ソムタム学級通信 ★さちえのタイ生活★

2010年6月より青年海外協力隊、養護隊員としてタイへ。バンコクより北へ450キロ東北部のコンケンで日々試行錯誤の記録。

朝日と夕日

2011年10月18日 03時13分46秒 | 青年海外協力隊たちの活動
タイの日差しは朝から強い。

薄いカーテンから、朝の太陽の日差しが燦々と差し込む。
   
窓際に飾っている仲間の隊員が送ってくれた世界各地からのハガキ、
日本からの嬉しいハガキを、朝からじっと見る。
元気が出てくる。


起きたら、顔を洗い、バナナを食べて、歯を磨き、
8時の国歌が流れる前に家を出る。

日やけ止めを塗り、自転車に乗る。
     


配属先、第9特別教育センターに到着。
「サワッディーカー」
     


めざとく見つけて寄ってきてくれる子もいる。
裏表のない、損得の勘定に左右されない、正直な自閉症のこの子が
私を見つけて寄ってきてくれるのが、どんなあいさつよりも嬉しいと思う。
      


一日センターで過ごして、16:30、センターを出る。
朝の日やけ止めはすっかり流れているだろうけど、面倒なので塗り直すこともなし。
だからしっかり日焼けしてしまった。
      


2週間に1度のペースで自転車のタイヤの空気がなくなる。
日本のように自分で空気入れで入れられないため、自転車修理屋さんに寄り道する。
おじさんが大きな機械からチューブで空気を入れてくれる。
「いくらですか?」ときくと
「マイペンライ(大丈夫)」
いつも、お代はおまけしてサービスしてくれる。
優しくて嬉しいのだけど、また2週間後にはお世話になると考えるとため息。
空気がなくなっていかない自転車がタイでほしい。
    


バナナがなくなりそうになると、近所の果物屋の屋台に買いに行く。
    


17:30ごろ、日が沈む。
2階にあるアパートの自室からは見晴らしがよいとは言えないが、
家々の間に沈む夕日が見られる。
   


タイの夕日も、夕方だからといって力を失うことがない。
燦々とまぶしく力強く照らす。

ブログ図書館にJICA隊員のブログがたくさん

2011年07月21日 08時40分36秒 | 青年海外協力隊たちの活動




『JICA.INFO』 という インターネットサイトがある。

2011年1月にスタートしたJICAボランティア隊員・関係者のためのアンオフィシャル(非公式)・ポータルサイトだ。

IT系出身の青年海外協力隊員のアイデアをもとに運営チームが結成され、
サイトの開発から運営のすべてを自主的に行っている。


青年海外協力隊、シニア海外ボランティアなどのJICAボランティア隊員
OV(隊員OB・OG)、隊員の家族・知人、これから隊員になりたいと思っている人、など、
JICAボランティアにゆかりのある方々すべての役に立つコミュニケーションツールだ。


特に、その中にある 『JICA隊員ブログ図書館』はおすすめ。
全世界の隊員たち、現在全654のブログが掲載されている。
ここから世界中の隊員たちの生活が見られる。
新着記事も次々にアップされる。
見たい記事は 派遣国、隊次、職種などで絞り込んで検索することが可能。


あまりにすばらしいホームページで、こんな機能的なものを作った運営チーム、すごい!と思う。


私が協力隊の試験を受けてみようと思ったときも、協力隊としてタイに行くと決まったときも、
インターネットで隊員の関係するホームページやブログを一生懸命探したが、
なかなか自分のほしい情報が得られず、探すのは重労働だった。
その時に、このホームページがあったら、一挙に世界中がみえていただろう。


世界中の「今」の青年海外協力隊員たちが見られる、ブログ図書館。
     「JICA.INFO 隊員ブログ図書館」 へ


私のブログからもリンクを貼った。
日本のみなさんにもっともっと知ってもらえるように。



左側 リンクから見ることができる。
  もしくはこちら →『JICA隊員ブログ図書館』から。



     

JICAボランティア有志による企画  「世界から元気を届けるメッセージプロジェクト」

2011年06月05日 03時28分30秒 | 青年海外協力隊たちの活動

JICAボランティア(青年海外協力隊、シニア海外ボランティア、日系社会青年ボランティア、短期ボランティア)有志による企画。


 「世界から元気を届けるメッセージプロジェクト」

東日本大震災の被災者の方々に向け、世界各国からの応援メッセージを送る。


一人が声を発し、世界中にいるJICAボランティアたちが応援メッセージを集めた。
各地の人々の日本に対する思いを、ボランティアたちが届ける。


およそ50ヵ国、1,000枚以上におよぶ応援メッセージや写真が見られる。
随時更新中。

 http://www.worldmessage.jp/



震災はまだ終わっていない。
助けを求める人はたくさんいて、私たちにできることがある。


    

出版社が形にしてくれたもの

2011年06月02日 03時40分28秒 | 青年海外協力隊たちの活動
日本の出版社からメールを受けとった。
「Catch a Wave」という学習用英字新聞を出版する書店から。

今回の東北大震災で特に被害のひどかった3県 岩手、宮城、福島の
中高生に無料で配布したい、
その号に「世界から日本を応援(Cheering for Japan)」という特集を組み、
海外の人たちが日本のことを思っていることを伝えたいという趣旨。

以前、このブログに掲載した折鶴を折ったり、メッセージを書いてもらう取り組みについて、
入稿してもらいたいといということ。    (→過去ブログ 「コンケンにいる私だからできること」
ガーナで活動する同期隊員が私を紹介してくれてこういう運びになった。


コンケンの人たちの思いを伝えるチャンスをもらえるなんて、
ありがたいこと。
こんな機会をもらえてうれしい。


原稿を入稿し1ヶ月がたち、先日、できあがった新聞とお礼のメールが届いた。
メールには
  復興支援のための無料配布新聞「Catch a Wave」に避難中の中学校をはじめ、たくさんの方々からの申し込みがあったこと。
  サッカーの玉田選手や荒川静香さんからもメッセージをもらうことができたこと。 
  アルゼンチン,ガーナの青年海外協力隊員のエピソードとともに掲載していること、などが書いてある。

「東北の子どもたちに元気や希望が届いてほしいと願っています。」
という編集者の方の言葉には、私も全く同じ思い。
私がここでやっていることは目立つものでもなく、細々としたものであったのに
それを見つけて拾い上げ、この1ページにコンケンの人たちの思いを載せてくれたことがうれしい。


→Catch a Wave のホームページ  http://catchawave.jp/ 



  

はじめに
News of the earthquake and tsunami that hit Japan on March 11 was broadcast all over the world. People around the world were shocked by the terrible situation in the disaster-stricken areas. People outside Japan are offering their prayers and encouragement in various ways.

3月11日に日本を見舞った地震と津波に関するニュースは世界中で放送されました。 世界中の人々は被災地のひどい状況に衝撃を受けています。海外の人たちはいろいろな方法で祈りと激励を送っています。




  

Thailand
I'm a Japan Overseas Cooperation Volunteer of JICA. I work at an institute for disabled children in Khon Kaen Province in the northeastern part of Thailand. The staff members at the institute and local shopkeepers ask me, "Is it all right now in Japan?" They showed concern for the quake victims and wished to help them in some way. "When the Japanese make wishes, they fold paper cranes," I said. Then, people joined me in folding paper cranes and writing messages of support on pieces of paper in Japanese.
Khon Kaen is far from Bangkok and very few Japanese live here. Even so, the warm people of Thailand cry for us Japanese whenever they see news on the disaster.

 青年海外協力隊として私が派遣されたタイ、コンケン(バンコクから遠く離れた東北部)障害のある子どもたちの通う第9特別教育センター。
センターの人、商店の人、道行く人たちは日本が好きで、毎日、「日本は今大丈夫なのか?」と私に訊ねてきます。
心配だ、どうにか助けてあげたいと。
日本では願い事があるときには鶴を折り鶴に託すことを話すと、
ぜひ自分たちもと鶴を折り、「チュアイガン(助け合い)」と口々に言いながら、日本語でメッセージを書いてくれました。
日本から遠く離れた日本人がほとんどいないようなこの場所には毎日、日本のニュースを見て一緒に泣いているタイ人たちがいます。

モンゴル ヨルダン タイ つながる夜

2011年05月31日 22時11分47秒 | 青年海外協力隊たちの活動
「さっち ひさしぶりに話をしようよ」
と、モンゴルの同期隊員からのメッセージが届く。


本当に便利な、ネット世界。
モンゴルの草原の真ん中にいる友達と、スカイプでつながる。

モンゴル時間22:00
タイ時間  21:00


だけど、モンゴルの空はそんな夜だというのにまだ明るい。
カメラで見せてくれる友達の部屋、
その窓からはまるで昼間のように光りが射している。
信じられない世界だ。
   


友達からすると、カメラに写る常夏の格好の私の方が驚きだったようで
「タイってほんまに暑いんやなあ」
と一言感心したようにつぶやく。
     
そうだ、今の季節、タイはとても暑いのだ。
年中暑いが、今はとにかく 特に暑いのだ。
だから、部屋では服も着たくない。

スカイプだから着ているけど、本当は着たくもないというと
カメラの向こう、モンゴルで笑っている友達。
    

ちょうどそのとき、ヨルダンの同期隊員からもメッセージが入る。
ヨルダン時間 16:50
ヨルダン、モンゴル、タイでの3人通話。
スカイプはすごいことをやってくれる。

ヨルダンは電波の状況か、なかなか画像がきれいには写らないがこれでも十分。
なんたって何千キロも離れた国にいる友達の顔が見られるのだから。

3人そろうと、国々の季節感がわかる。
一番暑い国はどう見ても、タイ。
そして、一番 日焼けしているのもタイ隊員。
白いモンゴル隊員。
イスラムの国だと一目でわかるヨルダン隊員。
       


任国に行ってもうすぐ一年。
どんなところが自分は変わったかという話をしていると、
モンゴル隊員が言う。

「ずぶとくなった。日本人だったら相手の反応を見たり、空気を読んだりする。
だけど、ここでは無言で感じ取るってことがない。
そういう中でやっていくっていうのは、自分もずぶとくなっていく。
日本では無視できない空気を、無視できるようになった。
それに、ここにいること自体、いい意味で図太いんだと思う。
だって、親戚もだれもおらんとこで一人、毎日活動先に行ってるだけでも
すごいことだと思う。」


うんうん、と納得させられる友達の言葉だ。
そうなんだよね。
いるだけでも、ここに一人で居続けるだけでもすごいことなんだよね。
だけど、それじゃすまなくなって、もっともっとなにかしなきゃ、
自分の活動はこれじゃだめだろう、何をしたらいいんだ、ちっともできていない
と焦りばかりが募る。


モンゴルの馬乳酒の脅威に驚き、
ヨルダンの男女の距離感にへええと感嘆し、
タイのニューハーフの多さを不思議がり、
行き着く先は活動のこと。

ヨルダン モンゴル タイ。
とんでもなくはなれた国同士の仲間がある夜 距離も時間も超えて
スカイプでつながり、顔を合わせ たわいもない話をする。
たわいもない話だけど、そこに友達とだからこそもらえる元気の源がまじっている。


世界のあちこちにいる隊員仲間たちも、
こうして友達から元気をもらっている夜があるんだろうな。
今このときも。
笑い声がどこかでこだまし、感心し、泣き笑いしながら。

マレーシア隊員  モルディブ隊員 来タイ

2011年05月22日 15時11分33秒 | 青年海外協力隊たちの活動
マレーシアで活動する同期の隊員がタイへやって来た。
国立公園でオランウータンをはじめ、自然いっぱいに囲まれて過ごしている友達。
はじめての任国外旅行をタイに選び、見るもの食べるものに驚く。
マレーシアも途上国とは言えない大国であるが、タイのもつパワーに圧倒されている彼女。
タイの隊員ハウスで1年ぶりの再会。
会った瞬間にピースサイン。
元気あふれるピースサインは訓練所にいたときと変わらぬまま。
    


そして、もう一人。
このブログを通じて知り合ったモルディブ隊員との出会い。
以前、このブログにバンコク病院での歯科治療のことを書いたことがある。
それがちょうど歯科治療で悩まされていたモルディブ隊員の検索にひっかかり、彼の目にとまった。
そこからの縁。
青い海と白い珊瑚の国から歯科治療のためにバンコクへやってきた。
訓練所も次隊もちがう間柄だが、ぐいぐいとつっこむ彼のざっくばらんな人柄のおかげで
初対面とは思えないほどすでに親しいような感覚を覚える。
見たこともないパンの実のスライス、魚の缶詰、モルディブ人が食べるものをたくさんお土産にもってきてくれた。
    
彼のブログのタイトルの書かれたポロシャツもいただく。ありがとう!
「音楽“で”国境を越える」    →ブログ 「音楽“で”国境を越える」
彼はトランペットをひきこなす音楽隊員。
    
  

モルディブは海に囲まれ年中暑く、さぞかし果物や海産物で豊かなのだろうと思っていたが
そうではないと聞く。
珊瑚でできた地面には、土壌がなく作物が育たない。
ココナッツやバナナ、パンの実など限られたものを食べる毎日で
食のバリエーションが非常に乏しく、ビタミンの不足にも悩まされていると言う。
イスラムの国であり、女性が肌を見せることにも厳しい。
外から見る高級リゾート モルディブと 中から見る モルディブは全く違うようだ。

その地に住まないと分からないことはたくさんある。
パンフレットに写るただただ美しい天国のような島モルディブと、
モルディブ隊員たちが語る、生活の場としては苦況を感じつつあるモルディブ、
どちらも同じモルディブ。
だが、これだけの外と内とのギャップがある国はそうそうないように思う。
それだけ モルディブの一部がリゾートとして開発され、宣伝され、宣伝が一人歩きして
庶民たちの生活とはかけ離れた世界が、国の中にできあがっているのだろうと思う。

私も、そういう一部のモルディブを全体だと思っていた一人。
「モルディブ派遣? いいなあー。」なんて、簡単に言っていた。
だが、今回モルディブ隊員たちの口から話を聞き、モルディブを違う角度から感じ、想像する。
すべてをふくめたモルディブを。

こんな機会があること、こういう人たちと会えて話ができること、
青年海外協力隊という幸運を感じ、仲間と会えてよかったなと思う時間。

モルディブ隊員たちはそう言いながらも、全てを含めたモルディブを慈しんでいる。
    


同じく歯科治療のため同行した音楽隊員と体育隊員と、マレーシア隊員も一緒にみんなでバンコク近郊を観光。
タイ式のお祈りをしたり、
   

パッタヤーでは地上170メートルからのワイヤー滑降にチャレンジしたり。
         (→ブログ 「パッタヤー」
   



モルディブ隊員たちは何をしても、何を食べても喜んでくれ、
「わあ、おいしいー!」とか「楽しかった-!」なんて言われると、心から嬉しくなって
もっともっと何かおいしいものを、楽しいことをと思う。
タイを存分に楽しんで帰って! と思う。
氷自体が貴重というモルディブ隊員たちとまずフルーツシェーキで乾杯。
    

そして初ランブータン、初アイスティム、初イサーン(東北)料理)、ソムタム・カオニャオ・トムヤムクン…
初ドリアンは全員口をそろえて 「なんだこれは!おいしい!!」「だれだ?臭いって言ったヤツは!?」
と驚きの許容力。
切望していたラーメン屋では、みながカメラを構えてシャッターを切る。
     
 


今回マレーシア隊員とモルディブ隊員と、いろんな話をした。
マレーシアでの活動、モルディブでの活動、そして生活、行ったことのない国生活したことのない場所の
珍しい話を感心しながら聞く。
読書もそうだが、話を聞くことは人間幅を広げること。
人間自分一人の経験するもの,見るものは限られている。
だけど、本を読んだり、話を聞いたりして、自分以外の人間の目線に立ったり、一緒になって世界を見ると
自分以外の人間の疑似体験をすることができるのだ。
行ってもいない場所のこと、見たことのない世界を。
人と会い,話を聞くということは自分を広げていくものだと改めて思う。


今回、心に残る言葉や話がたくさんあった。
その中でも印象深いのがこの話。

モルディブでは、音楽や体育のカリキュラムはあるが、教える人がいないため実際は名ばかり。
だから、モルディブの子どもたちの経験は日本人の子どもたちに比べて全く少ない。
モルディブ隊員が言う。
「日本では、たとえサッカー選手になれるほどではなくてもほとんどの子どもがサッカーをやったことがある。
たとえ、バスケット選手になれなくても、全ての子どもがバスケットをやった経験があり、ルールを知っている。
ハーモニカ、ピアノ、リコーダー、カスタネット、それらの楽器に触れたこと、演奏した経験がある。
日本では、ちょっとずつたくさんのものを知る経験ができる。」
日本の子どもたちはたくさんの経験をし、たくさんの選択肢をもらい、それを自分の糧にし成長していく。
だけど、モルディブではそれがないのだ。
海外に出て心から感じる、日本の教育のすばらしさ、豊かさ。
どれだけ恵まれた中にいるかわからないのに、そうは思わず毎日をすごしているということ。


今回であった音楽隊員と体育隊員たちは、そんなモルディブで
子どもたちに初めてトランペットを聴かせ、ピアニカを聴かせ、スポーツへの出会いに導いている。
音楽やスポーツで、国境を越えているのだ。


持参した楽器で、私のために演奏してくれた。
トランペットとピアニカのセッション。
ピアニカは、自己改造を施し、縦に首からぶら下げ、なんと両サイドから両手で鍵盤を弾くという
信じられないスタイル。
左手で弾く鍵盤は全く見えないのだそう。
こんなことやっている人いません。
衝撃のスタイル。
頭でも弾いてしまう彼女。
ピアニカって、机において弾くものだという自分の中の常識が飛び散った。
    


聴かせてもらった音楽は心に染みて、ただただ すごいとしか言えず、拍手しかできない。
感動。 感動。 涙が出ちゃう。
音楽で国境を越える。
本当にその通りだ。 音楽の持つ力ってすごい。
それをもってモルディブに国境を越えていった隊員たち。
      


タイ滞在中には、クロントイのスラムで子どもたちに演奏しにいく予定。
          (→過去ブログ 「バンコクのスラム クロントイで図工教室」
目の前で見る日本人の演奏、目の前で響く音響にどう反応するだろう。
タイの子どもたちの胸にも音楽が浸みていくに違いない。



   モルディブ音楽隊員が縦ピアニカで弾く アンパンマン ジャズ そして最後は何と頭で演奏。
      
       

ナコンパトムへ

2011年05月11日 15時33分24秒 | 青年海外協力隊たちの活動
  ナコンパトム  นครปฐม


首都バンコクと「戦場に掛ける橋」のカンチャナブリとの中間に位置するナコンパトム。
バンコクから車で約1時間と近く、日帰りでも十分いける。
帰国まで残り2ヶ月となった先輩隊員を訪ねてナコーンパトム、マヒドン大学へ行く。
        

先輩隊員は青年海外協力隊 日本語教師として2年間活動したが
それ以前からのタイ在歴が長く、10年のキャリアをもつ。
一口に先輩隊員と言っても、そんじょそこらの先輩隊員ではない。
タイ語にもタイ文化にもタイ人にも造詣が深く、尊敬する隊員。
活動拠点のマヒドン大学を見せてもらう。
     


大学内を走るかわいい乗り物 トラム。
無料で学内を行き来できる。
       



ローカルな水上マーケットがあり、隊員仲間にも人気。案内してもらうことに。
 
水上マーケットは木造の床の上に食べものの店がずらりと並び、
そのアンティークな雰囲気は100年市場に匹敵する味わい深さ。
どこもかしこも絵になる。
タイ人には名の知れた観光地だが、外国人観光客はまったくいないというのもいい。
        

    

ナコンパトム名産はフルーツと蘭。
名産ザボン。
      


あれ、あれ。
みかんと同じ位置。高台に登ってまるで売り物のような売り子さん。
こういう姿もタイではちょくちょく目にする。
ぷっと笑ってしまうが、カメラを向けても嫌な顔一つせずにっこり。
タイっていいな、タイ人ってほんと気取ってなくていいなと思う。
    


菊の花の黄色い飲み物と、赤い花の赤い飲み物。
先輩隊員からの薦めで初めて飲んでみる。
甘くて、しょっぱくて、ちょっと酸っぱい、不思議な味。だけどおいしい。
15バーツ。 45円。
     


 
名物のお菓子。
夕方には売り切れてしまう人気店だという。 
配属先の人たちにお土産で買いもっていくと、一目見て「ナコンパトムね」といわれる有名なお菓子。
売り子のお姉さんが美人で、先輩隊員とも親しく話す。
タイの中で言葉も心も上手に溶け込んでいる先輩なので、誰とでもタイ人のように流ちょうなタイ語で気軽に話す。
   


こちらも、テレビでしょっちゅう紹介されるというアヒル屋さん。
夕方には売り切れ必至の人気店。
日本ではアヒルは高い上、めったに口にすることはないが、
タイではアヒルの肉をごはんにのせたり、麵にのせたり、鶏肉に近い頻度でよく食べるメニュー。
カメラをむけるとお兄さんが、にっこり笑ってカメラサービスしてくれる。
こういう人たちがタイ人なのだ。
     



ナコンパトムは、3世紀からできたと言われる古い歴史をもつ街。
アジアで一番大きいチェディ(仏塔)もある。
先輩隊員が帰国する前に一度は訪ねたいと思い、あまり時間のない中での訪問。
そのため今回は行けなかったが、次回はゆっくりと大きな大きなチェディを見に出かけよう。
バンコクから汽車の旅もいいかもしれない。
     

パクレット少年の家

2011年04月30日 20時06分23秒 | 青年海外協力隊たちの活動

ノンタブリ県にある児童保護施設 『パクレット少年の家』
そこで活動する隊員がいる。 
職種は青少年活動。


7才~18才の子どもたちが入所し生活している。
家がない、家庭での育児不可、保護者がいないなど理由は様々。


おじゃまさせてもらい、子どもたちとの活動の様子を見せてもらう。
子どもたちが学校から帰り、食事を終えた後の夕方以降。
余暇活動を通して子どもたちのよりよい育成を目指す。
この日は相撲をしたり、チャンバラをしたり。
ひとつのルールのもと、子どもたちがひとつになり遊ぶ。
     

      

     

             



青少年活動という職種は、これをやるというはっきりしたもの提示されない。
だからこそ、ボランティアの意思と発想、経験に大きくゆだねられる職種。
難しい職種だと思う。

バンコクのスラム クロントイで図工教室

2011年04月30日 19時57分55秒 | 青年海外協力隊たちの活動

今や途上国とは言えないほどの発展をとげているタイ。
首都バンコクには高層ビルが乱立し近代国家さながらの姿だが、
その急激な近代化のひずみに生まれたスラムがバンコクのあちこちに点在する。

スラムの始まりは貧しい農村部から生活の糧を求めて都会に流入してきた人々を
ちょうど安価な労働力を大量に必要としていたバンコクの経済事情が、
労働者の住宅対策を考えることもなく無造作に受け入れたことによる。
その結果、バンコク都内には1.800カ所ものスラムが形成され、
300万人以上もの人々がそこに住むようになった。


スラムの課題は山積み。
空き地にスラムを形成した人々の住民登録は困難であり、法的立場の不安定さ。
ベニヤやトタンで作った家々の水道、汚水、住宅環境問題。
不当な低賃金や労働条件で苦しみ、それにより犯罪や盗みに走るという経済的問題。
親の麻薬中毒により行き場を失った子どもの麻薬使用や犯罪。
さまざまな家庭の事情で中途退学する子どもたち。
教育の必要性を重くとらえきれない保護者たちと、そうならざるを得ないこれらの環境。

めざましい発展をとげるバンコクで貧富の差が激しくひらいていることは
この国が今 向き合っている問題の一つ。

バンコクで最も大きなスラム、クロントイ。
高層ビルのすぐとなりには、ベニヤやトタンで造った家がひしめきあい、
住人10万人にも及ぶ東南アジア最大級のスラム街。
     


そこで日本人駐在員の奥様たちがボランティアで
子どもたちへの図工教室を開いている。
そして、それを長いこと手伝っている隊員がいる。
以前から興味があったため、バンコク上京を機に私も参加させてもらうことに。
場所はクロントイにある、ドゥアン・プラテープ財団の一室。
    

トイレットペーパーの芯に色を塗り、つなぎ合わせて蛇を作る。
子どもたち、最初は多少人見知りする感じもあったが一緒に作品を作りながら
色鉛筆を貸しあい、私のも切ってとハサミで切ってもらい、
「上手だねえ。」「きれいな蛇だねえ。」「うまいねえ。」「かっこいいねえ。」
と話していくうちに笑顔が見えるようになる。
       




一番にっこり笑ってくれたのが、アルファベットを書いた子に
「サモンディーナ」(=頭いいねえ!)と言ったとき。
にっこ~ っと満面の笑みになり、どうだ?と言わんばかりに近くの友人を見渡していた。
その正直な行動がかわいらしい。
    


  日本の震災に対して励ましの絵を描いてくれた。
   


こういうところに1回だけいくのは、“楽しい”だけでおわる。
今回の私がそう。簡単なものだ。
けれど、大変なのはこれを定期的に行いずっと続けるということ。
自主的に、自発的に。


道具類一切を準備し、長年こうして通い続けているという日本人ボランティアの奥様方。
青年海外協力隊として活動しつつも、余暇をこうしてスラムにボランティアに通う隊員。
どちらにも頭が下がる。
ボランティアっていったい、何のためにやるものなのか、と
考えた今回のクロントイ図工教室。
      

フィリピンの同期隊員  コンケン来訪

2011年04月28日 02時14分35秒 | 青年海外協力隊たちの活動

福島の二本松訓練所。
そこで私たちは青年海外協力隊として派遣される前、65日間の派遣前訓練を受ける。
喜びや感動のたくさんつまった訓練所。
そこで共に過ごし、思い出を共有した22年度1次隊の仲間は205名。
今、世界のあちこちでこのときも同じ思い出を胸に活動している。

訓練所で同じ、生活班だった仲間が私の任地を訪ね、
はるばる東北部コンケンまでやって来た。
私と同じ現職教員で、フィリピンの理数科教育の向上のため活動している仲間。

汽車でバンコクからやってくる彼を迎えに行く。
訓練所に入ったあの時から、ちょうど1年がたつ。
コンケン駅に私の知っている懐かしい顔を見つけ、胸がいっぱい。
互いに半泣きで抱き合って再会を喜ぶ。
ようこそコンケンへ、私の任地へ。 ようこそ私のアパートへ。
    


タイに来てびっくりしたこと。
  ・街がきれい。ごみがない。
  ・タクシーで71バーツの請求に100バーツ払うと30バーツのお釣りが来た。
   1バーツのおまけ、こんなことフィリピンではあり得ない。感動した。
  ・食べものの種類が豊富!
こう話してくれる友人。
タイにいて当たり前になっているけれど、他国から来た友達に教えてもらうと
改めてタイの良さを感じる。


配属先第9特別教育センターでは歓待を受ける。
朝の集会では突然の自己紹介をふられても全く動じない彼。
「突然」や「変更」「むちゃぶり」はタイもフィリピンも同じだという。
私たち、たくましくなったものだと、笑う。
   


タイの朝ご飯を並べると、珍しげにどれも喜んで食べてくれるので
食堂ではみんなが世話を焼く。
   カオニャオ(蒸したもち米)      グァイジャップ(ベトナム風うどん)
   サイクロッ(イサーンソーセージ)   ムゥトーッ(豚を揚げて甘くしたもの)
   もち米デザート(甘い!)       ナムプリック(→過去ブログ 「タイ人必須アイテム ナムプリック」
   


保護者からは「カオニャオマムーアン 食べたことあるの?じゃあ、買ってきてあげるわ!」
と、翌日はおいしいカオニャオマムーアンの差し入れをいただく。
  (→過去ブログ 「カオニャオマムーアン」


この日は聴覚障害クラスに行く日。
一緒に教室に入った彼は、子どもたちにすんなりまじって一緒にじゃんけん。
タイの「じゃんけんぽん」は
「ヤンイーヤオパカパオインチュップ!」と言う。
   
訓練所の語学交流会で教えてもらったこのじゃんけん。 (→過去ブログ 「語学交流会」
教わったときあまりにもかわいらしい言い方が気に入って、訓練所の仲間たちにも教えた。
みんな、かわいいかわいいと絶賛。
中でも彼は他国のじゃんけんであるのに、これを努力して覚え、
廊下で、談話室で、食堂で、私に会うたびにこのじゃんけんを仕掛けてきてくれた。
それは、何人も仲間がいる他国のクラスに対して、タイクラスは男女二人だけ、
じゃんけんを教わってもそれを一緒にやる同国の仲間がいない私を気づかっての行動。
本当に、あたたかい、優しい人なのだ。
「ヤンイーヤオパッカパオインチュップ!」
久しぶりのその声を聞いて、懐かしく、そして変わらぬ彼の人柄を感じる。
仲間って、いいものだ。


夕方以降は交通手段がなくなる私のアパート近辺。
夕食を食べに行くのに、
ならば走ろうじゃないか、とラングシューズを履き、
かつての訓練所の朝のように2人で走る。
短パン、Tシャツ、ランニングシューズで、夕食を食べにコンケンを走る。
そして走って帰ってくる。
そんなことが、仲間と一緒だととても楽しい。
       


コンケンのデパート、セントラルプラザにびっくり。
日本食レストランにもびっくり。
             

  
イサーン名物。
昆虫食にもトライ。
カエルのおいしさにびっくり。
   


店でトイレに行った彼。
すぐに引き返してきて
「どっちが男性か、わからない!」と言う。
確かに、これは分からないだろう。
「プーイン」(女性)の文字の一部分。
     



翌日は、プール行事。
なんにでも積極的な彼は飛び入りで参加、タイの子どもたちと水遊び。
観察力があり、水遊びをしながらも子どもたちを鋭く見ている。
そして、タイ人は泳げる人が少ないため、50Mを泳いでしまう彼は注目の的。
    

何でも食べる。
モリモリ食べる。
女性職員に混じって、すっかりここの職員。
     


2日間、お疲れさま。
配属先で寝てしまうほど、疲れちゃったんですね。
       


さて、熱烈な歓待を受けた同期隊員だが、帰り際にはいくつかのハプニングに見舞われた。
ハプニング①
 センター所属の運転手に空港まで送ってもらうこととなっていたが、
 どういった行き違いか、車はセンター長が今から使うから無理、ということに。
 その時点で飛行機出発までの時間があと2時間。

ハプニング②
 急きょ、自分たちで空港に行くという手段に切り替える。
 タイヤの空気の入ってない自転車に二人乗りし、坂道をこぎこぎ、アパートへ。
 重い荷物をひきずって、走り、走り、大通りへ。
 ソンテウを拾い、タクシーがたくさんいるだろうと思うバスターミナルへ。
 タクシー運転手と空港までの値段交渉をし、必ず間に合わせてほしいとよくよく頼んで
 同機隊員をタクシーに乗せる。
 飛行機出発まであと1時間。

ハプニング③
 握手し互いに目を潤ませ「また会おう」と別れを言い、彼の乗ったタクシーを見送る。
 その直後、彼のリュックを私が背負っていることに気づく。
 瞬間、何をどうすることでこの事態を解決できるか、考える、考える!
 追いかけるか、待つか。
 この判断の失敗はできない、時間も迫っている。どれか一番いい方法一つだ。

ハプニング④
 タクシー乗り場に走り、
 「さっき日本人の友人がここからタクシーに乗った!だけど大事なものを忘れた!
 運転手に電話してほしい! 友人はまだ気づいてない!
 このまま気づかずに空港まで行ってしまったら、時間がないんです!!」
 と騒ぐ。
 親切なタイ人達が、「どの運転手だ?」「きっとあいつだ」「あいつじゃないか?」
 と考えあぐね、なんとか運転手と連絡がつく。
 取りに戻ってもらいリュックを渡す。
      
 「また会おう」の言葉から20分後。すぐに再会してしまった。2人とも苦笑。
 ギリギリだっただろうが何とか間に合い、フィリピンへとバタバタと帰って行った同期隊員。


夜は訓練所でのこと、今の活動のこと、日々の支えのこと、考え悩んでいること、
時間が足りないと思うほど語り合った。
思い出の詰まった班の記念のムービーを2人で観ると、あの時と同じ涙が2人とも。
こんな思いを共有できる仲間がいること、
青年海外協力隊として活動上の悩みや葛藤はあっても、
青年海外協力隊であったからこそ得られた宝も大きい。


配属先に来てくれた2日間。
仲間は心強い味方だった。
それぞれの任地で、互いにこれが最もいいと思う自分のやり方で
あと1年やっていこう、そして1年後日本で会おうと握手でのコンケンでの別れ。


仲間がいることを励みに、次に日本で会えるときまで、
私なりの道を歩む。

青年海外協力隊 シリアからも撤退

2011年04月25日 01時47分22秒 | 青年海外協力隊たちの活動

シリア全土で抗議デモ=イエメン首都には100万人集結
時事通信 4月15日(金)22時1分配信

 【カイロ時事】シリア各地で15日のイスラム教の金曜礼拝後、アサド政権退陣や民主化推進を要求する民衆による抗議デモが行われた。 
シリアからの情報によると、首都ダマスカス、北部アレッポ、南部ダラア、西部バニヤス、中西部ホムス、北東部カミシリなどで数百~数万人規模のデモが展開された。このほか都市部以外でも抗議行動が起きており、従来に増して全土に拡大しているもようだ。政権側は催涙弾などを使って鎮圧、一部でインターネットが使用不能となった。
 ダラアやバニヤスは最近、治安部隊との衝突による流血の事態が深刻化している。人権団体はシリアでデモが始まった1カ月前からこれまでに200人以上が死亡したとしている。

 




シリアにも協力隊仲間がいる。
派遣前訓練を受けた二本松訓練所では、同じ生活班だった友達。
保健師としてシリアに派遣され、活動していた友達から
シリアが今危ない状況にあること、協力隊員は週末の自宅待機を命じられていることを聞いていた。
スカイプでメッセージを送りあっているとき、「今、外でデモの音がきこえる。」
と不安げな友達の声。

そして、とうとうシリアから国外待避、JICAも青年海外協力隊も撤退となった。
待避が決まったときに知らせてくれたメール。



   火がつけられたら一気にデモが広がって、外務省からの渡航情報危険レベルも上がりました。
   毎日ニュースで流れる映像はシリアだとは思えないくらいひどいです。
  周りのシリア人も不安と緊張が走っています。
  いろんな自由が制限されて、人がどんどん殺されていくのはいや。
  活動はやり残したこともたくさんあります。
   また戻ってこれると信じて、
   とにかく、安全を第一に無事に着くよう、成田を目指します。



一口に国外退避といっても、たくさんの荷物をまとめ、活動を途中にし、
それまで関係を築いてきた人との日々を断ち切り、
命をおびやかす危険を隣り合わせにしながら日本を目指す、
道中どんな思いだっただろう。
希望をもって夢をもって10ヶ月前にやって来た道を戻り、日本へ。



無事に日本に到着した友達からシリアでのことをきく。
シリアを離れた今話せることがたくさんあるということに驚く。


   日本では、インターネットで自分が調べたいものは なんでも検索出来る。
   何を検索してもいい。
   外も自由に歩ける。
   シリアでは情報が操作されていて、正しい情報を得るのが難しかった。
   たくさんの人が死んでいるのに、何もなく静かでしたと国営放送が伝えていた。
   外も自由に歩けない。
   秘密警察がどこで見ているか分からないし、だれが秘密警察なのかもわからない。
  スーパーの店員だったり、同僚の旦那さんだったり。
   政府の批判をすれば5分以内に捕まるという世界。
   盗聴が日常におこり、誰が聞き耳を立てているか分からない。
   ごみまでも清掃員にあさられて、すべてを探られているあの世界から
   日本に帰ってくると、友達と自由に話せることが嘘みたい。
   やっと、隊員仲間ともシリアのことを今になって話せる。
   自由があるって、すごいこと。
   シリアの人たちにも自由をあげたい。
   私を心配して毎週末家によんで一緒に過ごしてくれた同僚たち、
   私が国外待避できてよかったと心から心配してくれる同僚、
   日本に帰ったら地震の被災地に行くのだと言うと、
   これをもっていってと、被災地の人たちにメッセージを書いてもたせてくれた同僚、
   そんな優しいシリアの人たちに 自由になってほしい。
         




この一ヶ月、こんな思いをして生活し、そして今シリアの人たちのことを憂う友達。
訓練所では毎日教室に残り、遅くまでアラビア語を勉強していた努力家で
いつもへとへとになって部屋に帰ってきていた。
休日の談話室ではシリアの女性が美しく独特のメイクをする様をインターネットで見て
ここにいくんだね こんなふうになるのかなと 話を湧かせ一緒にこれからのことを語り合った。


日本とは全く違う、日本では考えられない生活が、ある国には現実として今も続いている。
自由が当たり前の日本。
思っていることを何でも言える、友達となんでも話せる自由。
どこにでも行ける自由。
命を脅かされることのない、生きることの自由。
それを誰もがあたりまえに享受している日本。

だけど、知ってほしいと思う。
日本でもずっと昔、やはり情報は規制されて、思ったことを口に出せない時代があった。
そして今も、こういう世界があって、そこで奮闘している人たちがいる。
遠く海を隔てた国ではあっても、それは決して無関係ではない。
日本に帰るときシリアの同僚がもたせてくれたという、震災被災者へのメッセージには
自分たちの生活が死を隣り合わせにしながらも、日本のことを想ってくれる
シリア人の思いやりがつまっている。
海を隔てた遠い国日本とシリア。 
その遠い国、日本を一人の日本人ボランティアの存在から、
きっとぐんと近くに感じてくれていたのだろうと思う。


国と国では戦っていたり、組織としては国外待避したりするときでも
人と人との思いはつながっていて、
今この時も友達はシリアの同僚たち、シリアの人々のことを憂う。
      

ラオス隊員 コンケン来訪

2011年04月19日 14時21分57秒 | 青年海外協力隊たちの活動
私たち青年海外協力隊は、派遣国に行く前に65日間の
派遣前訓練をうける。
昨年4月からの65日間を、福島の二本松訓練所で共に過ごした
同期隊員がタイへやってきた。
彼女が活動するのはタイの隣国、ラオス。任地はサワンナケート。職種は看護師。

派遣国が隣国同士であり、ラオス語とタイ語はよく似ていることもあり、
訓練所にいるときから親しく、いつか必ず行くからと互いに約束していた。
その同期が国境を越え、本当に会いに来てくれた。
   
  真珠と象のろうそくとラオス山岳民族の品をもって。


今でも、思い出せば心が震えるようなすばらしい出会いが詰まっていた
二本松訓練所での65日間。
人生の宝となり得る、その時間を共有した仲間。
あれから9ヶ月の時を経て、このタイで会えた感激、
言葉にならない思いで、二人抱き合って再会を実感する。
      


ソンクラーン後の嘘のように静まりかえったチェンマイで合流。 (→ブログ 「ソンクラーン in チェンマイ」 → You-tube動画ソンクラーン
まずはチェンマイで一日過ごす。
私のブログをよく見てくれている彼女は、アイスティムもブログで学習済み。
ラオスにはないという、パン+カオニャオ+アイスの奇跡のトッピングにかぶりつく。 (→ 過去ブログ 「アイスティム」

      


ラオスは社会主義のため、物が少なく物価は高いのだ
と、タイでの買い物を楽しむ。
彼女のラオス語はちゃんと通じてて、店の人とも楽しげに会話。
日本人がタイ語を話すのでも驚く人が多いのに
ラオス語を話すなんて。
どこに行っても驚きと歓喜の扱いを受ける。
      


一緒にコンケンへ。
いつも乗っているバスがいっぱいで、
一番下のランクの2等バスに乗ることになったが、
ラオスのバスに比べればこれでもとてもきれいなのだと喜ぶ彼女。
満席の乗客の中、途中、警察官が乗ってきて私たち二人にだけパスポートの提示や職務質問があった。
2等バスに乗っている外国人だからか、色眼鏡で見られているようで
正直、むっとする。
    


コンケンバスターミナルでは白い粉まみれのバスがあり
コンケンでのソンクラーンの激しさを想像。
バンコク、チェンマイのソンクラーンが有名だが、
コンケンもかなりの派手さらしい。
今回、ソンクランを任地にいられなかったのはちょっぴり残念。 ああ美女もこんな姿に。
     


ようこそコンケンへ。 私のアパートに到着。
  



私の配属先 第9特別教育センターコンケンへ。
ラオス語を話す彼女の登場で、みんな大うけ。
ラオス語はタイのイサーン語(東北弁)とそっくりなのだ。
だから、ここコンケンの人たちでラオス語を話し理解する人も多い。
いつもイサーン語(東北弁)がよく分からない私に、わざとイサーン語で話しかけ
分からない反応を見て喜んでいた人も、彼女がイサーン語を理解するので
ワーオ ワーオ と驚嘆。 私も爽快。

     ラオス語       タイ語
「コプチャイ ライライ」= 「コップンマーク」 (ほんとにありがとう)
  「メンボっ?」   = 「チャイマイ?」  (そうなの?)
  「ボッ?」     = 「ジンロー?」   (本当?)
「ソクディードゥー」  = 「チョークディーナ」(さようなら グッドラック)

訓練所でも、先生が言っていた。
青森弁や博多弁を話す外国人がいたら日本人にうけるのと同じように
日本人がイサーン語やラオス語を話せば、タイ人はうけて喜ぶと。
「コプチャイライライ」(ありがとう)と彼女の口から出るラオ語に
オォー!と、大うけ、みな大喜び。 センターのどこにいっても盛り上がる。
   


なじみのナムプリック屋のおばちゃんも、ラオ語で話す彼女をすぐに気に入る。
ゲラゲラ大笑いしながら
「日本人がラオ語しゃべってるよ-!」と騒ぐ。
   


   


ラオス語でひるむことなく話し、応対する彼女。
見ていると返事がいいのだ。
「ウ ウ」「ジャ ジャ」「ボ?」などラオス語の相づちをよくうち、のりがいいのだ。
ここイサーンではラオス語を理解する人が確かに多い。
とはいえ、全員ではないし 同じではない言葉もある。
だけど、ひるまない明るいのりと、相手の話を聞いていますよ、と相手を気持ちよくさせる相づちで
一気に溶け込む彼女。
言語の壁を日々感じている私だけど、やはり、
壁になるのは単純に言語の問題だけではないな、
私自信の溶け込もうとする気持ちが大きく左右しているのだなと
彼女を見ながら感じる。反省すべきところ。


ラオス語が上手で、すっかりラオス人。
イサーン地方コンケンでも不自由なく暮らせそうな勢い。
道行くソンテウもみごとな手さばきで止める。
     


コンケンにあるデパート、セントラルプラザ。
ヤマザキが入っていて、夕方運が良ければ
どっさり袋に詰まったパンの耳がたったの22バーツ(66円)で買える。
いろんな味のパンの耳やきれはしがどっさり。
彼女に勧めるとラオスへ帰るお土産にと購入。
パンの耳をお土産に買って持って帰る彼女がとても好き。
おいしいおいしと もぐもぐ食べる。
      
             


バスが定刻通りに着かず、配属先に遅く着いたのと
ソンクラン明けで子どもたちが少なく午後の個別がなかったのとで
彼女はほとんど私の活動は見られなかった。
それをとても残念がり、私と子どもたちとの関わりが見たかったと言う彼女。
私のブログを本当によく読んでくれていて、感動を覚えるほど。
あの子を知っている、この掲示板も見た、この道具もブログで見た、
隊員総会ではこんなことがあったんでしょう、ああここがさちえが行った歯科ね、と、
今さら話さなくてもなんでも知っているのだ。
今まで私の生活のすぐそばにいてくれたかのような気持ちの疎通感。
知らないうちに、こんなに読まれ、応援してもらっていたとは。


チェンマイソーセージやイサーンソーセージを食べ、
2人で買い物をし、試着室でファッションショー、
おそろいの服を買い、バスの中では長い時間おしゃべりし、
女友達と日本にいるかのように過ごした3日間。
    
        


タイ隊員、私の次隊は男女2名のみ。
ほぼタイ同期がいないに等しい状態で
コンケンで一人で過ごし、他国の隊員をうらやましく思うこともあった。

久々に友達と会い、楽しい時間を過ごし、
ああ友達ってこういうものだったなと思い出した。
楽しかった分、別れの寂しいことといったらない。
  

私は知らないだろうけど、このブログを読んで応援してくれている仲間も
たくさんいるのよと言ってくれた彼女。
一人ぼっちでコンケンにいるような気になっていたが
私の仲間は ちゃんといる。


隣国ラオス、どんな国なのか見てみたい。
タイ、イサーンと似た言語を話し、タイに近い国。
私も必ず約束を果たしに ラオスに行く。

青年海外協力隊  ニジェールからの撤退

2011年04月01日 15時31分59秒 | 青年海外協力隊たちの活動





ニジェールに派遣された、同期の仲間から衝撃的なメールが届く。

   



   大切なみなさまへ

 ニジェールでのボランティア事業が撤退になりました。
 全員日本に帰国するまで口外することができず、全員が日本に帰国したということで日本でこのメールを書いています。
 14日から分かれて帰国し、最終組だった私は昨日22日、夕方福岡に帰ってきました。

 治安が悪化し、気をつけて生活をするように常に指示されていたけれど、
 まさか撤退になるとは思ってもいませんでした。
 3月2日に緊急連絡網で撤退が告げられ、
 それ以降、本当に長い長い一日一日を過ごしてきました。
 様々な手続き、活動のまとめ、やらないければいけないことにおわれながら、
 ふと考えると涙がこぼれて仕方がありませんでした。
 フランス語も現地語もまだまだで、活動も大した成果もなく、悔やまれる気持ちからかもしれません。
 自分なりに頑張ってきて、これからという時にと、残念な気持ちからかもしれません。
 首都のニアメに上がったときには、もう隊員の半数は帰国をしていて、
 ああ、これが撤退なんだな、と思いました。

 無事に日本に帰ってくることができ、
 帰るところがあることに、待ってくれている人がいることに感謝の気持ちでいっぱいです。
 そして、本当に本当に、この世の中で一番大切なものは命なのだとはっきりとそう思いました。
 世界で活動するみんなが健康で安全で活動できるよう祈っています。




 ニジェール隊は全員国外退避となり、現在日本へ避難。
 一時帰国し派遣国振り替え待機している。




   





彼女は、同じ福岡の現職の教員。
同じ日に福岡空港から飛び立った同郷の同職の仲間。
時折ニジェールでの様子を知らせてくれ、
子どもへの愛情あふれる彼女のメールに癒された。
 (→過去ブログ 「ニジェールより」


撤退。


メールを読んで、何も言えない。
彼女の気持ちが胸に入ってきて苦しい。

私たち、派遣されて 今、ちょうど9ヶ月。
現職教員にとっては、あと1年の活動となった。

思っていたことと違う現実や、うまくいかないことが だんだん積み重なり
出会いや別れも経験し、いろんな要素がからまって、今世界中にいる同期の仲間たち
みんなきっと疲れている時期だと思う。
任期短縮を考えたり、一時帰国を考えたり。


決して自ら任期短縮を選択することが悪いとは思わない。
そうすることも、協力隊として活動を続けるのと
形は違えど、前に進んでいることに変わりない。
がむしゃらに突き進むだけが勇気ではない。
時には、やめる勇気も必要であり、それは大きな勇気だと思うから。


二本松にある派遣前訓練所でともに過ごした仲間の一人が、
任期短縮し4月から学校に復帰するが、私はそれは彼女の英断だと思う。


だけど、自分はどうなのかと考えたとき、
私が今やめるとしたら、それは勇気ではないと思う。
いろいろある中で、自分がここにいる意味を考えたり
日本での方がもっと必要とされるんじゃないか、
自分の力の5%も発揮できていないと、
少し後ろ向きになり、今心底一生懸命に活動に取り組めていない。

この同期からの撤退を伝える知らせで、自分の甘さを思う。
これだけの思いをもちつつ、撤退を余儀なくされた仲間がいるのに、私は、と。

簡単に任期短縮などの考えが頭をよぎったことが情けない。



1年後、タイからおみやげをいっぱい買って福岡に帰る。
この1年間、本腰を据えて活動に取り組む。
本当に突き当たってもうだめだというところまで
逃げずに取り組む。


一足先に帰った仲間と、1年後祝杯をあげて互いの労をねぎらいあいたい。




今 私にできること

2011年03月30日 16時59分35秒 | 青年海外協力隊たちの活動

インターネットのおかげで日本のニュースを見ることができる。
画像は悪く途切れはするが、なんとかテレビも見られる。
先輩隊員から教えてもらい、ダウンロードして見る。
すると、ニュースをはじめ、CMでも震災に関連すること一色。
 
   心より震災のお見舞いを申し上げます
   ヤマザキは被災地への食糧支援に力をそそぐため春のパン祭りを延期します
   ディズニーリゾートはただいまお休みをいただき皆様をお迎えする準備を進めています
   使っていないときはコンセントを抜いておこう  買いだめは控えてください
   無駄な通話やメールは控えよう  
   日本の強さは団結力です がんばりましょう
   大丈夫 一人ではない、みんながいる、日本が一つのチームなんです
   みんなでやれば大きな力になる
   今私にできることはなんだろう

こんなテレビ放送は私が生まれて以来なかったものだ。
今の日本の日常そのものが震災の影響続く中にあるのだと実感する。

   




今、自分にできること。
ここにいて 試行錯誤しながらボランティアをしているよりも
日本でボランティアをした方がよほど必要とされるのではないかと思う。
日本から離れていることで、どんなにニュースに目をこらしても、
どうしても日本にいる人たちと思いを共有できていないことにも、いらだつ。


けれど、こうも考える。
こうやって海外に支援をしているから、海外からの支援があんなにあるのではと。
一人一人のボランティアがやっていることは小さく、
私も理想とは違い、現実にはたいしたことは未だできていなくて、
ここでの自分の存在意義は?と思うほどだけども、
日本が海外に国際協力し、途上国にボランティア派遣をしているという
事実があって、こうして世界中が日本に関心をもち
今救おうとしてくれてるんだと思う。


訓練所で教わったこと。
資源のない、武器を持たない日本が戦争に巻き込まれず
攻撃されず生き延びて行くには、積極的に国際協力をし
他国と友人関係をきずいて仲良くやっていかねばならない。

日本への支援を世界中が行っているのを見て
世界中に飛び今活動している仲間たち、
そしてこれまでの協力隊事業において 現地で実際に活動してきた先輩たちのことを思う。
そういう現地の人たちの中に入った草の根の活動が
今も、どこかに結びついているのではないか。



フィリピンにいる友人の隊員が言う。
 「本来ならばつながるはずもなかったこの任地の人たちからの
   一人一人の祈りや思いを日本の人に届ける役割をしたい。」


今私ができること。
ここにいるからできること。
つながるはずもなかった人たちと今つながっている。
このタイからのコンケンからの人々の祈りを日本に送り届ける役割は
コンケンに派遣された私の役割だ。


そして、今は小さいけれど私の活動した2年間が
しだいに日本という国への好意へとつながっていけば、
私の存在意義もあると思える。


     

先輩隊員の帰国

2011年03月23日 20時03分36秒 | 青年海外協力隊たちの活動

青年海外協力隊は、年に4つの隊次に分けられ、任国へと赴く。
6月 1次隊
9月 2次隊
12月 3次隊
3月 4次隊

私は、平成22年度1次隊としてはこのタイ王国へと派遣された。


現職驚異特別参加制度での協力隊参加は、毎年1次隊に属し、
任期は、他の人よりも3ヶ月短い1年9ヶ月。
4月から教師として学校に復帰できるように、
同期の隊員よりも一足先に、3月、日本に戻る。

つい先日20年度4次隊の先輩隊員、
そして21年度1次隊の現職参加の先輩隊員が日本へ帰国。
現職教員参加である、私も来年の今頃に日本に帰る。


タイに来て、先輩隊員の帰国を送ったのはこれで4度目。
1度目はタイに到着した翌日のこと。
帰国を明日に控えた先輩隊員と食事を共にし、
「早く日本に帰りたい」と、言葉とはうらはらに複雑な顔をして言うのを
不思議な気持ちで聞いた。
それから少しずつ先輩隊員たちと親しくなり、
次の隊次が帰国、そして次の隊次、と見送る立場を重ねるごとに
さびしさが募るようになった。


そして4度目。
助けてもらった、笑わせてもらった、教えてもらった、気持ちを分け合った、
当然のことながら、今まででその時間が最も多かった先輩隊員たち。


協力隊員として任国で出会い、特別な感覚と思いを共有した。
日本ではきっと、出会うことができなかった人たち。
出会いの不思議さを、奇跡だと思う。
別れのさびしさがずっしりとくる。

旅立ちの前、先輩隊員の顔を見て、いつものように話していても
もう、こうしてここで同じ立場で話すことはできないのかと、
さびしさが胸にこみ上げる。
帰りのバスでは雨。涙雨が降ってくる。
  


もうすでに、みな日本の地を踏んだ。
2年ぶりの日本に、きっと違和感を感じながらも、
着実に日本人に戻っていくのだろう。

今、先輩たちが戻っていった日本と、
1年後、私が戻る日本は同じ日本なのだろうか。
異次元に存在する別々の日本に、私たちは戻っていくのではないだろうか。
だからもう、2度と会えないのではないか、と考えてしまう。


 バンコクの空から日本の空へ つながっているはずなのに遠い。
   



 

先輩隊員の皆さん。
日本が大変なときの帰国。
タイにいる私たちがこの目で見られない日本の惨状を目の当たりにし、
肌で実感して、どんな思いでいるのでしょうか。
そちらは寒いでしょう。体に十分注意してくださいね。
心も体もやすらかに過ごしてください。
タイで巡り合わせたこと、なんて幸運だったのだろうと思います。
任期を全うされたみなさんを、心から尊敬します。