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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

葡萄

2007-08-20 08:39:52 | 身辺雑記
 近所にあるMさんの家にはいろいろな植物があって目を楽しませてくれる。Mさんは街で花屋を営んでいてなかなか繁盛している。この家の植物は折々写真に撮り、前にも実桜の開花から実が熟すまでを記録してブログに出したことがある(5.9)。

 6月の初旬にこの家の前を通りかかると、葡萄の蔓が家の壁に這っていて緑の葉が美しく繁っていた。


近寄って葉の間を見ると花が終わって間もない小さい房が見えた。実桜のように成熟するまで記録することにした。
 6月6日

 6月11日

 6月20日

  6月26日

翡翠の玉のように美しい。
 7月6日

しだいに色づいてくる。
 8月1日

色づくまでは日数がかかるが、後はどんどん進む。
 8月11日

鳥に啄ばまれている。食べ時か。鳥もよく知っているようだ。
 8月17日

収穫は間もないだろう。
 8月17日

宇宙の出来事

2007-08-19 07:28:22 | 身辺雑記
 米国の航空宇宙局(NASA)がくじら座の脈動変光星ミラが全長約13光年におよぶ彗星のような尾を引いていることを発見したという記事を読んだ。天体や宇宙のことについては興味はあるが、難しくてよく解らないことが多い。

 ミラという天体は太陽の400倍以上の直径を持つ赤色巨星だと言う。赤色巨星とは年を取った星だということは知っている。質量の大きい星はその生涯を終える頃になると大きく膨張して赤い巨星になり、最後は爆発して宇宙空間に飛散する。このミラは400年前から存在が知られていたらしいが、尾が見つかったのは初めてとのこと。3万年以上の間に地球3000個分の物質を撒き散らしながら、くじら座のあたりの宇宙空間を秒速130キロという高速で移動するので尾を引くように見えるという。この尾の長さが13光年。秒速30万キロの光が13年かかって走る距離だ。

         

 このように言われても、もうひとつ実感がわかない。太陽の400倍の大きさと言い、地球3000個分の物質と言い、秒速120キロのスピードと言い、13光年の尾の長さと言い、何しろすべてのスケールが巨大だ。第1、秒速120キロなどという超スピードで宇宙空間を移動してると言っても何百年もの間くじら座のあたりの1点にじっとしているように見えているのだから、宇宙空間がどれほど広大なものかが分かるというものだ。宇宙での現象としてはどれもごく普通のことなのだろうが、この地球上では比較するものがないから想像すらできない。本当かねぇなどと思ってしまったりもする。

 宇宙の年齢は137億歳だと言われている。今頃のことだから137億円と言われると、たとえば住んでいる市の年間予算などいろいろな例があるから比較してみてその大きさを考えることは出来るが、137億年は巨大すぎて想像を超える。地球の年齢でも46億年だから、これでもかなり想像することは難しい。人類になると猿人でも400万年くらい、現生人(ホモ・サピエンス)になると20万年だから、これも随分長いとは言えるが宇宙や地球がたどってきた時間の長さから言うと知れたものだ。そして文明の誕生はたかだか1万年、よく言われることだが地球の誕生からのタイムテーブルを作ると一瞬のようなものだ。

 このような宇宙の片隅にある地球の、これまた片隅に私達はいる。何とちっぽけな存在かとも思う。日々あくせくしたり、笑ったり、泣いたり、怒ったりすることはなんだか馬鹿らしくもなってくる。しかし、だからと言ってニヒルになったり悲観的になったり、投げやりになったりすることはない。悠久の昔に偶然に生れた宇宙の中でこれまた偶然に生れた地球、生命。その偶然の連鎖である進化の結果生れた人間。その後も綱渡りのような偶然の連続で今ここに生を享けて存在している私、家族、友人、知人達。やはりかけがえのない愛おしい存在ではないか。

 ミラの尾のことから、あれこれ空想も交えて考えた暑い午後のひと時。結局たどり着くのはささやかなことだ。



回族

2007-08-18 09:54:15 | 中国のこと
 教育交流ツアーで何度か訪れた寧夏回族自治区には、その名のとおり回族が多く居住している。少し古い統計になるかもしれないが、自治区内の回族の人口は約190万人、34%で、中国全土の回族の約18%を占めている。
 
 中国には大多数を占める漢族の他に55の少数民族がいるが、回族は約980万人で約1600万人の壮(Zhuang)族に次ぐ人口であるが、壮族が広西壮族自治区を中心として雲南省、貴州省など限られた地域に居住しているのに比べ、回族は甘粛省、青海省、河南省、河北省、山東省、雲南省など中国全土に広く分布し、中国では分布地域が最も広い少数民族である。

 回族はイスラム教を信仰しているので、ほとんどの者は豚肉を食べない、アルコール類やタバコは嗜まないなどの生活習慣は守っているが、長年漢族と接して生活してきたので、その他の日常生活習慣はかなり漢族化している。イスラム教徒は1日に3回ないし5回、イスラム教の最大の聖地であるサウジアラビアのメッカの方角に向かって礼拝することが義務付けられているが、それも回族では必ずしも守られていないと聞いた。

 イスラム教の寺院をモスクと言うが、中国では中国風に清真寺と言う。「清真」は「イスラム教の」と言う意味で、寧夏回族自治区の区都の銀川に往き来する飛行機の中で出される食事のケースにも「清真」と言う簿字を印刷したラベルがつけてある。豚肉は使っていないということだろう。中国の都市の街中では「清真菜」と言う看板のある料理店をよく見かけるが、なかなか人気があるようで、西安にも中心部の鼓楼の近くに大きな清真料理店があって賑わっている。

回族の父子。寧夏で。


  母と娘。この子は6月に大阪に招いた。大阪の街を見て「とても綺麗。まるで仙人が住んでいるよう」と言ったそうだ。非常にしっかりしている。家は貧しい。


祖母と孫娘。


女性達。


右端の女性は20歳だが、結婚して子どももいる。


モスク。

青海省西寧の東関清真寺。


東関清真寺の礼拝殿。


西安の清真寺。


西安の清真寺の礼拝殿で。午後の祈りのために来た老人。


 寧夏回族自治区にはモスクが多い。これは同心県という所にある大きなモスク。この同心県にはかつてジンギスカンに連れられてきた回族の人達が住みつき、やがてチベット族が造ったラマ教の寺をモスクに改修したという。




村のモスク。


車で走っていると、道路の両側には小さなモスクがある村が多い。




入道雲

2007-08-17 09:00:34 | 身辺雑記
 「むせかえるような酷暑が16日列島を襲った」と言うニュースだ。埼玉県熊谷市、岐阜県多治見市では1933年7月以来の国内最高記録の40.9度にまでなったらしい。私は1933年7月生まれだから、74年ぶりの記録と言うことになる。

 実に暑い一日だった。気象台から出される気象情報は気温にせよ湿度にせよ、全国に設置された「地域気象観測システム」(アメダス)で測定された結果だから、「○○では38度」と言っても測定された地点のデータだから、実際にはそれよりも高いところも低いところもある。当地でも最高気温は35度と言うことだったが、私の家の外にある木に掛けている温度計は45度にまでなっていた。街に出ると上からの照りつけ下からの照り返しで、トリ年の私はまさにオーブンの中でローストされている老鶏のようだった。熱中症で倒れたり死亡したりする事例も多いようだ。クーラーは嫌だ、体によくないと言って使わないで窓を開けておいたりすると、熱い外気が入ってきて室温が上がり、室内でも熱中症になるらしい。

 夕方、陽が西の山のかなたに落ちた頃外に出ると、大きな入道雲が縁を黄金色に輝かせていた。何やら豚の横顔のようにも見える。面白いし綺麗なので写真に撮ろうと家に戻ってカメラを持ってきてみると、僅かの時間でもう豚ではなくなっていた。入道雲(積乱雲)の高さは1万メートルにも達するから、雲の頂あたりでは気流が激しいのだろう、雲の頂はどんどん流されて鉄床(かなとこ)状になっていく。雄大な夏の景色だ。


 雲の写真を撮っていると、犬の散歩に通りかかったこぎれいな女性に「雲がきれいですね」と声を掛けられたので「ええ、きれいですねえ」と応じた。これで涼しい風でも吹いてくれたら趣があるのだろうと思ったが、如何せん、むっとするような空気で風情も何もあったものではなかった。

江戸しぐさ

2007-08-16 08:25:24 | 身辺雑記
 最近新聞で、「江戸しぐさ」という言葉を見た。江戸の町人の日常の振る舞いについての言葉のようで、興味を持って書店に行くと、この表題の本がいくつか置いてあった。読みやすそうな「図説 暮らしとしきたりが見えてくる 江戸しぐさ」(越川禮子監修:青春出版社)を買った。

 江戸は武士階級の町であったので、人口の半分を占めていた町人は面積としては15%の土地に押し込められて住んでいた。そのため気持ちよく生活していくには相互扶助、共生することが必要になり、その生活哲学として「江戸しぐさ」が作られたと言う。

 読んでみると特別なことはなく当たり前のことばかりで、「あれ?」と思うことが多い。たとえば「肩引き」。町人が住む長屋には路地裏と言う狭い道があって、これが通行路になっていた。そのような狭い道ですれ違う時には、互いに肩を引く。江戸では普通は左側通行だったので右肩を引く。腕も後ろに引いて相手に触れないようにする。路地がもっと狭い場合には「蟹歩き」と言う完全な横歩きをした。私が「あれ?」と思ったのは、このようなしぐさは私もいつでもしていて、前にも「会釈」という題で書いたことがある (06.11.18) からだ。その出だしの段を再録してみる。

―近所に細い路がある。2人がどうにかすれ違うことができるくらいの幅だから、荷物を持ったり傘をさしたりしている時にはちょっと体を開くようにして相手を通すようにしなければならない。あまり他人のことにはかまわないような高校生でも、この路ではそのようにする。年配者に多いが、すれ違う時に少し会釈をする人もある。もちろんこちらも会釈をするが、この何でもないようなしぐさはなかなか良いもので、見知らぬ人ともふと心が通い合ったような和やかな気持ちにさせられる。―

 このように私だけではなく、この路ですれ違う多くの人は、皆が皆ではないがこのようなしぐさをする。荷物を持っていなくても、傘をさしていなくてもちょっと肩を引く。右側通行するから左肩を引く。傘をさしてすれ違う時の「江戸しぐさ」は「傘かしげ」と言い、傘を外側に傾ける。もっと狭い時には傘をすぼめてすれ違う。これもこの路ではよくやっている。

 他にも人の前を横切ること、これは江戸時代には非常に無礼、非礼なこととされていたそうで、特に身分の高い武家の行列の前を横切ったりすると、手打ちにもされかねなかった。だからどうしても人の前を横切らなければならない時には「横切りしぐさ」と言って、右手を前に差し出して、失礼しますと言う意思表示をした。これなども今でもよく見かけるしぐさだ。

 そこでちょっと不思議に思ったのは、このような「江戸しぐさ」と言われることのいくつかをごく普通にする私は、いったいいつごろ、誰に教えられたのだろうと言うことだ。考えてみても改まって教えられた記憶がない。私だけでなく、かなりの人が「江戸しぐさ」ということをしているのは、おそらく日本人なら大方はこのようなしぐさは身についているのではないだろうか。そうするとあるいは江戸時代には既に各地、特に都市部にはこのようなしぐさがしだいに広がっていき、今に伝えられてきたのかも知れない。それとも各地で同じような事情があって自然発生したのか。

 もっとも近頃は、街中での無作法な傍若無人な振舞い、言動を少なからず見聞きするようになっている。他人への心遣いや、気遣い、思い遣りなどはまったくないような、およそ「江戸しぐさ」などとは無縁の振る舞いは若い人だけでなく、いい年をした人にも見られるのはどうしたことだろうか。何が原因でこのようになってしまうのか。「教育基本法」がこういう人間を作ったと言いたがる「知識人」や政治家がいるが、どうも牽強付会のように思える。事務所の経費のことが問題になって辞めた某大臣なども教育基本法の悪しき申し子なのか。それに教育基本法とは無縁で、昔の「道徳教育」受けたはずの世代にも、どうかと思われるような横柄、傲慢な言動や振る舞いはある。とかくそういう風潮がある世相だから、今頃になって「江戸しぐさ」などと言うことがことさらに言われるのかも知れない。

 この本の「はじめに」の中では次のように言っている。

 ―「江戸しぐさ」の基本は、互助・共生の精神。対等な立場で、相手に敬意を持ち、自らは誇りを持つ。しかしこれは「気づかい」や「心づかい」「心構え」であり、「作法」ではない。その場で自然に出る、身体に染みついた振舞い方なのだ。自然に反応してしまう身体の動きともいえる。その行いによって、互いが気持ちよくすごすことができる。そのための知恵なのである。―

 やはりこの世の中はぎすぎすしているよりも、ほんのりしていることが多いのがいい。当たり前のことなのだが。



終戦の日

2007-08-15 10:37:23 | 身辺雑記
 昭和20(1945)年8月15日、日本は連合国に降伏し、第2次世界大戦は終結した。私が小学校6年生の時だった。

 当時私の両親は、家族を連れて大阪豊中の母の実家に寄寓していた。戦争中、私達は東京小石川区(現在の文京区)の父方の祖父の家に住んでいたが、空襲が激しくなり父は母や弟妹達を母の実家に移した。私とすぐ下の妹は宮城県の鳴子町に学童疎開していたが、やはり母の実家に連れ戻された。鳴子町は戦火から遠い安全な所だったのに、父がなぜ私達を連れ戻したのか今ではよく分らない。小石川の家はその年の3月か5月の東京大空襲で焼失してしまっていた。

 移り住んだ豊中も戦火から逃れることはできなかった。東京がほとんど焼け野原となったからか、私が鳴子町から戻って程なく、大阪市や堺市、尼崎市などが攻撃目標になり、連日焼夷弾攻撃を受けた。堺の空襲で夜空が赤々と染まっていたことや、庭に作った小さい防空壕の中から尼崎を空襲する米軍の重爆撃機のB29が地上からのサーチライトに照らされて次々に姿を現したことを記憶している。そして日本軍が使っていた伊丹空港(現在の大阪空港)も攻撃され、豊中市は1トン爆弾の攻撃を受けた。祖父の家は爆撃された場所から離れていたので腹にこたえるような地響きが感じられた程度だったが、別の日には近くに爆弾が1発だけ落とされて、その近くの防空壕に避難していた家族が全員死んだこともあったし、戦闘機の銃撃で近くの女性が殺されたとも聞いた。私も小学生仲間と集団で登校する途中で、グラマン戦闘機が伊丹空港を攻撃しに飛来したのに出遭い、散り散りになって逃げたことがあった。家の前に私鉄の駅があったが、その線路の向こう側一面が焼夷弾攻撃で燃え上がりあたりは真っ暗になったが、もし少しでもこちら側にずれていたら、またまた被災するところだった。

 このように連日のように空襲を受け、それだけでもかなり恐怖に晒されたのに、特にたまらなかったのは夜になり眠りに落ちた頃になると、連日のように警戒警報その後で空襲警報のサイレンが鳴り渡って、防空壕に避難しなければならなかったことで、これは明らかに神経戦だった。あの断続的に鳴る陰気なサイレンの音を今でも思い出す。子どもはともかくとして、両親たち大人は疲れ切ったことだったろうと思う。そのようなことが続いた中で8月15日を迎えた。

 あの日は朝から晴天だった。ラジオ放送は正午に天皇の「玉音」放送があると予告していた。何しろ現人神(あらひとがみ)とされていた天皇がじきじきに国民に話しかけることなどはまったく想像もできなかったことで、何となく非常に重大なことなのだろうという予感はしたが、さらにいっそう奮起して戦えと言われるのかなどと思ったりした。正午前には病気療養中だった叔父の部屋にあるラジオの前に、祖父を初め家族中が集まった。

 やがて天皇の「玉音」が流れ始めた。初めて聞くその声は甲高く、聞き慣れない抑揚で、詔勅の朗読らしかったが、何が何やらまったく意味が分らなかった。明治初めの生まれだった祖父は衣服を改めて一番前に正座し、何か巻物のようなものを捧げ持って、深く頭を垂れて全身を震わせていた。放送は程なく終わったが、結局どういう内容だったのか分らないままに、何か狐につままれたような気持ちで、叔父の部屋から出た。

 それからしばらくして叔父の部屋に行くと、横になっていた叔父は暗い顔をして「日本は負けたんだよ」と言った。「神国日本」が戦争に負けるなどとは想像もしていなかった私は唖然としてしまった。その後で両親達とどのような話をしたのか、祖父の様子はどうだったのかなどまったく記憶にない。ただ外に出てみると、あたりは静まり返っていて青空が目に痛いほどだったことは覚えている。その夜私は日記帳に「日本は戦争に負けた。この世から正義はなくなった」というようなことを書き記したことを、今では苦笑を催しながら思い出す。いっぱしの軍国少年だったのだ。

 こうして、当時の私はその言葉を知らなかった「平和」が訪れ、空襲の恐怖から解き放たれた。後になって、その日にどのように思ったかを父に尋ねたことがあるが、父は「本当にほっとした」としみじみ言った。負けた悔しさ、悲しさよりも、虚脱感を伴ったそれが偽りのない真情だったのだろう。日本の、特に都会の庶民は疲れ果てていたのだろうと思う。妻は戦争が終わったと知って「本当に嬉しかった」そうだ。原爆投下以来1週間、まだ地獄の中にあって心からそう思ったのだろ。

 あれから62年の歳月が過ぎ、「平和」は当たり前のことになった。「平和憲法」のもとで日本は戦争をしない国として繁栄を取り戻した。平和ほど尊いものはない。日本が真に世界に誇れることは半世紀以上も「平和」を大切にしてきたことだと思う。しかし、最近は「平和ボケ」などと言って平和を貶め、平和の大切さを言うと世界の現実を知らないかのように嘲笑する言辞が出ているのは悲しいことだ。だが、そのようなことを言う人に「経験すれば分かる」とは言いたくない。誰であってもあのような悲惨な経験は決してしてほしくはない。他国に大きな災害をもたらし、日本自身も多大な損害を被った大戦が終わったのは、僅か60年ほど前のことなのだ。たとえあの時代を知らなくても、戦争の悲惨さ、平和の尊さは心に深く刻み込まなければならないと思う。




クマゼミ

2007-08-14 08:48:42 | 身辺雑記
 朝、目を覚ますとクマゼミが「シャッシャッシャッ」とにぎやかに鳴いている。

 クマゼミは神戸に住んでいた幼少の頃は憧れの蝉だった。2階の窓から手を伸ばせば届きそうなところに桐の木があって、そこにクマゼミが止り腹を震わせてやかましく鳴いた。「ジーッ」という低い声が少し長く聞こえて、やがて特有の声で鳴き始める。その黒光りする大きな体と透明な翅がとても魅力的で捕まえたいと思った。しかしこの蝉はアブラゼミなどとは違ってとても敏捷で、少し網を近づけただけで「シャッ」と一声あげて逃げてしまう。結局死んで地面に落ちているのを拾ったくらいで、一度も捕まえることは出来なかった。
 Wikipediaより

 その後父の転勤で東京に引っ越したが、東京にはアブラゼミはいたけれども、クマゼミはいなかった。当時はクマゼミの分布範囲は関東には及んでいなかったようだ。しかし最近は東京にも分布は広がっているらしい。それに今年はこちらのほうでも非常に増えているようで、次男から話を聞くと、低いところにでも止っていて動作ものろいから簡単に手で捕まえられるとのことだ。随分様変わりしたものだ。

 7月下旬から8月上旬、大暑から立秋にかけての最も暑い頃が発生のピークと言うから、まさに今が盛りで暑い夏を象徴している。しかし鳴いているのは気温が30度に達しない時間帯だから、その鳴声には特に暑さを感じない。むしろ爽快な感じもする。それに比べると、「ジジジジジ・・・・」と「油で揚げるような」と形容されるアブラゼミの鳴声は、昼下がりという時にもよるのだろうが暑苦しく感じる。
 Wikipediaより

 クマゼミに限らず蝉は短命だと言われるが、これは捕まえても飼育できないですぐ死ぬことからきた俗説らしく、野外では1ヶ月くらいは生きていると言うことだ。それに地中で過ごす幼虫の期間がかなり長いから、昆虫としては結構長命なのではないだろうか。アブラゼミの幼虫と言えば、東京にいた頃、庭の比較的高い木の根元に穴が開いていて、日が暮れるとそこから幼虫が這い出してくるのを時折見かけた。それを捕まえて蚊帳の中で止らせ、ゆっくり脱皮していくのを見ていたこともあった。朝起きて見ると、青白く軟らかそうだった体は茶褐色で硬くなっていた。

 これも次男から聞いたことだが、彼がやっているフットサル(5人以下でするサッカー)で知り合ったスコットランド人の青年は、息子が捕まえて見せた蝉を非常に怖がって、「害はないか」と尋ねたのでおかしかったそうだ。ヨーロッパには蝉は少ないようで、イギリスからアメリカのジュウシチネンゼミの生息地に入植した移民達はその大量発生に驚き、聖書を紐解いて蝗だろうと推定したと言うから、その男性の母国のスコットランドには蝉はいないのだろう。そう言えば蝉、特に幼虫は怪獣映画のモデルにもなったりするから、よく見ると奇怪な姿でもあるなあと息子と笑い合った。蜻蛉も日本では童謡にも歌われ愛されているが、ヨーロッパではdragonflyと呼ばれて怪物扱いされて怖がられていると聞いた。これもよく見ると巨大な目をした奇怪な顔つきだ。「所変われば品変わる」で、夏休みに子どもが蝉や蜻蛉を追って楽しむのは日本独特の風景なのかも知れない。

 夏休みも半ばを過ぎた。やがてクマゼミに代わって「オーシツクツク」とツクツクボウシが鳴き始め、子ども達を夏休みの宿題に駆り立てる。
 ツクツクボウシの雄。Wikipediaより









1年

2007-08-13 10:19:33 | 身辺雑記
 早いもので、ブログを開いてから1年になる。近所にあってよく世話になっているパソコン教室で講座があったので、思いついて受講したのがきっかけだった。受講するとすぐ自分のブログの形ができたので、ではやってみようかと考えた。その第1号を再録してみよう。

―「ブログ?何それ?」と特に関心を持たずに来たが、今ではもう常識のようになってしまっている。中国の友人達がとても面白がって観ていたと言う「鬼嫁日記」も、あるブログを基にして作られたとも聞いた。では自分でもやってみようかと思い、別にバスに乗り遅れまいと言うことではなく始めることにした。
 8年前に40年連れ添った糟糠の妻を亡くし、淋しい思いをしていた頃、ふとしたことから昔の教え子に誘われて中国を訪れて以来病みつきになってしまい、今では毎年2、3回は出かけている。現在はまあまあ健康だし、ストレスもなく、毎月教え子達と食事をし、中国の若い友人達とは毎日のようにパソコンでチャットし、新しい友人、知人も増えて心豊かに過ごしている。これからはブログの楽しみも出来た。これも亡き妻からの贈り物だと考えて感謝しながら、充実した余生を送っていこうと思っている。―

 こういうことだったが、最初のうちは写真は1枚しか入れられなかった。しばらくして複数枚を挿入できる方法をパソコン教室で教えてもらった。しかしそれ以上の画像の処理、加工の仕方などは知らないし、学ぼうともしないで、ごく平凡な構成のまま現在に至っている。

写真第1号。「稲の花が咲き始めた」


 始めた時には自分の慰み程度のつもりだったが、親しい卒業生や知人に知らせたりしたので、訪問者はだんだん増え、中にはどうして見つけたのか、まったく知らない人からもコメントが入るようになった。今年出した年賀状にURLを書くとまた訪問者が増え、それをきっかけにかつての知人と旧交を温めることができたりして、なかなか良いものだと思うようになった。

 何よりもいいと思うようになったのは、ブログ友がしだいに増えたことだ。初めは興味半分に他のブログを探してみたがどうもしっくりしない。私が「ペンネーム」にしている「中国迷爺爺」の「中国迷」で検索してみるとあるにはあったが、若い人達なのか、何やら馴れ馴れしい独特の語り口のコメントが並んでいて、これは年寄りにはついていけないと思い、入るのは止めた。しかし思いがけなく未知の方からのコメントがあったのがきっかけで、そのブログを訪れたりしているうちにしだいに「ブログ友」が増えてきた。やはり波長が合うのか、今続いているブログ友は皆熟年世代の人達だ。北海道のSさん、静岡のAさん、隣の市のGさん、近所のBさん、Kさん、最近知った岩手のZさんなど、それぞれ個性的なブログだ。他にも楽しみながら見て時折コメントを入れるブログがあるが、写真中心のものが多いようだ。上記の静岡のAさんや宮城のMさん、同じ市の住人のHさんの写真は目を見張るような見事なもので毎回溜息をついて見ている。北海道のSさんのものは文章と写真がよくマッチしているし、人柄がよく表れていて楽しい。BさんやGさんはさりげなく過不足なく日常のことや思いを書いているのが良い。

 私は写真はあまり上手くないので、文章に挿入する程度だし、文章の熟達者ではないから大したものは書けないが、それでも訪問者がいると思うといい加減なことは書けない。それなりに下調べしたり、出来上がれば推敲もする。教師時代の教材研究、準備のようだ。時には長ったらしいものになることもあるが、自分の考えを整理する機会にもなっているから老化防止には役立っているかも知れない。

 不愉快なのは、時折何ともいかがわしいコメントやトラック・バックが入ることだ。まじめなコメントの中にこのような素性の分らない薄汚いものが混じって入ると、ゲス野郎と罵りながら消去するが、まじめなブログ友までが汚されたような気さえする。インタネットだから仕方がないのだろうが、世間には品性の低い惨めで哀れな輩がいるものだと思う。

 こんなことが時折あっても、良いブログ友にも恵まれて、この1年は楽しかった。出した回数は267回、写真は1232枚になった。継続は力なりと言うと格好は良いが、まあ、塵も積もれば山となるの類だろう。これからも、毎日書かなければという強迫観念にとらわれるとかのブログ依存症にはならないように注意しながら続けていこうと思う。

 ほとんどが会ったこともないブログ友の方達のご健康とご健闘をお祈りします。これからもどうかよろしく。


          


 


エアマウス

2007-08-12 09:57:30 | 身辺雑記
 「エアマウス」なるものの「選手権」が開催されているという記事を読んだ。
 
  ギターは持たないで、曲に合わせてギタリストになりきって弾くパフォーマンスをする「エアギター」というものがあるということは聞いたことはあった。流行ったのはもう一昔前になるそうだ。エアマウスは声を出さずにボーカルになりきって、流される歌に合わせて口を動かす「口(くち)パク」というものだそうだ。「エアボーカル」や「LIP SYNC(リップシンク)」とも言うとのこと(SYNCは「一致」、「同調」)。中国の学生が口パクで歌った画像がヒットしたのをきっかけに広がったらしい。

 テレビをあまり見ないから知らないのだが、エアギターにしてもエアマウスにしても、まともなものならそれなりにかなり技術が要るものだろうということは想像できる。ギターを弾く真似などは両手の指の動きが決め手だろうから、プロの目から見たらどの程度に真似ているかはすぐ判るだろう。エアマウスが広がるきっかけになった中国の学生は、米国のポップグループの歌を口パクしたようだから、外国のテレビドラマなどの吹き替え程度ではだめで、かなり正確に英語の口の動きを再現したのではないか。それに表情などもそれらしくしなければならないのだろう。このように、かなりの「技術」が必要なものだからこそ、その優劣を競うコンクールなども開かれるのだろう。

 気楽でのんきなことだと言えるかも知れない。そんなことに血道をあげて馬鹿らしいと一蹴する向きもあるだろうが、私は面白そうだ、一度は見てみたいと思っている。昔から形態模写や声帯模写などは大衆芸として楽しまれてきた。エアギターもエアマウスもその現代版だろう。こんなことで「才能」が発揮できて楽しめたらそれはそれでいい。よくテレビや新聞で見るホットドックの早食い競争などのような無芸なものに比べると、はるかに文化的だし、スマートとも言えるのではないか。




??

2007-08-11 07:33:29 | 身辺雑記
 近くの商業ビルの入り口にあるこの看板を見ると、何かしら気になった。




 「ヘルシービューティ」は店の名前なのだろう。どうやら訪問介護事業所も兼ねているらしい美容室の看板のようだ。「健康美」? 「健康美人」? わざわざ直訳することもないか。分る者は何となく感覚的に分るのだろう。ただし、最後に「美容室」と書いてなければ何の店かはちょっと分りにくいか。訪問介護事業所もこの名に含まれるのかどうか。ここに用があって電話する場合には「もしもし、訪問介護事業所のヘルシービューティーさんですか」となるのか。ちょっと奇妙な感じだな。まあ、それにしても、このピンク色の看板はあまり美しくないと思うのだが。

 次の「ケア髪ing」、これはいったい何だ。「髪ing」だって?「髪」は動詞じゃないよ。爺さんの私には「髪ing」とはどんなことをするのか見当がつかない。案外シャンプー程度なのかも知れない。それよりもこのような漢字とカタカナと英語の単語を組み合わせた造語に、何か独りよがりな気取りのようなものを感じて少し苛立った気分になるのは、これも年のせいなのか。年寄りは狷介固陋で小うるさいと言われそうだな。

 このような些細なことに気を留めて、あれこれ他愛もないことを考えてしまうのも、このところの猛暑のせいなのか。きっとそうだろう。