ウェーバーは芸術と学問とを比較してこう論じます。
彼は、芸術には「進歩」がないと言います。「達成」された芸術は、時代を経ても、他に取って代わられたり時代遅れになったりしないという意味です。
他方、学者の仕事は、「時代遅れになるが故に」常に進歩すべく運命づけられていると説きます。
(p31より引用) 学問の場合では、自分の仕事が十年経ち二十年経ちまた五十年経つうちにはやがて時代遅れになるといふことは誰でもが知つてゐるのである。これは学問上の仕事に共通の運命である。否、まさにここにこそ学問の意義は存在する。
ひとつの学問上の業績は、それに続く学究の礎となるのです。
(p31より引用) 即ち学問上の「達成」は常に新しき「問題提出」を意味する。それは他によつて「打ち破られ」時代遅れとなることをむしろみづから欲するのである。
そういった学問について、ウェーバーはどう意味づけしているのでしょうか。
(p60より引用) さて最後に諸君は問ふであらう、然らば一体学問は実践的また人格的なる生活に対して如何なる積極的寄与をなすか、と。かくて我々は再び学問の「職分」に関する問題に立帰るのである。まづ第一に当然考へられてよいのは、技術、つまり実生活において如何にすれば外界の事物や他人の行為を予測によつて支配できるか、といふことの知識である。・・・では第二の点を挙げよう。・・・即ち物事の考へ方、及びそのための道具並びに訓練がそれである。・・・然し幸なことには学問の仕事はこれでお仕舞になつた訳ではない。我々は更に第三のものに、即ち明晰といふことに、諸君を導くことができる。
学問の寄与は、実生活に「明晰」を与えることだと言います。学問の求める論理的整合性や演繹的必然性に重きをおく姿勢を伝えます。
(p62より引用) ここにおいてか我々は、明晰といふことのために為しうる学問の最後の仕事に当面する、そして同時にこれがまた学問の為しうることの限界ともなるのである。即ち、これこれの実際上の立場はこれこれの究極の世界観上の根本態度-それは唯一のものでも、また種々の態度でもありうる-から内的整合を以つて、従つてまた自己欺瞞なしに、その本来の意味を辿つて導き出されるのであつて、決して他のこれこれの根本態度からは導き出されないといふこと、これを我々は諸君に言明しうるし、また言明しなくてはならない。
この「明晰」さが、学問を学んだ者をして、「自己の行為に対する責任」を負わしめるのです。
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