中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

植物園

2009-05-31 09:33:12 | 身辺雑記
 市内にはかつてファミリーランドという遊園地があって、園内には動物園や植物園、遊具施設などがあり、親子連れで賑わっていたが、2003年に閉園となった。跡地はガーデン、住宅系、商業系、歌劇の4つのゾーンに分けて再開発されることになり、このうちガーデンゾーンがイングリッシュガーデン風の有料公園となった。ガーデンフィールズと称している。ふと思いついて出かけた。

 かつてあった大温室には売店や喫茶店などがあり、そこからガーデンに入る。入場料が要るので払おうとしたら、前にいた2人連れの女性の1人に、お入りになりますかと声をかけられ、よかったらお使いくださいと、この施設を経営している大手企業の株主優待券を渡され、ありがたく頂戴した。


 温室の奥は植物園となっているが、池があったり、曲がりくねった小径の周りにたくさんの植物が植えてあったりして、小規模ながら自然の中を散策している気分になった。












 園内ではちょうど「フラワー&ローズショー」というのをやっていた。




 バラは英国風の庭園に多くあり、少し花期が終わりかけていたが楽しむことはできた。この庭園は英国人のデザイナーの設計によるものだそうで、静かなよい雰囲気だった。平日だが中年の女性の姿が多かった。




























 中国産の原種のバラ

 売店内でバラの絵画の展示販売をしていたが、そこにいたスコティッシュ・フォールド種の猫。耳が小さいのが特徴でおっとりしていて愛らしい。玲音(レオン)という雄。飼い主が「ゴロン」と言うと、ごろりと寝そべり仰向けになった。猫でも芸をするのだなと、我が家の無芸のミーシャを思った。 





 仲睦まじい様子の鳩。愛情の表現かと思ったが、寄生虫を啄ばんでいるようでもあった。








川崎病

2009-05-30 09:20:12 | 身辺雑記
 西安の謝俊麗の息子の愛称麦豆(マイトウ)(または撓撓ナオナオ)が、川崎病で入院した。最初は熱が出て医師の診断を受けたが、初期の診断が誤っていて、後になって川崎病と分かった。

 川崎病は1967年に川崎富作博士が発表したことから、このように呼ばれていて、「急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群」とも言われる。川崎病にかかるのは90%が4歳以下で、男児が少し多いようだ。幼若児ほど重症になりやすく、春と冬とやや多く発症する傾向があるという。京浜工業地帯にある川崎市は公害で有名になったが、川崎病は公害とは無関係だ。

 発見されてから30年以上たっているのに、この病気については未知の部分が多いようだ。第1に原因が分かっていない。何らかの微生物が関係していることは間違いないようだが確定されていない。発病すると発熱以外にいくつかの症状が出るが、これらの症状はいずれ軽快するから治癒したかに見える。しかし冠動脈病変という合併症が出ることがあるという。心臓に血液を送る細い血管である冠動脈が炎症のため弱くなって、そこに血圧が加わると冠動脈瘤と言う膨らみができる。そして、成人の狭心症や心筋梗塞と同じような病態となるから怖いようだ。

 この病気に罹る前の麦豆はとても元気な子で、俊麗は写真や動画を送ってくれていたが、とても活発で、ハイハイも始めていたから俊麗も寝耳に水の驚きだったらしい。私も知らせを受けた時には驚いた。心配で落ち着かないので、病院で付き添っている俊麗に毎日のように電話して容態を尋ねていたが、一度は苦しそうな麦豆の泣き声が聞こえてきて、可哀そうで涙が出た。ただただ何事も無く治るようにと願うばかりだった。

 幸い予想より早く退院できたが、医師からは当分は要注意と言われたようで、俊麗の心は休まらないようだ。中国では適当な本が無いのか、日本のインタネットで探した本を注文してほしいと言ってきた。鎌倉市の「川崎病の子供をもつ親の会」が扱っている本で、俊麗にはこの会も紹介し、相談があればメールするように言っておいた。どのような原因で川崎病などという病気に罹ったのか、この先はどうなのかと心配は多いが、遠く離れていては何もできないのがもどかしい

 元気な時の麦豆。俊麗は私を麦豆爺爺(麦豆のおじいちゃん)と呼んでいる。前にもブログに書いたが、私にとって麦豆や李真の息子の宸宸(チェンチェン)は、中国のひ孫のような愛おしい存在だ。



 病室で離乳食を食べさせてもらって嬉しそうに笑う麦豆。顔が腫れている。この写真を見ると俊麗は涙が止まらないそうだが、私もいじらしくて涙ぐんでしまったからその気持ちはよく分かる。麦豆の入院中に俊麗は、麦豆が生れてからの間に出したと同じくらいの涙を出したと李真に言ったそうだ。





ヤジ

2009-05-29 09:30:19 | 身辺雑記
 自民党と民主党の党首会談が開かれた。私はテレビでは見なかったので新聞で概要を読んだが、もうひとつ切り結んだ論戦のように思えなかった。討論後にはそれぞれの党では自分達の党首の「勝ち」のように言っているが、自画自賛毎度のことだ。政治に関する識者の評価をある新聞で見たが、「問題設定力」「説得力」「柔軟性」について5段階評価の結果は、やや民主党首が高いという程度だ。限られた時間の1回だけのことでは評価も難しいだろうから、もっと回数を増やせばいいのではないかと思う。

 討論の中身はともかくとして、例によって会場での双方の「応援団」のヤジがひどかったようだ。目前に迫った次期衆院選を意識して白熱したためのようだが、両党首の発言が聴き取りにくいほどだったようで、委員長が「ご静粛に願います」と何度も呼びかけたがまさに馬耳東風だったらしい。自民党では幹部の「やかましいの一言だ」とか「ヤジ合戦は一切禁止した方がいい」という不快感の表明があったようで、民主党幹部も「ヤジがすごくて、ほとんど聞こえなかった」と言ったとのことだ。官房長官は「子どもに見せられないひどさ。政治家は行儀が悪いと言われる」などと言ったようだから、よほど目に余るものだったのだろう。ヤジと言うより罵詈雑言の類ではないか。

 事前に衆参両院の国家基本政策委員会合同幹事会で、討論中は「節度あるヤジ」を心がけることを申し合わせていたが、まったく守られなかった。実に情けないことだが、そもそもこのような品位の欠如した連中に「節度あるヤジ」などを求めるほうが、無いものねだりで無理というものだろう。およそ「選良」などという言葉からは程遠い連中なのだ。

 「節度あるヤジ」とは何か。「寸鉄人を刺す」の類なのだろうが、そのためには警句や警語を持ち合わせていなければならないから、このような連中には到底無理なことだろう。それに聞いていておもしろいと思うようなヤジは、ユーモアというものがなければできないものでもあるから、これは彼ら議員だけでなく、私たち日本人一般に苦手なことだろう。

 ヤジではないが、かつて英国の議会で当時野党だった労働党の1議員が、とかくゴシップの種になるような行動が多かった皇太子に関して「あの小僧が・・・」と発言して問題となった。発言の取り消しを要求され登壇したその議員は、「あの小僧がと発言したことを取り消します」と、わざわざ問題になった「あの小僧が」を繰り返したので、議場は大笑いになったということがあった。このあたりが与党にも余裕があるところで、仮に日本の議会で似たようなことが起こったら、たちまち「問責決議だ」とか何とか、「テンション民族」特有の輩がいきり立つことだろう。

 本会議にしても委員会にしても、相手の発言も聞かず、ただヤジマシーンのようにがなり散らす議員は淘汰できないものだろうか。ヤジを飛ばしたら退場、氏名公表くらいのことをしないと、効き目はないかも知れない。相手の言うことをよく聴いてから発言するという当たり前のことができない者は少なくないようで、テレビの討論会やトーク番組などでも、相手の発言をさえぎって大声で発言する者がいるのは見苦しい。

 たとえ無いものねだりではあっても、我々の税金で高額の歳費などを賄っているのだから議員には品位と教養を求めたいが、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言うから、現実の政治家の姿はそれを選んだ有権者の姿を映しているのかも知れない。

バラ園で(2)

2009-05-28 09:47:46 | 身辺雑記
 非常にさまざまな種類のバラがあって目を楽しませてくれたが、少し盛りを過ぎかけているものもあった。

 バラは欧米では非常に好まれ、花の女王とでも言うものだ。古くから品種改良が進んで今ではさまざまな品種がある。芳香成分は抽出されてローズオイルとして珍重されている。想う人へのプレゼントとしては最高のもので、中国でも若い人は恋人の誕生日やバレンタインデー(情人節)には贈るようだ。花言葉は、「愛」「美」「内気な恥ずかしさ」「輝かしい」「愛嬌」「新鮮」「斬新」「私はあなたを愛する」「私はあなたにふさわしい」「あなたのすべてはかわいらしい」「愛情」「気まぐれな美しさ」「無邪気」「爽やか」など。「嫉妬」というのもある。

































 原種のバラ。
 ローザ・ルブリフォリア

 ローザ・ロクスブルギ

 ハマナス(浜茄子、浜梨)。北海道の花として有名だが、今は自生のものは少なくなったという。







バラ園で

2009-05-27 10:14:57 | 身辺雑記
 Hg君夫妻とHr君、いつもメンバーで、隣の市にあるバラ園に行った。少し離れた駐車場にHr君の車を置いてバラ園まで歩いた。バラ園の近くまで来ると、あたりに芳香が漂っていて少し心が浮き立った。平日だったが来園者は結構あった。このバラ園は市営だが、なかなかよく整備されている。






























言葉遣い

2009-05-26 08:39:47 | 身辺雑記
 ある教育関係書の出版社が小・中・高校生らを対象に「ことばに関するアンケート」を行った結果についての記事を見た。この会社の生涯学習検定センターが実施している「語彙力検定」受検者を対象にして「言葉の美醜」をテーマに行ったもので、小学生から高校生の約1万人が回答したという。その結果、男性言葉を使う女子が約3割いることが分かり言葉遣いが「中性化」していると結論している

 「男子と女子が使う言葉は同じだと思うか」という質問では約7割が「いいえ」と答えた。しかし、「おまえ、いいかげんにしろよ」という言葉を実際に使うとしたのは男子で63.6%、だったが、女子でも27.6%いたという。また「このカレーライスうまいね」では男子は70.3%、女子は33.5%だった。

 また、「きれいな言葉遣いで話したい」という子は47.5%。「あなたの近くにきれいな言葉遣いで話す人はいますか」には53.2%と、過半数が「はい」と答えたと言う。近くにきれいな言葉遣いをする人がいるとした子に誰か聞いたところ、女子は「女の友達」52.0%、「学校の先生」30.7%、「母親」27.8%であり、男子は「学校の先生」30.6%、「男の友達」30.0%などだった。

 これだけの記事で、あれこれ言うことはできないが、少し思ったことがある。まず、「きれいな言葉」とはどういうものかを回答者がどのようにイメージしていたのだろうか。言葉について云々する場合には標準語を基準に考えることが多いが、方言などを考えると地域差もかなりあるのではないだろうか。古くは「おまえ」は決して汚い言葉ではなかったらしいし、また必ずしも男に限ったものではなかったようだ。だからこれはあくまでも想像だが、今でも「おまえ」が男女共通の日常語である地域もあるかも知れない。

 「うまい」は男言葉なのか。女の子が「このカレーライスうまいね」と言えば少々違和感があるかも知れないが、「あの子は歌がうまいね」と言っても、特におかしくはないと思う。「じょうずだね」と言えばきれいな言葉遣いで、「うまいね」なら女の子が使う言葉としてきれいではないとは思えない。

 ところで、「きれいな」は、「ていねいな」あるいは「上品な」と同義なのか。それとも「男女の別をわきまえた」ということなのか。確かに女性が「おまえ、いいかげんにしろよ」と言えばこれは乱暴な使い方と思われるだろう。もし私が直接聞いたらやはり顔を顰める。それは私自身が男言葉と女言葉は違うと思っているからだ。私が知っているある卒業生の中学生の娘はかなり難しい性格の子で、一時は自分を「おれ」と言っていたし、「あいつ殺してやる」とか「あんな奴死ね」とかひどい物言いをしていた。むしろ意地になって「きれいな」言葉遣いに反発しているようでもあった。生活環境もあるのだろうが、そういうことに嵌りやすい年ごろでもあるのかも知れない。

 この調査の対象は「語彙力検定」受検者を対象にしたものと言うから、その回答には一定の偏りがあるとも思われる。もっと一般的な小中高校生を抽出したら違った結果が出たかも知れない。あまり確たる根拠のない推測だが、男のような言葉遣いをする女の子はもっと多いとも思う。巷での女子中高生の会話を聞いているとかなり乱暴なのが少なくなく、「おまえ」や「あいつ」などは多いからだ。

 正しい、あるいはきれいな言葉遣いは望ましいことだが、どのような基準で、どのように教えるかは難しい。何を手本にすればよいのか。手本と言っても、宮廷のやんごとなき方々の言葉遣いを手本にするわけにもいくまい。あのような言葉遣いを普通の者がしたら、かえって気味が悪いだろう。過ぎたるは及ばざるが如しで、いつかテレビに出ていたある専門家は、質問に答えるのに「・・・・でございます」を連発して、聞いているとどうも落ち着かなかった。

 何はともあれ、女の子であろうと男の子であろうと、乱暴な言葉遣いや、会話に伴う乱雑な雰囲気は好ましくない。この点ではテレビのお笑い番組の出演者達は、悪い見本になりかねないようなところがあるから自戒してほしいと思う。



 

マスク(再び)

2009-05-25 09:48:14 | 身辺雑記
 少しは減ったような感じはするが、街や電車内などではマスク姿をかなり見かける。ラッシュアワーのときなどはほとんどが着用していると聞いた。今も薬局などの店頭ではマスクは手に入りにくいようだし、地方でも大阪や神戸の親戚などに送る人が多くて、やはり品切れになっていることもあるそうだ。ネットオークションなどでは消費者が殺到し、医療用マスクは50枚入りで1200円程度のものに、1万4000円の値がついたケースもあったそうだ。どうしてそれほどマスクに拘るのかと不思議に思うほどだ。

 ある新聞記事を見ると、洗濯して再生している例もあるようだ。ある50代の女性は軽く水洗いした後に、市販の100円ショップで買ったスプレーでマスクの両側にアルコール消毒液を噴霧し、室内干しして再利用しているという。「もったいない」と言うよりは、新品は入手できないからのようだ。その女性の言葉。「だってマスクは売っていないし、着けていないと肩身狭いし、天日干しだとウイルスが飛んでくるかもしれへんけど、室内なら大丈夫やろ」。

 涙ぐましい努力だが、これを読んでその女性には悪いけれども笑ってしまい、「着けていないと肩身が狭い」というのは大勢順応の、皆がするからという傾向が強い日本人の心情をよく表わしているように思った。それにどうやらこの女性は、インフルエンザウイルスが空気中を飛び回っているように思ったようだ。空気中ではこのウイルスはそれほど長くは生きてはいない。

 感染制御学のある専門家は、あくまでも「理論上」はアルコールでウイルスは死滅するが、「でもお勧めできません」と言っている。マスクは顔の表面にフィットして隙間がないようでなくてはならない。洗うと形崩れしてしまうから効果はあまりない。それに手でもみ洗いすると布の表面を損傷して機能を維持するのは難しいようだ。この専門家は「洗ったり消毒したりしてマスク機能に影響を与えるなら本末転倒でしょう」と言っている。

 この記事を書いた記者はここで、「だがそもそも、そこまでしてマスクをしなければいけないのか」と疑問を呈している。そして新型インフルエンザ対策に詳しい元小樽市保健所長の外岡立人氏が、[マスクにこだわるのは日本特有の習慣」と指摘していることを紹介している。今回もメキシコでは政府がマスク着用を推奨したが、アメリカではマスク姿はほとんど見られなかったと言う。外岡氏は「マスクで感染を防ぐなら、顔に完璧にフィットさせ、ずれを直すときも表面に触ってはいけない。食事などで外すたびに捨てなければいけない。現実にそんなことができますか」と言っている。それに、そこまでしたとしてもマスクの感染防止効果には専門家の間でも意見が分かれているようだ。

 また外岡氏は「まるで大阪や神戸では新型ウイルスが空気中にたくさん浮遊しているように受け止められているが、もしそうならもっと多くの人が感染している」と言い、関西への修学旅行や出張の中止、関西を訪問した場合の出席停止などが相次いでいるのは「科学的でない。ちょっと行き過ぎ」と批判している。私は専門家ではないが、発生以来の反応のありようには疑問を持ち、ブログにも書いてきたからその通りだと思う。

 東京にいる上海人の施路敏(敏敏)は会社への行き帰りにはマスクをしていると言った。毎日は換えないと言うから、それでは効果はないだろうと言ったら「気休め、気休め」と笑っていた。巷でも隙間だらけのマスクを着けている人を見るが、効果への期待の程はともかくとして、気休めなのだろうと思う。そういう人は多いのかも知れない。

 私の次男は、家の近くにある川の土手を朝犬を連れて散歩している人がマスクをしていたと笑っていた。次男の住んでいる所は神戸市からは離れていて感染者は出ていないし、家のあるのは市街地ではなく鄙びた所がまだ残っている。そんな所で人の少ない朝、どう考えてもマスクは要らないだろう。私も近所の人通りのほとんどない時間帯や場所でマスク姿をよく見かけるが、そこまでする必要があるのかと疑問に思う。マスク姿は何か風俗のようになってしまっているような気さえする。もうそろそろ、感染の恐れがある特定の場所以外では、マスクの呪縛から解放されてもよいのではないだろうか。





過剰反応

2009-05-24 10:17:51 | 身辺雑記
 新型インフルエンザの感染者はじわじわと増えているようで、新聞には毎日のようにその数字が載っている。近くは、兵庫県152人、大阪府135人というのが多い数字だ。この数字だけ見ていると、患者が毎日少しずつ増えているように思えるが、この数字には既に治癒したり快方に向かっている者も含まれているから、実際に今どのくらいの患者がいるのかは分からない。このインフルエンザの発生源となり多くの死者を出したメキシコでは、「まだ勝利したとはいえないが、ウイルス感染の速度を抑え込み、うまく対応してきた」と述べ、猛威を振るった感染拡大が終息に向かいつつあるとの認識を示したようだ。10日ほど前には感染者が計2656人に達したと発表していた。日本でもいずれ終息するのだろうが、それまでは緊張が継続するのだろう。

 このインフルエンザが発生した当初は、わが国でも厳重な警戒態勢がとられ、それだけに国民も過敏になった。この病原体のウイルスが危惧されていたような強毒性のものでないことが分かっても警戒心は収まらず、感染者が多く出た神戸や大阪では街に出る人の数が激減し、経済的な被害もかなりのものになった。まだ1人しか感染者が出ていない京都市では、修学旅行で訪れる中学生達のほとんどがマスクをしている様子が新聞に載っていたが、キャンセルも相次ぎ、旅館など観光業は大打撃を受けているようだ。
 
 関東地方のある中学は京都に来たものの、感染を警戒して教師は生徒達に観光タクシーで観光するように指示した。しかも車外に出ることを禁止したから、生徒達は運転手にハンバーガーを買ってきてもらって車内で食べている様子をテレビで見て、過剰反応もここまでになったかと思った。女生徒達は「悲しいです」と言いながらハンバーガーを食べていたが、かわいそうだが何ともおかしかったし、教師の感覚がばかばかしかった。

 過剰反応と言えば、岡山のある企業は大阪のほうに出張して帰社した社員に発熱もしていないのに病院に行かせ、新型インフルエンザに罹っていない証明書をもらうように指示したようで、医療関係者が呆れたように批判しているのをこれもテレビで見た。どのあたりの地位の上司が指示したのか、その会社で決めた方針なのか知らないが、愚かとしか言いようがないと思った。

 私の長男が住んでいる滋賀県でも大学生が1人発症した。滋賀県では対策会議を開き、患者の出た大津市の小中学校や幼稚園、保育所に休校等の措置をし、県立高校は休校とした。長男の家に電話したら、県立高校生の孫娘が出てきたが手持ち無沙汰の様子だった。孫娘の通う高校は大津市からは離れたところにある。滋賀県は真ん中に琵琶湖がある南北に長い県だ。その南端にある大津市で感染者が1人出たからと言って、なぜ全県立高校を休校にしなければならなかったのだろうか。あらかじめそのような基準を決めていたのだろうが、全県を覆う規模の大型台風が襲来するわけでもあるまいし、少し大袈裟な感じがした。

 大阪府や兵庫県からの要請もあって、政府は措置の緩和を決めた。それによって兵庫でも大阪でも機制を緩めるようだが、これでこれまでのような過剰な反応は少しは収まり、人心は落ち着くのだろうか。政府の基準緩和の発表を受けて東京都知事は記者団に、「騒ぎすぎだよ」とコメントしていた。北朝鮮のミサイル発射の時と言い、このインフルエンザ騒ぎと言い、何かしら国民は実体以上に「怖い、怖い」と思わされているようにも思う。






誹謗中傷

2009-05-23 09:21:48 | 身辺雑記
 新型インフルエンザの感染者の多くは高校生だが、彼らの学校には謂われ無い中傷の電話が多くかかっているという。

 カナダに滞在して成田空港で感染と判断されて隔離された大阪府寝屋川市の高校生4人は、その後快方に向かって措置が解かれ、彼らと行動をともにした同級生達に対する停留措置も解かれて全員帰宅することができた。ところが大阪府にある彼らの学校には誤解にもとづく誹謗や中傷が殺到したようだ。寝屋川市には電話が全国から寄せられ、府や学校にも計100件超の電話が寄せられ、多くが行政や生徒らを批判する内容だったという。その内容は「なぜマスクをしなかったのか」とか「早く帰国させるべきだった」というものから「成田から帰ってくるな」とか「どうしてあんな学校がカナダ留学にいくのか」といった理不尽きわまりないもので、「謝れ」、「賠償しろ」、「バカヤロー」といった罵声を一方的に浴びせたり、生徒や教員を個人的に中傷したりする内容の電話もかかったそうだ。寝屋川市の危機管理担当者は「人権を傷つけるような電話もある」と言っている。インタネットの掲示板にも書き込みが殺到、その多くが「税金使ってウイルス輸入。何やってんの?」とか「他人に迷惑かけてるんだ。たかが風邪ひいた問題じゃない」という心ない表現になっているようだ。

 また、ニューヨークで開かれた模擬国連会議に参加して帰国した後に2名の生徒が発症した川崎市の私立高校にも、早朝から50件以上抗議や中傷の電話が殺到したようだ。大声で主張をまくしたて一方的に電話を切ってしまうパターンが多く、「何で生徒をニューヨークに行かせたのか」、「社会的な不安を与えた責任を取れ」などの内容だったという。ある民放テレビでは「ディズニーランドに行こうと思ったのに(途中にその学校がある)どうしてくれるんだ」とか「インフルエンザウイールスは熱に弱いから学校に火をつけてやる」などとめちゃくちゃなものもあったらしい。

 同様の電話は、最初に新型インフルエンザが確認された神戸の高校にもあり、「市民祭りが中止になった責任を取れ」という筋違いの抗議もあったようだ。インフルエンザに感染した生徒の個人情報の開示を求める電話も複数あったという。

 実に嫌な風潮ではないか。単なる過剰反応というよりも、犯罪的でもあると思う。当事者が不幸な目に遭い、関係者が対応に追われている時にサディスト的な行為としか言いようがない。いったいどんな人間がこのような行為に走るのだろうか。誹謗中傷や暴言は論外だが、正義漢ぶった物言いにも心底嫌悪を感じる。あるコラムニストは「中には電話をして、相手の反応を見て楽しんでいる人がいる可能性もある」と指摘しているようだ。嫌な輩が多い嫌な国、非寛容な社会になっているのかと思う。

 私も市の教育委員会の事務局に勤務していた時に、そのような抗議の電話を受けたことがある。ある新聞が、市内の小学校で起こったという「いじめ」事件についてかなり一方的で偏った記事を出したことで抗議が殺到した。私も1本受けたが東京の男性だった。非常に横柄な物言いで、教育委員会は何をしているんだというようなことを傲慢な口調で言う。たぶん企業の中堅役職者かとも思われたが、その人を見下すような物の言い方が非常に不愉快だった。あまり偉そうに言うので少々腹が立って、あなたは「加害者」の子どもよりも「被害者」の子どものほうがずっと体格が大きいことなど詳しいことをご存知なのかと尋ねると、急にしどろもどろになって、しばらくして、まあ今後注意してくださいと取ってつけたように言うと電話を切った。この「いじめ事件」とその反響は今思い出しても不愉快なもので、親の学校に対する態度やマスコミの報道のあり方について考えさせられたものだった。

 少なくとも感染した生徒達には何の罪もないし、責任もない。海外交流や会議参加を認めた学校を責めるのもおかしい。インフルエンザ騒動には少々過剰反応のようなものもあるようだが、こんな時だからこそ理性ある言動が求められる。人の不幸につけ込んで騒ぎ立てるような輩は、百害あって一利なしの反社会的存在だ。





てふてふ

2009-05-22 08:54:52 | 身辺雑記
 あるレストランで昼食をとっていた時、大きなガラス窓越しに外に植えてあるいろいろな植物を眺めていると、カモミールのような白い花に1匹の白い蝶が来て止まり、翅を開いたり閉じたりしているのが見えた。それを見ていると、ふと「てふてふが1匹韃靼海峡を渡って行った」という詩を思い出した。これは安西冬衛の「春」というよく知られている1行詩だ。

 「てふてふ」は旧仮名遣いで、「ちょうちょう」と読む。旧仮名遣いは歴史的仮名遣いとも言われ、私のような戦中生れのものはこれで教育された。旧仮名遣いは第2次大戦後の国語国字改革で国語表記が「現代かなづかい」に改められるまで続いた。私は小学6年生で戦争の終結を迎えたから、中学時代に現代仮名遣いに接したことになるが、過渡期のことについての記憶はない。新しい仮名遣いは一部を除いて表音主義に拠っているから頭の切り替えは比較的簡単だったように思う。子どもにとっては旧仮名遣いはやはり難しい面があったようで、今ではごく一部を除いて旧仮名遣いで書くことはできなくなった。しかし読むことにはまったく差し支えないから、今でも明治・大正期の作品や丸谷才一氏などの旧仮名遣いの文章は違和感を覚えることもなく読むことができる。

 「てふてふ」は、おそらくよく口ずさんだ唱歌の『蝶々』の「てふてふ てふてふ 菜の葉にとまれ・・・」で知ったのだろうが、今も何の抵抗もなく「ちょうちょう」と読める。しかし、いかに旧仮名遣いであってもなぜ「てふ」を「ちょう」と読めるのか。子ども心にも奇異に感じたのか、旧仮名遣いではもっとも読みにくいものだったように思う。改めて「てふ」を「ちょう」と読むに至ったのかを調べてみると、なかなか面白い。要約すると、

 ①平仮名ができた平安時代初期には、文字通り「てふ」は「テフ」と発音されていたと言う。

 ②11世紀ごろになると、「ハ行転呼」(はぎょうてんこ)という現象が一般化して、「テフ」は「テウ」と発音されるようになった。「は行転呼」とは、文節の頭以外に位置するハ行音がワ行音に発音される現象なのだそうだ。日本語の[wu]は母音の[u]とほとんど同じでだから、「テウ」は[teu]のように二重母音「エウ」を含むことになるという。このあたりはいささか難しい。

 ③鎌倉・室町時代には、二重母音が融合して長音化するという現象が一般化する。そこで「エウ」も長音化して「ヨー」となるから「テウ」は「チョー」となる。いろは歌の中の「うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山今日越えて)」の「けふ」が「きょー」となるのと同じである。

 これでだいたいは分かったが、なるほど旧仮名遣いは歴史的仮名遣いとも言われるだけあって、「てふ」1つ見てもその歴史は深い。

 次に、ではなぜ「蝶」が「てふ」なのかということなのだが、「言語学漢・鈴木健次のホームページ」によると、「てふ」は「手符」で、掌で作った符号が左右に各一個、つまり手符が2つで「てふてふ」すなわち「ちょうちょう」なのだそうだが、手符とは何かと言うことがよく分からない。手の符号ということなのだろうが、何を表わしているのか。
            

 このホームページはなかなか内容が深く、「てふ」に関して次のようなことも書いている。

 「蝶」を「てふ」と書くがゆえに、「飛ぶ蝶」を「いてふ」と書く。この絵は「銀杏の葉」を横から見たものだ。これからそのシーズンに入るが、木に付いた状態で見ていただきたい。これを「行てふ」と書けば意味がはっきりする。ここで日本語「い」は「行動」という概念を表わす言葉である。
           

 なかなか面白い。昼食時に白い蝶をたまたま見かけ、そこから「てふてふが1匹・・・」を思い出し、それからなぜ「てふ」が「ちょう」なのかを勉強した。たまにはこんな勉強も頭の体操になるからいい。