昨日は、「桜田門外の変」があってからちょうど150年、ということでしたので、桜田門外の変をおさらいしてみたいと思います。坂本龍馬が生きた時代です。
幕末の大老・井伊直弼(彦根藩主)は、朝廷の勅許を得られないままに、安政5年(1858)6月に日米修好通商条約を結びました。この条約によって、1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市 2)通商は自由貿易とすること 3)開港場に居留地を定め、一般外国人の国内旅行を禁じること、などを決めました。しかも、4)領事裁判権を認め、5)日本の関税についても相互で協定するという条項が含まれていたうえ、日本が自主的に改正できないという不平等条約で、問題をのちに残しました。
この通商条約により、貿易は横浜を中心にイギリスを主な相手国として始まり、日本は綿織物・毛織物や武器・戦艦を輸入し、生糸・茶などを輸出しましたが、大幅な輸出超過となり、日本の経済界に大きな変化を及ぼしました。
また、日本と外国との金銀比価の違いから、多量の金貨が一時海外に流出し、都市の物価は著しく上昇し、庶民の生活は圧迫されました。このため、貿易に対する反感が高まり、激しい攘夷運動が起こるようになりました。
対外問題で苦しんでいた幕府は、更に13代将軍・家定の継嗣問題で、内部分裂の危機を生じました。薩摩藩主・島津斉彬が押したのは、一橋家の徳川慶喜。一方、譜代大名の中心となった井伊直弼が押したのは、徳川慶福(後の14代・家茂)。これが、条約の無勅許調印とからんで、その違勅を攻撃されると、井伊は、安政の大獄を断行して、一橋派の公家、大名、志士の多くを厳しく処罰しました。これに憤激した水戸藩士らは、万延元年(1860)、井伊を桜田門外で暗殺しました。これを、桜田門外の変といいます。(以上、高校時代の日本史の教科書からの抜粋です)
私の母方の祖父の祖父は、伴文次郎といいます。伴家は、代々、彦根藩にお仕えした儒学者の家系でした。平成14年2月に彦根城博物館に行ったときに、「伴文次郎」という名前で調べていただいたら、「侍中由緒帳」という文書に、伴家の歴史が書いてあることがわかりました。伴家についての記述は、宝永7年(1703)に、近江国小室出身の伴吉右衛門が彦根藩の七十人衆に召抱えられた、というのが最初です。それから5代後に登場するのが、伴文次郎であり、安政5年(1858)に彦根藩の藩校である弘道館の会頭、翌年に素読方、明治元年に学問方となっています。
その父親の只七は、侗庵と号し、「彦根市史」にも登場する人物です。「日本教育史資料」の彦根藩の部分の記載によると、只七が、嘉永5年(1852)、お殿様である井伊直弼に講義をしたところ、「直弼大ニ感賞シ手ツカラ肩衣ヲ脱キテ之ヲ賜フ」とあります。つまり、「井伊直弼が、とても誉めてご自分の手で肩衣を脱いでこれをくださった」、ということです。只七が亡くなったのは、明治6年。68歳でした。井伊大老が暗殺された13年後です。
桜田門外の変の報を、おそらく彦根で受けた私のご先祖さまたちは、何を思ったのでしょうか。
8年前の2月に、彦根城を歩いていたら、水戸市から送られた和解の梅が咲いていました。まだ、とても若い梅の木でした。
ユラーナ
幕末の大老・井伊直弼(彦根藩主)は、朝廷の勅許を得られないままに、安政5年(1858)6月に日米修好通商条約を結びました。この条約によって、1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市 2)通商は自由貿易とすること 3)開港場に居留地を定め、一般外国人の国内旅行を禁じること、などを決めました。しかも、4)領事裁判権を認め、5)日本の関税についても相互で協定するという条項が含まれていたうえ、日本が自主的に改正できないという不平等条約で、問題をのちに残しました。
この通商条約により、貿易は横浜を中心にイギリスを主な相手国として始まり、日本は綿織物・毛織物や武器・戦艦を輸入し、生糸・茶などを輸出しましたが、大幅な輸出超過となり、日本の経済界に大きな変化を及ぼしました。
また、日本と外国との金銀比価の違いから、多量の金貨が一時海外に流出し、都市の物価は著しく上昇し、庶民の生活は圧迫されました。このため、貿易に対する反感が高まり、激しい攘夷運動が起こるようになりました。
対外問題で苦しんでいた幕府は、更に13代将軍・家定の継嗣問題で、内部分裂の危機を生じました。薩摩藩主・島津斉彬が押したのは、一橋家の徳川慶喜。一方、譜代大名の中心となった井伊直弼が押したのは、徳川慶福(後の14代・家茂)。これが、条約の無勅許調印とからんで、その違勅を攻撃されると、井伊は、安政の大獄を断行して、一橋派の公家、大名、志士の多くを厳しく処罰しました。これに憤激した水戸藩士らは、万延元年(1860)、井伊を桜田門外で暗殺しました。これを、桜田門外の変といいます。(以上、高校時代の日本史の教科書からの抜粋です)
私の母方の祖父の祖父は、伴文次郎といいます。伴家は、代々、彦根藩にお仕えした儒学者の家系でした。平成14年2月に彦根城博物館に行ったときに、「伴文次郎」という名前で調べていただいたら、「侍中由緒帳」という文書に、伴家の歴史が書いてあることがわかりました。伴家についての記述は、宝永7年(1703)に、近江国小室出身の伴吉右衛門が彦根藩の七十人衆に召抱えられた、というのが最初です。それから5代後に登場するのが、伴文次郎であり、安政5年(1858)に彦根藩の藩校である弘道館の会頭、翌年に素読方、明治元年に学問方となっています。
その父親の只七は、侗庵と号し、「彦根市史」にも登場する人物です。「日本教育史資料」の彦根藩の部分の記載によると、只七が、嘉永5年(1852)、お殿様である井伊直弼に講義をしたところ、「直弼大ニ感賞シ手ツカラ肩衣ヲ脱キテ之ヲ賜フ」とあります。つまり、「井伊直弼が、とても誉めてご自分の手で肩衣を脱いでこれをくださった」、ということです。只七が亡くなったのは、明治6年。68歳でした。井伊大老が暗殺された13年後です。
桜田門外の変の報を、おそらく彦根で受けた私のご先祖さまたちは、何を思ったのでしょうか。
8年前の2月に、彦根城を歩いていたら、水戸市から送られた和解の梅が咲いていました。まだ、とても若い梅の木でした。
ユラーナ