ぷちとまと

FC東京、もう飽きた。

厳密解と近似解

2006年10月19日 03時26分14秒 | 雑記
先日本棚を整理していたら、大学時代に勉強した山口昌哉先生の『数値解析の基礎』が出てきました。山口先生に教わったことはありませんし面識もありませんでしたが、お世話になった先生や前の会社の上司は山口先生の教え子なので、僕だって1ミリくらいは縁があるというものです。

あまり詳しくない人には、数値解析って計算(シミュレーション)してるだけじゃないのかという誤解もされますが、決してそういう訳ではありません。有名なフォン・ノイマンも、この分野で活躍した人です。

計算のさせ方がまずいと、シミュレーションから得られる解は、厳密な解とは程遠い値になってしまいますが、それではシミュレーションによる予測など不可能です。シミュレーションによる解の誤差が一定の範囲内であることを保証するのが、数値解析の基礎であるといえます。実際に問題の対象となる偏微分方程式は、厳密解を求められないのが普通ですので、誤差範囲の保証が必要なのですね。

とまあ、詳しいことはほとんど忘れてしまいましたが(笑)、そんなことを勉強したような記憶があります。

前置きが長くなりましたが、なぜこんなことを書いているかというと、最近「(自分にとって)よい人生とはよい近似ではないだろうか」と思うようになった、より正確に言えば、ずいぶん以前から探求していたものの正体は、質の高い近似だったのではないだろうかと考えるようになったからです。

たとえば、ことばで相手に何かを伝える場合を考えてみると、発信者が伝えたい内容がことばに変換されるときに誤差が生じますし、ことばと受信者が解釈した内容との間にも誤差があります。これらの誤差の存在を認めるならば、質の高いコミュニケーションが成立するためには、両者に一定水準以上の近似能力が必要であるといえるのではないでしょうか。

また、評価に要求されるのも近似能力なのではないかと思います。
たとえば映画や音楽への評価に絶対的な正解はありませんが、とはいえ的外れなものはいただけません。的確な評価というものは、やはり(決して到達できない)厳密解の近傍にあるのではないでしょうか。

つまり、あまり厳密さだけを追求しなくても、そこから遠く離れていなければいいんじゃないかと思うんですよね。僕はいい加減な人間ですから(笑)
という感じで、気が向けば、このテーマについて続きを書こうかと考えています。