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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

終戦の日

2007-08-15 10:37:23 | 身辺雑記
 昭和20(1945)年8月15日、日本は連合国に降伏し、第2次世界大戦は終結した。私が小学校6年生の時だった。

 当時私の両親は、家族を連れて大阪豊中の母の実家に寄寓していた。戦争中、私達は東京小石川区(現在の文京区)の父方の祖父の家に住んでいたが、空襲が激しくなり父は母や弟妹達を母の実家に移した。私とすぐ下の妹は宮城県の鳴子町に学童疎開していたが、やはり母の実家に連れ戻された。鳴子町は戦火から遠い安全な所だったのに、父がなぜ私達を連れ戻したのか今ではよく分らない。小石川の家はその年の3月か5月の東京大空襲で焼失してしまっていた。

 移り住んだ豊中も戦火から逃れることはできなかった。東京がほとんど焼け野原となったからか、私が鳴子町から戻って程なく、大阪市や堺市、尼崎市などが攻撃目標になり、連日焼夷弾攻撃を受けた。堺の空襲で夜空が赤々と染まっていたことや、庭に作った小さい防空壕の中から尼崎を空襲する米軍の重爆撃機のB29が地上からのサーチライトに照らされて次々に姿を現したことを記憶している。そして日本軍が使っていた伊丹空港(現在の大阪空港)も攻撃され、豊中市は1トン爆弾の攻撃を受けた。祖父の家は爆撃された場所から離れていたので腹にこたえるような地響きが感じられた程度だったが、別の日には近くに爆弾が1発だけ落とされて、その近くの防空壕に避難していた家族が全員死んだこともあったし、戦闘機の銃撃で近くの女性が殺されたとも聞いた。私も小学生仲間と集団で登校する途中で、グラマン戦闘機が伊丹空港を攻撃しに飛来したのに出遭い、散り散りになって逃げたことがあった。家の前に私鉄の駅があったが、その線路の向こう側一面が焼夷弾攻撃で燃え上がりあたりは真っ暗になったが、もし少しでもこちら側にずれていたら、またまた被災するところだった。

 このように連日のように空襲を受け、それだけでもかなり恐怖に晒されたのに、特にたまらなかったのは夜になり眠りに落ちた頃になると、連日のように警戒警報その後で空襲警報のサイレンが鳴り渡って、防空壕に避難しなければならなかったことで、これは明らかに神経戦だった。あの断続的に鳴る陰気なサイレンの音を今でも思い出す。子どもはともかくとして、両親たち大人は疲れ切ったことだったろうと思う。そのようなことが続いた中で8月15日を迎えた。

 あの日は朝から晴天だった。ラジオ放送は正午に天皇の「玉音」放送があると予告していた。何しろ現人神(あらひとがみ)とされていた天皇がじきじきに国民に話しかけることなどはまったく想像もできなかったことで、何となく非常に重大なことなのだろうという予感はしたが、さらにいっそう奮起して戦えと言われるのかなどと思ったりした。正午前には病気療養中だった叔父の部屋にあるラジオの前に、祖父を初め家族中が集まった。

 やがて天皇の「玉音」が流れ始めた。初めて聞くその声は甲高く、聞き慣れない抑揚で、詔勅の朗読らしかったが、何が何やらまったく意味が分らなかった。明治初めの生まれだった祖父は衣服を改めて一番前に正座し、何か巻物のようなものを捧げ持って、深く頭を垂れて全身を震わせていた。放送は程なく終わったが、結局どういう内容だったのか分らないままに、何か狐につままれたような気持ちで、叔父の部屋から出た。

 それからしばらくして叔父の部屋に行くと、横になっていた叔父は暗い顔をして「日本は負けたんだよ」と言った。「神国日本」が戦争に負けるなどとは想像もしていなかった私は唖然としてしまった。その後で両親達とどのような話をしたのか、祖父の様子はどうだったのかなどまったく記憶にない。ただ外に出てみると、あたりは静まり返っていて青空が目に痛いほどだったことは覚えている。その夜私は日記帳に「日本は戦争に負けた。この世から正義はなくなった」というようなことを書き記したことを、今では苦笑を催しながら思い出す。いっぱしの軍国少年だったのだ。

 こうして、当時の私はその言葉を知らなかった「平和」が訪れ、空襲の恐怖から解き放たれた。後になって、その日にどのように思ったかを父に尋ねたことがあるが、父は「本当にほっとした」としみじみ言った。負けた悔しさ、悲しさよりも、虚脱感を伴ったそれが偽りのない真情だったのだろう。日本の、特に都会の庶民は疲れ果てていたのだろうと思う。妻は戦争が終わったと知って「本当に嬉しかった」そうだ。原爆投下以来1週間、まだ地獄の中にあって心からそう思ったのだろ。

 あれから62年の歳月が過ぎ、「平和」は当たり前のことになった。「平和憲法」のもとで日本は戦争をしない国として繁栄を取り戻した。平和ほど尊いものはない。日本が真に世界に誇れることは半世紀以上も「平和」を大切にしてきたことだと思う。しかし、最近は「平和ボケ」などと言って平和を貶め、平和の大切さを言うと世界の現実を知らないかのように嘲笑する言辞が出ているのは悲しいことだ。だが、そのようなことを言う人に「経験すれば分かる」とは言いたくない。誰であってもあのような悲惨な経験は決してしてほしくはない。他国に大きな災害をもたらし、日本自身も多大な損害を被った大戦が終わったのは、僅か60年ほど前のことなのだ。たとえあの時代を知らなくても、戦争の悲惨さ、平和の尊さは心に深く刻み込まなければならないと思う。