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貧乏するにも程がある 芸術とお金の“不幸"な関係 (長山 靖生)

2008-03-16 09:40:30 | 本と雑誌

Natsume  なかなか毛色の変った本でした。
 著者は、本書の序章で以下のように宣言しています。

 
(p15より引用) 私は「自分らしさ」がもたらす幸福と不幸、さらにはその価値観に潜む欺瞞と真実まで、しっかりと見据えたいと思う。

 
 そして、著者は「自分らしさ」を貫こうしている代表者として作家・画家等をとりあげ、その生き方を、特に経済的視点から描き出そうとしています。

 まずは、個々の作家の話題に入る前に、(「経済資本」とは別物の)「文化資本」という概念についてコメントしています。

 
(p33より引用) ちなみに文化資本というのは社会学者のピエール・プルデューの用語で、学歴や資格にとどまらず、知識、教養、趣味などにわたる文化や社交、身だしなみなどの社会関係にかかわる体系的価値観を含んだ概念である。

 
 しかし、この文化資本も「生まれながら」という特権的・排他的要素が拭いきれず、他方、純粋に芸術に打ち込むことに価値を見出す「芸術至上主義」が唱えられるようになりました。
 こういった動きに対して、著者は以下のような穿った見方をしています。

 
(p77より引用) 経済優先の社会システムが整った十九世紀に、芸術至上主義の運動が盛んになったのは、だから実は矛盾ではなくて、表裏一体の関係にあった、といえるだろう。
 市民社会の理論が合理主義・経済効率優先を自明のこととしていたからこそ、効率を度外視し、経済原則からはみ出しているように見える芸術や文学の創作行為が、特権的に見えたのである。そして芸術至上主義運動には、そういう芸術家の純粋伝説を広めることで、作品の商品価値を高めるという「経済原理」も仕組まれていたに違いない。

 
 さて、次に、具体的な作家についての著者の論評もご紹介しましょう。
 切り口は、「経済」もっと直接的に言うと「おカネ」的視点からみた彼らの生活であり考え方・姿勢についてです。

 多くの作家は、事実、貧乏でした。

 
(p97より引用) 夏目漱石が指摘していたように、世の大半の人々の趣味が低いのであれば、作家にとって、売れることは屈辱ですらある。

 
 負け惜しみではなく、真にそう考えていたのだとすると、作家が貧乏なのは至極当然ということになります。

 ここで著者は、かなり大胆で特異な説を示します。

 
(p126より引用) 鷗外や荷風のような貸し借りなしの人生は、経済流通に取り込まれることを、極力拒もうとする生き方だ。資本主義の本質は流通にあるから、これは脱資本主義のひとつの在り方といえる。
 一方、「借りる人生」「借りられてしまう人生」を突き詰めてゆくと、どうなるだろう。中途半端に返したり、返してもらったりしては、世間並みになってしまうが、貸して貸して貸しまくり、借りて借りて借り倒してしまうと、そこでは「金」に自他の所有という区別がなくなってしまう。これもまた資本主義を否定する在り方だ。
 一見すると、まったく対極に位置するような鷗外的野暮と百閒的風狂は、資本主義の外側を目指すという点で一致していたのだ。そして資本主義と人の世が同義である今日、人間らしく生きる場所は、人間の世の外側にしかない。彼らはそれぞれの方法で、その存在しない場所に住もうとしていた。

 
 作家は資本主義の世界の外、すなわち「文学」の世界の住人だと言うのです。


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価格:¥ 756(税込)
発売日:2008-01-17


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