アジア夢紀行

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ナニワ金融道

2016-05-19 16:30:19 | 暗黒街

45歳の時に失職しました。いまから20年も前のことです。

大学の先輩が学習塾を開いていたので、僕もそうしようかと考えていました。でもそんな面倒くさい仕事は長続きしそうにないと思い、ほかの再就職先を探しにかかりました。求人情報をもとに車で田舎を駆け巡りました。そして全国展開していたある大手の街金に就職するかも知れなくなっていた時、ほかの製造業にも履歴書を送り面接も受け、合計で3社から合格通知をもらいました。

この街金が一番給料が良くて(歩合もありました)、それにしようかと思いましたが、はっきりとした返事をせずにある製造業の工場で働き始めました。元の会社からもコンタクトはありましたが、いまさら復帰するわけにもいかず、(『どの面下げて復帰するつもりか』自分でもわからず)一番入社日が近く、人手不足で『すぐに来て働いてくれ』という給料が一番安いところで、とりあえず仕事を始めました。その間、昼食時間には『ハッキリとは返事をしていない』ほかの会社と連絡を取りながら、二股ならぬ、四股状態でした。

ただし、ほかの製造業の2社は45歳の自分にはチョット無理かもしれないハードな肉体労働を含んでおり、続ける自信がありませんでした。日本の製造業は大卒でもナッパ服を着ての肉体労働から始まります。その中で、自分を生かしていけるかどうかはその人にかかっています。全く経験のない業界で45歳で再就職となれば、高卒の年下の上司にこき使われます。よっぽど運が良くなければつぶされます。

結局、自分の勘でその会社を選びましたが、間違ってはいませんでした。自分を生かせる場所を見つけ、その会社がトラブっている問題を解決できる能力を自分が働きながら磨いていくことができると分かったのは半年もたってでした。『必要とされる』人にならなければアウトでした。その会社は回転率のいい会社で、8割の人がやめていく会社でした。たくさんの人が追い詰められノイローゼになり、やめていきました。また自殺した人もいました。自殺した人の同僚は葬式で涙ながらに言いました。『死ぬことはないだろうが。』そうなんです。その人が追い詰められた立場にあるということはみんな分かっていたんです。

さて、こうした過酷な労働環境の中にいながらも、僕は何とか生きる道を見つけていったのでした。苦しくもありましたが、その苦しさをも楽しむゆとりが僕にはまだ残っていました。生存競争そのものが楽しかったのでしょうか。そして、その当時自分を慰めてくれた本がありました。それが『ナニワ金融道』でした。僕がヒョットしたら踏み込んでいたかもしれない業界でした。工場で働いていた僕をプレッシャーと恐怖から解放してくれる本でした。宗教でも哲学でもありませんでした。ただの漫画だったのです。でも僕にとってはそれは僕を救ってくれた『コーラン』でもあったのです。

 

 

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