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青春論 (日本文化私観(坂口 安吾))

2006-09-05 23:55:53 | 本と雑誌

 ちょっと前に、宮本武蔵の「五輪書」を読んだところだったので、興味深く読みました。

Photo  坂口氏によると、氏の「青春論」を語るためには武蔵の登場は不可欠だと言います。
 氏の見立てでは、武蔵の剣術は以下のように映ります。

(p164より引用) 武蔵の考えによれば、試合の場にいながら用意を忘れているのがいけないのだと言うのである。何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用の出来るものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、又どんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。

 「必要に駆られた剣法」とでも言うのでしょうか。

(p172より引用) 武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
 之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。

 坂口氏に言わせれば、「五輪書」は武蔵の抜け殻でしかありませんでした。

(p175より引用) 六十の時『五輪書』を書いたけれども、個性の上に不抜な術を築きあげた天才剣の光輝はすでになく、率直に自己の剣を説くだけの自信と力がなく、徒らに極意書風のもったいぶった言辞を弄して、地水火風空の物々しい五巻に分けたり、深遠を衒って俗に堕し、ボンクラの本性を暴露しているに過ぎないのである。

 坂口氏は、自己の青春論を「淪落論」でもあると書いています。
 国語辞書によると「淪落」とは「おちぶれること。身をもちくずすこと。堕落。」とあります。ただ、坂口氏流には「淪落」とは「現実の中に奇跡を追うこと」だったのです。

(p175より引用) 剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶対面で賭博している淪落の術であり、奇蹟の術であったのだ。武蔵自身がそのことに気付かず、オルソドックスを信じていたのが間違いのもとで、元来世に容れられざる性格をもっていたのである。

 武蔵は28歳の時、真剣勝負をやめた時、彼の青春は終わったのです。武蔵は「剣術」から身を引いたからです。

(p178より引用) 武蔵の剣を一貫させるということは正に尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、然しながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。
 勝つのが全然嬉しくもなく面白くもなく何の張合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは『五輪書』という平凡な本を読んでみれば分ることだ。ただ、だらだらと生きのびて『五輪書』を書き、その本のおかげをもって今日も尚その盛名を伝えているというわけだが、然し、このような盛名が果して何物であろうか。

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