今年は東京国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」が人気を博しました。
本書は、その阿修羅像が所蔵されている奈良の名刹、興福寺のガイドブックです。
創建1300年にも及ぶ興福寺。その過去と現在のエッセンスが、コンパクトな体裁の中で要領よくまとめられています。美しい写真も豊富に収録されていて、パラパラ目を走らせるだけでも楽しくなる本です。
やはり、まずは「阿修羅像」が登場します。その紹介文の一節です。
(p26より引用) 阿修羅はたえず天上の帝釈天と争う敵役であったが、釈迦の教えによって仏教の守護神となり、八部衆の一尊に加わる。この阿修羅像は三面六臂で上半身裸の立像に造られ、興福寺でも一番人気がある。堀辰雄は「ういういしい、しかも切ない目ざし」(『大和路・信濃路』)、司馬遼太郎は「無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情」と記し、脇の二面について「思いを決した少女の顔」(『街道をゆく 奈良散歩』)と表現した。
確かに写真をみると、正面像の顔は、わずかに眉をひそめ悩みを帯びた表情に見えます。他方、側面の顔にはあどけない一途さが感じられます。
その他の諸像も確かに見事です。これほど国宝クラスの名品を所蔵している施設は稀有でしょう。特に玄昉坐像は、素人の私が写真で見ただけでも、その表情・姿勢・衣の微妙なひだ等素晴らしいと思うものです。
さて、興福寺は南都六宗のひとつ法相宗の大本山です。
本書では、法相宗の僧侶で唯識の研究者でもある興福寺の貫首多川俊映氏による法相宗の教義の概論も簡単に紹介されています。
その中で印象に残った多川貫首のことばを、ちょっと長いのですが書き記しておきます。
(p104より引用) ・・・私たちは物ごとを分別する傾向があることに気がつきます。・・・しかし、東洋の考え方とは元来、対立・分別ではなくて、包括的に見ていくところにあります。「自然と人間」というように、対立させるのではなく、「自然の中の人間はどうあるべきか」という発想なのです。ところが現代は、自然と人間とを対立させ、要するに人間の都合のいいように自然をコントロールしようとしています。
私が気に入らないのは「自然にやさしく」という言葉です。これは正確に言うと「自然にやさしくしてあげる」ということでしょう。私は、ついに人間はそこまで傲慢になったのかという気持ちがあります。そうではなくて、あくまでも「自然の中の人間」です。自然の中に、すでに人間が要素として入っているわけです。
多川貫首は、仏教思想の深淵に至るまでもなく、西洋思想の基本潮流である物心二元論に対置するものとしての東洋思想を略説しています。
そのコンテクストの中で、自然と人間との関わりについての今流行のフレーズを取り上げ、その言葉の欺瞞性、すなわち、やわらかな言い回しながらも通底する思想の高慢さに疑念を投げかけています。
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