戦したが、ふたたび攻め入ってこないとも限らない。そこで、斯麻は漢城に赴くと、北方の防衛のため、隻峴(そうけん)城を築かせることとした。これは王の存命中は完成しなかったが、後年、高句麗の軍勢をこれでくい止めることとなる。

 五二三年、斯麻王は、六十二年に及ぶ波瀾万丈の生涯を閉じた

 

 

 

以上が、

kei-wataさまの『ピグの部屋』

百済物語10 武寧王(5)斯麻の即位 治世 漢江を取り戻せ

でした。

勝手に掲載して申し訳ございません。

 

 

武寧王は、倭の唐島(加羅島)で462年から501年まで暮らしており、その間に、昆支王(475年百済に帰り、翌476年崩御)の子で有ります所の、

 

牟大がサンキン三斤王(477年即位479年没)の後で、百済王(第24代東城王479年即位しますが、501年に殺されます。)に為っております。其の後が武寧王(502年~523年)で有ります。

 

この時代に平群氏が出てきますが、糸島には武内氏・平群の地名が認められ、研究者は『糸島』に目が行きがちですが、当時の政治の中心地は朝倉~うきはで有った。事を見逃してはいけませんね。平群氏や蘇我氏(司馬氏)・大山祇命(橘氏)の所謂、『月氏』は筑後川中流域(日田~うきは~朝倉)で活躍しているのです。

 

継体6年4月(512年)、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣します。この時、筑紫国の馬、四十頭を、百済の武寧王(倭に居た武烈王の事で、梁の王から、寧東大将軍→征東大将軍の称号を賜ります)の依頼で、与えます。筑紫の馬を飼っていた場所は、

 

田主丸町唐島の一つ手前(久留米市寄り)のバス停の場所が『』です。此処で筑紫の馬を飼育したもの思われます。

 

523年武寧王が亡くなった後、倭では、527年に『磐井の乱』が起こり、531年倭王家(日田上宮王家)が滅びます。

 

そして、532年倭の『金官伽耶國』が、新羅の『法興王』によって、併合されます。

 

 

 

 

 


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