中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

贋物

2006-09-30 18:55:56 | 中国のこと
 中国は贋物大国だと思っている人は多いのではないか。贋物と言う言葉を聞くと中国を連想することもあるかもしれない。別にこれは誇張でも中国に対する根拠のない侮蔑でもなく、実際中国には贋物が多い。中国人も認めているほどだ。しかし、贋物は中国に限ったものではなく、古今東西贋物がなかった国も時代もないだろう。現在では贋札作りを国営事業にしている国さえある。
 
 中国に行くとよくCDを買う。初めからコピー製品だということを承知で買う。60元(約900円)くらいだと本物らしいが、コピーだと20元(約300円)くらいで、コピーと言っても、カバーの装丁もちゃんとしていてビニールで密封してあり堂々としている。音質も問題ない。コピーを求めること自体が不届きだと言われそうだが、何しろ店にあるのはコピーと思われるものばかりだし、見比べる本物がそばにあるわけでないから仕方がない。いや、聴くことができれば安い方がいいと思ってしまう。10元くらいだとさすがに粗悪品かと警戒して買わない。

 贋札も多いようだ。西安で宿泊したホテルの前に、副食品専門の大きな市場がある。魚介類、肉類、乾物、果物、野菜などありとあらゆるものを売っていて、非常に活気溢れる所だ。この市場を歩きながら目を楽しませていると、突然、すぐそばで女性のわめき声が聞こえた。振り返ってみると売り手らしい中年の女性が、男に向かって罵声を浴びせている。何事かと思ったらガイドの邵利明が「贋札らしいです」と教えてくれた。しかし、別に警察を呼ぶようなことはなく、おそらくその贋札を客に突き返して終わったようだった。

 私も贋札を摑まされたことがある。西安の寺院で邵利明に20元札を渡して入場料を払ってもらおうとしたら、窓口で贋札だと返された。その前に雲南に行った時にどこかでやられたらしい。その札を本物と見比べてみると、紙質や色、印刷の具合など贋物とはっきり判る代物だったが、面白いので取っておくことにした。この贋札はあまりに粗雑なものだが、高額紙幣になると精巧なものもあるらしい。

 上が贋の20元札、下が本物である。贋札は横の長さが僅かに短い。
           

 裏面。右側にある透かしが、贋札の方でははっきり見えるのがご愛嬌である。
              
 
 100元札が一番高額だが、これを出すと露骨に裏表をためつすがめつしたり、指で弾いたりして調べられてちょっと鼻白むこともあった。有料道路の料金所でもやっていたからよほど贋札が多いらしい。日本なら大騒ぎになって警察行きだが、中国では突き返せばそれで済むようだ。もっともある日本人観光客が贋札と知りながら使って、ばれたので逃げて捕まり警察沙汰になったことがある。その男の参加したツアーを手配した中国の旅行社の友人が処理に困っていた。

 骨董品、古美術品になると実に手の込んだ贋物が多いらしい。「人民中国」で読んだことがあるが、ハイテク技術を使って調べても専門家が騙されることもあるような「高級品」もあるそうだ。そこまでしたら本物と贋物の違いは何だろうということになり、贋物でも値打ちがあるのではないかとさえ思ってしまう。要はあまり高価なものは買わないことだし、買うのならよほど信用の置ける店にすることだ。だが、安いものなら贋物であることを承知で買うのも案外楽しいかもしれない。桂林の近くの観光地で、どこにでもいる「千円屋」(日本人観光客に何でも千円と言ってみやげ物を売る商売人)が紫水晶のような高さ2、30センチの塊を売っていたが、明らかにガラス製のものだった。しかしそれを承知なら、きれいでちょっとした置物にもなるし、1000円は特に高くもないと思った。観光地には贋物が多い。
 
 雲南省の麗江に行った時のガイドの青年が「中国には人間以外は何でも贋物があります」と言ったのはおかしかったが、案外人間の贋物もあるのではないだろうかと半ば本気で考えた。最近読んだ本に、日本のある企業が中国での合弁事業のプロジェクトの進出の条件として、地域の市長の確約を強硬に要求したが、市長は多忙で会わせるのが難しく、中に立った中国人が困った挙句、市長によく似た贋者を仕立てて急場をしのぎ、後でばれて計画がご破算になったという話が出ていた(孔健「日本人は永遠に中国人を理解できない」:講談社」)。やはり人間の贋物もあるのだ。


コピーとフェイク

2006-09-29 22:13:16 | 身辺雑記
 卒業生と話していたら、ファミリーレストランなどのステーキに使う肉は、赤身と脂身の屑と言うか、細片を接着剤のようなものでつなぎ合わせて成型したものなのだと言う。焼いても型崩れはしないので素人目には本物と区別が付かないそうだ。そこからコピー商品の話になったが、コピー商品は、偽ブランド品などのいわゆる贋物を言うし、「天然の物が高価であったり、稀少な場合にしばしば生産される人工の製品」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)を言う場合もある。この成型ステーキは本物の牛肉を使っているからコピーではない、何と言うのだろうか。
 
 偽ブランド品を連想するから、コピー商品と言うと何とはなしに胡散臭さを感じさせることもあるが、真っ当な物もあって、人工皮革などは天然皮革にはない長所も持っている。ちょっと見分けが付きませんよと男物の衣料を扱っているその卒業生は言った。そう言えば人工繊維のナイロンなども同じ類だろう。人造皮革も人造繊維も今では安価で丈夫で、なくてはならないものになっている。食品には、イクラやかに蒲鉾などもあり、これはすぐに見分けが付くが、見た目や味、食感はかなり工夫しているようだ。あるデパートの食品売り場で「シシャモ明太子」と言うのを売っているのを見たが、あれはチョウザメではない魚卵で作った「キャビア」と同じように、イミテーション食品と呼ぶものなのだろう。いろいろ知恵を働かせるものだ。

 フェイク商品と言うものもある。「本物のような偽物」と言うもので、最近ますますつくりが巧妙になっている造花などをそう言うらしい。目を近づけて仔細に観察しないと分からないくらい巧妙にできているものがあって感心させられることも何度か経験した。



これもフェイクなのだろうが、工藝盆栽と称して実に繊細によくできている。



 
  ある人によれば最近よく売れている発泡酒もフェイク商品だと言う。今では認められなくなっているようだが、かつてドイツではビールは水・麦芽・ホップだけで作られたものと定義されたことがあったそうで、その定義に従うとコーンスターチなども原料にしている日本のビールなどはビールのフェイク商品と言うことになってしまう。豆類を使ったビール風味の発泡アルコール飲料である「第3のビール」はやはりフェイク商品だろう。しかし麦芽の量が少ない発泡酒もそうなのかは私には分からない。

稲刈り

2006-09-28 22:20:51 | 身辺雑記


 秋晴れの今日、朝から我が家のすぐそばの稲田で刈り入れが始まった。8月13日に穂に花が咲いてから50日足らずで実りの時を迎えた。





 さほど広くない稲田で、刈取り機を使って収穫するので、夕方までにはすべてが終わった。
刈取り機が動き出す前に、ところどころに生えている稗を手で抜き取っていく。



 この刈取り機は刈り取ると内部ですぐに脱穀し、先端に突き出ている筒を動かして田のそばに止めた小型トラックの荷台に穀粒を吐き出すようになっていて能率がいい。

 

別の田では猪の被害を避けるために半月ほど前に刈り取って干してあった稲を、脱穀していた。



 今年は台風も来なかったので稲は順調に育ったが、実りの程度はどうだったのか、素人目には少し穂が貧弱なようにも見えたが平年並みなのだろうか。

 刈取り機はかなり高価なものだそうだ。このあたりの田はどれもたいして広くはないから個人で購入するのなら採算が合わないのではないか。レンタルなのか、共同で使っているのか。


屯堡文化

2006-09-27 23:01:07 | 中国のこと
 貴州省の省都貴陽(Guiyang)の西方約80キロにある安順(Anshun)市に属する平壩(Bingba)県に、天龍鎮(Tianlongzhen)と言う町がある。このあたりにはこの天龍鎮の他にも屯堡と呼ばれる集落が幹線道路に沿って多数散在している。

 明の初代皇帝の朱元璋は西の方雲南にあって中央政権に対抗していた元梁王を討伐するため、30万の軍隊を派遣して討伐、平定した。その後も地域の安定を図るために、雲貴(雲南と貴州)高原に引き続き駐屯させ、その後は軍人の家族や内地の住民もこの地に移住して来た。軍隊と家族が駐屯した所を「屯(tun)」と言い、それを中心にして周囲に「堡(bao)」と呼ばれる商人や一般人が居住した所があって、「屯堡」と総称されるようになったと言う。それ以来600年の歳月が過ぎたが、この明帝国の子孫達は当時の文化、伝統を強固に保持して「屯堡文化」を形成し、「屯堡人」と呼ばれている。

天龍屯堡の石造りの門。


 門を入ると石畳の街路があり、セメントや石造りの家が両側に並ぶ。家々の壁には竹を編んだ盆のようなものが掛けてあり、それには色とりどりの文様や図形が描かれている。


この鎮の家の多くは明清時代のもので、石の板を積み上げて造った「石板住宅」が多い。
 

天龍屯堡で最も古い明代の路地「九道坎(jiudaokan)」。


 天龍屯堡の人口は約5千人、1千世帯ほどでほとんどが陳、張、沈、鄭、毛姓であると言う。住民は周囲に多いミャオ族やプイ族とは異なり漢族であるが、自らを「老漢族」と称していると言う(老は、「古い」、「歴史が長い」の意味)。ウルムチの趙戈莉が送ってくれた「民間文化旅游雑誌」(2001年№6)に「明朝遺民 屯堡人」という記事があり、この記事の筆者が貴陽の街頭で何人かの変わった服装の中年婦人達がいたので好奇心を起こして「あなた方はどういう民族ですか」と尋ねたら「私達は漢族ですよ。はい、本当の漢族(真正的漢族)なのです」と答えたとある。「老漢族」と言い、「本当の漢族(真正的漢族)」と言い、屯堡人の自負心、誇りが感じられる。

 彼らの話す言葉は「屯堡方言」と言われる明代の標準語を遺しているものだそうである。後で私が鎮の寺院にいた老婦人に話しかけたが通じず、下手だからだろうと思ったが、この町のガイドの娘さんに、年をとった人には普通話(標準語)は通じませんよと言われた。

 お茶を接待してくれた婦人。これも昔からの風習らしい。刺繍をした袖の広い右襟の長袍(zhangpao)を着て、腰には長い巻きエプロンを着けている。これが老漢族の女性の服装である。


 屯堡文化の1つに「地戯(dexi)」がある。さまざまな仮面を着け、戦いの衣装を着て、頭には長い雉の尾羽を挿し、ピンクの三角形の旗を数本背負った役者達が刀や槍で撃ち合う。舞台に上らずに地上で演技するので地戯と言うらしい。中国でも評判になった高倉健主演の中国映画「単騎千里を走る」の舞台は雲南省麗江だが、この貴州の地戯の場面があった。




 見物する男の子達。いかにも腕白小僧と言う風体で、役者が時々武器を落としたりすると踊りの輪の中に入って拾おうとし、蹴飛ばされるようにして追い払われるのがおかしかった。


鎮の中心にある三教寺。仏教、道教、儒教の像が祭ってある寺院。老婦人達が堂守をしていた。

落穂

2006-09-26 22:34:59 | 身辺雑記
 また嫌なニュースを聞いた。29歳の男が子連れの女性と同居してすぐに、その子ども達に暴行を加えて死亡させたと言う。殺されたのは3歳と4歳の幼女だ。可愛い盛りの幼な子を手にかけたこの凶暴な男は「しつけのために・・・」と言ったそうだ。何がしつけだとむらむらと怒りがこみ上げ、このような人として最下等の男のために命を奪われた幼い哀れな姉妹を思うと涙を催した。このような輩には可能な限りの厳罰を下すべきだと思う。類似のケースは時折ニュースで知るが、しかしそのたびに不可解に思うのは、いったい母親はこのような男の暴力になすすべもなかったのかと言うことだ。なぜ母親として身をもってわが子を守ろうとはしなかったのだろう。たとえ自分が傷ついてもそれが母性と言うものではないか。男にのぼせた母親は動物にも劣ると言うことか。


 
 電車の座席に座って出発を待っていると、4、5歳くらいの男の子が前の方から不安そうな表情と足取りでやって来た。出入り口の近くに来ると泣きそうな声で「ママ、どこにいるの」と呟きながら外を覗いた。するとホームの前の方からヒステリックに子どもの名を呼んで詰問しながら近づいてくる女性の声がして、その子がホームに出て近寄ると、姿は見えなかったがパコッという音がして、子どもは火がついたように泣き出した。その音から察するとどうやら頭を平手で叩いたらしい。子どもを引っ張り罵りながら前の方に歩いて行く母親の後姿を窓越しに見ながら、やれやれと思った。あるいは子どもの姿が見えなくなって不安に駆られていた挙句の行為だったのかも知れないが、何となくその女性の育ちや日ごろのわが子への接し方が想像された。
  
         

 前を歩いている若い女性のジーパンの尻の部分に大きな白い文字でJUICYと刺繍してあって、笑ってしまった。その文字の下にも小さな文字が書かれていたが、ちょうど腿の付け根にかかるところだったので字が曲がっていてloveだけしか読めなかった。こんなものもやはり洒落たデザインなのだろうか。「水気が多い」というこの言葉も、場所が場所だけにどうもちょっとという感じもしたのは、私の品性の低さゆえのことだったのだろうか。もうだいぶ前のことだが、英語の文が一面にプリントしてある服を着た中年の女性に出会った人がよく見ると、その中に卑猥なことを意味する言葉があって驚いたということを読んだことがある。男性雑誌か何かのページをコピーしてプリントにしたのかも知れない。横文字が何かしらお洒落なもののように思っていると、とんでもないこともあると言うことだろう。



 大学時代の同窓会に出るために広島に行った。大学に入ったのは昭和27(1952)年で卒業は31(1956)年だから、もう50年以上も昔のことになってしまった。同窓会はこれで10年以上続き昨年も出席したから、広島駅に降り立っても特に懐かしさを感じることもなかった。しかしタクシーを拾い行く先を告げ動き出すと、60歳前後の柔和な感じの運転手が話しかけてきて、その広島弁を聞くと急に懐かしさがこみ上げてきて、当時とはまったく変容してしまった街並みにも親しみを覚えた。広島弁そのものは同窓会に出るたびに広島在住の友人達から聞かされるので珍しいものではないのだが、この運転手の広島弁にはどう言うものか、何かしら懐かしさをかきたてられ、目的地に着くまでついつい昔話などをして過ごしてしまった。降りてから、お国言葉と言うものもなかなか良いものだと改めて思ったのだった。

         
 
 ファーストフード店の女子店員は決められた通りの紋切り型の話し方で接客する。相手が子どもであっても「店内でお召し上がりですか。お持ち帰りですか」などとやるので滑稽だと言った人もあった。決められた通りに話さないとまごつくこともあろうし、言葉に詰まってしまうこともあるのだろう。それに今時の若い子の言葉遣いに不安を感じることもあるのだろう。止むを得ないことなのだろうが、何となく小学校の学芸会の劇での子ども達のせりふを思い出してしまうこともある。
 以前、約束の時間に間があったので近くにあったファーストフード店に入ってコーヒーを注文したことがある。もちろん若い女子店員はマニュアル言葉で応対したが、私が金を支払うと、急に声の調子が変わって、ごく普通の女の子の声で「おじいちゃん。これ50円玉だよ」と言った。5円を出せばいいのに、少し色が黄色味を帯びていた50円硬貨を出したのだった。「ああ、どうも。有難う」と言って5円硬貨を出してそれで終わったが、急に声の調子も言い方もマニュアル言葉から変わって普通になったのがおかしかったのと同時に、思わずだったのだろうが「おじいちゃん」と言ったその店員が、何となく孫娘のように可愛いく思われた。この話を卒業生達に話したら、中の1人がが「本当はそんなことを言ってはいけないのですよ」と言った。そうなのだろう。この場合は「お客様。これは50円でございます」と言うべきだったのだろう。しかしその時には私は何かしらその店員が機械人形から人間に戻ったような安心感を覚え、親しみを持ったのだった。

黄土高原

2006-09-25 21:27:40 | 中国のこと
 今年の4月9日にかなり強い黄砂が襲来した。ちょうどその日に大阪に行ったが、濃い霧のようにビルはどんよりと霞んで見えた。北京やソウルでもかなりひどかったらしい。

 黄砂はよく知られているように中国新疆のタクマラカン砂漠やモンゴルのゴビ、中国の黄河流域の黄土高原などから北西風に乗って飛来する微細な黄色い粒子で、この粒子が黄河流域では堆積して黄灰色の地層を形成し、黄土高原と呼ばれている。黄土高原は山西省から陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区にかけて分布し河南省でも見られる。

  これまでに陝西省の中部と寧夏回族自治区の南部の黄土高原に行ったことがあるが、地味が貧弱そうな緑の少ない所で、とりわけ陝西省の黄土高原は春浅い4月に行ったこともあって、ほとんど緑の見られない荒涼とした風景だった。寧夏で黄土をつまみ取ってみると、色と言い感触と言いちょうど黄な粉のようだった。雨でぬかるんだ黄土層の道を車で通ったことがあるが、ひどい泥土になっていて運転手は非常に難渋していた。 
 
陝西省の黄土高原


人工衛星から見た陝西省の黄土高原(Google earthによる)


陝西省の黄土高原の民家


河南省の黄土層。


 河南省の窯洞(yaodongヤオトン)。ヤオトンは黄土高原によく見られる、黄土層に作られた横穴式住居。夏は涼しく冬は暖かいと言われる。


 河南省洛陽(Luoyang)市の西北にある中溝村(Zhonggoucun)のヤオトン。このヤオトンは地面を長方形に掘り下げて、その四面の壁に造られた珍しいもの。中溝村にも1つしかない。たまたまあるガイドがヨーロッパの観光客を案内してから評判になり、観光スポットになった。


 ヤオトンの内部。きれいに整理されている。ここの住人は独り住まいの元気な老婦人。日中戦争の時には日本軍がこの村に駐屯し、このヤオトンも使ったことを覚えていると言った。


寧夏回族自治区南部の黄土の山地。


黄土層に作られた民家(寧夏回族自治区南部)

  
寧夏回族自治区の南部から北部の区都銀川に移動する途中で遭遇した黄砂。


彼岸花

2006-09-24 00:17:56 | 身辺雑記
 マンジュシャゲ(曼殊沙華)とも言われている、誰でも知っている花。秋の彼岸の頃になると暦のように正確に咲き始める。子どもの頃には、毒があると聞いていたので、何となく気味が悪く触ろうとしなかった。そのせいか家庭を持つようになっても、野にある花でもこれだけは切って来て飾ることはしなかった。実際には毒があるのは球根で、それも処理すれば澱粉として食用にすることもでき、昔は救荒植物とされていたようだ。それに今ではリコリスと言う名で花屋にもさまざまな美しい色彩の園芸品種が売られている。



 いつの頃だったか「赤い花なら曼殊沙華、オランダ屋敷に雨が降る」で始まる歌謡曲があった。「濡れて泣いてるジャガタラおはる、未練な出船の、ああ鐘が鳴る らら鐘が鳴る」と続いたが、今でも歌えるのは我ながらおかしいことだと思っている。戦時中のことやら戦後間もないことやら定かではないが、もしかするともっと前のものかもしれない。とにかく幼い頃のことだったから「オランダ屋敷」も「ジャガタラおはる」ももちろん、歌詞全体の情景も理解できなかったし、まして愛唱歌でもなかったのに、なぜずっと覚えていたのか分からない。

 もう1つ、これは高校生の頃だったか、「彼岸花」と言うラジオドラマを聴いたことがあった。当時の私くらいの年頃の少年の隣家に、病気で引きこもっている少女がいて、時々寂しそうな声で「彼岸花」と言う歌を歌うのが聞こえてくる。少年はそれが鬱陶しくて家の中で罵ったりする。どういうきっかけだったか忘れたが、少年は少女と会って話をするようになる。ある日突然、少年は少女にひたむきな声で「好きよ」と言われて狼狽する。そんな短い話だった。ドラマは少年が成人した男性の声で「その後間もなく彼女は死にました。それから私は悔いの多い人生を送りました」というようなモノローグで終わったのだが、多感な年頃であったせいか、このドラマは印象的で、「彼岸花」を歌ったり「好きよ」と言った少女の声がいまだに耳に残っている。もう60年近くも昔のことだ。

 今年も近くの稲田の畦道に彼岸花が咲いた。花の色と刈り入れ間もない稲の色とのコントラストが美しく、秋だなあという思いを深くする。彼岸花の名所という群生地もあるそうだが、名もない稲田の畦に咲いている風情もいいものだ。




化粧‐2‐

2006-09-23 00:07:08 | 身辺雑記
 化粧と言えば、電車の中など公衆の面前で臆面もなく化粧する姿はどうにも嫌だ。周囲のことなどまったく目に入らぬかのように(実際に入っていないのだろうが)化粧に専念している姿はむしろ醜い。

 以前勤めていた頃のある朝、電車に乗って座ったら、すぐに前の座席に40代かと思われる女性が腰掛けた。座るなり彼女は小さいバッグに入った化粧用具と化粧品を取り出して化粧を始めた。ラッシュ時間帯を少し過ぎていたので、終点までの約15分間は私とその女性の間に立つ人はいなかったから、真正面なので嫌でもその化粧する様子が目に入ってくる。目を伏せればよかったのだろうが、半分興味もあったからそれとなく観察していた。順序があるのだろう、次々にいろいろと取り出して顔のあちこちをいじりまわしていたが、やがて電車が終点の駅に近づくとやっと化粧が終わった。化粧品と道具をしまって改まった様子で正面を向いた女性の顔を見て、私は思わず笑い出しそうになった。化粧とはよく言ったもので、出発駅で座った時の顔とは驚くほど変わっていたのだ。きれいかどうかは主観の問題だから何とも言えないが、とにかくすっかり変わっていて、化けたとしか言いようがなかった。おそらく寝起き顔のままで(顔を水洗いするくらいはしたかも知れないが)家を出たのだろう。電車に乗っている15分間できっちり仕上げたから、電車での化粧は毎日の習慣なのかもしれないと思った。それにしても妻の化粧姿も詳しく見たことがないくらいだから、女性の化粧する様子を初めから終わりまで見たのは後にも先にもこの時だけだった。なかなか手間のかかる複雑な工程のようである。

 欧米人などは、公衆の面前で化粧する女性は、ある種のいかがわしい商売の女だと思うと聞いたことがある。あるアメリカ人は日本に来て、公共の場で化粧する若い女性が多いのに驚いて、あれは皆娼婦かと尋ねたそうだ。若い女性も高校生も時にはおばさんも人前で化粧に専念する、こんな光景は世界でも珍しいと言われるような国になってほしくないものだ。いや、もうそうなのかも知れない。


化粧

2006-09-22 00:08:22 | 身辺雑記
 私の家の山手に公立高校がある。夕方街から帰る時よく下校して来る生徒達に出会う。皆制服を着ているが、きちんと着ている子もあり、だらしなく着崩している子もありで、その生徒の性格や家庭のあり様も想像される。

 その中で最近目に付いたのは、2年生くらいに見える1人の女子生徒だ。付け睫毛、アイシャドウ、口紅など濃くて目立つ化粧顔で、制服の着方もだらしがない。男の子と何やら大声で話しながら歩いてくるその姿には、その年頃の女子生徒から感じられるような清潔さや清々しさなどは微塵もなく、最近の女子高校生の化粧顔にはそれほど驚かなくなっている私も、この生徒にだけは辟易する思いだった。いったいこの生徒は、このままの顔で授業を受けているのだろうか、教師は注意もしないのかなどと考えていると、この学校が創立された20年も前の頃の生徒達の姿を思い出し、何か溜息が出る思いだった。

 頑固なようだが、やはり私は10代の娘達はその年頃にしかない自然の肌の美しさを大切にしてほしい。化粧など肌が衰え始めたなと思った時にすればいい・・・と言えば、それでは遅いんです、若いうちからお肌の手入れをしなければいけないんですと「専門家」から言われるかも知れない。でも、肌の手入れイコール化粧ではないと思うのだがどうだろうか・・・などと書いているうちに空しくなってきた。

 私の中国の友人の女性達は20代半ばを過ぎているが、皆肌が滑らかで艶がある感じだ。化粧してないのだろうと聞くと、してますよと言う。化粧水やクリームくらいは使うようだ。こんな程度でいいのではないかと思う。西安の邵利明が大阪に来た時に、化粧品を買いたいというので1軒の店に案内したら、店員に基礎が何やらかんやらと、いろいろなものを並べて説明されたので彼女は面食らったように退散し、別の所でクリームを一つ買った。西安の李真は肌が滑らかできれいだが、「日本の若い人は化粧が上手で、きれいですよ」と言う。やはり若いから興味はあるのだろうが、彼女達に日本の若い女性によく見られるような派手で濃い化粧はしてほしくないと思っている。


黄桂稠酒(huangguichoujiu)

2006-09-21 00:08:59 | 中国のこと
 私はアルコールに弱い。嫌いではないがすぐに酔いが来る。日本酒、ワイン、ウイスキー、ブランデーなんでも口に含んだ時にはおいしいと思うが、後が続かない。せいぜいビールなら時間をかけてコップ一杯くらい飲めるだけだ。父は酒をよく嗜んだが、きれいな飲み方で酔いつぶれたのを見たことがなかった。妻も息子達もアルコール類は好きだった。だから私は父とも妻とも息子達とも呑む楽しみを持ったことがない。これは寂しいことだと思っている。

 そんな私がうまいなと思って心を惹かれたのは、西安の李真の家で食事をした時に出された酒だった。かすかに良い香りがして薄いものだったので初めは気がつかなかったが、しばらくすると体が温まってきたので酒だと知った。その時はそれで終わったが、どういう酒だろうかという興味は残った。その後、豆腐乾のところで紹介した趙珩(Zhao Heng)の「中国美味漫筆」(青土社)を読んでいると「西安の稠酒と泡mo(moは食+莫)」という一文があった。その中の一節。

  黄桂稠酒も西安の特産で、その起源は太古までさかのぼることができ、殷周代に神を祭り、祖先を祭った醴(れい)は稠酒にほかならない。『詩経』「周頌」の「豊年」で(中略)と詠じられている醴は稠酒である。これで酒を作り甘酒を作り、これを祖先にすすめ献じる。 

 西安の黄桂稠酒は桂花をも材料としており、米酒の清醇[混りけのないさっぱりした味わい]のほかに、淡い桂花の香りもある。(中略)本物の上等の稠酒は淡い牛乳のようで、やや黄色っぽい乳白色をしている。 

 この一文を読んで、私が李真の家で勧められたのはこの酒だと気づいた。あの時に感じた香りは桂花(金木犀)のものだったのだ。その後西安を訪れた時に李真に話すと、李真の両親から稠酒を1本贈られた。  



 唐代の詩人杜甫がやはり詩人の李白を詩の中で「李白斗酒詩百篇」と詠じたことは有名だが、この稠酒のラベルにはこれに関して、この詩の中で杜甫が言っている酒は正に当時の黄桂稠酒だったと書いてある。稠酒のアルコールは2~3度だから、李白が玄宗皇帝に呼び出された時にぐでんぐでんに酔って長安の酒家に眠っていたのは、確かに斗酒を呑んだためであったのだろう。

 西安はよく知られているように、唐など古代中国の王朝の都だった長安以来の古都だ。黄桂稠酒はそのような古都にふさわしく、長い歳月を経てきた由緒ある名酒だと思う。「中国美味礼賛」(青土社)の中で洪燭(Hongzhu)という詩人、随筆家は「西安の稠酒」と言う1文の最後を次のように結んでいる。

 現代人が唐代に帰ることを夢みるのが困難でなければ、少なくとも二つの道がある。
 一つは門を閉じて唐詩を読むこと、もう一つは汽車の切符を買って西安に行くことである。ただし、西安に行ったら必ず稠酒を飲まなければいけない。稠酒は西安の特産であり、さらに歴史の古い庶民の伝統的な飲みものである。