放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

温故知人 あの日あの時「坂本九と福祉」

2009年10月15日 08時01分26秒 | Weblog
(ミュー(実有)は音楽番組好き。「Mステ」や「ミュージックフェア」が始まるとこんなうるうる目になって見ている。・・・但し、何に感動しているのか、謎だ)

坂本九―上を向いて歩こう (人間の記録)
坂本 九
日本図書センター

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「坂本九」
 
 ※この原稿は、僕が書いた夕刊フジ「温故知人 あの日あの時」掲載原稿とフジテレビ「トクだね」「新・温故知人」(06~09)の台本をベースに書いています。
 
 坂本九の歌う『上を向いて歩こう(米題:スキヤキ)』が、アメリカで最も権威のある音楽週刊誌『ビルボード』のヒット・チャート1位に輝いたのは、1963(昭和38)年6月15日である。全米チャートの歴史で英語以外の曲が1位となるのは、たった3回、英語以外の曲でその頂点を極めるのは奇跡とさえいえる快挙だった。
『Sukiyaki』は、その後、6月29日付まで3週連続、キャッシュボックス誌では、6月15日付から7月6日付まで4週連続1位のヒットとなった。翌年5月には、全米レコード協会のゴールドディスクを、アメリカ人以外で初めて受賞した。この時、坂本九21歳。16歳で日劇ウェスタン・カーニバルに出場し、10代後半から次々ヒットを飛ばした九は、『スキヤキ』で世界の頂点に立った。
 この頃から、九は福祉活動に関わりを持つようになる。それは、チャリティーの域を遥かに超えたものだった。北海道では、福祉を訴えるローカル番組を担当、番組だけではなくそこで知り合った障害のある人々の支援を行い続けた。番組収録後は、スタッフと酒を飲み、福祉について議論、気がつけば朝。九は、『障害者』という言葉に怒りを見せた。
「どこが障害なんだ。ひどい言葉だ。日本には雨降りや雲の模様などを表現するのにたくさん言葉があるのに、人のありようを表現するときは、なぜこんなに貧しいんだ」
 九が、なぜ福祉にのめりこんだのか、その原点は、「親戚の子に耳の不自由な子がいた」ことだったのではないかと、妻、柏木由紀子は言う。
さらに、九のコンプレックスもあった。デビュー当時、九はにきび面で歌もそれほどうまくなかった。その分一生懸命さが伝わり、庶民的な親しみ易さを感じさせる新しい個性だった。
 だが、九にとってはコンプレックスでしかない。エノケンこと喜劇王榎本健一に憧れたものの「僕はエノケンさんにはなれない。お客さんが知っている」
 後輩の九重祐三子の前でそう涙したこともあった。
 歌を下手だと思いこみ、にきびを気にし、あの”九の笑顔“さえ、にきび面を少しでもよく見せようとした結果だったという。
2 0代前半で世界の頂点に立ったことは、九のコンプレックスをさらに加速させた。『上を向いて歩こう』以後、九の声質は変わり、歌も急速に上手くなる。
 その陰にどれだけの練習があり、必死でスターであろうとした九の涙があったのだろうか。そうした思いは、弱い立場の人々に対する九の眼差しの優しさとなっている。
 九が9年続けた北海道の福祉番組は、1985年8月12日、群馬県・御巣鷹山のジャンボ機墜落事故で、永遠に中止となる。坂本九、まだ43歳だった。

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