中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

雛飾り

2010-02-26 11:31:07 | 身辺雑記
 Hg君夫妻とHr君のいつもの顔ぶれで、隣の川西市にある郷土館に、古い雛人形を見に行った。

 郷土館は、この地で江戸時代から銅の清廉業を営んでいた平安(ひらやす)家の旧邸を利用したもので、パンフレットによると「この地方の伝統的民家の特徴と、明治以降広まった数奇屋風の造り、そして技術的な革新と近代性を備えた建物として、大正中後期に建てられた」ものである。国登録文化財となっている。




 この郷土館で雛祭りにちなんで、市内の旧家から寄贈された大正時代の雛人形が展示されているということで見に来た。

 座敷に、天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾っている。男雛が向かって左側に位置しているのは、古い歴史のある京都など畿内や西日本の古くからの伝統のある飾り方で、「古式」と呼ばれる。




 昭和の内裏雛。この場合は男雛が向かって左側に位置しているもので東京に多く、明治天皇の即位礼に倣ったと言われる。「現代式」と言われる。


 大きなガラス戸を通して庭を見る。当時としてはこのように大きなガラス板は高価なものだっただろうが、製造技術が進んでいなかったために光を屈折して、外の景色がゆらいで見える。


 廊下。10メートル継ぎ目なしの松材を使用している。こういうところが目立たない贅沢なのだろう。この屋敷の建築材には無節の桧と欅が中心に使われていると言う。


 中庭。


 郷土館を見てから、ついでに隣接する猪名川町のふるさと館に立ち寄った。ここでも古い雛人形が展示されていた。


 明治時代の雛。これも古式の配置。


 江戸時代前~中期の元禄雛。華やかさはなく小さいが精巧な細工。布製のようである。



 *ブログ友の静岡のAさんに倣って、土・日曜日はブログ掲載を休むことにしました。

サンゴジュの新芽

墓マイラー

2010-02-25 09:33:08 | 身辺雑記
 祖父五郎やその長兄國臣のことを長男と話したついでに、祖母の家系のことや、母方のことについても話したが、何しろ家系図のあるような家柄でもないから話が断片的になった。次男はあまりこのようなことには興味はないようだから、こんな話題は先々続くことはないだろう。ただ次男は我が家の墓所については関心を持ったようで、それもやがては私のことがあるからだろうが、おととし2人で東京の谷中霊園にある墓を訪れたことがある。

 長男はインタネットに五郎の墓についてもあったと言った。五郎の墓と言えばいずれ私も入ることになるもので、そんなものがインタネットで見られるのかと少し驚いた。長男は「墓の写真もあった。こんなことを調べている者もいるんだなあ」と少し呆れたように言った。後で調べてみると「谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー」というサイトで、この中に「谷中墓地」というのがあって、我が家の墓のある谷中霊園とその周辺の墓地にある有名人の墓を網羅している。

 これによると有名人の墓を訪ね歩く者を「墓マイラー」(ハカマイリ+er)と呼ぶらしく、その墓マイラーにとっては便利なものだろうと編まれたもののようで、谷中墓所にある有名人」の墓所を挙げているのだが、300以上もあり、しかもそれぞれの人物の経歴や墓石の写真まであるのには驚いた。1人の作なのだろうか。いずれにしてもとてつもない労作で、世の中には考えられない内容のことに興味を持ってエネルギーを注ぐ人もいるものだ。

 植物学者の牧野富太郎や「山のあなたの空とおく」の詩で有名な「海潮音」の著者の上田敏、作家の圓地文子、日本画家の鏑木清方、第47代横綱の柏戸などはよく知られている有名人だし、現首相の両親の墓所も挙げられている。しかし大方は有名人と言っても、知らない人物で、中には「毒婦」として明治初期に斬首刑に処せられた高橋お伝の碑も紹介されている。とにかく「墓マイラー」にとってはこたえられない場所のようだ。お蔭で、私の祖父やその長兄までも著名人の仲間入りをしたわけだ。

 春には長男の家族と行こうと話している。もっとも墓マイラーの趣味はないので、せいぜい國臣の墓を訪ねるくらいのものだ。ここには次男とは行ったが、長男はまだ知らないので、かなり興味を持っているようだ。

祖父の長兄

2010-02-24 09:11:47 | 身辺雑記
 長男が電話してきて、「ひいじいさんの名前は何と言うのか」と尋ねた。急に何を聞くのかと思いながら、「五郎だ」と答えた。すると「いや、そうじゃなくて五郎のお父さんだ」と言う。私の曽祖父の名前を聞いたのだった。「見たこともないから知らないな」と答えたが、何しろ幕末の大分の人間ではなかったか程度のうろ覚えだから名前などは聞いたことがあったかも知れないが忘れてしまっていた(後で調べたら島原藩士で「宗雄」だった)。

 「じゃあ、國臣(くにおみ)というのは誰?」と尋ねたから「それは五郎の一番上の兄だ。國臣の下に二郎も三郎も四郎もいたようだが、四郎しか知らない」と答えた。どうやら國臣が五郎の父親と思って興味を持ったらしいので、知っている限り大まかなことを話した。いったん電話を切ったがすぐにまたかかってきて、インタネットで調べたと言って國臣の経歴を読んでくれた。かなり知らないことが多かった。

 読みながら息子が時々笑ったのは、どうもその経歴を見ると國臣という人物はいささか強引な性格だったらしいからだ。後でGoogleで検索してみると、現在の大分県宇佐市で生まれ、中津の中学を卒業してから上京して慶応義塾に入り、卒業後司法官になり、それからは順調に「出世」して司法次官を経て検事総長にまでなった。しかし、明治29年に初の政党内閣である大隈重信内閣の下で懲戒免官となった。どうも司法次官の時に、前内閣司法部刷新のために古参者や無能な司法官を強引に勇退に追い込み、その一方で自分は検事総長の要職に横滑りしたことが退職者の恨みを買ったらしい。 その後、半年で懲戒免官は免ぜられて東京控訴院検事長に返り咲いた。その後は検事総長さらには大審院院長(現在の最高裁判所長官)に上り詰めた。

 ところが、その大審院院長のポストをいつまでたっても手放さない。それで退任を示唆して男爵を授けられたが、その後も一向に勇退しない。そのため、業を煮やした政府は、本来は終身官とされていた司法官に定年制が設けたので、やっと15年にわたって居座り続けた職を退いた。いやはや、法律改正の要因にもなるなどなかなか強引、強気な人物で、息子が笑ったのも無理はない。戦前はいろいろなことができたものだと少し呆れる思いがした。

 國臣は大正12(1923)年に73歳で没した。私が生まれる10年も前のことだから、私にとっては祖父の話の中で時折聞いたくらいで、写真も見たことがあったかなという程度の人物だ。家系はすでに絶えたようだ。祖父の五郎も司法官で、最後は朝鮮総督府の高等法院長を勤め退職した。この家系が私の息子や孫たちにも続いているが、没落したわけではないが、ごく平凡な家系だ。戦前まではそれなりの意識もあったようだが、所詮は司法官、公務員の子孫だ。たいしたものではない。敗戦のためにすべてが変わったので、何かせいせいした感じがする。 


厄年

2010-02-23 08:56:19 | 身辺雑記
 若い女性を対象にしたようなアクセサリーなどを売っている店の前を通ったら、通りに面したガラスに「平成二十二年度 厄年一覧表」というものが貼ってあった。店の雰囲気には何となくそぐわない感じもしたが、「厄除けグッズ」でも売っているのかと思いながらも、店の中は覗かなかった。今頃は、星座とか運勢占いとか血液型などに興味を持つ若い女性は少なくないようだから「厄年」などということにも無関心ではないのかも知れない。



 厄年ということは昔から言われていて、私も男は42歳、女は33歳が厄年だくらいはおぼろげながら知っていた。しかし、もともと私の両親は迷信の類は顔を顰めるか、無関心なほうだったから、家では厄年だと騒ぎ立てるような雰囲気はまったくなく、そのようなものがあると言うことは、長じてからうろ覚えに知ったくらいだから、この年になっても知識としては皆無に等しかった。それで、店に貼ってあった「厄年一覧表」を見て、急にもう少し知りたくなって調べてみた。

 厄年というのは災厄が多く降りかかるとされる年齢のことで、平安時代にはすでに存在していたそうだが、出典や起源はまったく不明の、どうも我が国で言い出されたものらしく、中国由来のものではないようだ。今ではまったくの迷信とされているが、それでも根強くある考えだ。いや、そうではない、厄年とは年代が変わる頃で環境や体調が不安定になる年齢で、それなりの根拠があると言う反論があるかも知れないが、それについての科学的な根拠、統計はないと言う。

 それはともかくとして、「厄年一覧表」を見ると、42歳、33歳というだけの簡単なものではない。厄年は数え年で数えるのだが、男と女では違っていて、男では2歳、5歳から始まって65歳まで、女では3歳、9歳から始まって69歳まで、各年代に2回ずつある。そのうちの男の25歳、42歳、61歳、女性の19歳、33歳、37歳は「本厄」とされていて、、特に男性の42歳、女性の33歳は「大厄」と言うのだそうだ。「厄年中の厄年」と言うところだろう。



 それどころか、この他に「小厄」というものがあるとされているようで、「しょうやく」と言うのか「こやく」と言うのかは知らないが、男では8歳、18歳・・・・68歳、女では7歳、17歳・・・・67歳がそれに当たるようだ。広辞苑を見ても「小厄」はない。いずれにしても、これでは年代ごとに「厄」が付く年が何回もあって、おちおちしておられない気がする。それに大厄の年の前後には「前厄」、「後厄」と言うのもある。

 「厄年」ということは年齢についてだけ言うものではなく、良くないことが多かった年の終わりごろに「今年は厄年だったなあ」とか「今年は厄続きだった」などと言ったりするが、これは私でも使うことがある。

 厄年を逃れるために厄払いと言うことをする神社や寺があって、私がいつも利用する私鉄の沿線にある門戸(もんど)厄神という寺が有名で、毎年の1月18日と19日の厄除大祭には参道には数多くの屋台が並び、何万人もの参詣者が押しかける。すべてが厄年の年齢の者ばかりでなく、むしろ多くは災厄のない年であるようにという祈願のために参詣するのだろう。実際、近頃のように不景気が続き、失業や倒産が多く出るようでは神頼みもしたくなるだろう。頼まれる神様には福ばかりで厄はないようだ。

 私の場合はもう厄年などというものには縁がない年齢になったようだ。昔は60歳ともなれば立派な老人だから、このあたりで厄も打ち止めとしたのだろうか。関心がなかったし、近頃では普通には使わない数え年で言うから、大厄も知らないうちに過ぎてしまった。振り返ってみるとこれまでの人生には適当に厄もあり福もあったから、まあまあバランスは取れていたのだろう。何よりも健康で過ごしてこられたのは有難いことだった。






辛党

2010-02-22 10:40:49 | 身辺雑記
 今に始まったことではないのだが、時々酒が飲めたらなあと思うことがある。私はまったくの、と言うよりは少しだけは飲めるが、それでも分類上は辛党には入らない、言うところの下戸だと思う。

 アルコール類は嫌いではない。ウォッカや中国の白酒(パイチョウ)などのような強烈な酒はだめだが、醸造酒は日本酒も中国の紹興酒やワイン、ビールなど少しくらいなら飲めるし、おいしいと思う。蒸留酒も、焼酎はうまさが分からないが、ウィスキーやブランデーなどは香りが好きだし口に含んだ時の味わいもいいと思う。もっともいわゆる酒飲みに比べたら舐める程度しか飲めない。酒は嫌いではないが弱いのだ。すぐに体が火照ってきてだるくなってくるし、顔が赤くなる。だから外では飲まないようにしているが、それだけに人がうまそうに飲んでいるのを見ると羨ましくなる。とりわけ暑い日に昼食をとりに店に入り、うまそうにビールを飲んでいる人を見ると、自分の人生には楽しみ、歓びが1つ欠落しているように思ったりもする。

 酒は飲めないくせに、肴になりそうなものは何でも好きだ。塩辛などの辛いものがいい。これは多分父の影響ではないかと思う。父は酒(日本酒)が好きだった。毎日母の手作りの料理で晩酌を楽しんでいたが、きれいな酒で乱れたのを見たことがなかった。父は口が奢っているところがあり、鮎のうるか(鱁鮧)やこのわた(海鼠腸)、からすみ(鱲子)などが好きだった。父はそのような肴を私にほんの少しくれることがあり、私も子どものくせにそれを美味しいと思った。そのような高級品は長じてからは口にすることは稀になったし、父も戦後は逼塞していたので縁遠いものになったが、不思議にその味の記憶は残っている。それやこれやで酒は飲めないのに肴になるようなものは何でも好きになってしまった。父は私達子どもには優しい人だったが一面では厳格なところがあり、私が未成年の間は酒を飲ませることはなかった。小さい時から舐めさせる程度でいいから酒を口にさせてくれていたら、少しは強くなったかも知れない。そうすれば父と酒を酌み交わす楽しみもあったろうになどと思ったりすることもある。

 辛党という語を「辛い物好き」と誤用することもあるようだが、その意味では私はかなり辛い物好きだから辛党なのかも知れない。父は酒好きだったが、厳密な意味での辛党ではなく、甘いものも好む、いわゆる「両刀遣い」だった。私も甘い物は嫌いではないが、甘党と言うほどではない。「両刀下手遣い」とでも言うか。とくに年を取るにしたがって、最近流行りの「スイーツ」の類は敬遠しがちで、「ケーキバイキング」などは聞くだけで胸がもたれる思いがする。甘いものは西洋風の濃厚な甘さのものよりは、和菓子などの方が今では好みに合うようになった。

 辛党にしても甘党にしても、何事にも程々が健康のためにもいいのではないかと思う。

サンデー

2010-02-21 07:48:39 | 身辺雑記
 電車の中で拾い読みするのによいと思ってバッグに入れているのが、『ちがいの分かれ目』(辻本圭介編 小学館)という本で、2,3年前に買ったがちょっと開いただけで放っておいたものだ。要するに「雑学ネタ」の本で、よく似た言葉の意味を見開き2ページにまとめていて肩の凝らない読み物になっている。内容は最初に「序文と前書き」から始まり、以下、例えば「美容院と理容院」、「クレヨンとクレパス」、「ジョギングとランニング」、「汚名返上と名誉挽回」、「辞典と字典と事典」、「焼酎と本格焼酎」など101項目ある。知っていたこと、初めて分かったこと、おぼろげに知っていたがはっきりしたことなどいろいろだ。

 その中のひとつに「パフェとサンデー」というのがあった。両方とも女の子が好きな甘い食べ物だが、パフェは「泡立てた卵や生クリーム、シロップを混ぜ合わせて冷やして固めるフランスの『パルフェ』に由来した冷菓のこと、アメリカで誕生したと言われています」とあり、サンデーとは「アイスクリームをベースに生クリームやフルーツ、バタークリームやチョコレート、シリアルなどを加えたデザートの名称」とある。私は喫茶店などでメニューで見ても甘過ぎるようでとても注文する気にはなれない。特にサンデーは近くの席で女の子達が食べているのを見ただけで胸がもたれそうになる。少しなら食べてもという気持ちもあるが何しろ量が多い。

 そのサンデーだが、説明を読んでいると名称の由来が面白かった。これは19世紀にアメリカで発明されたようで、元来は日曜日に販売されて大人気だったクリームソーダーを、禁欲的なキリスト教指導者が日曜と祝日の販売を中止させたので、代わって登場したのがソーダを使わず、アイスクリームの上にチョコレートをトッピングしたのがサンデー(Sunday)で、日曜日に売られることからの手軽なネーミングだった。ところがこのネーミングにまたもや敬虔なクリスチャン達が、デザートの名前に“主の日”の名をつけるとは何事かと反発したので、その結果、綴りをSundaeと変えたそうだ。サンデーの綴りがSundaeということはこの本で初めて知った。今では何か信じられないようでもあるが、保守的なキリスト教徒の多い米国の、それも19世紀のことだから、こんなこともあったのだろう。

 信仰心の厚い人達は尊敬できる面はもちろん多いのだが、時には偏狭さが表われてちょっと付いていけない気持ちになることも少なくない。私が高校に勤務していた頃、担任していたある女子生徒に「先生が私たちと同じ信仰を持たなければ信頼できません」と言われたことがある。その子は学校の遠足で京都に行って大きな寺を拝観した時、「これは邪教ですから」と言った。自分達の信仰、信念が絶対的に正しいと信じるのはよいのだが、自分以外の信仰や教義を持つ者に対してはひどく非寛容な態度をとったり、圧力を加えたりすることは宗派を問わず今でもあるようで、キリスト教徒にもイスラム教徒にもある原理主義者などはその最たるものだろう。たかが冷菓の名称くらいで非難し圧力を加えて屈服させることはバカらしいようであっても、その「純粋」さは怖いことでもある。



自転車加害

2010-02-20 10:41:13 | 身辺雑記
 自転車が交通事故の加害者となることは意外に多いのだそうだ。それに関連して加害者に対して高額の損害賠償を求められる例も出ている。

 平成17年に、当時16歳だった女子高生が夜間に携帯電話をかけながら無灯火で走行中、前方を歩いていた看護師の女性と衝突。女性の手足にはしびれが残り、歩行困難となった。この事故に対して横浜地裁は、女子高校生に5千万円の支払いを命じた。

 5千万円とは高額で、本人はもちろん事の重大性を思い知っただろうし、その支払いについては家族も途方に暮れたのではないか。しかし被害者の被害の程度を考えると当然のことで、自転車だったからという言い訳はできない。夜間に無灯火で携帯電話をかけながら走行していたと言うのでは弁解の余地はまったくない。

 この高校生が携帯電話で話していたのか画面を見ていたのかは分からないが、私も暗い夜道で急に前方から曲がってきた自転車に危うくぶつかられそうになったことがあった。やはり若い女性だったが、このときには画面を見ながら走行していた。その女性のすぐ後から来た若い男性も画面を見ながらの走行で、いったいこの連中はどうなっているのかと腹が立ってしまった。自転車でなくて歩行者だったが、暗い細い道で画面を凝視しながら歩いてきた女性とすれ違ったこともある。携帯依存症としか言いようがない。

 携帯依存症はどうにかならないものかということは前にも書いたが、最近の携帯に対する執着の強さは、私にはまったく病的な異様な状態に思える。このような「患者」はよほどのことがない限りそのような状態から脱することはないだろうから、事故を起こした場合には厳しく罰するべきだと思う。被害者にとってはたまったものではない。非情な言い方をすれば、加害者になるくらいなら自損事故で重大な障害を蒙ればいいとさえ思う。

 警察庁によると、自転車が当事者となった交通事故は、平成20年度では全体の21.2%を占めているそうだ。10年前と比べると対歩行者の事故は4.5倍に増加したと言う。バカにならない数字で、この中には無灯火の場合や、携帯を見ていてという事例もあったのではないかと思う。自転車は車に比べると何となく弱者のように思われるが、最近のように自転車通勤・通学が増え、レジャー用の高速高級車も増えている時代には加害の凶器になることも当然あるだろう。

 案外知られていないが、自転車のための保険もあるようだから、常時使用する場合には加入しておくのがいいだろう。もっとも保険をかけておけば人身事故を起こしても安心と言うものではない。基本は携帯を見ながら、あるいはかけながら乗らないとか、無灯火で走行しない、歩道ではスピードを出さないという最低限の常識、マナーは心得ておくべきだろう。





オリンピックと新聞

2010-02-19 09:22:29 | 身辺雑記
 カナダのバンクーバーで冬季オリンピックが開催されて1週間がたった。私がとっている新聞は連日オリンピックの記事を書きたてているが、他紙も同じだろう。

 私はおそらくは非常に少数派なのだろうが、オリンピックにはほとんど興味がない。冬は夏に比べると競技種目に馴染みが薄いからだからではない。私は夏のオリンピックにも関心が薄い。個々の競技には好きなものがあり関心もあるし、北京オリンピックは時差の影響がないからいくつかの競技は見た。それでもテレビにかじりつくというようなものではない。とりわけメダルというものに興味がなく、国ごとにメダル数を競うようなことはバカらしいとも思っている。どの競技であれ、そこに参加しているアスリート達の姿を見るのがいい。

 だから、この1週間は新聞を開くといささか辟易している。毎日見ているのはもちろん普通紙だが、まるでスポーツ紙かと思うくらいにオリンピックの記事が溢れている。競技が始まった翌日の朝刊には驚いた。1面のトップを大きく占めていたのは、女子モーグルの上村愛子選手に関する記事で、大きな見出しが「上村全力 涙の4位」というものだ。メダルを取らなかったのに1面トップはおかしいと言うつもりはない。しかし何となく違和感を覚えたのだった。1面には他に「消費税論議『来月に』」とか「子ども手当て『無駄削減分で』」、「大証取引 未明まで延長」という3本の記事がある。記事の位置からすると新聞社としてはオリンピックの記事が読者にとっては一番関心があり重要だと考えたのだろう。

 私がオリンピックに関心が薄いからこのように言うととられるかも知れないが、本当に読者の多くはオリンピックを最重要に考えているのだろうかと思う。上村選手は前からよく記事になっていたようだから、あるいはメダルを取ることが期待されていたのかも知れない。それで1面の記事としてスペースを取っておき、結果は期待はずれに終わったが予定していたスペースはそのまま使ったのではないかと、新聞編集の技術についてはよく知らないから単純に想像してしまった。1面だけではないスポーツ面は「愛子の速さ見たかった」という大きな写真付の記事。社会面は「愛子の母でよかった」と情緒過剰の記事と応援する母親の写真、ざっと目を通しただけで食傷気味になった。

 それ以来、朝刊も夕刊も連日1面には日本選手の記事が掲載されている。オリンピックは間違いなくスポーツの一大イベントで、これに熱狂する者が多いのは当然だ。しかし一方では私以上に無関心な者もいるだろうし、嫌いな者もいるはずだ。オリンピックどころじゃないと言う人もいるかも知れない。だからマスコミは絶叫調ではなくて、もう少しバランスの取れた姿勢で報道するべきだ。何でも彼でも1面の記事にする必要はないのではないか。戦時中のスローガン「一億一心火の玉だ」というような感じを受けないようにしてほしい。

インフォームド・コンセント

2010-02-18 09:43:06 | 中国のこと
 春節(旧正月)の3日前に、謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)が肺炎と診断されて入院した。咳はよく出るが熱はなく、いたって元気なのだが、医師が肺炎と診断したので従った。素人だからよく分からないが、肺炎なら熱が出るのではないだろうか。熱が出ずに咳が出るのは気管支炎ではないかとも思うのだが、医師がそう言うのならそうなのだろう。

 毎晩電話して様子を尋ねているのだが、1歳5ヶ月になるナオナオはとても元気で、毎日ナース・ステーションに歩いて行き、ナースから「あんた、また来たの」などと言われるし、同室の子どもの親からは病気とは思えないと言われるほど活発らしい。それでも医師達はやはり肺炎だと言い、入院して3日目には、これまで点滴に入れていた薬は効かないようだから変えると言われたとかで、いったいどうなっているのかと謝俊麗は不安にも不満にも思っているようだ。

 夫の劉君がナオナオを連れて医師のところに行き、どういう状態なのかと尋ねたが、応対した医師の態度はまことに無愛想で不親切なもので、いったい何が知りたいのかというようなあしらいだったので、「劉君はそれ以上は聞けなくて仕方なく戻ってきたのよ」と俊麗は非常に不満そうに話した。この病院は私立で、医師の技量の程は分からないが、患者の立場に立って訴えを聴き、丁寧に説明するという姿勢が根本的に欠落しているのではないか。いわゆる「インフォームド・コンセント」の問題だ。

 以前は日本にも無愛想な、時には傲慢、横柄な態度で患者に接する医師は無きにしも非ずだった。かつて私が心臓神経症で苦しんだ時、このような病気持ちの者にありがちな傾向だが、私も何人か医師を変えた。ある初めての医院に行くと医師はまったく無表情な無愛想な人物で、私が症状を訴えても一言も発せず、急に立ち上がって何の薬かの説明もなしに二の腕に注射して、それでおしまいだった。神経症なのだから何らかのアドバイスがあってもよさそうなものだが、まったく機械的な扱いで腹立たしい思いがした。診察室を出ると待合室に大きな水槽が置いてあるのが目に留まった。見るとちょっと大きな熱帯魚らしいのが1匹泳いでいたが。水槽の中には水草もなく、底に敷いてある小石には青黒い苔が生えていて見るからに汚らしい。これを見たとたんにこの医院を信頼する気持ちは失せてしまい、それっきりにした。今でもその医師の顔を思い出すたびに不愉快になってくる。

 このような不愉快な医師は今ではほとんど存在しないのではないだろうか。現に私がホームドクターのようにしているY先生は人当たりがとても良く、質問に対して、時には図を描いたりしながら説明してくれる。接していて何か安心できて気持ちが落ち着く。このような医師は多くなっているのだろうが、それは「正しい情報を得た(伝えられた)上での合意」を意味する概念であるインフォームド・コンセントということが浸透してきているからではないか。英語のinformed consentの意味は元来はあらゆる法的契約に適用されうる概念だそうだが、日本語でこの用語を用いる場合はもっぱら医療行為に対して使用されている。医療行為について言われる内容は「医療行為(投薬・手術・検査など)や治験などの対象者(患者や被験者)が、治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受け理解した上で (informed) 、方針に合意する (consent) ことである」と説明されている(Wikipedia)。

 中国の医学水準は今では決して低くはないだろうが、医療従事者のインフォームド・コンセントについての理解は乏しいのではないか。そのせいか医師に対する不満は少なくないようで、他にも中国の友人から「冷たい」という不信の言葉を聞いたことがある。中国で真に患者から信頼される医療や医師が育つのは、まだもう少し先のことかも知れない。もっとも数年前に西安の中医(中国医学)の病院で治療を受けた時の担当の40歳くらいの医師は非常に親切で、ガイドの邵利明を通じて説明をしてくれたし、施術も満足できるものだった。中医の医師だったからそうだったのかも知れないが、西医(西洋医学)の医師にもあのような人が増えてくればいいと思う。





権威への反逆?

2010-02-17 08:55:47 | 身辺雑記
 バンクーバー冬季オリンピックが始まったが、開会前にスノーボードのハーフパイプ(HP)の国母という選手がちょっとした騒動を起こした。

 この選手はHPの日本代表選手だが、成田空港を出発する際のスタイルが、日本選手団公式スーツを崩し、腰パン・ネクタイ緩め、またブレザーの前は閉めず、ドレスシャツの裾も出し、更にはドレッドヘアに鼻ピアス、サングラスという独特のもので、テレビのニュースでこれを見た視聴者から全日本スキー連盟に批判が多数寄せられた。私はインタネットで写真を見たが、他の選手達に比べて飛び抜けてだらしがない格好で不愉快な印象だった。

 腰パンとはズボンを腰骨より数センチ下げて穿くもので、最近はあまり見かけないが、一時は崩れた雰囲気の高校生や若者に流行っていたようだ。もとは米国のアフリカ系の若者の流行だが、日本では1990年代から広まったと言う。当人は脚の長い黒人の姿をイメージして格好がいいと思っているようだが、黒人に比べて日本人は胴長短足でこれが更に強調されて格好がいいどころか無様にしか見えない。国母の姿も何かチンチクリンな印象で滑稽にも見えた。

 ドレッドヘアと言うのは毛髪がロープのような形状になった髪型で、これも黒人のミュージシャンなどがよくしているものだ。腰パンと言い、ドレッドヘアと言い、かなり黒人のスタイルを意識したようだが、そのことで彼は何を主張したかったのか理解できない。私の長男は「HPはスキーの中ではヤンチャ系だから、あんな格好をして権威に反抗しているつもりなのかも知れないが、それならオリンピックなどには出なければいい。あれではHPをする者は皆あんな人間と思われてしまう」と言っていた。

 全日本スキー連盟では日本オリンピック委員会に国母選手の大会出場辞退を申し出た。これを受け、日本選手団の団長が国母選手と話し合った結果、大会出場を認めることが決まった。しかし選手村への入村式への出席は自粛させたが、それについての記者会見での彼の態度が、また不愉快なものだった。ある新聞のインタネットの記事によるとこんなものだったようだ。

 国母 「あーそれについて(服装の乱れについて)指摘されたので入村式には出ませんでした」
 記者 「指摘されたことはある程度納得されてるとか受け入れたということなんでしょうか?」
 国母 「チッ、うっせーな」(呟いたがマイクに拾われた)  
 監督 「反省してます」
 国母 「えっ」
 監督 「反省してます」。
 国母 「反省してまーす」

 動画も見たが、この遣り取りを見ると、この若者にはごく普通の常識やマナーの持ち合わせもないのではないかと思えた。彼は4歳でスノーボードを始め、多くの最年少記録を更新し、11歳でプロ資格を取得した。中学校在学中の14歳の時、USオープンで日本人初の2位入賞を果たしたと言うから、天才かどうかは分からないが、優れた素質と才能はあることは間違いないだろう。それなのに21歳にもなり結婚もしていると言うのにこの程度なのは、強いが言動はまったくなっていなかったボクシングの兄弟選手のように、おそらくは躾も含む家庭教育に問題があったのではないか。独断的な言い方になるが、父親がダメだったのだろう。

 このような彼の言動に「理解」を示す声も当然ながらあり、あるネット掲示板では、おそらくは若者だろうが、こんなことで騒いでいるのは日本だけで、外国人から嗤われるというような書き込みがあったが、このような訳知り顔は疎ましいし、ひいきの引き倒しと言うものだ。米国ヤフーは国母のカナダ入りを「日本人スノボ選手、乱れた服装で非難殺到」の見出しで、トップニュースで報じたと言う。このサイトは、成田からバンクーバへの移動時の国母を「垂れたズボン、外に出したシャツに、緩めたネクタイ…その辺にいるだらしない21歳」と表現したようだ。また、スノーボードには“権威などへの反逆”といったスタイルが浸透しているとしたが、時にルールを守り、周りに合わせる必要があることも指摘し。スーツが国民の税金で用意されたことにも触れた。ヤフーは最後に「まともに見える服装に、スーツほど簡単なものはない」と皮肉っているそうだ。また、ロイター通信でスノーボードの取材を担当するチャールス・デビー氏は「(米プロバスケットボールの)NBAでも選手の服装規定がある。世代によって感じ方が違うかもしれないが、国を代表する選手なら模範になる態度を取るべきだと思う」と話しているそうだ。

 何か一芸に秀でると、全人格的に優れているように持ち上げたり期待したりすることがあるがそれは錯覚で、ある才能に恵まれた者がすなわち人格者ではないことは、スポーツ選手に限らず実例には事欠かない。才能は天性的に恵まれても、人間としての人格、品性や、社会人としての常識やマナーは本人が過ごした教育を含む環境の影響が大きい。国母選手の服装や態度は彼自身がどのような人物かを公衆の前に露呈したが、しょせんは「滑れたらいい」、「強ければいい」、「勝てば文句あるまい」くらいにしか思っていないのだろう。こういうのがよく言われる「スポーツバカ」なのではないか。