中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

大晦日

2009-12-31 15:21:59 | 身辺雑記
 誰もが近頃は日がたつのが速いと言う。世の中の動きがそれだけ慌しいということか。数日前に、時折行くホテルのレストランで食事した後で支払いをする時に、応対したウエイトレスが最近結婚したと思っていたからから、「結婚されて初めてのお正月ですか」と尋ねると、「2回目になります」と答えたので、ちょっとびっくりした。「速く日がたちましたね」と言い合って別れたが、地球の公転や自転が速くなったわけでもあるまいのにこの1年は短かったと改めて思った。何か1年の間に2度大晦日が来たような感じさえする。

 そんなことで、大晦日だ、正月だと言っても一向にその気になれない。最近ますます気儘な生活になっているから片付けするのも面倒だと思ってしまう。私にとってはどうやら年末年始は普通の日になってしまった。これも本をただせば妻がいなくなったからで、このような時には殊更に妻がいてくれた頃の家の中のぬくもりを懐かしく思う。独り住まいの高齢の男性でも家の中はきれいにしている人があることはよく聞くが、やはり私は妻に依存していたのだろう。妻が逝ってから11年、毎年年越し蕎麦と雑煮をつくり供えてきた。今年はもう止めようかとも一時は思ったが、それではいけない、せめてそれだけはして、妻と一緒に年末年始を過ごす気になろうと思い直した。

 今日は、昼間は買い物に出るが夜は特に予定はない。「国民的行事」とやらの紅白歌合戦にはまったく興味はないし、それでなくてもテレビはとうとうまともな映像は出なくなった。除夜の鐘は音声だけでと思っている。

 この1年、世の中の変化はいろいろあったが、これから先はどうなっていくのだろうか。これから先ということになると、私自身の先もだんだん短くなってくることは確かなことだ。今年を振り返ってみると先だって受けた後期高齢者検診の結果は問題なしと証明されたし、1年間風邪ひとつ引かなかった。だが軽い坐骨神経痛があり、歩くと脚が痺れるから壮健とは言えない。体力的には明らかに衰えてきている。とりわけこの頃は疲労感が強いのが悩みだ。いろいろな人からアドバイスを受けているので、来年はその1つでも実行するように努力したい。来年の抱負はと聞かれたら、答えは。ささやかだがこの程度だ。









ブログへのコメント

2009-12-30 11:42:56 | 身辺雑記
 最近続けて2回、いかがわしく卑猥なコメントが入った。若者が書いていると思われるような文体で、性的なことを露骨に書いていて下品極まりないものだ。発信者の名前をクリックすると、これまたいかがわしい画面が現れる。これ以上は先に進まないほうが無難で、もちろんすぐに消去するが、とにかく感じの悪いものだ。

 以前はよく入っていてそのたびに不愉快な気分にさせられたものだが、最近はコメントを送る場合には表示されている4桁の数字を入力しないとコメントは送れないようになっている。これで自動化されたプログラムによって、無差別に送信されるいかがわしいコメントは防げるようになったはずだが、それがどうしたものか続けて入ったのだ。何か潜り抜ける手段を見つけたのだろうが、このような陰湿に蠢く虫けらのような連中はどうしようもない奴らだと思う。

 このようなコメントは論外だが、ブログに寄せられるコメントはまともなものだ。私のブログは毎日120名から130名くらいの方に閲覧していただいているようで有り難いことだが、このような文章主体のもののせいか、取っ付きにくいからか、コメントはほとんど入らない。しかし静岡の A さんや関東の T さんのブログは写真が主体で、その写真が大きく見事なものだから、コメントは多い。もちろんすべて賞賛のコメントだが、それに対していちいち返事を書いておられるので、これはなかなか大変だろうと思う。

 最近 A さんは土・日を「ブログ休刊日」とした。ブログを始めて5年目を契機にとのことだ。Aさんとはメールのやり取りもするようになっているが、先だってのメールでは、連日のブログアップに時々ストレスを感ずることが多くなった、写真の素材には事欠かないが、コメントに対する返事に時間が掛かるようになってきたとあった。そうだろうと思う。Aさんのブログにコメントを入れると、私のブログに謝辞とブログへのコメントが入る。他の人たちにもこのようにしているのだろうが、これはとても労力が要ることだろう。コメントには返事しなくてもいいのではないかとメールしたが、Aさんは律儀なようだからそうはできないのかも知れない。

 私は寄せられたコメントには返事は滅多にしない。以前はしたこともあるが、一度宗教に関して論争のようになって、こちらの知識を試すような質問もされたので辟易したことがあるので、それからは基本的にはコメントは有難くいただいておくだけにしている。日本のどこに住んでおられるのかも分からない未知の方も含めて、短くてもコメントが寄せられると、それが少し批判的だったり反対意見であったりしてもやはり快く、いい加減な文章は書けないなと自戒するが、これはなかなか難しいことだ。
  
 いいなあと思ったり、感ずることがあったブログにはコメントを寄せることにしている。北海道のSさんは、毎日写真に軽妙な一文を付けていて、読んでいて楽しい。Sさんのブログにもファンが多いようで、よくコメントが入っていて、私も時々入れることにしている。Sさんのほかにも何人か時々コメントを入れるブログがある。コメントを入れる時には、あまり長く冗漫にならないようにと心がけているが、ブログの文章を書くよりも気を遣うこともある。

法要(2)

2009-12-29 09:20:19 | 身辺雑記
 妙頂寺は日蓮宗である。寺歴は古く1540年頃に創建されたようで、広島浅野藩の第二家老の家の菩提寺だったそうだ。原爆の被害は爆心地から近いからかなり大きかったようだが、現在はなかなか立派な寺院である。法要が始まる前に院主の挨拶があり、「ぼくの南無妙法連華経」という法華経についての入門書が配られた。それを院主の読経に合わせて唱えてほしいということだったから、信者でもない私はちょっと戸惑ったが、まあいい、黙読しながら拝聴しようと考えた。



 最初は「妙法蓮華経方便第二」という経で、「にじせそん しゅうさんまい あんじょうにき ごうしゃりほつ」と始まり、漢字に振り仮名が打ってあるのだが、「爾時世尊 従三昧 安詳而起 告舎利弗」とあって、対訳はないからさっぱり意味が分からない。字を読んで意味を考えているうちにどんどん先に進んでいく。次の「妙法蓮華経如来寿量品第十八」という経も同じだったが、これは長かった。

 3番目はやっと翻訳された「欲令衆」という経になり、「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ 清浄(しょうじょう)なることを得せしめんと欲するがゆえに 世に出現したもう」と始まり、これはだいたい分かるのだが、目を閉じて聴くと、「もしひとあくとうじょう およびがしゃくをくわえんとほっせば すなわちへんげのひとをつかわして これがためにえごとなさん・・・」と、理解できないことが多い。

 この後も経は続き、最後は院主が「南無妙法蓮華経」と唱えている間に焼香をして法要は終わった。無信心者にとっては義母には悪いが、やれやれ終わったという気持ちだった。それでも院主はなかなかよい人柄に見え、最後に法要の意味を説いたが、1つは過去の故人に対して思いを寄せるということ、2つ目は現在仏となって浄土にいる故人の霊を慰めること、3つ目は遺された者たちがこれから先よい生き方をして仏を安心させること、とおおよそこのような話で、納得できるなかなかよいものだった。

 それにしても仏教の経というものは難解で、よほど見識、教養がある信者でなければ、ただ唱えるだけで意味などは分からないのではないだろうか。皆で邪念なく唱和していると無我の境地に入れるということがあるのかも知れないから、意味は分からなくてもいいのかとも思う。それに分からないところに有り難味があるということもあるのかも知れない。私の家は神道だから祝詞(のりと)である。古代のものにしても日本語だから分かりにくいところはあっても、まだ経よりは理解できる。韓国では現代語訳の経も作られているということを聞いたことがあるが、日本の仏教もそのような努力をしてもよいのではないかと思う。

 次の法要は25回忌だ。あと8年。私は84歳になり義母の年齢を超える。どうなっていることやら想像できないが、できれば元気でいたいとは思う。



法要

2009-12-28 09:56:31 | 身辺雑記
 妻の母親の17回忌の法要が広島市内の妙頂寺という寺院であったので日帰りで出かけた。

 義母が亡くなったのは平成6年(1994年)の1月1日、元旦の早朝だった。それまで一度もしたことがないのに、思い立って妻を誘って近くの清荒神に初詣に出かけ、午前4時頃に帰宅した。一眠りしたところに義母の世話をしていた奈良の義妹から電話があり、亡くなったと言う知らせだった。これまでしなかった初詣などをするから このようなことになるのだと言いながら慌ただしく、妻と一緒に広島に発った。義母の遺体は車で奈良から広島に運ばれた。通夜、葬儀の場所が妙頂寺で、ここは妻の実家の菩提寺である。

 それからが大変で、大晦日から正月三が日、火葬場は休業である。それで妙頂寺で親族一同3日まで寝泊りした。本来ならば3日も火葬場は開かないが、よほど申し込みが多かったのか3日から開くことになったようだった。当日の火葬場は大変な混雑で、霊柩車を先頭にした車は延々と列を成し初めて見る光景だった。次から次へと火葬されるのであたりには異臭もたち込め、まことにとんでもない正月となり、死ぬ日などは選べないが、せめて家族のためにも年末年始には死にたくないものだと思ったことだった。

 あれから早や17年がたった。義母は83歳だったから生きていたら100歳になる。子どもや孫たちに愛情を尽くした好い人柄だった。私の長男は初孫だったからとりわけ可愛がってもらい、大学生になっても慕っていたからもちろん葬儀には参列した。その長男もそろそろ50歳になろうという年齢になっている。 (続)

テレビから離れる。

2009-12-27 09:47:31 | 身辺雑記
 我が家の骨董的テレビも遂に息絶え絶えとなり、電源を入れるとしばらくはぼんやりしているかと思うと急に目が覚めたようにはっきりする。そんなことを繰り返して20分もたつとまともに見えなくなる。このようになってもう3ヶ月くらいになる。だからこのところ観るのはNHKの夜の7時のニュースの後半だけだ。

 実は、2年前に1度、このテレビもいよいよ臨終かというような状態になったことがある。その時には買い換えようかと考えていたのだが、地上デジタル放送のためのチューナーを勧誘されて取り付けたら、どうしたものか息を吹き返した。それで買い換えなくて済んだと喜んでこれまでずっと使ってきたのだった。

 買い代えなさいな、安く買えますよとHr君たちは言うし、知人のある女性は、やはりあればいい番組が観られますよと言った。それはよく分かるのだが、今度ばかりはどうにもその気が起こらない。もともとあまりテレビをよく観るほうではない。新聞のテレビ欄を見て、観たい番組をチェックするようなこともほとんどしなかった。それでもドキュメンタリーや動物の生態番組は観たし、時代劇が好きなものだから「時代劇チャンネル」なども観ていた。それが観られなくなったのだが、どういうものか寂しいという気持ちにならない。

 テレビをつけなくなって気がついたことは、家の中が静かになったような気がすることだ。観もしないのにテレビを付けっ放しにしておくような習慣はなかったが、それでもテレビをつけている時は何かしら誰か人が家の中にいるような感じだった。そのようなことがなくなったのでこの静かさは案外良いものだと思う。

 代わりにCDで音楽を聴くことが多くなった。音楽と言っても特定のジャンルが好きということはないから、気が向いた時に興味を持ったものを少しずつ買っていたし、中国に行った時には古典の曲や民謡を買ったりしたから、それなりにCDの枚数は増えている。毎日聴かないとおさまらないほどの音楽好きではないし、妻がいなくなってからは何やら虚しい気分だったのであまり聴くことがなかった。それが、テレビがだめになった機会に聴くようになると、意外に良いものだと思うようになっている。

 テレビを観なくなったからと言って時勢に遅れると言うこともないだろう。人と話すときに話題が乏しくて困ることもないだろう。新聞やインタネットで情報は入る。情報量はこれくらいでいいと思っている。

 これから買いませんかと問われたら、絶対に買わないとは言わないと思う。ほしくなったら買うかも知れないが、今のところはしばらくテレビから離れていよう。



結婚・出産

2009-12-26 08:22:57 | 身辺雑記
 以前結婚式に招かれて挨拶をしたときには、よく「かわいい2世のお誕生を楽しみにしています」などと言ったものだが、今頃はそういうことはあまり言わないほうがいいのかも知れない。

 内閣府が最近発表した「男女共同参画社会に関する世論調査」の結果によると、「結婚しても必ずしも子供を持つ必要はないと考える人は42.8%で、92年に調査を始めてから最高となったと言う。子どもを持つことにはこだわらない社会意識が定着しつつあることと考察されている。この回答は男性が38.7%なのに対し、女性は46.5%と半数近くに上った。年代別には若い世代ほど子どもを持つことにこだわらない傾向があるようだ。確かに子どもをつくるために結婚ということがあるのでないだろうし、今は夫婦共働きでも生活は楽ではなく、なかなか子どもをつくれないという事情はあるにしても、何か寂しいことのようにも思われる。そもそも子どもというものが夫婦にとって絶対必要に思われる存在ではなくなったのだろうか。

 「結婚は個人の自由だから、してもしなくてもどちらでもよい」との回答は70.0%あったそうだ。結婚は個人の自由であることには間違いないが、だから「してもしなくてもどちらでもよい」という考えは、私が旧弊なのか、どうにも理解できない。法的な婚姻関係は不要で、パートナーのような関係でよいと言うことなのだろうか。これとは違うが、近頃は結婚もしないで独身生活を送る若者は少なくないと言う。そもそも異性に関心がないようだ。私の近所にも男3人兄弟の2人までが独身生活を送っていて親と同じ家に住んでいるが、もう若くはない年齢で、親も諦めているようだ。

 私自身を振り返ってみると、心惹かれる女性に出会い、やがて結婚したいと思い、結婚してしばらくすると子どもがほしくなってできた。持ってみると想像していた以上に子どもというものは愛しい存在に思え、2人目もできた。ごく平凡なことではあったが、これでよかったのだと思う。そのようなことは当たり前のように思っていたのだが、今ではそうではなくなりかけているようだ。やがては少数派になるのかも知れない。


チキン聖夜

2009-12-25 11:48:41 | 身辺雑記
 キリスト教徒ではないせいか、無関心だからか、単に物覚えが悪いのか、とにかく毎年のようにクリスマスはいつだったかと思う。一昨日(23日)にデパートの食品売り場に行くと、いくつかの惣菜店でクリスマス用として鶏の腿焼きなどローストしたものを売っていた。ロースト・チキンばかりの出店もある。中華惣菜の店までも「一味違うチキンですよ」と客を呼び込みながら売っていた。






 そんなことで少し戸惑って23日がクリスマス・イブだったかなと思った。それで近所の百円ショップの顔見知りの女性にクリスマスはいつでしたかねと尋ねたら、24、25でしたか、23、24でしたかねえ、私もよく知らないのですと言ったのでお仲間がいるものだと思った。家に帰って電子辞書で引いてみたら、24日がクリスマス・イブ、25日はクリスマス、聖夜と言うのはクリスマス・イブだと確認した。何を今更と嗤われるだろうが、クリスマスに関しては私の程度はこんなものだ。

 元来クリスマス料理の目玉と言えば、ロースト・ターキー,七面鳥だ。アメリカ大陸開拓時代に開拓者が野生の七面鳥を獲って感謝祭を祝ったことから始まり、やがてクリスマスにも使われるようになったと言われている。日本では七面鳥は馴染みが薄いし、鶏に比べると高価だから、クリスマスの時期でもロースト・ターキーにはあまりお目にかかれない。それでクリスマスと言うとロースト・チキンがたくさん売られる。

 ロースト・ターキー。正統派であるが高い。




 日本では欧米の風習を採り入れる傾向がよくあるが、クリスマスやバレンタイン・デーなどはその最たるものだろう。かつてはサラリーマン達が会社帰りに飲食街で飲み、騒ぐのが日本のクリスマスの夜の光景だったが、不景気ということもあって家庭回帰が強くなってきたのは結構なことだ。しかしクリスチャンならばともかく、教会に行って礼拝することもなく、ただの一家団欒の日、親からプレゼントをもらい、ケーキやチキンを食べる夜になったが、それはそれで良いのかもしれない。私は子どもたちが幼い頃にはサンタクロースが来たように見せかけて、おもちゃをプレゼントしたことはあったが、サンタクロースを信じないようになってからはしなくなった。妻がクリスマスのための料理をとくに作ったという記憶もない。子どもたちもクリスマスに関しては淡白だったが、今頃まだ小さかったら、サンタクロースはそっちのけで、プレゼントだけを期待するのだろう。今では両親だけでなく、おじいちゃんサンタもおばあちゃんサンタもいるようだ。

 1か月も前からクリスマス音楽を流し、クリスマス・デコレーションを飾り立て、ケーキだ、チキンだ、プレゼントだと、やはりコマーシャリズムに振り回されているような気がしないでもない。それにしてもこの小さなデパートだけでたくさんのチキンだから、全国的には膨大な数だろう。売れ残ってクリスマスが終わったらどう処分されるのだろう。もったいないと、またもや貧乏性が出た。
 
 

恥じる

2009-12-24 09:46:44 | 身辺雑記
 夕方、比較的混み合った電車に乗っていると、隣の席に中学生らしい制服姿の男の子が座った。しばらくして気がつくと、その子は膝の上で小さな弁当箱を開き、箸を使って中のおかずをつまんでは食べていた。よほど空腹だったのだろうか。

  この話をすると、Hr君が「近頃は恥ずかしいということがなくなってきたのですよ」と言った。確かにさほど昔ではない以前には電車の中で飲食をすることは人の目を憚ることだった。米国人などはそういうことには頓着がなく、よく電車の中で何かを食べたり、道を歩きながらアイスクリームを食べたりしているのを見ると、行儀が悪いなと思ったものだ。それが何でもアメリカの真似をするのが格好いいと思う若者が増えたのか、今では公衆の面前での飲食行為などは珍しくなくなった。それでも年輩の私などは、電車の中で握り飯を食べている若い娘や、歩きながら密閉されたコップからストローでコーヒーなどを飲んでいる姿を見ると、恥ずかしくはないのかなと思う。先日も電車の中で斜め前に座った学生風の青年が、両手で大きな菓子パンを持って食べていたが、あたりのことはまったく意識にはないようで、無表情に口を動かすその姿は兎を連想させた。

  飲食だけではない。若者の、とりわけ若い女性の服装には大胆すぎて目のやり場に困ることもある。私学高校の女生徒の、これ以上はできないと思われるくらいの短いスカート姿を見ると、おそらくは本人は格好がいい、可愛いと思っているのだろうし、恥ずかしいなどとはまったく思っていないのだろうと思う。女子高校生に限らず、巷では超ミニのスカートやパンツの若い女性が多く見られる。

  江戸時代などと言うと大仰だが、昔の女性は着物の裾の乱れを気にして、踝から少し上が見えても恥らったと言う。ましてふくらはぎが見えようなものなら大変なことだったようだ。逆に男からすると、着物の裾からちらりと見える女性の足は何とも言えぬ色気を感じさせるものだったと言う。江戸時代に限らず明治以降も着物を着ている限りはそういうものだったのだろう。それがスカートになり、その丈が短くなるにつれて女性の恥じらいの感情も薄れていったようだ。

  スカートでなくてもぴっちりと身についたパンツ姿は体の線がはっきりしているし、胸の大きさも強調する。これも格好良さを誇示しているのだろうが、着物姿とはずいぶん違う。母は若い頃は胸が大きくいわゆる鳩胸だったが、それを恥じていたから着物はそれを隠していた。今頃のように○カップとか言って胸の大きさを誇示するのとはずいぶん違う。着物にノスタルジーを感じて懐かしんでいるわけではないけれども、とにかく街中での娘たちの姿は大胆だが、もう当たり前のことになってしまっている。

  飲食や服装などの行動面で恥じらいをなくすのはこの時代の世相だと諦めることもできるが、若い人たちが生き方や考え方の面で恥じらいをなくしていくことがあるのなら寂しいことと思う。



すき焼

2009-12-23 07:47:45 | 身辺雑記
 いつものメンバー、Hr君とHg君夫妻とすき焼でもしようかという話が出てすぐまとまった。このメンバーこういうことになると話が早い。例によってHg君の家に集まり、彼らと高校同期のK君も加わってすき焼で夕食ということになった
 
 すき焼は関西と関東ではやり方が違う。関西では鉄鍋でまず牛肉を焼き、それに砂糖を加え、さらに醤油や酒を加える。その肉を食べながら順次白菜、春菊、椎茸、焼き豆腐、白滝などを加えて煮ながら食べていく。関東風は出汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた割下の中で牛肉を煮ながら食べる。Hg君たちのすき焼はもちろん関西風である。私は最初に肉を焼き、芳しい香りがする関西風のほうを好む。

焼いた肉に砂糖を振りかけ、醤油を加える。


野菜を足していく。


 すき焼の発祥は幕末の横浜で、横浜の居留地の外国人が牛肉を食べたたことに端を発して、日本人も牛肉を食べるようになり、文久2年(1862年)に横浜で居酒屋を営んでいた伊勢熊と言う店が牛鍋屋を開業した。それ以後東京でも牛鍋屋が流行したようだ。これに対して関西では先に肉を焼く「すき焼」が行われて、この呼称が次第に関東にも広がったと言う。

 今でこそすき焼はさほどご馳走とはみなされてはいないし、同じ鍋物でも河豚などの魚類や鶏など水炊き、豚肉のしゃぶしゃぶなどに人気があるようだ。しかし私の幼い頃は、すき焼と言うと庶民の家庭ではそうたびたびは口にしないご馳走だった。今夜はすき焼と言うと、父や母が普段食事に使っている円形の食卓の中央にある円い蓋を開け、そこに炭火の入ったコンロをはめ込む。その上に厚い鉄鍋を置き、熱くなってくると父が脂身を塗って溶かし、そこで牛肉を焼く。芳しい香りが漂って、子ども達にとってはわくわくするような瞬間だった。父は関東育ち、母は関西育ちだったが、日常の食べ物はどちらかと言うと関東風だった。しかし、すき焼は関西風だった。今思い出してもすき焼の食卓を囲む雰囲気は、一家団欒と言うのにふさわしい暖かいものだった。

 学生時代には滅多にすき焼は口にしなかった。貧乏学生にとっては縁の薄いものだったのかも知れない。就職すると学年会などではよくすき焼をした。今のような水炊きはあまりなかったように思う。水炊きなどに比べてすき焼鍋の中はしだいに脂ぎって雑然と汚らしくなり、あまり上品なものではないが、やはり比較的安上がりの会食には向いていたのだろう。

 Hg君たちと食べた牛肉は高いものではなかったが、これが松坂牛や神戸牛の上等の肉になると、もちろん非常に旨いのだろうが我々のような庶民にとってはとても口にできるものではない。分ほどほどにと言うところだ。


冬至

2009-12-22 20:02:45 | 身辺雑記
 今日は二十四節季の冬至。北半球では太陽が最も地平線に近づくため、1年のうちで最も夜の長い日だ。今日から冬が始まる。

 古代から北半球では太陽のエネルギーの復活を願って冬至祭が行われていた。日本の『古事記』や『日本書紀』にある、日の神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が弟のスサノオの乱暴狼藉を恐れて天の岩戸に隠れたために天地が暗闇になったという有名な神話は、冬至での太陽のエネルギーの衰退を表しているとされている。そして神々の努力で再びアマテラスが岩戸から出てきたことで、太陽のエネルギーが復活するということになる。

 日本では昔から冬至と言えばかぼちゃである。野菜の少ないこの季節に(もっとも今ではいつでも青々とした野菜は手に入るが)、栄養を補給するためにかぼちゃを食べる。妻は几帳面に冬至にはかぼちゃを食卓に乗せ、かぼちゃの苦手な子どもたちは辟易していたが、スープにして強引に食べさせていたものだ。
 デパートで

 冬至の日には柚子風呂に入るのも古くからの慣わしで、新聞などでは必ずと言ってよいほど柚子風呂の様子を、この日の風物詩として取り上げる。
 デパートで

 インタネットから

 昨夜、西安の謝俊麗がチャットで「明日は冬至。餃子を食べてね」と書いてきた。中国の北の地方では冬至の日には餃子(ジャオツ)を食べる習慣がある。南方では湯圓(タンユエン)という団子を食べて一家団欒する。餃子もいいかなと思って、近頃人気が出て売り上げも好調という「餃子の王将」で生の物を買ってきて水餃子にして食べた。これでこの冬も元気で乗り切りたいものだ。