「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

ゆふいんに豊受大神は居た。ハイキ神の本質は蛭児である。と考えられます。

2017-07-01 | 古代史

 

平成29年6月11日(日)に古川清久さんより、杵築・豊後高田の神社めぐりを誘われました。関東の『ホツマ伝』の研究者のお方も御出でになる。との事で、パソコンで『ホツマ伝』を開いてみました。

この『ホツマ伝』は、オオタタネコ(別名オオカシマ)が景行天皇(大足彦忍代別)に奉じたと述べられ、記・紀ではオオタタネコは崇神天皇記で登場された人物であります。わたくしの説では、景行(猿田彦)と崇神は同時期に活躍したお方なので、納得できます。

景行は崇神を西暦258年10月に討伐していると考えられ、それ以後に書かれたものと認識出来ます。

このホツマ伝の記述を参考にして、古事記・日本書紀は7世紀後半に作成されたと一部の研究者では囁かれ、記・紀の不述の真実を得る手懸かりと考えられ、最近重要視されています。今日はこのホツマ伝の記述を信じて、記・紀と百嶋神社考古研究と比較考察してみる事にします。

序では、

オオタタネコの祖父のオホミケヌシは、「開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)(春日・須久・岡本、→行橋・苅田・豊前、後に久留米大善寺玉垂宮)の禁忌に触れる后選びを諫めた。」が、断行されたので、オホミケヌシは職を辞して隠居をした。と記述されています。

わたくしの考えでは、

『禁忌に触れる后選び』とは、伊香色謎命=玉依姫(久留米市大善寺玉垂宮)を娶った事で有りましょう。

玉依姫は、孝元天皇=日高彦穂穂出見尊の『妃』に為って天日鉾命=崇神天皇=スサノオを儲けており、孝元天皇の正妻である皇后、『豊玉姫』(内色許賣命と伏せられています。『玉依姫』と『豊玉姫』の関係は、『姪』と『伯母』になります。)は、後継者のウガヤフキアエズ=開花=住吉神を儲けており、

天日鉾命の処遇に困った、孝元と豊玉姫は、新羅王にするべく、対馬経由(対馬の大勢の神官を連れて帰って、基山の伊勢~筑後~筑豊に住まわせています。)で『新羅』に渡り、『天日鉾』を置いて帰ってきますが、天日鉾は、その後、豊後杵築に大勢の新羅人と共に遣って着ます。

豊後杵築に留め置かれた『天日鉾=スサノオ=崇神天皇』は、高幹(高木神)に依ってゆふいん『高天原』の『アマテル』の弟とされ、待遇に怒った新羅人が暴れて混乱が生じます。『天日鉾』は新羅経由で出雲へ流されますが、出雲から、『アマテル』へ『天叢雲の剣』を献上して許されます。

そして、母違いの兄であります『開化天皇=住吉神=ウガヤフキアエズ』が、玉垂宮で『天日鉾』の母である『玉依姫』を娶った。と謂う事です。

 

系図を眺めますと、

イザナミの父はトヨケ(豊受大神)とされ、『ホツマの君』『東の君』『大物忌大神』とも呼ばれ、贈り名は『アサヒ神』。斎名は『タマキネ』で、ヒタカミ国の『天の宮』とも『アマツ宮』とも『ヤマテ宮』と呼ばれます場所(=日田)に居て、現在は伊勢神宮外宮で主祭神として祀られています。如何も、このお方がホツマの中心人物で在りましょう。

 

トヨケ(豊受大神)の子イザナミは、イザナギ(父はアワナギで兄弟にクラキネとココリ姫=白山姫がいます)との間にヒルコ・アマテル・ツキヨミ・ソサノオを儲けています。ヒルコは父が42歳母が33歳で生まれ、忌み嫌われて斎奇イワクス船に乗せて流され、金崎(金折)夫妻がヒルコを助けて、育てた。と述べられています。

 

ツキヨミとアマテルはトヨケの下(ヒタカミ国の『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』)で『陰陽の教え』を受け、16歳から87歳まで『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』に居たとされています。

系図順に、アマテル(男性であります。海人=天照る 斎名ワカヒト)━オシホミミ(斎名オシヒト)━ニニギネ(斎名キヨヒト=賀茂別雷命=天君とされ、八島廻りをされたお方で、記・紀に於いては、ニニギはゆふいんの『高天原』から天孫降臨して、糸島の笠狭岬へ行った。と解釈されて、異なっています。)

 

この人物が百嶋さまの述べられる所の豊玉彦=八咫烏=賀茂建角身命=記・紀では天穂日命=大國主命への使者として出雲へ派遣された、スサノオと天照大神の間で生れた?お方。と感じられます。ホツマの賀茂別雷命と記・紀の賀茂建角身命の関係が勘繰られます。

賀茂氏の本貫地は豊後国東半島杵築=スサノオが居た場所と考えています。

 

オシホミミ(斎名オシヒト)は彦山~田川香春神社(忍骨神)で存在が考えられ、傍の苅田町には多賀宮青龍窟があり、百嶋説では『後に滋賀県近江に移動した。』とされています。ホツマの『多賀宮』は苅田市~香春町に在ったと考えられます。この苅田と香春町の間の山並みを『山背』と呼んでいたものと考えられます。亦、『美濃』の地名も日田市上野に『美濃』があり、ホツマでの場所は一部を除いて殆んどが九州(倭)での記述であり、例えれば、アマテルが『伊勢』に行っていた。と述べられ、此れを三重県の『伊勢』と解釈されますお方が殆んど。でありますが、此れは間違いで、佐賀県基山町の『伊勢』の解釈が正しいと思われます。亦、『高島』が地24文に多く出てきますが、此れも基山町に『高島』地区が在り、滋賀県の『高島』と、勘違いをなさらぬよう注意しなければ為りません。『西宮』は蛭児が居た早岐の事で、『神崎』は尼崎の神崎では無く、佐賀の『神崎』です。

 

如何もホツマの『ヒタカミ国』(日高見→日田かみ)とは、日田~耶馬渓~豊後~豊前(田川)周辺を指していると考えられます。

『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』とは、高天原、即ち『ゆふいん』を意味しており、此処『ゆふいん』にトヨケ(豊受大神)がいて、イザナミを儲けた事を想像できます。

鶴見岳頂上では、軻具土命カグツチを祀っており、カグツチはイザナミが生んだ子であり、それが元でイザナミが亡くなります。

塚原(高天原)に在る創立後1900年以上の古社である『霧島神社』では、イザナギとイザナミを祀っています。日田市日高町東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳)では金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が出土。弥生時代中期の後漢鏡と考えられて、重要文化財になっています。倭王に匹敵する豪族が棲んでいたと考えられています。ホツマで述べられていますヒタカヒコ(日高彦)とも考えられます。日田市日高町には『伊勢神宮』や『法恩寺山古墳群』があり、現在は日田市田島町に在ります『大原八幡宮』の『元大原八幡宮』は日高町傍の『求来里クグリ邑』であり、伊勢(妹背)は此処かも知れません。

亦、久留米市にも『伊勢』と繋がる『伊勢天照御祖神社』が『水天宮』(天御中主命=白山姫=クグリ姫)傍に鎮座しています。久留米は筑後川の真水と有明海の海水が交じる『淡い海→淡海→近江の元)とも考えられます。

 

亦、ホツマでは『ハラ』と謂う場所が出てきますが、此れは『高天(ゆふいん)』を指している。と考えるべきであります。例えばオオモノヌシのコモリが副オオモノヌシに任命して三島(内倉武久氏説の甘木朝倉の三島と考えられます。)の溝咋ミゾクイをハラアサマ(浅間)宮の守りをさせた。と述べられていますが、『ゆふいん』にはアサマ(浅間)と考えられます『馬場浅間』ババセンゲンの地名が伝承で在り、高天原(ゆふいん)の『浅間宮』の事と理解できます。

ホオデミ(彦火火出見尊)の時、オシクモ(天忍雲根命)ヒタカヒコ(日高彦=日田市に日高町が在ります。)が、ハラアサマ宮(ゆふいんの浅間宮※)でホツマ国の政をとる。と述べられています。

 

※    ゆふいんには、以前に『驛』が造られており、一般には、『驛』では常時100頭の馬が飼育されていたと謂われ、此の場所は、ゆふいんの『椿山』の麓に在り、『馬場浅間』部落と呼ばれ、慶長の大地震の後の大雨で『椿山』が崩壊して、埋没した場所であります。

『ハラミ山』とは、『高天見る山』か『妊娠山』と解釈すべきで、形状から天香具山(別府鶴見岳)を指し、『サカヲリ宮』(坂下りる宮)とは、鶴見岳(天香具山)の坂下の塚原(高天原)地区か、ゆふいん地区を意味しており、塚原かゆふいんに『サカヲリ宮』が造られたものと考えられます。その後はニニキネが『ハラ浅間宮』に改装した。と述べられていますので、此れは、ゆふいんの『浅間宮』を意味している。と、解釈されます。

アマテル(天照大神)は、ハラミ山の『サカヲリ宮』にて、一月一日(若日)に生まれたので斎名をワカヒトと呼ばれます。

此れは『天照大神』は『ゆふいん』で生れた事になります。

亦、トヨケ(豊受大神)と孫のアマテル(天照大神)はアサヒハラの洞に入り、神上る。と述べられ、アサヒハラ(アサヒバル)とは、真名井原の事とされ、『真名井』とは、聖井戸、即ち水源地を意味され、

第一候補には、ゆふいん塚原の霧島神社の清水『真名井』が浮かびます。塚原高原は朝日原とも考えられます。

 

しかし、『アサヒ』の名前の伝承は九重町飯田高原(朝日)長者原に有り、『アサヒ』の場所とも考えられ、此処には『真名井』と想われます、龍神伝説の『男池』があります。

最後は、『日出ひじ町』の『真那井』です。『日出町』は『朝日』を意味している。とも採られ、場所もスサノオ・大屋毘古命・賀茂建角身命・崇神天皇の居た杵築「紀氏」熊野の本貫地であります。大いに考えられます。

 

トヨケ(豊受大神)は『ホツマの君』とも『東の君』とも呼ばれており、倭(九州)に『西の君』が居た事を意味しており、『西殿』は『ヒロタの宮』とされて金崎(金折=住吉神)夫妻が捨てられたヒルコを拾って育てた場所とされています。

金崎(金折)は住吉神と述べられ、此れは底筒男の『ウガヤフキアワセズ』や『開花=若倭根子日子大毘毘命』中筒男『崇神』表筒男『安曇磯良』が想像されます。『西の君』が誰かが気に為ります。亦、『西殿』の場所も気になります。検討してみる事とします。

 

地図上でゆふいんの西に目を遣りますと、佐賀県鳥栖市があります。

わたくしの妻の知人に、鳥栖市にお住いの金崎さまが居られます。鳥栖市弥生ヶ丘~三ヶ敷地区が『ヒロタの宮』であったのかも。と推察されますが、鳥栖市には『ヒロタ』の地名は在りません。如何も此処ではないようです。

 

倭(九州)にて『ヒロタ』の地名は長崎県佐世保市早岐ハイキに広田が在ります。『ゆふいん』からは地図上で真西にあたります。

 

わたくしには、此処『早岐のヒロタ』が、豊受大神の時代(オオタタネコの時代?)に『西殿のヒロタ宮』と考えられ、金崎夫妻(本貫地は、宮崎県出身と考えられます)がヒルコを育てた場所と想われます。

と謂うことであれば、ホツマの『西殿の君』とは、金崎(金折=住吉神)夫妻か、『早岐ハイキ神』を措いて考えられません。もっと考えれば、『ヒルコ』が成長して『早岐神』と同一人物として隠された。とも想われます。

記・紀では『ハイキ神』と謂う名前のみしか出ておらず、『ハイキ神』の正体が不明で研究者を悩ましていました。

佐世保市早岐に在ります『早岐神社』は須佐之男を祀っていますが、此れは意図的に隠されたものと考えられ、『早岐ハイキ神』の本質は、須佐之男の姉の『蛭児ヒルコ』である。と考える事ができます。

ホツマに拠ると、『蛭児ヒルコ=ワカ姫=稚日女尊=たか姫=シタテル姫=御歳神=ニフの守』はその後、思兼命=阿智彦アチヒコと結婚して手力男命タジカラヲを儲けた。事に為っていて、「ヤマトヤス宮(筑前夜須) 引き移し アメヤスカワの ヒルコ姫 御子オシヒト(天忍穂耳命=アマテルの子)を 養します 根(島根)とサホコ国(場所不明) 兼ね治む」6文。と述べられ、如何も甘木朝倉に居たと考えられます、病弱の幼い天忍穂耳命の面倒をみた。とされています。亦、思兼命はアマテルの左大臣として仕えた。と述べられ、

アマテル(斎名ワカヒト)の出生地は、トヨケ(豊受大神=アマテルの祖父)の居た『ゆふいんハラ浅間宮』で、月読命と伴に修行をして、16歳まで育ち、その後は基山町の『伊勢』にも居たものと考える事ができます。現在『伊勢山神社』が残っており、西暦955年(天暦9年)第62代村上天皇時の県主が、伊勢神宮の別霊を勧請して出来たもの。と由緒にあり、『伊勢山』の地名が残っており、以前はこの地区は『伊勢』と呼ばれていたと考える事ができます。

近くには、『西島』『新島』『御勢大霊石神社=神功皇后と仲哀天皇が羽白熊鷲と戦い、陣を構えた場所で、仲哀と天照大神を祀っています』の地名があり、この傍には宝満川が有明海方面へ流れており、伊勢と呼ばれていたものと考えられます。

基山町の古社、『荒穂神社』では瓊瓊杵尊(斎名キヨヒト)を祀っており、キヨヒト(瓊瓊杵尊)は祖父アマテル(斎名ワカヒト)が居た基山伊勢で育った。様です。

亦、井上悦文氏の説(甘木朝倉の『麻低良山マデラヤマ』に在る『麻低良布神社マデラフジンシャ』は書道の草書体で書けばアマテラスを意味している。ので此の朝倉の地に天照大神が居た。と謂う説)どおりに朝倉の地区でも存在が考えられます。アマテルの御子(斎名)オシヒト(天忍穂耳命=アマテルとホノコの子 )は此処朝倉地区(ヤマト夜須宮)からタガ若宮(鷹羽宮=多賀宮=香春古宮八幡神社周辺)へ移動した。と解釈されます。

ホツマ本の触りを端折って解釈しましたが、

このように、ホツマの記述は信頼性が認められ、歴史の解明に役に立ちそうで、ホツマ伝の研究を皆様にもお勧めできそうです。

ホツマでの倭の領域は、九州~出雲(根)~気比(北陸)~瀬戸内~愛媛と考えられます。富士山や浅間山の関東以北の領域の解釈は無理があるようです。

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高天原(ゆふいん塚原)の丘... | トップ | 天照大神は二人居た。やっと... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事