62年前の1945年8月6日午前8時15分、広島市の中心の上空で原子爆弾が炸裂した。
当時、広島市の西部に住んでいた私の妻はこの朝、近くにある自分が通っていた小学校の校庭にいた。夏休み中だったが小学校4年生だった妻は、手旗信号の練習とかで何人かの友人達と登校していたようだ。突然、校庭から見える市街地の方向が強烈に光ったので振り向くと、晴れわたった青空に「お日様が2つ見えた」そうだ。その1つが見る見るうちに空いっぱいに広がり、驚いているうちに激しい風が吹き付けてきて妻も友人達も地面に薙ぎ倒された。いったい何事が起こったのか分からなかったようだが、つまり妻達は原爆が炸裂した直後の何秒間を見たのだった。
それから後は夢中で学校から逃げ、自宅に戻ろうとしたが隣家が出火していて近寄れなかったので、1人の友達と山手の方に走って逃げ、どうにか知り合いの農家の縁先で一息入れさせてもらうことができた。かなりの時間そこにいて道路の方を見ていると、やがてぞろぞろとたくさんの人たちが歩いて来た。中心地で被災した人たちだったのだが、それは幼かった妻には異様な姿に写ったようだ。何やら真っ黒に見える人たちの集団がよろよろと歩いてくるのを見て妻は「ああ、これが地獄というものなんだろう」と思ったそうだ。それは妻にとっては生涯忘れることが出来ない強烈な光景だった。
その日のうちに家には帰ることができたが、それから後の日々も妻にとっては地獄のようなものだったらしい。自宅近くの道路脇には無残な姿の被災者が横たわり、小学校にも被災者が溢れていたと言う。妻は見なかったが、被災者達は次々に死に、校庭の隅に掘られた穴で焼かれたそうだ。市街地からも遺体が運ばれて焼かれたようだが、もちろん身元確認などはできなかっただろう。14万人の市民が死亡した。
妻は在世中は、毎年この日の朝に放映される原爆記念碑のある平和記念公園での追悼式の様子を必ず見ていた。ある年、少し寝坊した私がテレビの前に行くと、妻はじっと画面に見入って涙をぬぐっていた。何年たっても恐ろしく悲しい記憶が甦ってくるのだろう。その姿を今も思い出す。
妻が悪性の癌に罹り、余命僅かということが知らされた後で、小学校の教員をしている次男が、妻の体験談を収録して社会科のビデオ教材を作った。お母さんが生きているうちに話を聞いておきたいと考えたようだ。息子のインタビューに妻は淡々と穏やかに答えていたが、最後に感想を聞かれると急に涙ぐんで、「戦争はいや」と一言だけ言った。私には妻の思いがよく理解できた。妻は1人の平凡な主婦で、声高に平和、反戦を言うことはなかったが、2人の男の子の母として、自分の恐ろしい戦争体験から心から戦争を憎み、平和な世の中を願っていたのだろうと思う。
その後、8月9日には長崎にも原爆が投下され7万人が死んだ。広島の原爆はウラン型、長崎のものはプルトニウム型だった。当時敗北することがほぼはっきりしていた日本に、2発も原爆を使用する戦略的な意味ははっきりしていないと言われる。私は、米国は作った2種類の原爆の実戦的効果を試したかったのだろうと思う。それに有色人種に対する差別意識が強く、とりわけ真珠湾攻撃以来日本人への憎悪が強かった当時の米国にとっては、それはさほどためらいを感じる行動ではなかったのだろう。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの乗組員達は基地のテニアン島に帰還すると全員が勲章を授与され、夕方から深夜まで軍人や科学者達が盛大な祝宴を開いたと言う。その頃、広島には黒い雨が降り、多くの被災者が苦しみもがき死んでいく、まさに地獄だったのだ。
この年の3月の東京大空襲も多数の非戦闘員を殺した無差別爆撃として糾弾されるべき蛮行だったが、これを指揮しその回想録で「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。・・・・木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか」と強弁した米空軍のカーチス・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として原爆投下にも係っていたが、戦後の昭和39年には「日本の航空自衛隊の育成に貢献した」として、日本政府から勲一等旭日大綬章が贈られている。
当時、広島市の西部に住んでいた私の妻はこの朝、近くにある自分が通っていた小学校の校庭にいた。夏休み中だったが小学校4年生だった妻は、手旗信号の練習とかで何人かの友人達と登校していたようだ。突然、校庭から見える市街地の方向が強烈に光ったので振り向くと、晴れわたった青空に「お日様が2つ見えた」そうだ。その1つが見る見るうちに空いっぱいに広がり、驚いているうちに激しい風が吹き付けてきて妻も友人達も地面に薙ぎ倒された。いったい何事が起こったのか分からなかったようだが、つまり妻達は原爆が炸裂した直後の何秒間を見たのだった。
それから後は夢中で学校から逃げ、自宅に戻ろうとしたが隣家が出火していて近寄れなかったので、1人の友達と山手の方に走って逃げ、どうにか知り合いの農家の縁先で一息入れさせてもらうことができた。かなりの時間そこにいて道路の方を見ていると、やがてぞろぞろとたくさんの人たちが歩いて来た。中心地で被災した人たちだったのだが、それは幼かった妻には異様な姿に写ったようだ。何やら真っ黒に見える人たちの集団がよろよろと歩いてくるのを見て妻は「ああ、これが地獄というものなんだろう」と思ったそうだ。それは妻にとっては生涯忘れることが出来ない強烈な光景だった。
その日のうちに家には帰ることができたが、それから後の日々も妻にとっては地獄のようなものだったらしい。自宅近くの道路脇には無残な姿の被災者が横たわり、小学校にも被災者が溢れていたと言う。妻は見なかったが、被災者達は次々に死に、校庭の隅に掘られた穴で焼かれたそうだ。市街地からも遺体が運ばれて焼かれたようだが、もちろん身元確認などはできなかっただろう。14万人の市民が死亡した。
妻は在世中は、毎年この日の朝に放映される原爆記念碑のある平和記念公園での追悼式の様子を必ず見ていた。ある年、少し寝坊した私がテレビの前に行くと、妻はじっと画面に見入って涙をぬぐっていた。何年たっても恐ろしく悲しい記憶が甦ってくるのだろう。その姿を今も思い出す。
妻が悪性の癌に罹り、余命僅かということが知らされた後で、小学校の教員をしている次男が、妻の体験談を収録して社会科のビデオ教材を作った。お母さんが生きているうちに話を聞いておきたいと考えたようだ。息子のインタビューに妻は淡々と穏やかに答えていたが、最後に感想を聞かれると急に涙ぐんで、「戦争はいや」と一言だけ言った。私には妻の思いがよく理解できた。妻は1人の平凡な主婦で、声高に平和、反戦を言うことはなかったが、2人の男の子の母として、自分の恐ろしい戦争体験から心から戦争を憎み、平和な世の中を願っていたのだろうと思う。
その後、8月9日には長崎にも原爆が投下され7万人が死んだ。広島の原爆はウラン型、長崎のものはプルトニウム型だった。当時敗北することがほぼはっきりしていた日本に、2発も原爆を使用する戦略的な意味ははっきりしていないと言われる。私は、米国は作った2種類の原爆の実戦的効果を試したかったのだろうと思う。それに有色人種に対する差別意識が強く、とりわけ真珠湾攻撃以来日本人への憎悪が強かった当時の米国にとっては、それはさほどためらいを感じる行動ではなかったのだろう。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの乗組員達は基地のテニアン島に帰還すると全員が勲章を授与され、夕方から深夜まで軍人や科学者達が盛大な祝宴を開いたと言う。その頃、広島には黒い雨が降り、多くの被災者が苦しみもがき死んでいく、まさに地獄だったのだ。
この年の3月の東京大空襲も多数の非戦闘員を殺した無差別爆撃として糾弾されるべき蛮行だったが、これを指揮しその回想録で「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。・・・・木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか」と強弁した米空軍のカーチス・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として原爆投下にも係っていたが、戦後の昭和39年には「日本の航空自衛隊の育成に貢献した」として、日本政府から勲一等旭日大綬章が贈られている。
