中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

増税法案可決と新聞の論調

2012-06-29 06:13:47 | 身辺雑記

  消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革関連法案が衆院本会議で自民党と公明党などの賛成で可決しました。このことについて全国紙はこぞって社説で「評価」しています。

 たとえば『毎日』は、「一連の法案が衆院を通過し、参院でも可決・成立する見通しとなったのは、与野党の足の引っ張り合いから脱却し、『決める政治』への一歩となったと改めて評価したい」と言っていますし、『読売』は、「衆院議員の実に約8割が、賛成票を投じたことを評価したい。『決められない政治』に決別し、参院で法案を確実に成立させなければならない」としています。さらに『朝日』は、論説主幹代理が「ひとまず決められない政治を脱した、18年ぶりに消費税率引き上げの衆院通過を果たし、成果を上げたことは評価できる」と言っています。

  『朝日』は、同じ紙面で「中間所得層、重い負担」という見出しで、「収入が少ない人には負担が重くのしかかるばかりか、普通の収入を得ている多くの『中間所得層』の家計にも負担増が直撃する」と解説しています。今度の税制改革で、消費税率が2014年4月に8%、15年10月に10%になることは分かっていましたし、これまで大新聞は歩調を合わせたように増税法案に賛成していましたから、何を今更という感じす。28日の『朝日』には、同社が実施した全国緊急世論調査によると法案に賛成が39%、反対が52%だったそうで、このような国民の声を大新聞はどのように受け止めるのでしょう。

 全国紙に比べると地方紙は強く批判しているものがあり、例えば『東京』紙は次のように言っています。

 「消費税は増税しないと衆院選で公約した民主党による約束違反は明白だ。苦い教訓は次の選挙にこそ生かしたい。  有権者のやり場のない怒りは、どこにぶつけたらいいのだろう。 二〇〇九年衆院選で、消費税は増税しないと公約して政権交代を実現した民主党議員が、敵対していた自民、公明両党と結託して消費税率引き上げ法案に賛成する。  自民党とは違う脱官僚や政治主導、税金の無駄遣いを徹底的になくすことで「コンクリートから人へ」の政治実現を期待した有権者の民意は完全に踏みにじられた」

 また私の地方の『神戸』紙は、

 「これで 『改革』といえるのか。衆議院を通過した社会保障と税の一体改革関連法案には、そんな疑念が募る。  消費税率を10%に引き上げるのに合わせ、低所得者に最大で月5千円の『給付金』を配る。   だが民主党がマニフェストに掲げた最低保障年金制度の創設や後期高齢者医療制度廃止は、今後発足する『国民会議』に議論を託す。先送りである。   社会保障の将来像が明確に示されないまま、増税が決まった。一歩踏み出したが、国民にとって納得しにくい形だ」

 『北海道』紙は

 「消費税増税は民主党の2009年衆院選マニフェスト(政権公約)になかった政策である。野田佳彦首相はこれを実施へとかじを切り、実現のために自民党と手を組んだ。   一方で国民に約束した政策は次々と棚上げした。自民党政治からの変化を求め民主党に政権を託した有権者には想像もつかなかったことだろう。民意を軽視した背信行為だ。政権交代の大義を曲げて増税に突き進む首相の責任は極めて重い」

 一部ではあるかも知れませんが、このような地方新聞の論調のほうが私にはよく理解できます。今の大新聞に「社会の木鐸」としての役割を期待するのは無理なことなのでしょうか。

 


「世界で最も醜い犬」

2012-06-27 06:26:31 | 海外あれこれ

 米国カリフォルニア州ベタルーマという町で「世界で最も醜い犬」のコンテストが開かれたそうです。サンフランシスコの動物虐待防止協会主催で、今年で24回目となるこのコンテストに、19匹が参加したそうで、優勝犬には賞金1000ドル(約8万円)とトロフィーが贈られるとのことです。 

 何か、人ならぬ犬をバカにしたような話ですが、私は犬が好きで、どの犬も特徴があって、可愛いとは思いこそすれ、醜いと思った犬に出会ったことはありません。前にフレンチ・ブルドッグを連れた女性と出会って声をかけたたのですが、見ようによっては醜いかも知れませんが、愛嬌のある特徴的な顔で可愛いと思いました。美醜の受け止め方が彼我では違うのかも知れません。

 フレンチ・ブルドッグ:インタネットから。

      

        

 飼っていればどの犬も可愛いもので、美醜などは問題になりません。このコンテストに出した飼い主も、本当に我が犬が醜いと思っているのかどうか。

 それにしても主催したのが動物虐待防止協会ということですが、この協会はどのような趣旨で、何をアピールするつもりなのでしょう。醜い犬でも可愛がって育てたことを讃えるということでしょうか。優勝犬を見て「ほんとに醜いわあ」と皆が笑うなら、それこそ犬権侵害、虐待じゃないかと思うのは、ユーモアを解さない俗物ということになるのかも知れません。もっとも犬のほうは何を言われようと「犬耳(?)東風」でしょうが・・・。

(朝の散歩から)

 

キョウチクトウ

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


孫のガール・フレンド

2012-06-25 08:01:22 | 身辺雑記

 久しぶりに孫息子(次男の長男)のハルカに会いたくなったので、ピザを食べようとメールしました。「生意気に彼女がいるんだよ」と次男に聞いていたので、「彼女を連れてきてもいいよ」と付け加えたら、本当に連れて来ました。

 ハルカは関西大学(関学)の3年生、彼女は神戸女学院大学の1年生で、1年生というとまだ18歳で私より60歳も年下、当たり前と思ってはいても、自分が年をとったことを改めて実感しました。「昭和何年生まれ?」と彼女に尋ねましたら「平成だよ」とハルカに笑われました。今年成人式を迎えた彼も平成生まれで、平成も長くなったものだと思いました。

 関学、女学院と言えばこの辺りでは「お坊ちゃん」「お嬢様」の学校で通っていますが、それは中高生からエスカレートした場合で、二人とも大学だけ受験したものですから、そんな仰々しいものではありません。ごく普通の家庭で育った、普通の若者です。

 彼女の身長は164センチ、若い頃の私と一緒ですが(今は4セン縮んで160センチ)、今時の若い女性らしく脚が長く、175センチの孫の脚の長さと匹敵していました。

 ハルカは小さい時から口数の少ない子でしたが、彼女もおとなしく、時々小さな声で話し合っている様子をほほえましく思いました。とり立てて美人というのではありませんが年頃の娘らしい清潔さがあって、こういうところがハルカの気に入ったのか。彼は自宅の近くの塾に通っていました。大学入学後はそこの講師補佐のアルバイトをしていて、彼女はその塾の生徒だったというので、何がどうしてどうなったのかとちょっと興味を持ちましたが、それ以上のことは立ち入って聞きませんでした。

 初対面のことで彼女は緊張していたのか、あまり話はしませんでした(後でハルカが言うには彼女は人見知りするようです)し、ハルカも相変わらず口数が少なく、盛り上がった賑やか雰囲気にはなりませんでしたが、それでもいささか無聊を持て余していたこの頃でしたし、まして思いもかけなかった孫のガール・フレンドが一緒だったので、やはり心が和みました。

 私が妻を初めて知ったのは大学1年の時で、妻は高校2年生でした。その頃のことですから、もちろんガール・フレンドとか恋人というような関係ではなかったのですが、やがて何年か経つとそんなことになりました。ハルカと彼女もちょうど知り合った頃の私達と同じような年代ですが、これからどうなっていくのでしょうか。さらに発展するかも知れないし、若い頃のほんのりした懐かしいほのかな夢に終わるのか、それは分かりません。周りからとやかく言わないで、二人で真面目に付き合っていってほしいと思います。

 妻との最後の別れの時、火葬場の窯に入っていく棺を、目にいっぱい涙をためて見送った7歳だったハルカも成人となり、ガール・フレンドを連れて来ました。妻がいたら「まあ、ハルカ君が」とどんなに喜んだことだろうかと想像します。


ブーイング・ポーズ

2012-06-24 07:15:54 | 身辺雑記

 近頃は政治家たちの写真を見ると、何かしら嫌な感じがすることが多いのですが、下の写真とそれに関する記事を見た時には、強い不快感と怒りを感じました。

  

 「みんなで決めよう『原発』国民投票」という市民団体が、東京電力管内の原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を目標に、約32万3千人分の有効署名を東京都に提出し、条例制定を直接請求しました。この条例は、原発の稼働を止めることを求めているのではなく、稼働の是非についての民意を問うことを決めようというものですが、東京都議会は自民党、公明党、民主党の一部議員など82人が反対し民主党の一部と共産党、生活者ネットワーク・みらいの41人が賛成はということで否決しました。これに対して傍聴席が騒然となった時に石原知事がそれに向かってとったのがこのポーズで、傍聴人の一人が撮ったものです。

 インタネットで見るとこのポーズは、サッカーなどのスポーツの試合の際に、選手や監督、審判に向けて発せられるブーイングのポーズです。 

        

 

 このポーズの由来は古く、もとは「殺せ」という意思表示でした。古代ローマのコロシアムで行われた剣闘士の闘いという見世物に、ローマ人たちは熱狂したのですが、試合に負けた剣闘士は手を挙げて助命を乞うのに対して、勝った剣闘士が観客にその意志を問いかけ、観客の多くがこのポーズをとると、臨席した皇帝もそれに従って同じサインを出し、勝者は直ちに敗者の息の根を止めました。血生臭く残酷な競技でしたが、剣闘士の多くは戦争捕虜や罪人でした。

 さて、このような由来を持つブーイング・ポーズですが、石原知事はいったいどういうつもりでこのようなポーズをとったのでしょうか。私は剣闘士競技の「殺せ」のポーズであることしか知りませんでしたが、ネットでこれはブーイング・ポーズであることを知りました。しかしこの場合は石原知事の意に沿った採決結果ですから、いわゆるブーイングの意味でもでもなさそうですが、騒然とした傍聴者にたいして「黙れ」という表明だったのかもしれません。いずれにしても議会での知事の態度としては傲慢で、市民をバカにし見下した彼らしく品がなさすぎます。「反対して騒ぐ者は殺せ」とでも言っているようにさえ思います。気分は皇帝と言うところでしょうか。私には老残、老醜そのものに見えました。東京都民はこの知事を4選させ、強く支持していますが、それでもこのような態度にも共感するのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


刺青(入れ墨)

2012-06-22 08:06:25 | 身辺雑記

 大阪市では2月に児童福祉施設の男性職員が、子どもたちに腕の入れ墨を刺青見せて威嚇していたことが発覚して、橋下市長は「刺青をしたまま公務員にとどまるのはおかしい」と問題視し、職員に対して刺青の有無を調査するように指示しました。施設の男性職員が刺青で威嚇した事実はないという記事も見ましたが、真偽のほどは分からないものの、いずれにせよ刺青をしていたことは事実です。この調査についても人権侵害だという声もあるようですが、言い出したら引っ込めない橋下氏のことですから調査は指示通り行われ、「している」と回答した職員が110人あったそうです。市は今後消すように促したり、市民に接することのない部署に配置転換することを検討するとのことです。なお教育委員会は教員などにアンケートすることには難色を示したのですが、市長は「もし刺青している教師がいたらどうするのか」と後に引かず、結局教師には学校長が聴き取りをすることになったようです。橋下氏にとっては市職員も教師も基本的には信頼できない存在なので、これまでも職員や教師を「敵」として的を絞り攻撃した橋下氏を大阪市民は支持していますから、このことについても坂下氏を多あ数が支持するでしょう。

 刺青は一つの文化でもあり、近頃はファッションでもあるのですが、日本人には否定的に受け取られています。日本の伝統的な刺青(入れ墨)は欧米人には評価が高く、そのコレクターもあるそうですから、欧米人とは感覚が違うようです。欧米では国王や有名な政治家でも刺青をしている人があるようで、スポーツ選手や芸能人になると、日本人にしたら眼をそむけたくなるようなたくさんの刺青をしています。この写真の女性はなかなかの美人ですが、やはり美しい肌一面の彫り物には違和感を覚えますし、図柄も美しいとは思えなせん、

   

 前に評判になったアメリカのシリーズ物の警察小説(エド・マクベイン『87分署』)を読んだことがありますが、その中の主要登場人物の一人の警官の妻が、夫の誕生日のプレゼントにと、自分の肩に小さな星の刺青をして夫にそれを見せると、夫は非常に喜んで、妻を深く愛しく思うという場面がありました。当時はずいぶん日本人とは感覚が違うものだと思ったものでした。

 しかし日本では「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり」という中国古来からの教えのためもあったからでしょうし、江戸時代には刺青をしているのは鳶職や火消し人足、ばくち打ちなど荒っぽい生業をしている者に多く、それも全身に施す刺青もあります。施す時は大変な痛みを伴うようで、そこをこらえるのが男らしいとか何とか言って、堅気の町人には縁のないことだったようです。また罪人には腕に地域によって決まった形の墨を入れることがありこれが「入れ墨」ですから、やはり刺青は一般には忌避されたようです。

   

 二の腕に刺青をして、何とかすると袖をまくってそれをちらつかせて脅すというのはよくある話ですが、日本では刺青はヤクザ者のすることだという受け止め方が普通のようです。やはり公務員に限らず普通の企業の社員でも、今の段階では堂々と人の目につく所に刺青をするのは少ないでしょう。もっとも今頃は刺青のような模様を張り付けるものもあって、これは私も見たことがあります。その時はファッションの一種かと格別に嫌悪を感じることはなかったのですが、こういう女性とは一緒したくないなと思ったのは偏見かも知れません。

 日本では公衆の目に触れる所で刺青を見せることを禁じている所があり、この近辺では神戸の須磨の海水浴場がそうです。人に嫌悪感や恐怖心を与えるという理由からでしょうが、そこまでするのかなとも思います。刺青をした外国人も拒否するのでしょうか。

 茶髪、金髪も初めの内は嫌悪を伴って見られていましたが、今は当たり前のようになっています。タレント時代の橋下氏は茶髪・黒眼鏡というスタイルでテレビに出ていたそうですが、最近もあるネットの書き込みで「茶髪が何が悪い」という擁護の声がありました。黒眼鏡のことですが、これもサングラス程度ならともかく、真っ黒な物には違和感を覚える人は少なくないようです。碧眼で日光に弱い白人と違って日本人は、普通は白昼に真っ黒な眼鏡をかけると、その筋の人かと思われることもあるようです。まして室内でそのような眼鏡をするのはファッションと言うよりも自己顕示のスタイルでしょう。人気タレントにいつでも黒眼鏡をかけている人がいますが、どうしても好きになれません。橋下氏は大阪府知事になると、茶髪も黒眼鏡も止めましたが、今は公務員が茶髪・黒眼鏡で勤務することも認めないでしょう。茶髪や眼鏡は染めたり使わなかったりすればすみますが、刺青はそうはいきません。この問題は、これから後も尾を引くような気がします。

 金髪や茶髪がそうであったように、刺青も、ファッション的な「タトゥー」も次第に日本人には違和感のないものとして受け入れられるようになる時が来るかも知れません。その時には公務員でも何でも、金髪や黒眼鏡、鼻ピアスなどで勤務するようなことが当たり前になるのでしょうか。日本人はこういうことにかけてはかなり強固に保守的ですから、あってもそれはかなり先のことでしょう。

 

(朝の散歩から)

 ユリのある家。いろいろな色のユリが咲いていました。犬を抱いて出てきたその家の奥さんらしい人に「きれいですね」と声をかけましたら、「こんなに背が高くなるとは思いませんでした」と答えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


脳死 臓器移植

2012-06-20 09:29:50 | 身辺雑記

 富山大学付属病院で事故のため治療を受けていた6歳未満の男の子が脳死と判定され、その両親が内臓の移植手術に同意して、手術が行われました。6歳未満の子どもが脳死と判定されたのは初めてのことだということです。 

   この男の子の心臓と肝臓、腎臓が提供され、角膜も使われたそうです。心臓の提供を受けたのは重症の心臓疾患を患っていた10歳未満の女の子、肝臓の移植を受けたのも10歳未満の女の子、腎臓は60代の女性にそれぞれ移植されました。一つの幼い尊い命が、3人の命を救ったことになります。

 しかし私には単純に良かったと祝福する気持ちが起こりません。どうしても脳死とされた男の子や、そのご両親のことを考えてしまいます。ご両親は術後次のような言葉を伝えられています。

 「息子は、私たち家族が精いっぱい愛情を注いで育ててきました。元気な息子のわんぱくにふりまわされながらも、楽しい時間を家族みんなで過ごしてきました。本日、息子は私たちのもとから遠くへ飛び立って行きました。このことは私たちにとって大変悲しいことではありますが、大きな希望を残してくれました。息子が誰かのからだの一部となって、長く生きてくれるのではないかと。そして、このようなことを成しとげる息子を誇りに思っていま す。私たちのとった行動がみなさまに正しく理解され、息子のことを長く記憶にとどめていただけるなら幸いです。そして、どうか皆様、私たち家族が普段通りの生活を送れるよう、そっと見守っていただきたくお願い申し上げます」

 *このコメントの全文は、弁護士の徳岡宏一朗さんのブログEveryone says I love you !から拝借しました。

 ご両親のお気持ちを察すると胸に熱いものがこみ上げてきます。私ならどうするだろうと考えてしまうのです。前にも妻の場合だったらどうするかと書いたことがありますが、その時の私にはたとえ脳死と判定されても体はまだ温かく、心臓も動いている妻を死者として見る気持ちには到底なれないというように書いた記憶があります。その気持ちは今も変わらず、悩みます。まだ生きている温かい体にメスを入れ、心臓を取り出した瞬間に本当の死を迎える、と言うよりも与えてしまう。いかに倫理上の問題は手を尽くした結果と言っても、どうしても納得できないものを感じます。

 私が最近知り合ったある男性にはKクンと言う2歳足らずの可愛い男の子がいます。この問題を彼に問うてみると、ためらいなく提供すると言いました。自分の子どもの命で他の子どもが救われたら満足だと言いました。そう言われても取り立てて驚くことはなかったのですが、その可愛い男の子の子を思い浮かべて、そんなものかなと思ったことも事実です。 

 心臓移植を受けた女の子のご両親は次のようなコメントを出しておられます。 

 「いま移植手術を無事に終え目の前にいる我が子を見つめながら、今回の決断をされたご家族のことを思っています。

 臓器提供を待ち続けた親として、大きな希望の光を与えて頂いたことへの感謝の気持ちはとめどなく溢れてきますが、「ありがとう」以外にそれを表す適切な言葉が見つかりません。

 また、今回の決断が、どれほど辛く深い悲しみの中でなされたかを思うとき、子を持つ親としてその心中を深く察するとともに、この勇気ある決断に心の底から敬意を表したいと思います。このご両親の思いをしっかりと受けとめ、お子様の命が私達の子供の一部として長く生き続けられるよう、精一杯の愛情とともに我が子を大切に育みたいと思います。(以下省略)」 

 両親の安堵の気持ちもよく分かり、これを読むとよかったと思いますが、一方では我が子を喪った親の深い悲しみと、我が子の命が救われた親の歓びとは表裏のもので、複雑な気持ちにもなります。

  重症の心臓などの欠陥を抱え、そののままでは死を待つしかない子を持つ親にとっては、臓器移植は藁にでもすがりたい気持ちでしょう。しかし、それを望むということはとりもなおさず誰かの死を望むことでもあるのです。誰しも「早く、早く」と人の死を望むはずがありません。そこには大きな葛藤があるはずです。

 徳岡さんはブログに脳死と判定された子を持つ親の気持ちを幾つか挙げておられます。 

 ・息子は生きています。死んでいるなんて決めつけないで。

 ・脳死とは移植のためのことばでしかないのですか、

 ・脳死状態でも生きています。わが子の成長を見守っていきたい。

 ・脳死の子どもは生きている。社会から葬らないで。 

 徳岡さんは「そういう方々はご家族にとってはまさに、生きている、のです」と言っておられますが、私も同感です。医学が進歩し、臓器移植ということも可能になってきました。その一方では「脳死は人の死である」という考え方も確立されたようです。考えようによっては臓器移植を可能にするための定義と取れないこともありません。私は「人の死」ということは倫理的にももっと深く考えるべきだと思うのです。

      

 


カエル

2012-06-18 08:02:09 | 身辺雑記

 夕方陽が落ちてから近所の田んぼのそばを通ると、あちこちでカエルの鳴き声がしています。私が通りかかると鳴き声はピタリと止み、しばらくはシンとしているのですが、しばらくじっとしていると、やがてどこかで1匹がクアッ、クアッ、クアッ、と鳴き出すとそれにつられてまた一斉にに鳴き出します。私はカエルもその声も好きです。水に反響するカエルの声を聞くと、涼しい感じがしてほっとします。ただ近頃はそのカエルも減ってきたのか声が少なく寂しく思います。

 私が結婚した当初、昭和30年代の初めは兵庫県の伊丹市に住んでいました。そのあたりは一応住宅地でしたが、少し離れると田んぼが広がっていました。ある夜になると急に天にこだまするようなカエルの大合唱が起こり、ああ、田んぼに水が入ったなと思ったものです。家から田んぼのある所まではちょっと離れているのですが、カエルの声はまるで天から降りそそいでいるようでした。今のように開発が進んでいなかったので水田や溝が多く、どこにでもカエルがいました。 実際その頃はカエルの種類も数も多かったのです。実験に必要でよくカエルの採集に行きましたが、勤務校のある西宮市でも水田やきれいな水が流れている溝が多くあり、カエルも多くおりました。私は学生時代に両生類を扱う教室にいましたので、西宮市のカエルにも興味を持って種類を調べてみました.するとずいぶんいろいろなものがいました。

 トノサマガエル、ダルマガエル(トノサマガエルと似ている)、ニホンアカガエル、ニホンアマガエル(俗にアオガエル)、モリアオガエル(卵塊を樹上に産む)、

 

  シュレーゲルアオガエル(卵塊を田の畦に産む)、ツチガエル(俗にイボガエル)、ヌマガエル(ツチガエルに似ているが皮膚が滑らか)、カジカ(美しい声だけ聞く)、ウシガエル(俗に食用ガエル)、ニホンヒキガエル(俗にガマ)。

 *タゴガエル:近くの山の渓流の岩壁の間に卵を産んでいました。西宮の山にもいるのではないかと思います。日本には38種5亜種のカエルがいます。

 タゴガエル

  

 40年ほど前に現在の地に移ってきましたが、その頃はトノサマガエルやダルマガエルは見かけませんでしたが、ツチガエルやヌマガエルがいて、賑やかな鳴き声でした。それらも、田の水の水質の悪化のためか、今ではニホンアマガエルしかいなくなりました。カエル好きとしては寂しい限りです。

 ツチガエル

 

 ヌマガエル

  

 カエルは特に目がつぶらで可愛いですね。

 アマガエル

 

 私の母はどうしたものかこんな可愛いカエルが大嫌いで、庭を掘っていたらヒキガエルがごろりと出てきたり、取り入れようとした洗濯物に止まっていたアマガエルをつかんだり、そのたびに年甲斐もなく大きな悲鳴を上げていました。そんな母を懐かしく思います。

 東京の祖父の家の庭はなかなか立派でしたが、ある夕方、植え込みの奥から一匹の大きなヒキガエルは出てきて蹲りました、それを見た祖父がひどく喜んでしばらく眺めていたことがありました。風情があると思ったのでしょう。もう70年近くも前のことですが、今でもその時の様子を思い出します。ヒキガエルは歩く姿は不恰好ですが、蹲っているとなかなか風格があります。

 

 カエルが減ってきたのは、住宅などの開発が進められたのと、それに伴って水質が悪化したからで、開発と言うのは自然を壊していくものだとつくづく思います。開発され破壊された自然は二度と元に戻りません。 

 写真はインタネットの「日本のカエル」から拝借しました。http://www.hkr.ne.jp/~rieokun/frog/jpanfrog.htm 

 モリアオガエルとヒキガエルは弟が撮ったものです。

 

 


ファン

2012-06-17 07:14:19 | 身辺雑記

  前にも紹介した「花のみち」の真ん中あたりに、有名な歌劇場があり、ここに出演者、いわゆるスター達が出入りするところがあります。私が見たのは春先の土曜日の朝の散歩の途中、8時半ごろでしたが、このあたりに大勢の女性が群れていました。 

 要するにファン達が自分が贔屓するスターが出演のために劇場に入ってくるのを迎えようということなのですが、その場面に出会ったことはありませんが、口ぐちに名を呼んだり嬌声を上げたりするのでしょうか。ただ漠然と集まっている人もいますが、まるで兵隊のようにきちんと並んで立っているのもいます。皆共通のスターのファンのようです。こういうグループは他にもいて、それぞれに世話役のような班長のような女性がいて、点呼したり指示したりしています。その統制がとれているのが面白いのです。

 

 

  これは出入り口のあるフロアで、ここには大勢の女性達が、黙って静かにしゃがんでいます。お目当てのスターが来ると一斉に立ち上がって拍手でもするのでしょう。すべて世話役の指揮で動くのでしょうが、ファンでもない私には何か異様にも感じられました。

  

 出迎えが終わると劇場に入るか歌劇を観るのでしょうが、終わるとまた帰っていくスターを見送るのだそうです。年配のアラフィー、アラカンのような女性もいます。

 劇場の正門の前を通ると、これは当日券目当ての観客らしい人が門が開くのを待ったいます。中には年配の男性もいて、娘か孫のために朝立ちをしているのかと思いましたが、男性にも結構ファンがいるようですから、これは自分のためではないかと思いました。 

  

 

 ファン(fan)、複合語で○○狂を意味しますが、もともとは特定の対象に対する応援者、愛好者のことで、「狂信者」を意味するファナティスト(英: fanatist)の略です。このようなファンはこの歌劇に限らずアイドル、歌手、俳優、野球選手などあちこちに見られます。中には熱狂のあまり、そのアイドルなどの行くところをどこにでも追いかけていく「追っかけ」という行為もあるようで、いい年をしたおばさんなどもいて、最近では韓流ブームとやらで、韓国にまで追っかけて行く人があるようです。中には行方不明になった婦人もいて、正直言ってその心理はとても理解できません。

 私はブログのハンドル名などでは「中国迷爺爺」を名乗っていますが、「迷ミイ)は中国語のファンで、「中国好き爺さん」と言うところです。西安の李真が、私がよく中国に行っていた頃「爺爺は本当に中国迷だね」と言ったことからつけました。李真の結婚式のときに最初に祝辞を述べました(通訳は謝俊麗です)が、司会者から「中国迷爺爺(チョンコウ・ミイ・イエイエ)」と紹介されました。

 

(朝の散歩から)

 当地方は梅雨入りして1週間経ちましたが、一日中雨だった日はなく、降っても僅かで、一昨日などは朝から晴れわたった夏のような日で気温も30度を超しました。しかし梅雨時の花と言えばやはりアジサイ(紫陽花)です。最近はさまざまなアジサイがあります。

 

 

 

 

 街へ行く途中の家の門先にさあざまなアジサイが置いてあります。この家の奥さんが花ずくで、年中花を絶やしません。

  

 いろいろな形や色彩のものがありますが、私は昔からある、大きくて色が変わっていくアジサイが好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 


痴漢 セクハラ

2012-06-16 10:14:51 | 身辺雑記

 世の中には理解しがたいことが多いのですが、中でも理解できないものは痴漢行為です。痴漢にもいろいろあり、電車や街中の混雑で女性の体を触ることが多いようです。中でも一番理解できないのは、高校生や大学生などの若い女性のスカートの下から小さいカメラを差し入れて撮影する行為です。異様に思えますが、これが案外多いらしいのにも驚きます。

 決して聖人君子面をして言うのではなく、私もエスカレーターなどで前に若い女性が立つと、この年になってもどうしても目が引き付けられて、遣り場に困って目を逸らすことはしません。これも痴漢的心理でしょうが、触ってみたいとか、ましてや中を覗いてみたいなどとは思いもしません。大方の男性はそうなのでしょうが、それを「実行」するのはやはり病気です。

 この痴漢的あるいはそれに近い行為が職場や学校などで行われるとセクハラ(セクシャルハラスメント、性的嫌がらせ)になります。これもばかげた行為だと思うのですが、最近もこんなことがありました。

 兵庫県東部の警察署の地域課に勤務していた52歳の巡査部長が仕事の合間に、何気ない風を装い、部下の20代の女性巡査に、繰り返し下半身を触っていたとして、停職3か月の懲戒処分を受けました。この巡査部長は昨年8月から今年1月までの間に交番から出勤したり、パトカーから、降りたりする巡査の背後から、足を触るなどの行為を約10回繰り返したようです。調べに対して巡査部長は「感触が良かったので、何度もやってしまった」と話しているそうですが家族もあるでしょうし、いったい家でどんな顔をしているのか、まったくばかばかしくて、いい年をして何だと言いたくなります。

 この件では、監督責任を怠ったとして上司の36歳の男性警部補は戒告処分を受け、当時の署長ら4人を本部長注意などにしたそうですが、上司の警部補は、予想もしなかった部下の不祥事のために経歴に汚点が付いて災難としか言いようがありません。実際こんなバカげたことにまで「監督責任」を問われては、たまったものではありませんが、役所として仕方がないことなのでしょう。

 痴漢行為を擁護するつもりはありませんが、それにしても近頃の若い女性の服装は、これ見よがしの挑発的ととられても仕方がないものが少なくないとは思われます。世に盗人(ならぬ痴漢)の種は尽きまじと言うことなのでしょうが、これから夏にかけて露出度は高まり痴漢は増えるのでしょう。蒸し暑い日本の夏、これ以上はと思うほどの軽装の女性は、せいぜいクールビズ程度の男性から見ると羨ましいとも思われるのでしょうが、 痴漢行為だけは願い下げにしてほしいものです。

 

(朝の散歩から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


干支 血液型 星座

2012-06-14 11:27:07 | 身辺雑記

 近くの喫茶店でそこの女主人と話していますと、ひとりの高年の女性が入ってきて、女主人と親しそうに話しだしました。古い付き合いのようでした。私と同じように連れ合いを亡くしてもうだいぶになるようでしたが、私も加わって、そんなことや私の妻のことなども話しました。

 そのうちにその女性は両方の手のひらを両目のそばで顔を挟むような仕草をして、「奥さんはこれだったでしょう」と言いました。すぐにその仕草が、物事を見る視野が狭く猪突猛進タイプを示したのだと分かり、即座に否定しました。それまで話しているうちに妻が私より2歳年下の亥年であることを言っていましたから、その干支で性格判断したつもりだったのでしょう。妻は視野の狭い猪突猛進型ではなく、至っておっとりした性格でした。やはりおとなしく優しかった私の母も、陽気で皆に可愛がられていた末の妹も亥年でした。十二種類しかない干支で人の性格を云々するのはあまりにも単純で、時には失礼なことになります。初対面の人から妻をそのように評されて、いささか気分は良くありませんでした。

 その女性は続いて妻の血液型を尋ねましたからABだと答えますと、今度は何も言いませんでしたが、心の中では判断しているようでした。血液型もよく占いに使われるようで、タレントやスポーツ選手などの紹介には必ず血液型が記されていますが、救急時の輸血のためならともかく、これもまことにばかばかしいと思います。私はO型ですがそれがどんな性格なのか知りませんし、知ろうとも思いません。卒業生などに時々○型でしょうと聞かれて、いやO型だと答えると、あれ、おかしいなと言います。要するに主観で私の性格を類推し、それを適当な血液型に当てはめているのです。人の性格などは専門家ならいざ知らず普通の者には簡単に分かるはずがありません。

 中国西安の李真に聞いてみますと、中国でも血液型で性格を占うことはあるようで、例えば夏の羊は良いが、冬の羊はよくないというそうです。つまり、未年でも夏に生まれた者は食べ物たくさん食べられる、裕福になるということです。謝俊麗は性格と言うよりは運勢だろうと言いました。中国でも占いや迷信を信じる者は多く、俊麗も少しは信じる、女性が多いと言っていました。 寅年は人気があって、そのときは出産が増えて病院の産科は大混雑だそうです。

 さらに妻の星座も聞かれました。生まれた月日で星座が決まるとされているようですが、私は自分の星座などは知りませんし、もちろん妻のものも知りません。奥さんは何月何日生まれかと聞かれましたから答えると、それだったら何とか座だねと言われました。占いに使われる星座がいくつあるのか、それぞれがどんな運勢を示しているのかも知りません。星座と言ってもしょせんは互いに何万光年、何百万光年と離れて存在するいくつかの星が地球から見たら平面的につながって、何かの形に見えているのに過ぎません。こんな中世ヨーロッパ的な迷信が今だにもてはやされているのは滑稽ですが、欧米でも結構人気があるようです。自分の運勢を知りたいという欲望は洋の東西を問わないようです。

 しょせん遊びじゃないか、目に角を立てるほどのものじゃない、面白みがないなどと言われるかも知れませんが、遊びにしてもあなたの性格がどうの、運勢がどうのと言われるのは好きではありません。場合によっては失礼なことにもなりかねません。ですからあまりよく知らない人にあなたの性格はなどと言うのは慎むのがマナーでしょう。 

 干支などに限らず、性格や運勢を占う本はずいぶん出ているようです。書店に行くとそのためのコーナーもあります。手に取ったこともありませんが、買う人は少なくないのでしょう。テレビでもやっているようです。一般的に女性に信奉者が多いと聞いたこともあります。こんなことからオカルトや超自然現象などスピリチュアルなものを信じたりしていく人も多いと聞きます。こういう傾向が大きくなる社会はあまり健全とは言えないでしょう。

 迷信ではありませんが、李真によると中国では最近は宗教を信じる者がだんだん多くなっているようで、不安を抱えている人が多いのではないかと言っていました。李真もバドミントンをして腰をひどく痛めてから、仏教系の宗教を信じているようで、座禅のように、座ったまま何も考えずに、深く息をするとかするもので、心や体がリラックスして、次第に信じるようになったと言っていました。こういうことは占いなどを信じるよりも積極的だと思います。

 

(朝の散歩から)

 ある公園

  毎日の朝の散歩は、その時の気分しだいでいろいろ道筋を変えますが、あるところに小さな公園があります。

  

 3年ほど前にはこのあたりの一角は、何百年もたっているかろ思われる手つかずの古い土地で、そこに樹齢200年程のムクロジ(無患子)の巨木がありました。ムクロジとしては兵庫県内でも有数の古木だったようです。この土地の背後に大阪の府か市の職員の保養所があったのですが、それを大阪市のある開発業者に売り払いました。ムクロジのある土地もそれに付随したものですから、業者はムクロジやその他の桜などの古木を伐採し更地にしてマンションを建てようとし、その付近の住民が保存運動をして市に陳情し、新聞にも載るというちょっとした騒ぎになりました。この土地のすぐそばに「自然」を標榜する幼稚園がありましたが、そこの女性園長は開発とムクロジの伐採に賛成しました。当時は業者が裏から手をまわしたのだろうという噂もありました。

 結局ムクロジは切り倒されマンションが建てられました。そのムクロジのあった場所が公園になったのです。誰の発想かは分かりません。業者の妥協だったのかも知れませんが、ここに来ると、あのいかめしくもあった古木を思い出し、「開発」とは一体何なのだろうと改めて思います。近辺の人の中には、今も「たたり」があると言っている人もいます。