中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

遅延

2009-06-29 09:15:26 | 中国のこと
 今回は所属している会の用務で、中国湖南省張家界市の桑植(サンジィ)県に出かけた。張家界(ジャンジャァジエ)は湖南省の西北部に位置し、世界自然遺産の武陵源があることで知られ、桑植県はそのさらに北西の山地にある。関西空港から広州に入り、そこから張家界行きの国内線に乗り継ぐ。

 広州に着いたのは30分遅れだったが、到着すると物々しい装備のインフルエンザ検疫班が乗り込んできて乗客一人ひとりの検温をした。関西空港で搭乗する前にも検温があり、特に問題なく出発したのだから、そのことを連絡していれば再度検温することもなかろうにとも思ったが、中国でも新型インフルエンザ感染者が徐々に増えているのでそうもいかないのだろう。検査は簡単に済むかと思ったが、私の3つ斜め前の席の初老の男性に手間取った。7度5分以上あると本人も含めてその周囲の乗客の何人かは留め置かれると聞いていたのでひやひやさせられた。結局は何事もなかったが30分はかかった。


 広州白雲国際空港は北京第2空港に次ぐ非常に広大な空港で、国際線到着ターミナルから国際線出発ターミナルまではかなりの距離があるが、張家界行きの出発時刻までは十分に間に合った。ところがロビーにある20:25の出発時刻の表示がいつまでたっても変わらない。「遅延」という表示も出ない。そのまま時間が経過し、だいぶたってから搭乗口の表示板に22:11出発予定という表示が出たので驚いた。理由はまったく分からない。係員はいたが何の説明もない。私はこれまでに広州白雲空港から貴州省の貴陽や広西の桂林に向かう便に何回か乗ったが、3回ほどかなり遅れたことがあったので、またかと諦めた。中国南方航空はよく遅れるようだ。

 そうこうしているうちに、服務員がカートに箱を積んで搭乗カウンターまで来たので、またもやまたかと思った。前にも経験があるが、出発が遅れて待機時間が長くなると飲料水や粥の缶詰などを乗客に配るのだ。夜の遅い便の場合のサービスらしい。これまでは1品だけだったが、今回は珍しく水と粥とクラッカーが配られ、同行のAさんは「まあ、許すとするか」と笑って缶を開けた。私はクラッカーを少し食べた。


 結局22時を回ってからやっと出発したが、目的地の張家界荷花空港には午前零時を回って到着し、桑植県教育局の王さんと、通訳のために省都にある対外友好協会から来た曾さん(女性)の出迎えを受けた。それから車で1時間ほど離れた桑植県のホテルに着いたのは1時もかなり過ぎていた。

 日本では天候不良の場合以外にはめったにないことだが、中国では飛行機の遅れはよくあるらしく、何年か前には中国南方航空ではあまり遅れた場合には運賃の払い戻しをすることにしたようだが、私は貴陽から広州に向かう便が3時間遅れても、その「恩恵」に浴さなかった。

 それにしても中国人は辛抱強い。これまでもそうだったが、夜遅くかなり出発が遅れても文句を言わない。羽田空港で大きな声で係員を怒鳴りつけている男を見かけたことがあったが、そのようなみっともないことをする者はいない。辛抱強いというよりも、飛行機とはこんなものなのだと達観しているのかも知れない。それとも時間に対する感覚が、時間に追われている我々日本人とは違うのかも知れない。とにかく苛立った様子の者はいないのには、ちょっと羨ましくも思った。

酒が飲めたら

2009-06-21 09:13:11 | 身辺雑記
 私はほとんど下戸だ。ほとんどと言うのは、ある知人が結婚披露宴に招かれたとき、食事の合間に出されたシャンパンシャーベットを一匙口に含んだだけで酔ってしまったそうだが、それほどは弱くはなく、ごく僅かなら飲めるということで、しかも旨いと思う。日本酒でもビールでも、ワイン、中国の紹興酒など何でも好きだ。一口目はとても旨いと思う。しかしちょっと量が多いとたちまち顔が赤くなってしまう。強い酒はだめだ。ウイスキー、ブランデーなどは何とか口に含む程度はできるが、焼酎やウォッカなどはまったくだめだ。一度中国の宴席で出された白酒(パイチュウ)を口にしたことがあるが、口の中が焼けるような感じでとても飲めたものではなかった。同席の中国人たちは、それをコップでぐいぐい飲むのだから恐れ入った。

 この私の体質は、母親似のようだ。父はよく飲んだが、母はだめだった。晩年には少し飲むようになったが、それでもささやかなものだった。弟は父に似たのか飲めるが、性質が温和なので度が過ぎたことはしない。私の妻も飲めるほうだったし、息子達も飲む。だから私は父と飲み交わす楽しみは経験しなかったし、妻とも息子たちとも楽しんだことがない。これはちょっと寂しいことで、もう少しアルコールに強ければ楽しみも多いのだろうと思う。

 それでも、酒が飲めないことは良かったのかも知れないと思うことはある。妻が逝った後初めての独り暮しで、しばらくは夜になると喪失感と言うのか、何とも言えない寂寥感にとらわれたものだ。もし酒が飲めたらもちろん寂しさを紛らわすために毎晩飲んだろうし、家ではわびしいから外で飲むようになったかも知れない。そうしたら酒に溺れて深酒することもあっただろう。それが習慣になって体調を悪くしたかも知れない。そう考えると、飲めないことは良かったのではないかと思ったりする。

 最近、定年アルコール依存症患者が急増しているということをテレビの番組で知った。退職するまではよく働き、酒を飲むことも多かった人が、定年退職後の喪失感から飲酒量が急激に増えるようだ。アルコール依存症は脳にも影響する怖いものだが、本人には病気という自覚がなく、家族や周囲の忠告も聞かないようだ。まして独り暮らしだと歯止めがかからないから重症化する。私はやはり酒に強くなかったのはよかったのかも知れない。

 だがそれでも、やはりもう少し飲めるほうが楽しいだろうと思ったりする。私でも暑くなるとビールが恋しくなる。暑い盛りに外で昼食をとるときに、ビールを飲み干すことができたらどんなに旨いことかと思い、他のテーブルで飲んでいる人を羨ましく思ったりすることは何度もある。それで卒業生達と食事するときなど、誘惑に負けてビールを注文することがあるが、飲むとすぐに体が熱く、だるくなってきて飲み干すことができず、卒業生に片付けてもらうことがある。やっぱりだめかと我ながら情けないなと思う。

 何事も程々がいい。だから私ももう少し飲めればいいとは思う。練習すれば少しは強くなるとは言うが、いまさらこの年でと思うし、独り暮らしで酒の味を覚えて、依存症にでもなったらたまらない。心は揺れ動くのである。

           




全盲のピアニスト

2009-06-20 09:47:26 | 身辺雑記
 近頃とても心地よく思った話題は、辻井伸行さんという20歳の青年が、アメリカのヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したことだ。国際的な音楽コンクールで日本人が優勝することはこれまでにもあったから、それは快挙には違いないが、話はそれだけではない。

 この青年は生まれつきの全盲で、このこと自体に話題性はあるが、全盲のアーティストは皆無ではない。ポピュラーミュージックの世界ではシンガー・ソングライターのスティービー・ワンダーや他界した歌手でピアニストのレイ・チャールズなど高名だ。それぞれに立志伝中の人物だが、この辻井さんの生い立ちにも心惹かれるものがある。

 辻井さんは生後8ヶ月の頃、ショパンの『英雄ポロネーズ』を聴き足をばたつかせて喜び、それを見た母親が芸術的な感性を感じ取ったと言う。2歳の頃からおもちゃのピアノで遊んでいて、母親が口ずさんだ『ジングルベル』のメロディーを正確に弾いたことに家族が驚き、ピアノを習わせることにした。新聞でその頃の彼がおもちゃのピアノを触っている写真を見たが、ちゃんと両手の指を開いて鍵盤に触れていて、何とも可愛い様子だ。それにしても、これこそ天賦の才というものだろうが、敏感にそれを感じ取って彼の進むべき道を拓いてやった両親にも敬服する。

 それ以来彼の才能は磨かれて、7歳で全日本盲学生音楽コンクール・ピアノの部で第1位、12歳で初めてソロ・リサイタルを行って大きな話題を呼び、2005年にはショパン国際コンクールに最年少で臨み、「批評家賞」を受賞した。私はこの方面のことについては知らないが、夙に「神童」の名が高かったそうだ。

 とりわけ母親の見識は優れたもので、音楽だけでなく、すべての感性を豊かにすることが音楽家としての人生を豊かにすると考えて、彼を美術館にも積極的に連れて行ったそうだ。そして作品ごとに色や形、様子を語って聞かせたという。「花火に行っても、心の中に色とりどりの花火が開く。母のおかげで心の目で見られるようになった。不自由はありません」と彼は語ったということだが、心の中で開く花火の色はどのようなものなのか、驚異的なことと思った。ひょっとすると視覚健常者が見ている色彩よりもはるかに多彩なものなのかも知れない。

 帰国して空港でインタビューに答える辻井さんをテレビで見たが、実に屈託がなく明るく折り目正しい口調で、育ちの良さ、豊かな感性を持った性格であろうことが想像された。別の会見の場では、もし目が見えたら何が見たいかという質問に「両親の顔が見たい」と言い、「今は心の目で見ているので満足しています」と答えたそうだが、言わずもがなの質問に対して、心温まる答えだと思う。そこにも豊かな感性が感じられた。

 辻井さんの快挙が、彼が全盲であることだけに焦点を当てて語られては話が矮小化されるように思う。もちろん常人には想像もつかないハンディキャップを克服してきたのは素晴らしいことだが、そこには人間という存在の無限の可能性、素晴らしさがあることが人を感動させるのだ。まだ弱冠20歳のこの青年、これからもますますその才能が磨かれ発展することを願う。






母子の情景

2009-06-19 07:24:05 | 身辺雑記
 岩合光昭さんは著名な動物写真家で、多くの優れた作品を発表してきている。この人が撮った1枚の写真が、6月11日付の朝日新聞の夕刊に紹介されていた。
    
             

 これは米国の有名なネイチャー誌の1986年のある号の表紙に採用されたもので、日本人としては初の快挙だと言う。『ナショナル・ジオグラフィック』誌は自然、人文、博物に関する専門誌で、私もかつて購読したことがあるが、毎号見事な写真で誌面が埋められ堪能したものだった。このような斯界ではもっとも権威がある雑誌に採用されたことは、岩合さんの力量の確かさの証だろう。

 新聞紙面の写真を複写したものだからあまり写りは良くないが、見れば見るほど心温まる写真だ。アフリカタンザニアのセレンゲティ国立公園で撮ったものと言うが、夕暮れなのか、光輝く草原の彼方を見つめる母と子のライオンの様子は穏やかで、いったい何を思っているのだろうかと想像させる。母親の首に手を置いた仔ライオンは、母親を信頼しきって身を委ねているようで何とも言えないほど愛らしい。

 多くの動物の母親は、我が子が1人立ちするまでは献身的に育て、保護する。わが子を守るためには強敵も恐れない。それは単に「本能」と片付けてしまうことはできないような、尊さを感じさせ感動させられるほどのものだ。

 それに引き換え、近頃しばしば起こる、わが子への虐待、時には死に至らせてしまうほどの残酷な仕打ちはいったいどういうことなのか。獣にも劣るとはこのことだ。無論人間は、動物の進化の頂点に立つ存在だ。しかし、進化とは一面で退化を伴うものなのかと慨嘆したくなるのが一部の母親の所業だ。せめて本能的なものであっても母性というものは損なわれないでほしいものだ。


優しい気持ちになる

2009-06-18 08:37:45 | 身辺雑記
 近頃の世相は明るいニュースが少なく、何となく殺伐とした感じもあり、憂鬱な気分や怒りにとらわれることが少なくない。特に最近の国内の政治情勢など、どこかたるんでいるような気もする。毎日のようにテレビに現れる首相のどうにも品位を欠く顔と、それに似合ったダミ声には憂鬱な気分にさせられてしまう。

 そんなことだから優しい気持ちになることはそれほど多くない。優しい気持ちになることは温かい心になるということだ。ほのぼのとした気持ちになることはもちろんいいことだ。それがまったくないかというと、文句なしに優しい気持ちになることがある。街に出ると子ども連れに出会うことは多い。ベビーカーに乗せたり、手をつないでいたりさまざまだが、それを見ると例外なしに可愛いと思い、思わず笑みがこぼれる。とりわけベビーカーに乗せられているまだほんの幼い子の顔は本当に可愛いく、微笑みかけて「可愛いなあ」と言ってしまう。2、3歳くらいの幼児が親に手を引かれてヨチヨチ歩いている四頭身くらいの姿も思わず立ち止まって見とれるくらい可愛い。そのようなときには一瞬であっても心の中は暖かさでいっぱいになる。その後の余韻も快いものだ。

 中国の友人達は子どもの写真をよく送ってくれるが、毎日のように眺めてはほのぼのとした気持ちになっている。

撓撓(ナオナオ)または麦豆(マイトウ)


宸宸(チェンチェン)


橙橙(チョンチョン)


 近くのデパートで展示されていた、父の日にちなんだ幼児の絵。「だいすき」という言葉は大好きだ。
 6歳  2歳

 幼い子だけではなく、若い人の爽やかな姿を見るのもいい。近頃の若い人は風体からして違和感を覚えることが少なくないが、そんな若者ばかりではない。電車の中や、喫茶店などで若い2人が話し合っている姿がとても清潔に思えて、ああ良いカップルだなと何か祝福するような優しい気持ちになれるのはいいものだ。下校途中の高校生の姿にも若者らしい清々しさを見ることはよくある。

 若者だけではない。中高年の夫婦らしい2人連れが仲良さそうに歩いていたり、語り合っているのを見るのも心が和む。わが境遇と比べてとても羨ましく思うのだが・・・・。

 人だけではなく、動物でも同じことだ。夜中に目が覚めてふと傍らに猫のミーシャが気持ちよさそうに眠っているのを見ると、何とも言えないくらい安らいだ気持ちになりちょっと撫でてやる。そのときに起こるミーシャへの優しい感情がこれまたとても良い。

 最近は見ることが少なくなったが、美しい風景に出会うことも良いものだ。眼前に広々と開けた風景は、心を伸びやかにさせてくれる。特に夕焼けの光景が大好きだ。美しい夕焼けを眺めていると、煩わしいことは忘れてしまう。そのようなときに、すべてに対して優しい穏やかな気持ちになっていることが貴重だと思う。


           

 残り少ない人生だ。たとえ面白くないことが多い世の中でも、どんなささやかなことでいいから優しい気持ちになれることに多く出会いたい。



言葉の取り違え

2009-06-17 08:59:03 | 身辺雑記
 これも前出の野口武彦著『江戸の風格』(日本経済新聞出版社)にあった一節だが、

 以前、学生を「きみはただのネズミじゃないな」と褒めたら、「僕は動物じゃありません」と気色ばまれたのには閉口した。

 著者は私より4歳年下の同世代の文学者だからこういう褒め方をしたのだろうが、これは若い人にはいささか通じないものだっただろう。言われた方も「どういうことでしょうか」と率直に問い返せばいいのに、「僕は動物じゃありません」などと言うのはいかにも味気ない。今ではほとんど廃れてはいるが、「尋常ではない」の意味のそういう褒め言葉もあるのだということを知る機会をみすみす失っている。もっともこの言葉の意味は微妙で、「油断のならない奴」、「ひと癖ある奴」という意味もあるようだから、褒め言葉としては使わないほうが無難かも知れない。

 大学の先生と学生と言えば、こんなおかしな話も読んだことがある。ある大学教授のところへ学生がやって来て、自分達が主催する会で話をしてほしいと頼んだのだが、そのときにその学生は、「ぜひお願いします。枯れ木も山の賑わいですから」と言ったとかで、笑ってしまった。「山の賑わいに」力点が行ってしまって、むしろ教授を持ち上げたつもりだったのかも知れない。それとも「枯れ木だらけの山」と自分達の会を謙遜したつもりだったのか。まさか「つまらないものでもないよりマシ」ということだと知っていたらこんなことは言うまい。苦笑されたくらいですんだのはよかったが、場合によっては「無礼者!」と一喝されるところだ。

 もうひとつ、ある大学で卒業を控えた学生たちがゼミか何かの教授のところへやって来て、「いつ謝恩会をしてもらえるのですか」と尋ねたそうだ。「謝恩会」は文字通り(師の)恩に感謝する会で、もちろん学生たちが先生達を招いてするものだ。それを先生がやってくれるものと思っていたのは、文字を見れば分かりそうなもので滑稽だが、ただ卒業のときの別れの会は「シャオンカイ」と、音だけが頭に入っていたのではないか。そんなことだからもし自分達で準備して先生を招いても、ちゃっかりと会費をいただくのではないだろうか。

 言葉とか慣用句などというものは時代の移り変わりに従ってあまり使われなくなることはあるものだが、案外旧いものを型にはめたように使っていることもある。高校の卒業式などで卒業生代表が、在学中の思い出を語るとき、よく「走馬灯のように浮かんできます」などと言うが、今どき走馬灯を知っている高校生はどれほどいるだろうか。昔は夏の盆の頃の縁側などに吊るして幻想的な雰囲気を醸し出していたが、近頃ではほとんど見られないものだろう。卒業式の答辞の中で生きているくらいのものかも知れない。

 時代の変化とともに言葉も変化していき、中には使われなくなって久しくなると原義が薄れていくことはあるし、「流れに棹さす」のように意味が誤用されたり、「病膏肓に入る」の「膏肓(コウコウ)」が「膏盲(コウモウ)」になったりするように誤用が通用してしまったりすることや、「喧喧囂囂(ケンケンゴウゴウ)」と「侃侃諤諤(カンカンガクガク)」とが混同されて「喧喧諤諤の議論」などと言ったりするなどがある。言葉や慣用句は使うからには気をつけたいものだが、これは私自身への戒めでもあるから、何か文章を書くときには辞書を手元に置くようにしている。

              

挨拶

2009-06-16 09:00:35 | 身辺雑記
 野口武彦著『江戸の風格』(日本経済新聞出版社)を読んでいたら、このような文章があった。

 若い人が挨拶をしなくなった。職場でも、隣近所でも、たがいに日頃顔見知りとわかっていても会釈しようとしない。一九九〇年ぐらいが境目だろうか、筆者が勤務している大学で学生が教師に向ける目が路傍の石を見るような感じになった。筆者に貫禄がなかったのは仕方がないが、それだけの原因はなさそうだ。若者たちは挨拶しなくてもダイジョウブだと思っているのである。どのくらい損したか気が付いているまい。

 そしてここから武士の挨拶についての話に入り、武士道の挨拶は、武士がたがいに相手と敵対関係にないことを示し合う社会ルールであったとまとめて、「近い将来、挨拶しなければ敵と見なす戦国社会が再現して、若者のマナーも変わることだろう」と結んでいる。

 私にはいつごろから若い人が挨拶しなくなったのかはよく分からないし、若い人に接することはほとんどなくなったが、確かにそういう傾向はあると思う。例えば建物の外に出ようとドアを開いた時にそこに人が立っていたら、私などはちょっと会釈して通り抜けるのだが、その場合相手が若い人であるとほとんど会釈が返ってくることはない。それどころか、こちらを押しのけるように先に入ってくることもある。

 しかし若者に限らず、概して日本の男性は隣近所で挨拶しないとよく言われている。会社人間もこういうところでは非社交的だ。家では威張っている内弁慶なのかも知れない。私は妻が在世中も近所の奥さん達にはよく挨拶をした。それもただ頭を下げるのではなく、おはようございますとか、こんにちはとか声に出すように心がけてきた。そのせいもあってか、妻がいなくなってからも気楽に奥さん達と声を交わすことができ、時には世間話をすることもある。息子達にも幼い頃から挨拶をするように躾けた。

 その息子のうち次男は小学校の教師になったが、最初に勤めた学校では、「あいさつ運動」ということをやっていたようだ。ところがどうも息子はそのことに疑問を感じたらしく、私に「子ども達には挨拶するようにと言っているのに、朝登校して職員室に入ってきても挨拶する人がほとんどいない」と言ったことがある。こんな運動はいんちきだとは言わなかったが、それに近い気持ちだったのかも知れない。私も「あいさつ運動」などには疑問を持つ。形から入ることが大切だとも言うのだろうが、そもそも挨拶などは幼少の頃からの習慣で、形式的な運動で身につくものではない。まったく無駄とは言わないが、付け焼刃の類だろう。

 私が勤務した高校のある教師は、かなり傲慢なところがある男で、生徒達にはいつも強面で対していたが、彼が「自分から先に生徒に挨拶などしない。生徒がしたらする」と言ったことがある。自分から先に挨拶したら教師の面子が立たないとでも思っているのか、そこまで教師の「権威」を振り回したいかと哀れに思ったことだった。おそらく彼自身が、挨拶するということについて真っ当に育てられなかったのではないか。

 高校の運動クラブなどでは挨拶をやかましく言うところもあるが、私が勤務した学校では野球部がとりわけその傾向が強かった。校舎内でも道でも上級生に出会うと、何を言っているのかよく分からない大声で挨拶するが、上級生はせいぜい会釈を返したらいいほうだ。一度彼らとすれ違ったら大声で挨拶するので会釈を返したら、何のことはない私の後ろから来た上級生に挨拶したのだった。バカらしくて笑ってしまった。高校野球というものはとかく礼儀正しさ、純真さを売り物にしているようだが、本当に身についたものかどうか疑わしいことがある。あるとき他校との練習試合を見たことがあるが、テレビで見る全国大会などとはおよそ違う野次の応酬で、特に相手の投手に対してはその一挙手一投足に罵倒するような野次を飛ばすのにはいい気持ちはしなかった。

 挨拶など難しいことではない。家庭で「おはよう」、「おやすみ」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「いってきます」、「ただいま」が自然に言えていたら、外で挨拶するのに何も気後れしたり恥ずかしさを感じたり、付け焼刃になることなどはないだろう。

            
            


田植え

2009-06-15 09:04:40 | 身辺雑記
 近所の田圃で朝から田植えが始まった。田植え機を使った田植えである。

 
 苗床。昔は水田の一角に苗代があって、そこで苗が育てられていたが、今では機械化に伴って、このような苗床で育てられる。苗代の苗は丈も高く丈夫そうだったが、苗床で育てられたものは何かひ弱そうにも見える。




 私は戦後、高校生の頃に滋賀県の大津に住んでいたが、周囲は農家が多く夏には稲、冬には小麦が育てられていた。私が住んでいたのは旧海軍航空隊の軍人住宅だったので、住民の多くは都会生活をしてきた者だった。その頃幼かった私の弟は隣近所の子どもたちと田圃に遊びに行き、苗代の苗をきれいな草だねえとか言いながら摘み取っていた。そこに通りかかった農家の男性に大声で怒鳴りつけられて追いかけられ、血相を変えて家に逃げ帰った。母は平謝りしたそうだ。後で母は、この子達は稲の苗ということなどは知らなかったのねえとおかしそうに話してくれた。

 田植え機は60代の男性が運転し、畦道では助手らしい2人の若者が雑談していた。田の持ち主らしい姿は見当たらなかったので、どうやらこの近辺の田の田植えは、この3人が請け負っているようだった。


 子どもの頃、「五月雨のそそぐ山田に 早乙女が裳裾ぬらして 早苗植うる夏は来ぬ」という歌があったが、今時そのような情景は神事の田植え以外には見られないのではないか。機械での田植えは非常に能率的だが、それこそ機械的で情緒はまったくない。

 田植え機の後部。どのような仕組みになっているのかはよく分からないが、苗床から移した苗の塊から1本ずつ摘み上げ反転して植え込むようだ。4条ずつスムーズに植えていく。うまくできているものだと思った。


 前後左右が等間隔で植えられる。この点は手植えより正確だろう。


 昼までには、近辺の6枚の田の田植えは終わった。





 中にはいかにも雑で頼りなげに見えるものもあるが、これで根付くのだろう。中国広州の伍海珠は少女時代に故郷で田植えを手伝ったことがあるようだが、水面に向かって苗を投げるだけだと言った。東南アジアでは田植えなどはしないで、じかに田に種を播くと聞いたが、元来は湿地に生える草なのだからそれでいいのかも知れない。貴州省の山中の農村で苗を運んでいるのを見たことがあるが、皆丈が長く濃い緑色の丈夫そうなもので、それを見た卒業生のK子は、昔は私らの田植えのときの苗もあんなのだったと言った。

ハチク

2009-06-14 08:34:15 | 身辺雑記
 ブログ友のBさんのブログを見ると、ハチクと牛肉を炊き合わせた料理を作ったことが載せられていた。

 ハチクには以前から興味があったので、Bさんの店に立ち寄って尋ねてみたら、まだ残っていますよと言って冷凍してあるものを下さったので有難くいただいた。家ではBさんに倣って牛肉と炊き合わせることにした。凍みこんにゃくが少しあったのでそれも加えて鍋で炒りつけ、醤油、いしる、味醂、だしの素などで味付けをした。出来上がったものはまあまあ旨く、ハチクの歯ごたえがよかった。

                       
     
  しかしBさんのブログの写真と比べて見ると、さすがにベテラン主婦らしくなかなか色合いもよくおいしそうに仕上がっていて、色気の乏しい私のものよりは数段上と見た。まだ少しハチクが残っているから今度は鶏肉と炊き合わせてみようと思っている。

 ハチクは淡竹と書き、クレタケ(呉竹)とも言う。中国原産。土の中から先端を出さないうちに掘る孟宗竹と違って地上に伸びだしてから収穫するようだ。孟宗とはまた違った味わいのあるもので、とくにしゃきしゃきした歯ごたえがよい。高校生の頃に母が料理してくれて旨かった記憶があり、それ以来ずっと興味があったのだが、今回食べたのはそれ以来のこと、およそ60年ぶりということになる。Bさんに感謝しなければならない。

           インタネットより