中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

子ども好き

2011-04-30 09:24:35 | 身辺雑記

 女子大の教育学部児童学科の3年生になった孫娘は、高校時代から幼い子どもが好きで、卒業後は幼稚園か保育所に勤めたいと考えている。今でもアルバイトで保育所に行ったりしているようだが、子どもの話になると、可愛くて仕方がないという表情になる。 

 

 幼い子どもが好きなのは我が家の「DNA」のようなのかも知れない。父もとても子ども好きだった。勤めから帰ると、朝バスで出会って父に話しかけてきた幼い小学生の様子などを、「おじちゃまと言ってね、可愛いんだよ」と目を細めて嬉しそうに話したものだった。それだから、私たち子どもには優しい父親だった。幼い頃夜どこかへ出かけた帰りに、父と手をつないでいると、父は時々私の手をキュッキュッと握ったが、いかにも可愛いなという感じで幼な心にも嬉しかったのが忘れられない。 

 

 これまでにも書いてきたように、私もとても子どもが好きだ。街に出ると必ず幼い子どもに出会うから楽しい。特に1歳くらいの子どもが歩いているのを見かけると、速足になって近づき、振り向いて見る。小さい足を開いて踏ん張り、よちよち歩いている、その何とも言えない愛らしい様子に心がとろけそうになる。いつごろからこのように子ども好きになったのか定かではないが、最近はますます好きになっている。

 

 私の息子達も子ども好きで、学生の頃に通学の電車の中で見た幼い子の様子を嬉しそうに報告してくれることもあった。次男は小学校の教師になった。今は4年生の担任で、4年生ともなるとガキ盛りで、なかなか可愛いとばかりは言っておられないようなこともあるようだが、それでもやはり毎日は楽しいようだ。

 

先日、マレーシアに住んでいる私の末の妹と電話で話したが、妹や息子達も幼い子が大好きで、スーパーに行くのも子どもに会えるのが楽しみだからだそうだ。可愛い子に出会うと触らせてもらうと言う。お父さんも小さい子が好きだったから遺伝だねと、私が思っていたようなことも言った。この妹は両親の遅くになってできた子で、幼いときから家中で可愛がられて育ったので、やはり幼いときに可愛がられると年をとっても幼い子を慈しむようになるのだろうと思う。

 

幼い子はとりわけ目が可愛い。こちらが微笑みかけると無邪気な笑顔を返す子もいるが、誰かなと言うようにじっと見つめるのもまた愛らしい。このような無垢で純真な目は、成長するにつれて変わってくるのだろうが、いつまでもこのように純粋な目であればと思う。

 

かつての同僚が「子どもは嫌いだ」と言ったのを聞いたことがある。好きではないと言うのは分からないでもないが、嫌いだと言い切るのはどういうことか、自分の子も含めて嫌いなのかと不思議に思ったが、両親から可愛がられた記憶がなかったのだろうか。

 


RACCOON

2011-04-28 09:08:34 | 身辺雑記

 家の近くの路を歩いていると、前から来た白いワゴン車の前に、大きく筆記体でRaccoonと書いてあった。会社か店の名前だろう。やり過ごしてからラクーンかと思い、その動物のちょっとひょうきんな顔が頭に浮かんだが、さて、このラクーンの和名は何だっただろうと考えたが思い出せない。外来種のこの動物は最近あちこちに出没して、寺院などでも害を及ぼしていることまで思い出したが、名前はさっぱり出てこない。アナグマだったかな、いや違うと考えているうちに家に着いた。

 

 家に着いてすぐに英和辞典を引くと、アライグマとあり、そうそうアライグマだったと納得した。人の名前、物や動植物の名をすぐに思い出すことができなくて苛立つのは、今に始まったことではないが、最近はますますひどくなっているようで、いささか情けない。 せっかく分かったのだから、ついでにとアライグマをGoogleで検索し、Wikipediaで調べてみた。

 

    

 

 アライグマ(洗熊、浣熊)は北米原産で、もともと日本には生息していなかったが、1962年に岐阜県で初めて野生繁殖が確認された。これは愛知県の動物園から逃亡したものだった。1970年代以降にはアニメの「あらいぐまラスカル」の人気などで、ペットとして米国から多数輸入され家庭でも盛んに飼育されるようになった。見かけは可愛いが成獣になると気が荒く、犬や猫のようなペット感覚では飼い切れない。それで飼い主が捨てたり逃亡したりして野性化するようになった。天敵の肉食獣がいなかったために急速に住みかを広げて、40を超える都道府県で生息確認されるようになり、北海道、東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県、石川県、岐阜県、愛知県、京都府、和歌山県では繁殖が確認された。

 

 前足を器用に使い、木登りや泳ぎが得意である。雑食性で、両生類、爬虫類、鳥類の卵、昆虫類、甲殻類、果実や、畑にあるトウモロコシなどの農作物も食べる。 視覚があまりよくないため前足を水中に突っ込んで獲物を探る姿が手を洗っているように見えることから、その名がついた。

 

 見かけは愛嬌があるが実態は害獣で、作物や錦鯉などの食害があるほか、寺社などの屋根裏に侵入してねぐらにすることで汚損されることがよくあり、時折新聞記事になったりしている。カエルやカメ、サンショウウオ、ネズミなどの小動物類を幅広く捕食する雑食性の上に繁殖力が強いため、在来生態系に影響を与えている可能性も指摘されている。このようなことから、日本生態学会指定「日本の侵略的外来種ワースト100」のトップに挙げられている。そういうこともあって、アライグマの防除を実行しようとしている地方自治体もあるようだが、一部の動物愛護団体が、それはアライグマを殺戮するものだと反対し自治体に圧力をかけ続けているそうだ。シー・シェパードのような動物「愛護」団体は、どこにもあるものだ。

 

 

 

 

 

 


どこからどこへ

2011-04-26 09:09:31 | 身辺雑記

宇江佐真理『雷桜らいおう』(角川文庫)の冒頭の一節に、老武士が山あいの峠の茶店の老婆に訊ねる場面がある。

 

「寂しくはないか」

 榎戸が訊ねると老婆は「なん・・・・・」と首を振った。埒もないという

表情である。

「人は一人で生まれて来たものだで、死ぬ時も一人だに・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

 老婆の言葉の潔さに榎戸はひどく感動した。いかにもそうだ。

 

しょせん小説の中のことなのだが、何となくこの一節に惹かれた。今は独居生活を余儀なくされている私は、そう遠くない時期に訪れるだろう死を迎えるときにも独りだが、独りで生きている今はやはり寂しいと思う。死ぬ時は一人、これは当然だと思う。ときおり集団自殺などというものがあって、見も知らないのに意気投合(?)した者が集まって自殺する。独りでは怖いからそうするのだろうが、何人一緒であろうと死を迎える瞬間は独りだ。

 

それにしても生命というものはどこから来て、どこに行くものなのか。「無から生じて無に還る」という人もある。これは理屈っぽく言えば正確ではない。生命は無から生じることはない。無性生殖にせよ有性生殖にせよ生命は、必ずその前に存在した細胞、DNAを受け継いで生まれてくる。「無に還る」も完全な無ではない。生命を具体化していた有機物は死後には遅かれ早かれ無機物となる。

 

ある無神論者は「人は暗黒から生まれ、暗黒に還る」と言ったそうだが、私にはこれは納得できる。生まれてくる前のことはまさに暗黒の中にあった。生まれてしばらくすると光が意識され暗黒は消えうせる。そしてやがて死を迎え、再び暗黒の中に沈んでいく。この暗黒は、人が生きていることを意識しないか、意識できなくなることから存在するもので、何もない「虚」と言ってもいいと思う。

 

私は高校生の頃、この「虚」を体験したことがある。気分が不安定になり、神経衰弱、今で言う神経症と診断されて電気ショック療法を受けた。特に忌避しないでそれを受け、すっきりする人もいたようだが、私は怖がったので治療の前に麻酔注射をされた。腕に針が刺され麻酔薬が注入されると体が冷たくなり、耳の奥でザーッという音がしたような感じで、一瞬のうちに暗闇の中に引き込まれてしまった。だいぶ時間がたった頃に覚醒したのだが、それは眠りから覚めたような「夢か現か」というようなものではなく、急に暗闇から抜け出したような気分のものだった。今でも死ぬということは、あの暗闇の中にずっといることなのだろうと思っている。

 

それではあまりに寂しいと思う人は昔から多かったのか、来世ということが考えられるようになった。宗教的には神や仏の下に行くということなのだが、そういうことでなくても仏教には「輪廻」ということが言われる。私は仏教に限らず宗教には疎いからよく分からないが、生命というものは、生き変わり死に変わりながら永遠に続くもので、それが輪廻なのだそうだ。それはそれでいいではないかとも思うが、そうではなく人以外の畜生にも姿を変えながら、永遠に現世を生きる苦しみを味わうのだと言う。

 

輪廻ではなく、人は人として何回も生まれ変わる、来世だけでなく前世もあると言う人は今でもある。人は死んでも魂というものが肉体から抜け出して、しばらくは宙をさまよっているが、やがて次の肉体に入り込んで新しく誕生すると言う。だから今生きている己には必ず前に誰かが存在したということだ。このような肉体と魂とがあるという二元論を信じる人は多いようだが、私には信じることはできない。

 

前に知人から、ある日本の大学の教授の著書をもらったことがあるが、まったくそのような考えを主張したもので、すべての人には前世があると説き、その裏づけの一つとして、米国で催眠術を使って被験者に前世を語らせる「研究者」も紹介されていた。ある女性の被験者が「今は紀元前○○年です」と言って、そこにいる前世の自分を語りだすところもあり、紀元前の時代にいる者が、どうして自分が存在する今が紀元前と分かるのかとばかばかしく思い、ひいては、大真面目で前世や来世の存在を説く著者の大学教授も何やらいかがわしく思われたものだ。それでもひところはこの教授はなかなか人気があり、各地の講演会に引っ張り出されていたようだ。やはり現世だけしかないのでは侘しい、来世も前世もあってほしいと期待する人は多いのか。何人かの知人に来世はあると思うかと尋ねたことがあるが、肯定する答えが少なくなかった。

 

 

やがては私も暗黒、虚の中に還って行くが、その瞬間はどんなものだろうかと思うことがある。しかしその時に何かを感じても、夢から覚めることとは違うから、死んでしまえばその感じたことは再生できないものだ。死というものは生に連続したものではない。死ねばすべては終わる。

 

       


犬を食べる

2011-04-24 10:15:13 | 中国のこと

 少し前のことだが、北京市内の高速道路を走行中の、犬約520匹を積んだトラックが300人以上の群衆に取り囲まれ、犬の搬送を阻止されたという記事を見た。

 

犬はこのトラックの運転手が河南省で、1キロ当たり14元で犬を購入、吉林省長春市へ搬送中で、犬は食肉処理場で処理され、レストランに運ばれる予定だった。阻止したのは、インターネット上で搬送を知った中国小動物保護協会の愛犬家らだった。

 

 愛犬家側は最終的にはすべての犬を15000元(約150万円)で買い取ることになって騒ぎは収まったと言う。愛犬家たちが暴力に訴えることなく、犬を買い取るということで事態を収めたのは賢明だったと思う。米国のシー・シェパードのように独善的に「正義」を振りかざして暴力行為も辞せないような過激なものでなく、このように平和的に解決したのは、東洋人と欧米人の違いかと思ったりした。本当の動物愛護というものは、こういうものではないか。

 

 中国の地方に行くと、犬や猫の姿を見ることはよくあるが、ただの飼い犬、飼い猫というような吞気な感じで、とくに犬は気儘に歩き廻っている。

 

 

 

 

 

  しかし、生活水準の向上によって都市部では犬や猫などのペット愛好家が増加しているようだ。上海で見たペットショップでもさまざまな種類の犬や猫が売られていて、訪れる人が多いようだった。愛犬家が寄付金などで犬を守った今回の一件は、動物愛護意識の高まりを示す実例と言えそうだと、報じた記事にあった。

 

 一方で中国は韓国などと同じように、昔から犬をよく食べていた。地方の市場に行っても皮を剥がれた犬が吊られているのを見ることがある。2001年に、西安でガイドしてくれた廖漢波(リャオ・ハンポ)という青年の故郷の広西チュワン族自治区の徳保という町を訪れたが、その時同行した二人の卒業生の女性が、廖君の家の屋上に可愛い犬がいるのを見て、「名前は何と言うの」と尋ねたら、「食べる犬だから名前なんてありませんよ」とあっさり返答されてびっくりしていた。家では処理しないで、専門の業者にやってもらうのだそうだ。その時には犬料理は出されなかったが、私はその後2008年に、広東省の開平という町で食べたが、取り立てて美味いとは思わなかった。

 

 

 

 現在では、その特異な風貌からペットとして愛玩されているチャウチャウは、かつては中国では食用犬とされていた。

 

  Wikipediaより

 

 

中国政府は今月、中国で初めて動物保護を明記した「反動物虐待法案」を全国人民代表大会(国会に相当)に提出する見通しとなったというニュースを見た。この法案には、犬と猫の肉の食用禁止の文言が入っており、食べたり、販売した個人には5000元(約65000円)以下の罰金と15日以下の禁固に処せられるそうだ。犬肉料理で有名な江蘇省徐州市などでは衝撃が走っているという。

犬や猫をペットとして飼う人々が増えていて、「イヌやネコを食べるなんて、野蛮な風習だ」との声も高まっているようだから、政府もこのような法案を出すことになったのだろう。しかし禁止されればされるほど、こっそり食べようとする者も出てくるのではないだろうか。古代から続いているこの食習慣はすぐにはなくならないような気がする。


スミレ

2011-04-22 09:17:56 | 身辺雑記

 前にも書いたが、私の住む町にはよく知られた歌劇団があり、その歌劇団が1930年に上演された歌劇の主題歌「スミレの花咲くころ」が有名になって歌劇団のシンボルソングとなり、そこから1968年に市の花はスミレに制定された。

 

 

 

 

 

 

スミレと言っても最近は園芸種のパンジーやビオラなどの外来種がもてはやされて、市花である野スミレは、かつては市内の至る所に自生していたが、最近はあまり注目されなくなり姿も見られなくなっていた。そこで市内の牡丹園芸組合のメンバーが「スミレ愛好会」を設立し、スミレを増やし普及することを目指してきたので、今では市内の約20箇所にボランティアが植えた野スミレが見られるようになった。花言葉は、「 思慮、思慮深い、思い」。

 

  市花がスミレということで、市の公共の設備にはスミレが描かれているものが多い。いくつか拾い上げてみる。

 

 マンホールの蓋 

 

 

  

 

  汚水管の蓋 

 

 

 遊歩道の用具置き場 

 

  

 遊歩道で 

 

 

  掲示板  

 

 

 

 

 


ハナズオウ

2011-04-20 18:26:21 | 身辺雑記

  近所で今盛りのハナズオウ(花蘇芳)を見かける。葉が出ないうちにアズキ色の花を枝にびっしりと密集して着けるから、離れて見ると造花のようにも見えるが、なかなか美しい。

 

  

 

 

 ハナズオウは中国原産のマメ科の植物で、その花はマメ科特有の蝶形花だ。この名は蘇芳染めの色からついた。蘇芳色は黒味を帯びた赤色。この色は蘇芳というインド・マレー原産のマメの染料植物からとる。日本には奈良時代頃渡来し、貴族社会で非常に愛好されたと言う。 

 蘇芳色。(インタネット『和の色きもの手帖』より)

 

 

  私の家に植えてあるハナズオウはまだ若木だが花は白色で、シロバナハナズオウと言う品種。

 

 

 花の後に豆らしい莢ができる。(インタネット『Botanical Garden』より)

     

 

              

 

 


統一地方選挙

2011-04-19 17:01:53 | 身辺雑記

 第17回統一地方選の後半戦が始まった。私が住む市でも選挙が告示され、定数26名のところへ34名が名乗り出た。24日の投票日まで1週間の選挙戦が繰り広げられる。新聞にあった候補者一覧表を眺めながら、閑に任せて候補者についてあれこれ見てみた。 

 

 34名の立候補者のうち、政党から出ているのは17名、無所属も17名で、まあ、こんなものだろうと思う。政党別では、民主3、自民3、公明4、共産4、社民2、みんなの党1となっている。無所属のうち4名がポスターに「市民派」を標榜している。市民派とは何か、もう1つ分からないところがあるのだが、既成政党には任せられないということだろうか。 

 

 現職は22名で、新人が11名、元職が名だが、やはり組織や地盤、これまでの実績のある現職は有利なのではないか。現職の中には、私の町を有名にしている歌劇団の元団員という肩書きの候補者もあるが、この歌劇団のモットーである「清く、正しく、美しく」とポスターにあった。「美しく」はともかくとして、政治家たるものは誰しもが清く、正しくあってほしいものだが、さて? 

        

 男性は23名、女性は11名、年齢は最高齢が70歳の男性、一番若いのが32歳の男性。平均年齢は52歳で、私よりも25歳も若いが、議員となればそうでなければならないだろう。やはり若いのは活力がある。ひと頃地方議員にはかなりの高齢者もいたが、若返ることは結構なことだ。かつて私が現役時代に知った県議や市議の中には、老害、老残としか言いようのない者もいたが、醜いと言うほかはなかったものだ。70も半ばを過ぎて知事なり議員の座に執着を持つのは、本人や周囲の思惑があるのだろうが何か醜い気もする。

 

 道路わきの候補者ポスター掲示板にはいっせいに34枚のポスターが張り出された。どれもカラフルで、ほとんどの候補者は笑顔だ。この中には大都市の知事選挙と違って、何やら怪しげな泡沫候補はいないだろう。この気持ちの良い笑顔が本物であってほしい。誰が市民の信任を得るのか、24日の夜には分かる。

 

      

  

 新しい議員に選ばれた以上は、既成政党であれ、無所属であれ、公約どおりに市民のため、市の発展のために尽くしてほしい。何よりもよくあることだが、選挙中と打って変わって傲慢、横柄にはなりなさんなよと言いたい。かつてある市の教育委員会の事務局にいた頃、そのような何様かと思うような嫌悪すべき議員を少なからず見たものだ。「お前は我が党をバカにしているのか」とある党のボスに言いがかりをつけられて怒鳴りつけられたこともあった。その下品な言動は、今思い出しても腹が立つほどだ。わが町の新しい26名の新議員にはそのような輩は一人もいないようにと願う。

 


キャットフード

2011-04-18 09:55:29 | 身辺雑記

 Hg君の奥さんが、ミーシャにキャットフードをプレゼントしてくれた。ミーシャはいつもドライタイプのものを食べているが、時々やるこのパッケージ入りのものが好きで,見せるだけでニャアニャアと大騒ぎする。

 

               

 

 キャットフードと言っても近頃のものはいろいろな栄養素入りと謳っていてなかなか贅沢なものだ。この餌も「10歳以上用」として原材料には、魚介類(かつお、マグロ、フィッシュエキス等)、油脂類(大豆油、鶏脂、魚油)、穀類(小麦グルテン)、豆類(大豆タンパク)、卵類(卵パウダー)などといろいろで、ミネラル類もCa、Cl、Cu、Fe、I、K、Mn、Na、Se,Zn、ビタミン類にいたっては、13種類、たかがペットフードくらいで本当なのかと思ってしまうくらいだ。

 

 これはタイ製で、日本の企業が現地でつくらせているものらしく、タイなど東南アジアにはこのようなペットフード製造工場も少なくないらしい。以前タイだったと思うが、ペット用のツナ缶の製造工場の従業員が、日本の犬や猫はこんな贅沢なものを食べているのかと驚いているという記事を読んだことがある。

 

 獣医をしている卒業生のS君は、新しいペットフードを手に入れると試食してみるということを聞いた。試食するのはドライタイプのもので、これはかなり臭いから口にする気にはなれないが、もらったパッケージ入りのものは開けて中を取り出してみると、良い香りがする。これなら食べられるだろうと、ちょっと口に入れてみると結構良い味で、マヨネーズで和えてツナサンドにでもしたら、ペットフードとは分からないだろうと思ったが、さすがに試してみる気は起こらなかった。

 

  

 

 昔の猫の餌と言えば、残飯に鰹節をかける程度のいわゆるオカカ飯だったから、今時の飼い猫は結構な身分だ。どうかすると人間よりも恵まれているのかも知れない。かつて生活に困窮している老人が、食事のおかずにはペットフードの缶詰を食べるという哀しい話を聞いたことがあった。

 


可愛い男の子

2011-04-16 10:57:41 | 身辺雑記

 近くのJRの駅の構内にちょっと大きなマーケットがある。その一隅にセルフサービス式の喫茶室があって、書店で本を買ったりした時などはここに寄ってしばらく時間を過ごす。常連と言うほどではないが、何人かの従業員とは挨拶を交わすようになっている。

 

その日も買ったばかりの本を読んでいると、隣の席にベビーカーを引いてきた老人(と言っても私より若く60歳前後)が座った。しばらくして子どもの声がしたので顔を上げると、その人と私の間に小さな男の子が立っていて、何かしゃべっている。そのうちに私に向かってしゃべりかけた。幼い子らしい可愛い声で何か言うのだが、まるで外国語のようで何を言っているのかさっぱり分からない。それでも男の子は真剣な黒いつぶらな目で私を見つめて呟くような口調で話し続ける。その可愛さと言ったらなかったので、「そうか、そうか」などと言って相手になった。どうやら、その男性の孫らしい。男性は笑いながら「・・・チャンの言うことは、おじいちゃんはわからないって」と優しく言ったが、それでも男の子は話し続けた。

 

 男の子はいかにも話しているという様子でモシャモシャ言い続ける。抑揚や強弱があり、どうやら自分では話しているつもりらしい。歳半くらいと見受けられたから、もう人の言うことは理解できるのだろうが、まだ話ができるほどではないのだろう。ふと西安の謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)を思いだした。撓撓が同じような年頃の時に俊麗から動画が送られてきたが、画面の中の撓撓は自分の椅子に座って手悪さしながら、何やら大きな声で言っている。しかし言葉らしいものではなく、「チュバー」とか「アジャア、アジャババア」、「ジュジジィ」とか言うのだが、それでも笑ったり、首を傾げたりしながら楽しそうに、いかにも話をしているようだった。私の息子たちにもそういう時期があった。

 

 人見知りもしない、あまりに可愛い様子なので「かわいいねえ」と言って頭をなでてやるとますます何か話す。笑顔は見せずにじっと私を見つめながら真剣に話す様子は可愛くてたまらなく、きっと連れてきた祖父だけでなく、家族に慈しまれているのだろうと想像した。

 

やがて祖父と一緒に出て行ったが、私が手を振ってバイバイすると、それに応えて小さな手を振った。このような無邪気で純真な幼な子に出会うと、心が洗われるような、その日が何か儲け物をした一日になったような気がする。

 

 

 

 


動物園の桜

2011-04-14 10:35:50 | 身辺雑記

 Hr君とHg君夫妻のいつもの顔ぶれで、神戸の王子動物園に桜を見に行こうということになった。平日のことで入園者は少なかったが、園内の桜は満開だった。

 

 

 

 

 

 この動物園には長男がまだ小学生の1、2年生のころ連れて行ったことがあった。妻と下の息子は来なかったので長男と2人連れだった。動物もいたはずだったがあまりよく覚えていない。遊園地に長い滑り台があったので、息子を両脚の間に挟んで滑り降りたら、ズボンの縫い目が長く裂けてしまい往生した。そのまま帰るわけには行かないから事務所に行き針と糸を貸してもらって何とか縫いつけた。そんなことだけを覚えている。

 

 そのときから40年くらいもたっているので園内はすっかり変わっているように思えた。桜もかなり年を経たものが多い。

 

 

 

    

 

   

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  

 

  動物園は今年で60周年だそうだ。一応さまざまな動物が揃っていて、遊びにやってきた幼稚園児たちは歓声を上げたりして楽しそうだったが、大人の私達も結構楽しめた。この動物園にはパンダがいてそれが目玉になっている。

 

    

 

コアラもいた。現地での写真を見るよりも少し小柄に見えた。木の二股になったところに器用に座っている姿は可愛い。地面に降りて歩き廻ってもいたが、不器用な格好で、歩くのは得手ではないようだ。

 

 

 

アシカ。池の水面に散っている桜の花びらを掻き分けて頭を出し、大きな声で吠える。

 

 

  

ホッキョクグマ。同じところを行ったり来たり、うろうろと歩き廻っているのが愛嬌がある。

 

 

 

チンパンジー。腕組みして瞑想。 

 

 

ゴリラ。物憂げに昼寝。時々目を開ける。

 

 

ナマケモノ。木にぶら下がったまま、頭をかすかに動かす程度。生涯のほとんどを樹にぶら下がって過ごし、食事や睡眠から交尾、出産までも樹にぶら下がったままでするのだそうだ。

  

 

顔つきは笑っているようで可愛い。(Wikipediaより)

 

 

インドゾウ。珍しくはないが、こうしてゆっくり眺めたのは久しぶり。

 

 

 

ビルマニシキヘビ。白化種なのか、体色がちょっと気味が悪い。

 

 

プレーリードッグ。北米の草原地帯に穴を掘って巣穴をつくり、群れで生活する。立ち上がり、前足を合わせてあたりを見る姿が愛らしく、テレビの動物番組の人気者だ。

 

 

マヌルネコ。中央アジア産。マヌルはモンゴル語で「小さい山猫」の意味だそうだ。

 

 

リスザル。中南米の森林に集団で生息している。

 

 

フラミンゴ。絶えずガーガーと啼きたてている。

 

 

久しぶりの動物園だったが、暖かい好天気に恵まれて、のんびりと過ごすことができた。