OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

ワレ惟ウ、故ニワレ在リ (方法序説(デカルト))

2006-07-17 16:38:25 | 本と雑誌

 いよいよ、「cogito ergo sum.:コギト・エルゴ・スム」です。

 ここに至る以前から、デカルトは、自分で明晰に「真」と判明できないものは「偽」とする姿勢を貫いていました。

(p45より引用) 当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうか見きわめねばならない、と考えた。・・・

 デカルトは、さらに思索を進めていきます。
 そして、ついに第一原理に達します。すべての思索の原点となる唯一の確実な事実です。

(p46より引用) このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない・・・。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。

 さて、この第一原理から、デカルトは、

(p48より引用) 「(考えるために存在するわたしたちが)きわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である」

と判断しました。
 この思索の流れがいわゆる「方法的懐疑」であり、デカルトが科学、とりわけ数学の合理主義的帰納法を哲学に用いようとしたと言われる所以です。

 さらに、論はデカルトの「心身二元論」に進みます。

(p46より引用) それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。・・・わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。

 この(「方法序説」の)第4部が「方法序説」中、最も有名な論証の節ですが、引き続き第5部にて、公刊されなかった「世界論」のエッセンスが示され、第6部では、ガリレイ事件後のデカルトの学究の姿勢が語られます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 当座の道徳 (方法序説(デカ... | トップ | イノベーションのジレンマ (... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本と雑誌」カテゴリの最新記事