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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

11月も終わり・・・

2010-11-30 09:11:16 | 身辺雑記

 11月も慌しく過ぎた。例年のように、11月に入るなりデパートではお節の予約、郵便局では年賀状の予約の開始、中旬を過ぎるとクリスマスツリーが飾られた。そんなこともあって今年もずいぶん短く感じる11月だった。上旬と下旬に2回中国に行ったので余計にそう思うのだろう。霜月とは言うが、暖かい日が多かった。

 

 これもまた例年のように、年末年始の欠礼挨拶状が届く。今年は今日まで30通を超えている。私が年賀状を交換しているのは、卒業生にしても知人にしても年配者が多いから、欠礼の理由はほとんどが両親や義父母の死去のためだ。亡くなったのは80代、90代の高齢者が多く、中には101歳という人もあった。高齢者ではないが、ことに胸が痛むのは配偶者を失ったというもので、教え子と大学時代の友人のものがあった。それぞれ亡くなった直後に電話で悔やみを済ませているが、改めて挨拶状を受け取ると、自分がやもめであるだけにひと事とは思えない。特に仲人もした教え子の場合は、まだ50代だから辛いことだろう。義妹の従兄からは長男が46歳で亡くなったという挨拶状があった。義妹によると心筋梗塞で、まだ幼い子どもがいるそうだ。親としては諦め切れないものがあると思う。

 

 いつかは我が身のことになるのだが、いつ頃のことになるのだろう。西安の謝俊麗とチャットして、息子の撓撓(ナオナオ)が可愛かった、元気に育つように毎晩祈っているよと言ったら、爺爺も元気で長生きして撓撓の結婚式に出てねと言われた。撓撓は2歳を過ぎたばかりだから、あと20年以上も先のことだ。その時には私は100歳近くなるから、これは到底実現しない夢だ。

 

 息子達はどのような挨拶状を作るのかは分からないが、定型文のようなものではなく、私の感謝の思いなどが伝わるようなものにしてほしいと思うのだが、それなら今のうちに、早手回しに原稿を作っておかなければならないなとも考えている。

 

 明日から師走に入る。好きではないが、街にはクリスマスの曲が流れて慌しさはいっそう募ることだろう。この1年も速く過ぎた。年々時間が速く過ぎていく様な感じで、どうも落ち着かない気分だ。

 

 


クマの出没

2010-11-24 09:50:08 | 身辺雑記

 今年の秋は各地でクマが人家近くに出没し、中には襲われて重傷を負う被害も出た。宮城県では1012日現在で出没件数は427件になり、異常出没のあった平成18年度同期に次ぐ出没件数だそうだ。各地ともクマが現れると地元の猟友会のメンバーが出動して射殺するなどしている。

 

クマはドングリなどの堅果類を餌としていて、これが凶作だと餌を求めて人里に現れるようだが、今年はそのような年だったらしい。本州のクマはツキノワグマで、北海道のヒグマのように時に人を食ったりするようなことはないが、非常に臆病な動物で、急な動作で、驚き、攻撃してくることがあるから、やはり怖いもとされている。それでも射殺されたクマの写真などを見ると何かしら哀れに思う。

 

 先月半ば頃、新潟県南魚沼市の住宅街で朝早く、2頭のクマが目撃され警察に通報された。地元の猟友会のメンバーがクマの行方を捜したところ、およそ1時間後に、田んぼ脇の用水路にいる2頭を発見し、近くに小学校があったことから射殺した。射殺されたクマは、体長1メートルぐらいのメスと、体長60センチぐらいの子どものオスだった。山で餌が不足して、山を下りる母親に子どもがついてきたのだろう。

 

このニュースを見てしきりに哀れになり胸が痛んだ。子ども連れの野獣は特に危険だと言われるから、止むを得なかったのだろうが、何も知らずに母親についてきて射殺された子グマは本当にかわいそうで、射殺しないで母子ともども麻酔銃などを使って捕獲して、山に返すことはできなかったのだろうかと思ったりする。こういう感情は行き過ぎで、飢えた子連れのクマの怖さを知らないからだと批判されるだろうが、どうも子グマの可愛らしい姿を想像するとかわいそうに思ってしまう。やはり親子グマ2頭を射殺した福島県西会津町に「かわいそう」と抗議が相次いだそうだが、これに対しては、猟友会から「現実を分かっているか」と反発する声もあったとのことだ。

インタネットを見ると、クマの射殺について「かわいそうだ」と反発する声が多いようだが、それはいいとして、中には「人里に下りてくるから殺す? だったら山に入る人間も片っ端から殺せばいいじゃん」など、どうかと思うような書き込みもある。それなら登山者もすべて射殺ということになってしまい、このような意見は動物愛護でも何でもない単なる幼稚な暴論に過ぎない。

 

また山形県で山に栗拾いに行った会社員と祖母がクマに襲われ、そのクマが射殺された出来事について、「大体、人間が山に入ってまで、わざわざクリを拾う必要あるかな?クリなんてどこでも買えるのに人間の欲で山に入り、動物たちのエサであるクリをわざわざ拾いに行ったりしなければ、クマに出会うこともなかったし襲われる事もなかった」として、「山でクリ拾いをしていた人間がバカなんだと思う。山に入った人間が悪いと思う」と言っているのを読んだが、これもどうにもいただけない意見だ。射殺されたクマに同情するのはいいが、山に栗拾いに行った者がバカだと言うのは、クマなど出ることもない所に住んでいて、山里の生活などは知らない、クリなどは買うものだと思い込んでいる都会者の独善的な考えだと思う。そんなことを言ったら、山に茸や山菜採りに行くのもバカ、生活に必要な薪を拾いに行くのもバカということになってしまう。


学年同窓会

2010-11-23 09:24:00 | 身辺雑記

 私がはじめて高校の教師になったのは昭和331958)年のことだった。その時に初めて授業を担当したのが2年生のクラスだった。この学校では12回生と言った。その12回生の学年同窓会があったので出席した。前回から3年ぶりだった。

 

 当時の紅顔の高校生達も、もう70歳間近になった。さすがに皆年を取ったなあと思ったが、それでも中にはびっくりするほど若々しい女性もいて、高校時代の面影がほとんどそのまま残っているようで感心した。概して男のほうが年齢相応に老けていて、頭だけを見ると「どちらが先生か分からんなあ」と冷やかされるのもいた。

 

 

 

 昭和33年と言えば、東京タワーが竣工した年で、その後の日本の発展の象徴のようなものでもあった。またこの年に日清食品から世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」が発売され、12回生の1級下の学年の生徒数人とピクニックに出かけた時、「こんなものがあるんですよ」と食べさせられたことがあった。今に比べるとまだまだ素朴さが色濃く残っていた時代であった。

 

 このような時代の12回生の生徒達は、新卒新任の私を温かく迎えてくれ、張り合いのある教師生活をスタートさせることができたのは幸せなことだった。その年の12月に私は結婚したが、数日の短い結婚休暇を終えて授業のために2年生のクラスに行った。教室に入ると生徒達はちょっとシンとした感じで私を迎えた。私は何となく気恥ずかしい感じで教卓の前に立ち一礼して出欠を取り、さて授業を始めようと黒板を振り向くと、何と黒板には「祝ご成婚」と大書してあり、黒板の下のチョーク置きの溝には白と紅のチョークが交互にずらりと並べてあった。教室に入った時にはまったく気がついていなかったので、私は思わず「おい、おい、これは何だ」と大声を出すと、生徒達は一斉に笑い出して拍手喝采した。ちょっとしどろもどろになった私は「有難う」と言って授業に入ったが、あの時の生徒達の温かさが今に忘れられない。

 

 このようなこともあって、この12回生は私にとってはとりわけ心に残る学年で、学年同窓会の案内が来ると何はさて置いても出席することにしている。学年同窓会での私達旧教師に対する心遣いもきめ細かく、教師と生徒のけじめをわきまえた心地よいもので、教師冥利に尽きる思いがした。「あの時代に」、「この学校の」教師になった幸せを今さらのように思ったことだった。

 

 会の最後には元コーラス部員の校歌斉唱に合わせて全員が歌った。この校歌も何かと言うとよく歌われたもので懐かしい。

 

 

 あの頃の生徒達はいろいろな機会に歌ったもので、新入生にはちゃんと製本された小型の「愛唱歌集」というものが渡された。週1回の朝の生徒集会の場でも歌った。「やめろ節」と言う愛好歌があって、例えば私の担当の生物では、「かぼちゃにかぼちゃの花が咲く。イヌがブタの子産みますか。あったり前でしょ、そんなこと。嫌な生物止めちまえ」だった。生徒達は最後の「嫌な○○止めちまえ」というところでは殊更に声を張り上げ、笑いながらその教科の教師を振り向く。それが何とも明るく楽しかったものだ。

 

 次回は3年先ということになったが、その時には彼らは70代になり、私は80歳になっている。出席者の一人のある女性から「3年前には若々しいなあと思ったのに、今年は年を取られたなあと思いました」と言われたが、そうだろうと思う。3年前のこの会に出席した旧教師のうちの80代の2人は今年になって物故した。この年齢になると3年間の歳月は、嫌でも老いを刻み込み、何が起こるか分からないものだ。次回には私はもっと爺さんになるだろうが、元気で彼らと再会したいと思う。

 

 

 会場の外に展示された卒業生達の作品。

 

 

 


ご飯と糖尿病

2010-11-22 10:14:58 | 身辺雑記

 近頃はご飯をたくさん食べる家庭は減ってきたようだ。私も最近はあまりご飯を食べなくなった。と言ってパン食が増えたわけでもない。米もパンも何となく遠ざかったという感じで、おかずのようなものばかり食べるのは栄養的に問題があるのかも知れないが、今さら栄養がどうのと言ってもという居直ったような気もある。

 

 そのご飯だが、戦後しばらくはご飯が食べられたらましという状態があったが、その後食生活が豊かになると、根拠はよく分からないが、米は栄養価が少ないように言われてパン食が奨励された。それとともに、日本人の食生活の欧米化が進んだのだが、それはともかくとして、栄養価云々はどうやら米にとっては濡れ衣だったようだ、米が見直されるようにもなったようだ。米の品質も格段に良くなり、「○○小町」などというおいしい米が増えてきたが、それでもやはり家庭での米の消費量は減っているらしい。

 

 米の消費量が減ったのは肉とか油脂のような脂っこいものが増え、その分だけ米を食べる割合が減ったと言われる。昔からの、米を主食とした日本型食生活は、栄養のバランスが良く、肉などを中心にした欧米型食生活に比べて高血圧・心臓病・糖尿病などにかかる心配が少ないという意見を読んだことがある。

 

ところが最近、国立国際医療研究センターを中心とする研究班は、ご飯を1日に3杯以上食べる女性は、1杯だけの女性に比べ、糖尿病になるリスクが1.5倍ほど高くなるという調査結果をまとめたそうだ。この調査は45歳から74歳の男女およそ6万人に食生活を尋ね、その後、5年間追跡して食べるごはんの量でグループ分けし、期間中に糖尿病と診断された人の割合に違いがあるか分析した結果、女性では1日1杯のグループに比べ、3杯では1.48倍、4杯では1.65倍、糖尿病のリスクが高くなっていたと言う。ただし、ごはんの量が多くても、毎日1時間以上運動をしていれば、男女ともにリスクが高まることはなかったそうだし、ごはんに麦などの雑穀を混ぜる人ではリスクが低くなっていたということだ。パンやめん類についても同じように分析したが、食べる量が少なく、リスクの違いはわからなかったらしい。

 

 1日にご飯1杯は少ないと思うし、3杯や4杯でもそれほどたくさん食べているとは思わないのだが、これが糖尿病のリスクと関係があるとされるとまた疑心暗鬼になって米に疑惑の目が向けられるのかも知れない。素人考えだが、ご飯の量だけが糖尿病に関係すると言うよりも、やはり食生活全体の問題なのではないだろうか。

 

 私の場合、最近後期高齢者検診を受診したが、幸い糖尿病の疑いはなかった。私の場合は1日のご飯の量は平均すると1杯以下だろうが、そのせいだとも思えないし、多分粗食と言うほどではないが、独り住まいのお粗末な食生活と関係があるのかも知れない。

それに甘いものを多く摂ることもない。まあ、あまり気を遣わずにやっていこう。

 


エアコン

2010-11-20 09:23:54 | 身辺雑記

 この夏の異常高温で、エアコンの売れ行きが好調だったようで、熱中症対策のこともあって、エアコンは今では多くの家庭で必需品にもなっているようだ。かつての暑ければ団扇、扇風機で涼を取り、寒ければ火鉢に手をかざし、炬燵に潜り込むという時代からするとまさに隔世の感があることだ。それだけに私達は暑さ寒さに対する耐性が弱くなっていることもあるだろう。

 

 エアコンも他の電化製品と同じように、次から次へと、あれこれのアイディアを凝らした製品が発売されているらしい。もうエアコンは都会ではかなり普及していると思うのだが、それでも需要があるということは、買い替えもかなりあるのかも知れない。私などはずっと前に買った、単純な機能のエアコンで適当に過ごしているから、今さら買い替えをしようとも思わない。

 

 このほど、ある大手電気メーカーが、部屋の中で人が何をしているかを音をもとに聞き分け、運転を調節できる新たな機能をつけたエアコンを発売することになったそうだ。部屋の中にいる人にとって快適な環境を実現することを目指すものだということで、このエアコンは、人の声とテレビの音の違いや音の大きさを認識できるセンサーを取り付けていて、例えば冬場、居間でテレビを見ながら大声をあげてスポーツ観戦をしていれば、人の体温が上昇すると見越して暖房を弱める。また掃除機をかけると、掃除機の音を感知し、舞い上がったほこりを吸収する空気清浄の機能が自動的に働くのだそうだ。

 

 何とも細かいところまで神経を使った製品だが、果たしてさまざまな場面に適応する実用的な物なのか、どうも疑わしくも思うのだが、エアコンが家庭の各部屋まで普及するなかで、室内の温度や湿度を微妙に変えられるエアコンを望む消費者が増え、これに対応した機種の開発を急いできたということだ。消費者の要望に応えるのはメーカーとしては当然だろうが、それにしても「室内の温度や湿度を微妙に変えられるエアコン」を希望する消費者も贅沢に慣れてしまった挙句と思いたくもなり,メーカーもそこまで応えなければならないものなのかと思う。そんな環境で年中過ごしていたら、子どもなどはひ弱な体質になるのではないだろうか。高齢者や病弱者ならともかく、健康な人間がセンサーを取り付けたエアコンなどを頼みにして微妙な温度調節を期待するのはどうかと思う。

 

 何かバカバカしくも思いながら、消費者の要望に応えるというのは建前で、結局は何やかやと新奇さで消費者の目を引き、売り込もう、買わそうとする魂胆なのではないかと勘ぐりをしたのだが。


卒煙塾

2010-11-19 11:20:11 | 身辺雑記

 男性衣料を扱っているI君は通勤途上の駅の近くの喫茶店にたばこの自販機を置いているが、最近の売り上げは壊滅的なものらしい。自販機にタスポが導入されてから売り上げは激減したが、そこへこの10月からの大幅なたばこの値上げに追い討ちを掛けられてお話にならないような状態になったようで、彼自身のたばこ代にもならない、自販機へのたばこの補充もしていないと言った。

 

 I君はヘビースモーカーである。ひと頃より本数は落としているようだが、それでも1日に2箱は吸うようだ。止めることはまったく考えていないようで、今回の値上げも売り上げの激減のことしか関係ないようで相変わらずのヘビースモーカーぶりだ。妻子とも別れて独り住まいで、特段生活には困らないこともあるようだ。

 

 しかし、今回の値上げはかなりのたばこ愛好者にとっては痛手で、禁煙を志す人も増えているようだ。そんななか、横浜市で禁煙に取り組んだ人たちのたばこからの「卒業」を祝う式典が開かれたというニュースを見た。神奈川県は、たばこを止めたいけれど止められない人たちに、より効果的な禁煙の方法を指導しようと今年5月に「卒煙塾」を開講したということだ。この塾では当初150人以上が禁煙宣言して5ヶ月間禁煙に取り組んだそうだ。このうちおよそ半数の70人余りが禁煙を達成して、めでたく卒業を祝う式典に参加できた。とは言うものも「卒煙」者が半数に満たないことから、やはり止めたくても止められない禁煙の難しさが分かる。

 

 塾長を務めたのは著名な俳優だが、「私も気合と根性で何度も禁煙を試み、結局、お医者さんと薬の力で禁煙できました。今回成功されなかった方も、何度でもチャレンジしてください」と激励し、「卒煙証」を受け取った3人の塾生代表が禁煙の苦労や工夫を披露した。この塾では5ヶ月間にどのような指導をしたのかは分からないが、禁煙に成功した50代の男性は「吸いたくなると水を飲んだり、ガムを食べたりして我慢しました」と話したそうだから、とくに薬や医師の力に頼ることはなかったようだ。

 

 アメリカの作家のマーク・トゥエイン(18351910)は「煙草をやめるなんてとても簡単なことだ。私は百回以上も禁煙している」「煙草に関する私のルールはこういうことだ。眠っている間は決して吸わない。起きている間は決して我慢しない」と彼独特の「名言」を残しているが、事ほどさように禁煙というものは実行が難しいものだし、世の中には値上げされようと何であろうと頑として喫煙を止めない者はいる。ある者はもはや中毒状態になっていてとても止めることはできないのだろうし、それほどではなくてもずるずると喫煙習慣にはまっている意志の弱さもあるのだろう。

 

 確かに私の経験でも、禁煙にはかなりの意志の強さが要求される。それにかつてのたばこ専売公社のスローガンにあった「今日も元気だ たばこがうまい」ではないが、元気なときにはなおさら止めるのは難しい。私が喫煙と言う悪習慣から抜け出せたのは、精神的に不安定な状態にあり、思い切って止めたからだが、その頃の不安定な心の状態を思い出すのは辛いが、たばこを止めたことは本当に良かったと思う。

 

 できるなら、たばこは止めたほうがいい。「吸っても肺癌にならない者はいるし、吸わなくても肺癌になる者もいる」とか言う喫煙者がいるが、そのようにつべこべ言わずに、非喫煙者の迷惑も考えて、時と場をわきまえた節度ある喫煙をすればいい。

 

 


校長という職務

2010-11-18 08:28:30 | 身辺雑記

 校長や副校長(教頭)の職務はなかなか気が疲れるものだ。文部科学省が全国の教育委員会を通じて調査した結果によると、昨年度、公立学校で校長などの管理職が一般職の教員になるなど、自主的に希望して降格した教員は全国で223人で、前年度より44人増え、調査を始めた平成12年度以降もっとも多かったようだ。

 

内訳は、校長や副校長・教頭を補佐する「主幹教諭」と呼ばれる教員が最も多く119人で、副校長・教頭が85人などとなっていた。自主的降格の理由は、心の病気など健康上の理由が107人と半数を占め、続いて、職務上の問題や家庭の事情となっているようだ。この結果について文部科学省は「管理職は指導だけでなく、地域との連携など学校経営の業務も増えて多忙となるため、向いていないと悩んだり、子どもともっと接したいと思ったりして降格するケースが多い」と分析している。

 

「主幹教諭」という名称は私が現役だった頃にはなく、これまでの教務主任や進路指導主任などのことのようだが、現在は一般教諭の上に位置されるようで、気苦労も多いだろうと思う。この主幹教諭も含めて管理職と扱っているようだが、何やら学校内に管理体制のヒエラルキーがあるようで、最近の学校と言うものはこんなものかと思う。

 

私は教員生活の最後の2年間を高校の校長として過ごした。私自身はおよそそのような職務に適しているとは思いもしていなかったが、成り行き上そうなってしまった。教育委員会の事務局にいた頃に、校長や教頭を目指す教員は多く、教師になったからには授業やクラブ活動で生徒に接している方が楽しいしやりがいがあると思うのだが、そういう考えばかりではないようだった。校長として赴任した日、校長室の大きな椅子に座った時には、ここで2年間を過ごすのかと非常に落ち着かない気分になったものだ。

 

私は校長などを「管理職」と呼ぶのは好きではなかった。何か教育職というものから別のところにいて、教員を「管理する」というイメージがあって、性に合わない気がした。だから赴任してしばらくたってから、運営委員の主任クラスの教員と話し合いを持った時に「管理職はどう考えておられますか」などと言われて非常に違和感を持ったものだ。私が若い頃は「校長先生」と呼び、気楽な場では「校長さん」と言ったもので、教師になった頃の学校の校長の飾らない人柄もあって、それが当たり前のように思っていた。だから私自身が「管理職は」などと言われると、何か教員の間に溝があるような感じでひどく侘しい思いもしたし、教員自身が校長をそのように呼ぶことは、この学校の慣習なのかとちょっと嫌な感じだった。

 

それからの2年間で校長という仕事はとかく気疲れするものだということは身にしみて分かったが、幸い赴任中は教員や生徒、保護者、地域についてほとんど問題らしいことはなかった。それでも毎日、今日は何か起こるのではないかという緊張感はあり、1日が終わるとやれやれという感じだった。現在の学校の状況は、小、中学校、高校を問わず、とかくいろいろな問題があるようだから、校長や教頭などはストレスも多いだろうと思う。だから、自主的に降格を申し出る気持ちも理解でき、あながち意志が弱いとは言い切れないように思う。

 

私が現役の頃にも「管理職」を振り回したりする校長はいたが、反面、教育委員会に対しては汲々とした姿勢の人もいた。今は全国的に教育委員会の学校現場に対する管理が厳しくなっているようだから、いわゆる「管理職」の立場もなかなか辛いのではないかと思う。小学校の教員をしている息子の話を聞いても、教育委員会の意向を伝えるだけのような校長も増え、何か校長と教員の間に隙間ができ、学校内にゆとりや潤いが乏しくなっていることもあるようだ。児童や生徒達がのびのびした学校生活を送れる環境を整えることに意を注ぐのが校長の勤めではないかと思うのだが、時代遅れの考えか。

 


どじょう

2010-11-17 10:04:23 | 身辺雑記

 隣の市にあるスーパーで、生きたどじょう(泥鰌)を売っていたので買ってきた。やはりこの市にあったが阪神大震災で壊れた川魚屋に置いてあったどじょうに比べると細くて色も薄いような気がした。品種が違うのか、中国産か台湾産かも知れない。

 
 


 最近読んだ時代物の短編小説に次のような一節があった。

 「どじょう鍋は江戸っ子に人気のある鍋料理であった。夏には特にもてはやされた。鰻同様、精がつく上に、安く、手軽に食べられたからである。(中略)どじょう鍋は内臓や骨も食べる丸煮が普通であった」

 開いても食べるようだが、面倒なので丸煮にすることにした

 ボウルに酒を入れ、そこにどじょうを放ち蓋をする。激しく暴れまわるので少し残酷な気もするが、しばらくすると静かになり、蓋を取って見ると伸びてしまっている。

        

  酔ったのやらアルコール中毒死したのか分からないが、これを味噌汁と柳川鍋風にしてみた。


      

        


 どちらも痩せていたせいか身は少なく、どじょう特有の味わいもなく、あまりうまくはなかった。失敗だった。太ったどじょうを見つけたら、もう一度試してみたい。

 

 どじょう料理を料理屋で食べたことはないが、どじょう料理専門店の創業210年と言う東京浅草の「駒形どぜう」が有名だ。値段は3500円と、高いのか安いのかわからないのだが、一度食べてみたいと思う。金沢ではどじょうと言えば蒲焼らしく、なかなか旨いそうだ。関西は昔から食材が豊富だったのでどじょうを出す料理屋は少ないと言う。

「どじょう豆腐」と言うものがある(らしい)。地獄鍋、地獄煮、どじょう地獄とも言うとか。水を入れた鍋に
 活きたままのどじょう入れて熱する。そこに大きく切った豆腐を入れると、どじょうは熱さに耐え切れなくなって冷たい豆腐の中にもぐり込み、そのまま煮て出来上がりとなる。周りからは湯豆腐を食べているようにしか見えないので、肉食が禁じられている僧侶が好んで食べたと言われるが、実際に試してみてもうまくいかないようで、どうも眉唾のようにも思える。韓国ソウル郊外のある豆腐料理店では出されるらしいが、実際には豆腐を型に流し込む時に、茹でたどじょうを加えるのだろうと言う。

 私の家の近所にある溝には、私が越してきた30年ほど前の頃にはどじょうがいて、その辺りの住人が捕らえては水に放って、泥を吐かせて食べていたそうだ。溝をコンクリートに変えてからは姿を消したようで、今でも捕まえられたらと少し残念に思う。

 

 


西安で(5)―あれこれ―

2010-11-16 11:21:40 | 中国のこと

今回で西安は13回目だったが、観光はしないで友人達や子ども達に会うのが目的だった。友人達、とりわけ謝俊麗にはよく世話になった。李真や謝俊麗、王暁玲に会うのは1年ぶりで、子ども達もすっかり成長し可愛く、予想以上に「爺爺、爺爺」と懐き、親しんでくれたのは嬉しいことだった。最近はどうも疲れをよく感じるようになり、足腰も弱くなってきたので、西安行きはこれで最後にしようと思いもしていたが、「来年も来てね」と言われると、子ども達もまた成長して可愛くなるだろうから、その気にもなっている。

 

初めて西安を訪れたのは2000年のことで、その頃から比べると西安もとても変化した。何よりも車が非常に増えた。城内の中心の鐘楼の周辺はかつては車がゆったり行き来していたが、それ以来年々車は増え、去年訪れた時にはその混雑ぶりに驚いた。今回は李真や謝俊麗の家がある城外地区だけにしか滞在しなかったのだが、そのあたりの車の混みようも相当なものだった。渋滞は普通のことになっているようだ。

 

 これまで中国は東の沿海部が発達して内陸部との格差が大きかったが、10年前から「西部大開発」でさまざまな国家プロジェクトが進められ、西安はその拠点の1つになっている。謝俊麗が住むあたりはかっては広い畑地だったが、今は西安国家ハイテク産業開発区として発展し、特に電子情報産業、精密機器製造産業、バイオ医薬産業、新材料産業などの分野に力を入れている。ここには住宅も多く、西安が省都である陝西省の富裕層の8割がここに住んでいるそうだ。住宅の建設は今も盛んに進められている。住宅の価格も高騰したようだ。

 

 

 西安の人口は市区で423.5万人(2007年)で、これからも増え続けるだろう。周辺の県を併せた総人口は約830万人だが、李真によると将来は100万になるだろうと言う。謝俊麗は前のほうがいい、あまり人が増えないほうがいいと言った。私もそう思うが「発展」のためには仕方がないことなのか。

 

 もともと西安の空気はよくない。黄土地帯に近いこともあるのだろうがいつもどんよりとスモッグがかかったようになっていることが多い。最近の車の増加と建設ラッシュでますますそのようになっているようだ。

 

 

 今回到着した時の西安はひどく曇っていたが、その後は西安には珍しい晴天続きだった。滞在4日目に王暁玲の家を訪れた時、昼食後に子ども達も一緒に、近くにある唐王朝の宮殿があった大明宮遺跡公園に行ったが、春のような温かい日で、よく晴れた青空だった。

 

 

 最近、中国では物価が上がっているようだが、西安も例外ではなく、とくに食料品の値上がりが大きいようだ。謝俊麗によると、例えば茸は2元(約13円)だったのに、6元になったそうだ。おそらく1斤(500グラム)あたりの値段ではないか。李真の家族とスーパーに買い物に行ったが、食料品は実に豊富で、とりわけ肉や肉製品の豊富さは驚くばかりで、値段も私の感覚からすれば高いとは思えなかった。出発前夜に李真、謝俊麗、王暁玲を招いて夕食をとったが、ちゃんとしたレストランでまずまずの料理を食べて、一人当たり600円くらいだった。