中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

老いの影

2010-04-30 10:14:36 | 身辺雑記
 近頃、街への往復に出会う人を見て、この人も年を取ったなとか、急に老けたと感じることが多くなった。ほとんどは時折見かけるだけで、何処の誰とも知らない人だが、長い間に顔だけは知っている。ある男性は脚が悪くなったのか、杖を突き出したと思ったら急に老けこみ、今は2本の杖でよろよろと歩いている。別の男性はだんだん腰が曲がってきていたが、最近では小さな手押し車を押し、とぼとぼという感じで歩いている。あるやや派手な顔立ちの婦人は髪がほとんど白くなり顔の皺も増えた・・・・とこのように気になることが多く、それだけに感覚的には最近は短い1年も、案外長いものではないかと思ったりする。しばらく姿を見ないので消息通の人に尋ねると、ああ、亡くなったよということもあった

 通りすがりの人だけではなく、隣近所のご婦人方もだいぶ年を取った。Oさんは週に何回かデイ・サービスに行くらしいし、Sさんは最近めっきり老け顔になり、物忘れも進み認知症の始まりかなどと心配されている。Cさんは転んで腰を打ったそうで、腰がひどく曲がってしまった。Uさんは杖を突いて覚束ない足取りだ。Kさんは施設に入所した。誰もがこの1年かそこらの間の変化だ。

 他人のことはさておき、己自身はどうかと思う。他人に忍び寄っている老いの影は当然私だけに無縁であるはずはないのだが、そこは自分には甘く、まあそれほどではないと思ったりする。確かに最近は腰が重く歩行も老人じみているが、それも脊椎管狭窄のせいだろうと思い、そのこと自体が加齢によるものだとはなかなか直視できない。やはりまだまだ若いのだと思いたいのだろう。

 毎日洗面の時に鏡で自分の顔は見るのだが、毎日見ていると急に年を取ったとは思えない。最近も、まだ艶はあるし皺も少ないなどと自惚れているうちに、ふと喉のあたりの皺に目が行った。つまんで見るとかなりたるんでいて、何か毛をむしられた老鶏のような感じだ。ここに至って嫌でも年を取ったことを思い知らされた。この話を店をやっている卒業生のI君に話すと「喉から来ると言いますね」とあっさり言われた。

 70歳になる私の弟はほとんど毎日野外に出て自然観察をしているので、「君は元気だなあ」と言うと、「元気に活動できるのは75くらいまでだと言うよ」と言った。中には80、90になっても元気にスポーツなどをして話題になる人もいるが、やはり一般的には70も半ばを過ぎると急に体力が落ちてくるのだろうということは私自身のことでもよく分かる。いつも思うことだが、老いというものは、なだらかな下降線ではなく、階段、それもかなり段差のあるものを下りていくようにやってくるように思う。

 近くの商業ビルのベンチで休んでいると、見知らぬ老人から声をかけられ、住まいのことなど少しばかり話を交わしたが、年を聞いてみると95歳だと言うので驚いた。声も弱く脚も弱っているようだが、奥さんを10年ほど前に亡くし、独り住まいで家事は全部しなければいけませんと言った。私よりは20歳近く年上で,あと20年も生きるとこのようになるのかと思いながら、まだまだあまり年を取ったなどと考えて後ろ向きにならないほうがいいのではないかと思った。


甲骨文字の絵本

2010-04-29 07:28:20 | 身辺雑記
 電車の座席に座って発車を待っていると、古い卒業生のK女が乗ってきて、私の隣に座った。取留めのない話をしているうちに動き出した電車はすぐに次の駅に着いて何人かが乗り込んできた。その中の一人が私達の前に立ったが、K女と親しい間柄のようで挨拶を交わしていた。身だしなみの良い、落ち着いた教養のありそうな女性だったが、私を見て「お父様?」と尋ねたのでK女は「教えてもらったことはありませんが恩師です」と紹介した。彼女は私が高校の教師になったときには2年生で、私より8歳年下で60半ばを過ぎているが、年のわりには老け顔だから、親子と見られたのはいささかおかしかった。

 その女性はK女と話しているうちに鞄の中からA4の紙を3枚取り出して私に手渡してくれた。3枚ともコピーしたもので、1枚はその女性が作った絵本の紹介と、もう1枚は詩人の長田弘さんのこの絵本についてのエッセイ、3枚目はこの女性を紹介した昨年12月の新聞記事だった。

 それによると、この女性は発達心理研究家の関登美子さんと言い、北京生まれの甲骨文字研究の大家だった書家の欧陽可亮氏の次女であるとのことだ。欧陽可亮氏は唐代の高名な書家であった欧陽詢の44代目に当たるという由緒正しい家系の出のようで、上海で華日辞典の編集に当たっていたが、戦後に台湾に家族とともに移住した後、55年に一家で来日、拓殖大学などの教授を歴任し、3種類の中国語辞典の編集にかかわったりするなど日中文化交流に尽力されたとのことだ。著書に『集契集―亀甲文字集―日本版』(冬至書房新社)という労作があるようで、大いに興味をそそられたが、なにせ85,000円という高価な本だから手を出すことはできないが、一度は見てみたいと思う。

 甲骨文字(亀甲文字)は現在の漢字のルーツで、紀元前16世紀から紀元前11世紀かけて存在した古代王朝の殷(商)で使われた文字である。亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に刻まれたこことから付けられた名称。

 甲骨文字のレプリカ(Wikipediaより)

 関さんが著した絵本は『甲骨もじであそぶ ちゅうごくの 十二支の ものがたり』(JULA出版局)と言う。早速書店に注文して取り寄せたが、どのようにしてお馴染みのえとの動物達が決まったかという話を楽しく語っている。子ども向けの絵本ではあるが、内容はなかなか程度が高い。絵本には十二支の動物以外の甲骨文字も全部で108字紹介されているが、すべては欧陽可亮氏の書からとられている。

 絵本の表紙。上から右回りに鼠から始まり、以下牛、虎、兎・・・・と続き、左上の豚で終わる。中国のえとの最後は猪ではなく豚である。鼠と豚が向かい合っている間にある3文字は「亀甲文」と読む。中央の文字は「遊」。


 絵本で語られるお話の始まりはこうだ。

 わたしがこどもだったころ、
 とうさんは、わたしを ひざのうえで あそばせて、
 3000ねんいじょうも むかしの ちゅうごくの えもじ、
 甲骨もじを サラサラと かきながら、
 いろんな おはなしを きかせてくれました。

 たとえば、
 としと どうぶつたちの おはなし。
 こんなふうに・・・・・・ね。

 そして、12の動物達がどのようにして決まったかが語られ、なぜ鼠が一番初めになったのか,どうして蛇に足がないのか、なぜ兎はあんな口をしているのか、猫はなぜ十二支の中にいないのかなどが、多くの甲骨文字を交えながら易しい語り口で話される。



 最後は、
 
 おはなしが おわると とうさんは、
 ちいさい わたしの てを とって
 いつも いつも いいました。
 さあ、こんどは とうさんと
 えを かいて あそぼうか・・・・・・ってね。

 甲骨文字の大家と愛娘の暖かい情景が目に浮かぶようで、関さんのお父さんに対する愛情があふれたような絵本だ。各ページのお話に関連して書かれている大小さまざまな甲骨文字も楽しい。

 それにしても、こうやって甲骨文字を見ると漢字は確かに象形文字だ。このような「文字」を考え出した古代人の知恵もさることながら、それが次第に形を変えながら三千年間も連綿として続き、今に生きていることには感動を覚える。


中国の公衆トイレ

2010-04-28 09:32:15 | 中国のこと
 「中国に行くのはちょっと・・・・。トイレが汚いのでしょう?」と言うことを、とりわけご婦人方から聞く。女性にとってはトイレの問題は重大なことらしく、使用頻度も男性よりは高いらしい。イタリアかどこかで、日本の団体ツアーがトイレ休憩するたびに、女性トイレの前には長蛇の列ができるのでイタリア人のガイドが、日本の家にはトイレはないのかとたずねたという話を聞いたことがある。そんなことで外国のトイレに関心を持つのは無理もないが、それが汚いとなると、男性とは使用形態の違う女性にとっては忌避したくなるのは当然だろう。「最近は、特に都会ではきれいですよ」と言ってもなかなか信用されない。

 ひと頃の中国の公衆トイレの汚さは事実で、10年ほど前に卒業生のT君が、北京の公衆トイレの汚さは物凄いものですよと、顔を顰めて言っていた。その悪名高い北京の公衆トイレも北京オリンピックを契機に面目一新したらしい。そのことにも影響されたのか、近頃は中国の都会の公衆トイレは、私が中国に行き始めた10年ほど前に比べるとどこもきれいになってきたし、特に観光地ではどうかすると日本よりもきれいなのではないかと思うことがある。そのようなトイレはどこも新しい感じのものが多いから近年になってからのことだろう。

 仕事などで中国を頻繁に訪れる人以外には、普通はそれほどたびたび行かないことが多いから、一度行った時の印象が強いと、それがいつまでも脳裏に刻まれてしまうのだろう。よく「中国では・・・・」という見聞話を聞かされることがあるが、それがどうかすると10年あるいはそれ以上前の話で、本人もそれ以来中国には行ったことがないこともあって、自分が見聞したことがその後どうなっているかまったく知らないから、本人もその話を聞かされた者もそれが中国の今の姿でもあると思ってしまっていることもあるようだ。中国のトイレが汚いということも、ややその類かも知れない。今回の麗江の旅から帰ってネットでいろいろと調べていたら、麗江の公衆トイレについてこのような紹介があった。女性らしい旅行者の口コミ情報とやらで、

 「旧市街の中には、公衆トイレがあります。有料ですが、料金はとても安いです。確か5角。水洗になっていて、掃除もされていました。すごく綺麗とはいえませんが、まぁ、困らない程度」

 とある。私が使ったのとは違うし、はてなと思った。まず、今では有料ではない。それに非常に清潔で掃除も行き届いている。いったいいつ頃の情報なのだろうと思って見てみると、訪れた時期は2008年の8月のようで、2年足らずの間に変わっているのだ。ことほど左様に中国での変化は激しく、発展が著しく遅れている地域のことはともかくとして、10年やそれ以上前のことなどは情報としての価値はほとんどないだろう。

 もっとも、かく言う私はこの10年間にずいぶん中国を訪れたが、何しろ広大な中国のことだ。面ではなく点を跳び跳びに旅したくらいだから、それこそ「中国では・・・・」などとさもすべて知っているかのような顔はとてもできない。実際今でも地方に行けばかなりひどい状態の公衆トイレはあるだろう。これまでにもたじろいだことは何度かある。しかし、普通のツアーで行く場合にはそれほど心配することはないだろうとは言えると思う。

 麗江の公衆トイレで面白いことがあった。用を足そうと思って前を見ると、便器の前方中央あたりに3センチくらいの青黒い蜘蛛が脚を広げてへばり付いている。ちょっと悪戯心を起こして、その蜘蛛をめがけて発射した。ところがびくとも動かない。しぶとい奴だなと思っているうちにタマ切れになった。よく見るとどうも作り物らしい。隣の便器を見ると同じような蜘蛛がへばりついていたから、こういう規格品なのだと納得した。どうやら用を足す時にはここをめがけなさいということらしい。男性諸氏は経験があるだろうが、駅のトイレなどでは便器の前の床が濡れていて不潔なことがよくある。離れて用を足すから前に垂らしてしまうのだ。それを防ぐために警句を貼ったりしていろいろ考えるようだが、中国でも事情は同じらしい。観光地の公衆トイレでは日本よりもモップなどできれいにする頻度は高いようだが、それでも防止策として蜘蛛を取り付けたりすることを考えるのだろう。

 かつての日本の駅や観光地などのトイレもひどく汚かった。旧国鉄時代の大阪駅のトイレなどは、中国の農村地方の学校のトイレとあまり違わなかった。「公衆便所」と言えば汚いものと相場が決まっていたものだ。それが今では清潔なのが当たり前になった。公衆マナーにしても、それほど前ではない大阪の駅の乗客のマナーの悪さは有名だったが、今ではきちんと整列するようになった。中国人の公衆マナーは確かに良くないことが多い。しかし我が身を省みるならば、あまり反り返って「中国は・・・・」と見下すこともあるまい。中国でも都会部では、たとえば公衆衛生ということはしだいに浸透してきているように、公衆トイレの変化を見て思った。



鎮魂の芝桜

2010-04-27 08:49:33 | 身辺雑記
 1995年月17日の早朝、午前5時46分に発生した阪神・大震災は各地に大きな被害をもたらしたが、阪神地区の西宮市の仁川百合野地区では、大規模な土砂災害のために、もっとも大きな被害を受け、家屋13戸が押しつぶされ、住民34名が犠牲になった。
 
 地滑りの規模は幅約100m、長さ約100mで、深さ15m、移動土塊は約10万㎥に達したと言われている。犠牲となった住民の遺体の中には両脇に2人の子どもを抱き抱えていた母親もあり、救援隊員の涙を誘ったと聞いた。おそらく強い揺れに目を覚まし、怯えた子ども達を母親が抱きしめたところに崩れた土砂が襲ったのだろう。私も顔は見知っていた定時制高校の事務長も亡くなったが、どうしたわけか爆発的な火災も起こったようで、遺体は無惨なものだったそうだ。ある家庭では前夜に娘が外泊していて、帰ってみると家も家族も失われていたということもあった。

 災害があった後でいろいろ調べられたが、どうもずいぶん古くにここに埋め立てられた土壌の状態は不安定なものだったらしく、人災的な要因もあったようだ。

 その悲惨な出来事があった所は今では美しく生まれ変わっている。地元住民がつくる「ゆりの会」が、亡くなった人達の追悼のために2004年に植えたシバザクラが毎年増えて、今では6千株を超えていると新聞記事で見たので足を運んでみた。

 被害地域は地すべり防止地区とされ、斜面の下端はコンクリートの防壁で被われ、常時監視システムも設置されている。このコンクリートの壁の上にシバザクラが植えてある。













 今は美しくシバザクラで覆われているこの地で34名の命が失われたのかと思うと、改めて自然災害の恐ろしさを考え、我が家でのあの日の朝のことを思い出した。我が家は平地に建っているが、この斜面はかなり急傾斜で、このような斜面に住宅を建てることは、そもそも危険だったのではないだろうかと思われた。

 地すべり防止区の下の道路を隔てたところに「地すべり資料館」がある。ここでは土砂災害の仕組みを学ぶための写真パネルや、地すべり対策工事の仕組みが分かる模型などが展示され、地すべりの自動観測システムも置かれている。


 地すべり前に撮られた百合野地区の航空写真。赤線で囲まれた部分が崩壊した。


 地すべり後に撮られた航空写真。地すべりの縁にある住宅があり、ほんの僅かなことで生死が分かれたことが分かる。




              
              

ハナミズキ

2010-04-26 11:18:54 | 身辺雑記
 心地よい初夏の気配が感じられるようになるとハナミズキの季節だ。今年はどうも天候が不安定でなかなか寒さが去らないが、それでもハナミズキは咲いた。私はこの花が好きだ。街路樹や庭木に使われることが多く、今頃はあちこちで見ることができる。


 ハナミズキ(花水木)は北アメリカ原産のミズキ科の落葉高木で、別名をアメリカヤマボウシと言う。これは日本の山地に自生する近縁種のヤマボウシに似ていることからの名称。


 ヤマボウシ(Wikipediaより)

 花の色は白、紅、ピンクなどがあるが、どれも良い。






 4枚の花弁に見えるのは総苞というもので、実際の花は中心部にかたまっている。




 ハナミズキはサクラとともに、日米の首都交流のシンボルとされている。1912年(明治45年)に当時の尾崎行雄東京市長が、タフト大統領夫人の希望を受けてワシントン市にサクラの木を贈り、今ではポトマック河畔のサクラとして名所となっている。その返礼として、1915年(大正4年)にワシントン市から東京市にハナミズキが贈られてきた。公式にはこれがハナミズキが日本に渡来した最初のものとされるが、それ以前にも園芸家などによって日本に持ち込まれていたかも知れない。

              

             



盗作

2010-04-24 10:38:15 | 中国のこと
 北京オリンピックに次いで中国の国家的行事とされる上海万博が間もなく開会となる。上海の友人からは来ないのかと言われたが、私は人混みが苦手だし、万博というイベントには興味がない。

 その上海万博を控えて賑々しくPRのイベントなどが行われ、公募で採用されたPRソングも作られて上海の街を賑わせていたようだ。ところがそのPRソングが盗作ではないかという疑惑が中国のネットで指摘された。日本のシンガー・ソングライターの岡本真夜さんが1997年に発表した曲と酷似していると言うのだ。ネットでは万博ソングのイメージビデオと岡本さんが自作の歌を歌う映像を並べたサイトも登場し、掲示板には「99%同じで、間違いなく盗作だ。恥ずかしい」とか「これではメンツが台無しだ」といった書き込みがあるらしい。

 万博事務局はPRソングの使用を暫定的に禁止し、事実関係の調査に乗り出したが、結局、岡本さんの曲を公式PRソングとして使わせてほしいと依頼し、岡本さん側の承諾を得た。まことに愚かしい話だが、盗作、贋作王国と言われる中国らしいという冷笑もあるようだ。「自作の」曲が採用された作曲家は中国メディアの取材に「部屋を歩き回り、足でリズムを取りながらインスピレーションを得た」と「作曲」の経緯を語っていたそうだが、白々しいと言う他はない。その後も自分の曲と岡本さんの曲とはまったく違うと言っているらしい。10年以上も前の曲だから盗んでも分かるまいと考えたのか、盗むこと自体に何のためらいもなかったのか、いずれにしても盗作するということについての感覚が麻痺しているが、ネットには「中国では盗作は珍しいことではない」という、擁護しているのか分からないような書き込みもあったそうだ。

 万博事務局も迂闊だったと思う。世界的なイベントに関することだからもう少し慎重であるべきだっただろう。自分達の国では盗作が横行していることくらいは認識しているだろうから、採用に当たっては十分に検討をすべきだったし、事が判明してから原作者に公式ソングに「あの曲を使わせてほしい」などと申し出てくるのは恥ずかしいなどとは思っていないのではないかと思ってしまう。私がとっている新聞のコラム欄にはこのことを取り上げて、「『盗作に抗議』『認めて謝罪』という手順をすっ飛ばした、お手軽にして珍妙な落着だ」と揶揄している。開会までに残された日数は僅かという時にとんだ恥を晒したものだが、もしネットでの指摘がなかったらどうするつもりだったのか。そのまま問題の曲を公式PRソングとして使い続けたらもっと大きな問題になっただろう。

 とにかく中国は知的財産権に関してはあまりにも後進的だ。世界的な動向がどうなっているかが国家の上層部でも十分に認識し、自国の状況に危機感を持っているのだろうか。「中国では盗作は珍しいことではない」などと言っていては、いつまでたっても文化的には世界の大国とはみなされないだろう。中国は犯罪に対する姿勢は厳しいが、知的財産権の侵害は悪質な犯罪であることをもっと国民に周知させるべきで、取り締まりも強化するべきだ。しかし国中にコピー商品があふれ返っている現状では、改善されることは当分期待できないのではないか。それではこの問題では、いつまでも世界からは困り者の三流国と扱われるだろう。

http://blog.goo.ne.jp/ryoyokota200608/s/%A5%B3%A5%D4%A1%BC%C0%BD%C9%CA

(日曜日はブログを休みます)   

GDP(2)

2010-04-23 08:18:30 | 中国のこと
 GDPでは世界第1位の資本主義大国の米国も貧富の格差は著しく、巨大な収入、資産のある人間と、車も持てない極貧層が多く存在することはよく知られていて、「貧困大国アメリカ」などと言われもしている。中国については最近特に「新富裕層」などという人間が増大していることがマスコミによってしきりに伝えられているから、中国人と言えば金持ちという錯覚を起こしかねない。だから、中国が時には経済大国と自負し、時には発展途上国と言うのはご都合主義だと批判する声もある。

 私は中国の貧困農村地区の子ども達を援助する会に入っていて、これまで何度か湖南省の西北部や、寧夏回族自治区の南部の農村を訪れたことがあるが、現地を見ると、まさに中国には「発展途上国」(以前は「後進国」と言った)という一面があることがよく分かる。中国沿岸部の都市の新富裕層の実態は近頃よく伝えられているが、そこだけを見て「最近の中国は豊かになっている」などと皮相的に捉えると、内陸部の貧困農村地域の実態は想像できないだろう。

 GDPに話を戻すと、国民一人当たりの国内総生産(名目GDP)について言えば、国際通貨基金(IMF)の統計によれば、2008年の日本は世界で23位、中国は104位でその差は大きい。中国の一人当たり3,315米ドルに対して日本は38,559米ドルで10倍以上だ。国としての総生産量は大きくても、国民の多くは貧しく、新富裕層などと言われる人間は一握りの存在なのだ。ちなみに韓国は19,504米ドルで36位、米国は46,859米ドルで15位だ。

 私は経済のことには疎い。日本の経済がこれからどのようになっていくかなどは分からない。しかし、最初に挙げた週刊誌のように一部のマスコミが、中国や韓国を徒にあげつらい、反中感情や嫌韓感情を煽っても日本経済の再生、発展には何の役にも立たないだろうとは思う。


GDP

2010-04-22 09:56:31 | 中国のこと
 新聞に、ある週刊誌の広告があった。最近の日本経済について、週刊誌らしい危機感を煽るような見出しが並んでいたが、その中に次のようなものがあった。

 韓国に負けてどうすんの!
 中国にバカにされて恥ずかしくないの!
  (そばに小さく「かつての格下においてかれるニッポン」とある)

 反韓、反中感情丸出しのもので、その品性のない調子に、いかにB級の週刊誌でもこれはひどいと顔を顰めてしまった。その後その雑誌が私鉄の駅の売店に置いてあるのを見たが、どうせ見出しどおりの内容なのだろうと、手にとる気はしなかった。

 中国や韓国の国内総生産(GDP)が急速に伸張して、それについてこれまで米国に次いで世界第2位だった日本の「地位」の足元がゆらぎ始め、2010年度には中国のそれはそれまでの3位から日本を抜くのは確実だろうと予測されているし、2008年度には15位だった韓国も近い将来には日本に追いつき、抜くかも知れないと言われもしている。特に中国が日本を抜いて世界第2位の経済大国になることについては、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた80年代の日本経済の絶頂期を見果てぬ夢と懐かしむ者にとっては、屈辱的なことなのかも知れない。そこに中国や韓国を蔑視するような傲慢さも加わって上の週刊誌のような記事がつくられたのだろう。記事の見出しはヒステリックで、国内総生産で中国に追い抜かれることが、どうして中国にバカにされることになるのか理解できない。

 中国のような、日本とは比較にならないような巨大な安価な労働人口を抱えている国が、改革開放政策とやらで、社会主義国とは思われないような資本主義的経済の取り組みをすれば、GDPが急速に増大することは当然だろう。私がかつて中国のある若い友人に、貧富の著しい格差など社会主義国とは考えられないような状況を指摘すると、その友人は「中国は社会主義の国ではありませんよ」と言ったことがある。若い中国人でそのように思う人達は少なくないのかも知れない。  (続)


子どもをしつける

2010-04-21 10:42:12 | 身辺雑記
 外山滋比古『文章を書く心』(PHP文庫)を読んでいる。帯に曰く、「本書はエッセイの名手として知られる著者が、書く前の準備、上手な文章にするための心得、手紙のコツなど文章上達のための基本を披露する。書くことへの苦手意識がいつの間にかなくなる、親身のアドバイス満載の書」。エッセイの達人のものだけに読んでいるといちいち納得できることがあり、大いに参考になる。もっとも、だからと言ってこれからの私に効果が表われるかどうかは分からないが・・・・。

 いろいろと示唆されることが書かれているが、最終章は「手紙にあふれた思い―先人の書簡より」となっていて、この中の「妻へあてて」という1節に引かれている森鴎外の書簡がなかなかいい。日露戦争の時に従軍し、大陸から夫人宛に出した明治37年7月30日付けの手紙が引かれている。少し長いが再引用する。

 「7月11日のお前さんの手紙が来た。茉莉が次第に物が分かるようになると見えるね。小いうちは教育なんぞといっても別にむつかしいことではない。大概は自然に任せて置けば好いのだ。おとなが勝手におもちゃのように扱ふのがまちがひなのだ。賞罰は正しくせねばならぬ。併しどんなに大人が困ることでも小児がわるぎなしにした事を罰してはならぬ。大概は罰のはうは先づ見合わせにする方がよろしい。これからおひおひうるさくいろいろなことを問ひたがるやうになるだろうが何遍でもくりかへして問へば一々返事してやるのが親のつとめだ。それをうるさいなどと言ってしかる親が世間には多いが大まちがひだ。かういふ時に面倒を見て返事をして遣ればどんな好いことをも仕込めるのだ。障子を破りおもちゃをすぐにこはすやうな癖はしからずに静にとめて遣ればやむ。その面倒を見ぬから亂暴ななこどもになってしまふ。・・・・」

 明治37年7月と言えば、私の父が生まれるちょうど1年前で、今から106年前ということになる。そのような時代に、幼い子どもの教育についてずいぶん開けた考え方だと思う。鴎外は幼い頃からドイツ語に親しみ堪能で、若くしてドイツに留学しているから、西欧的な思考の影響を受けたのだろう。そのためもあってか子ども達には、於菟(おと=オットー)、茉莉(まり=マリー)、杏奴(あんぬ=アンヌ)、不律(ふりつ=フリッツ)、類(るい=ルイ)など、今頃ではよくあるような、しかしやはり明治調のバタ臭い名前を付けている。

 それはともかくとして、引用した子育てについての鴎外の考えは、100年以上たった現在でも十分に納得できるものだ。賞罰は正しくしなければならないが、子どもが悪気なしにしたことは罰してはならないとか、うるさくいろいろなことを問うても一々返事してやるのが親のつとめだとか、障子を破りおもちゃを壊しても叱らずに静にとめてやればすむなど、いちいちもっともで、今の若い親達も心すべきことだろう。外山氏も「小さいこどもをもついまの母親にも読ませたいような、行きとどいた注意である」と言っている。

 西安の謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)は1歳半になり、かなりいたずらもする腕白小僧になっているようだ。先日もいつも食事の時に使っている自分の椅子を壊してしまい、「ヤヤヤ!」と歓声を上げていたそうで、俊麗はやはり自由市場で買ったものは良くなかったかなと笑っていた。


 前から私は俊麗に、子どもが危険なことをした時はちょっと厳しく叱り、そうでなかったら優しく止めてやることだと言っていたが、その点では俊麗はおおらかなところがあり、上手に子育てをしているようだから、ナオナオも次第に聞き分けができてくると思う。

 最近は子どもを虐待する事例が増え、死に至らしめることも少なくない。大概は幼い子どもが自分の言うことを聞かなかったからと言って暴力を加えている。許せないのはそれを「しつけのため」と強弁するのが多いことだ。まだ頑是無い幼児のしつけには根気も忍耐もいる。それをちょっと言うことを聞かないと極端な暴力を加えることなど、しつけでも何でもない。

 私の両親は私達きょうだいを大きな声で叱ったことがない。まして叩くなどは一度もしたことがなかった。母は優しい性格だったし、父は厳しいところはあったがいつも穏やかだった。殊更にしつけをされた記憶はないが、日常の私達への接し方が、自ずからしつけになっていたのだろう。そのお蔭もあってか、私はたいした人格や才能の持ち主にはならなかったが、事のけじめだけはわきまえるようになったのではないかと、両親に感謝している。








孫に会う。

2010-04-20 09:11:56 | 身辺雑記
 今春大学生になったばかりの孫息子から「明日のお昼頃会えますか」というメールが入ったので会う約束をした。西宮市にある関西(かんせい)学院大学の教育学部に入学し、近くだから会いたいと思っていたのだが、お互いに日が合わなかったので延び延びになっていた。

 この子はのんびりとした無口な子で、高校での勉強にもあまり身が入らなかったようだが、とくに難しい性格になったり落ちこぼれたりすることもなく、マイペースで高校生活を送り、成績もぱっとしなかったらしい。それで息子夫婦も大学進学については大して期待もしていなかったようだ。息子は小学校の教師をしているが、勉強しろと尻を叩くこともなかったし、嫁は電話で様子を聞くと「この頃は勉強するようになったのですよ」とおかしそうに笑いながら報告するようなおっとりした性格だから、夫婦揃ってやかましく言うことはなかったようで、大学にはとてもとすんなりとは入れないだろうと思っていたようだ。国公立は初めから諦めていて、私学をいくつか受験したが、果たして何処にも落ちて本人もいささか腐っていたところへ、最後に残った関西学院大学に「奇跡的に」入学することができた。

 食事しながら「お父さんとそっくりだな」と言ったのだが、息子も高校生時代にはサッカーに熱を上げていて、家でもあまり勉強をする様子がなかったので兄が、「あれは国公立は無理だよ。一浪したら私学も受けさせたら」と言った。私は上の息子には「浪人は1年だけ、私学は学費が高いから行かせられない」と言って大学受験を認めていたので、一浪して何とか神戸大学に入った兄の弟に対する気持ちはもっともだとは思いながらも、「君には私学はだめだと言ったのだから、あれにも行かすわけにはいかない」と答えた。そんな彼が思いがけなく浪人することなく大阪教育大学に合格し、このときはまったく奇跡だと思ったが、彼は「お父さんは僕が勉強していないと思っていたのだろうが、やることはやっていたのだから」と言った。

 2代続いて「奇跡」に恵まれたことになるが、父親と同じように孫息子もやるだけはやったのだろうと、その努力を認めることにしている。しかし、この子も大学生になったかと思うと、正直言ってやはりとても嬉しい。彼も教師志望のようで、こんなにおとなしくて無口では採用されるかなといささか心配はしているが、これから4年間の間に何とかなるのだろうとは思っている。これからも時々会って、教師生活のことなど話してやろうと思う。久しく聞くことのなかった大学生活の話を聞くのも楽しみだ。講座の教授の勧めで1週間に1日、月曜日の朝に学校の前を通る近くの小学生の通学安全指導のボランティアをしているようで、今朝は4時に起きたと言っていたが良いことだ。

 18歳になり身長は175センチあるが、孫というものはいつまでたっても可愛いものだ。彼を見ていると、いつも妻の葬儀の日のことを思い出す。妻の棺が炉の中に入っていく時、私のそばにいた小学校1年生だったこの子は、涙をいっぱい浮かべて見送っていた。妻の生前にはそんなに大きく愛情を表現しなかったのにやはり悲しいのかと、無口な子だけに胸が衝かれる思いをした。その時の顔が今に忘れられず、愛おしい。妻が在世していたら大学生になった姿を見てどんなに喜んだことだろうと思う