中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

秋色

2006-11-29 10:34:29 | 身辺雑記
 朝、川向こうの山を見るときれいに色づいていた。何日も前にそうなっていたのだろうが気がつかなかったので、何だか一晩のうちに山が衣替えしたような気がした。このところ11月も末だと言うのに暖かい日が続き、この2、3日などは街を歩くと汗ばむくらいだったが、夜は適当に気温が下がっていたのだろう。常緑樹の間にあるいろいろな樹木が紅葉して山は緑、赤、黄のまだら模様に変わっている。北の地方や高い山の、目にも鮮やかな全山錦と言うわけにはいかないが、それでも秋が深まったという感じがする。やがて葉は落ち、時には白く霜が降りて寒々とした風景になり、春が来るといっせいに若葉が萌え出してくる。何の変哲もないごく普通の見慣れた山だが、季節が巡るとその折々の変化を見せてくれる。




近所の稲荷神社の社叢も色づいた。


柿は葉を落とし赤い実だけになっている。

羅布麻茶(luobumacha)

2006-11-28 08:52:55 | 中国のこと
 西安の袁毅が仕事で大阪に来たので会って食事をした時、おみやげと言って彼女は回族の落花生と羅布麻茶をくれた。私は中国の茶には興味があり好きでもあるので、これまでにも中国に行くたびにいろいろな茶を買い、友人達からも貰うことが多かったが、羅布麻茶というのは知らなかった。包装の袋を見ると「新疆特産」と書いてある。茶は中国南西部の温・熱帯原産のものだから、中国では北の方では栽培されていない。まして新疆のような乾燥したところではできないはずだ。中国ではツバキ科の茶樹から採る普通に言う茶以外にも苦丁茶、一葉茶、甜茶など、違う植物の葉を使って茶という名をつけているものが多くあり、みな薬用としての効果を謳うものだ。中には蚕の糞茶と言うものまである。羅布麻茶は知らないな、茶ではないのだろうと袁毅に尋ねたら、有名よ、健康にいいと言うだけだった。

 家に帰って袋の裏面を見ると、新疆の塔里木(タリム)河、孔雀河流域の天然野生の羅布麻(ルオプマ)の葉を主要原料にしているとあった。インタネットで調べてみると、

 「それはかつて探検家スウェン・ヘディンが「さまよえる湖」と呼んだ、中国・タクラマカン砂漠のロプノール湖(羅布泊)にちなんで名付けられた植物、羅布麻を原料とするお茶です。
荒涼とした大地にたくましく息づきながら、春に柔らかな若葉を芽吹き、初夏には薄紅色の可憐な花を咲かせます。その葉から作られるお茶は、昔から土地の人たちの間では、健康を維持する飲み物として親しまれてきました。」

 とあった。日本でもいわゆる健康茶として「らふま茶」の名で売られているようだ。別名「燕龍茶(yanloncha)」と言うらしい。

 ティーバッグになっているので破って中を取り出してみると、乾燥した植物を細かく切り刻んだ状態で、やはり茶葉ではない。淹れてみると薄い緑色をしていて普通の茶に似ているが茶特有の香りはない。味は少し青臭いが、知らないで飲めば「ちょっと変わった茶だな」と思うくらいのものだ。せっかくのみやげだから、薬のつもりで飲んでみよう。インタネット販売の店のHPには「中国の数あるお茶の中で唯一お茶の名で漢方薬に認定された」とあるが、どういう効き目があるのかよくわからない。

             

明治

2006-11-27 09:47:56 | 身辺雑記
 通販で買った品と一緒にアンケートのはがきが入っていた。「ご登録内容」という欄を見ると生年月日を記入するところには、大正、昭和、平成はあるが明治はない。ああ明治生まれは顧客としてはもう少なくなったのだなと思った。それでいつも使っている手帳の後ろのページにある年齢早見表を開いてみると、明治39年から始まっている。この年に生まれた人は今年100歳になる。私の父は明治38年生まれだったから、そうか、生きていたらオヤジは100歳を超しているのだなと改めて思った。

 大正生まれは今年で80歳から94歳になっているし、平成などつい最近始まったばかりと思っていたら、最年長者は17歳、高校生の年齢になっている。もうすぐ成人だ。それにしても昭和は64年間続いたから長かった。あまり長く「昭和」に慣れたから、「平成」に変わった当時は、そのまま「昭和」を続けたらいいと言う声もあった。実際、以前からも計算が面倒だったが平成になると、私の母のような明治44年生まれは何歳になっているのかすぐには出てこなかった。そう言えば「明治百年」と言われた年があったが、それがいつだったのか計算するのが面倒だから分からない。

 俳人の中村草田男(なかむら・くさたお)の有名な句「降る雪や明治は遠くなりにけり」が載っている句集が刊行されたのは昭和11年と言うから、その時には既に明治は遠い昔のことのように思われていたのか。内田百の随筆の中に明治時代の情景が描かれているが、ランプやガス灯の時代で何もかもが古めかしく感じられるから、その後の大正から昭和初期にかけての近代化が大きく進んだ頃に生きる者の目から見れば、私達が今明治の時代に抱く印象とあまり変らないものがあったのかも知れない。

 平成も18年を終わろうとしている今、私自身のことを考えても、私が生まれた昭和初期の頃は遠い遠い昔のことのようになってしまった。いや、就職した昭和30年代の初めの頃を思い出してみてさえ、今とは隔世の感があると思うくらいだ。コンピューターなどはもちろんなかったあの頃から現在までの日本の社会の大きな「発展」が、そのように思わせるのだろう。まして明治や大正の頃などは記憶にもない、過ぎ去った時の薄闇の中にあるように思われる。


大声

2006-11-25 09:57:32 | 中国のこと
 何年か前、広州のホテルで売店を覗いていた時のことだった。後ろで突然大声で言い合う声が聞こえたので、喧嘩でもしているのかと振り返ったら、大柄な2人の男が話をしながら歩いて来ただけだったが、怒鳴るような大きな声なので少し驚いた。このようなことは他でも経験したことがある。あるホテルで外から戻ってドアを開けて入ったら、それこそロビーに響き渡るような大声が聞こえた。何かと思って声のする方を見たら中年の男が携帯電話で話していたので、なぜこんな大きな声で話さなければならないかと呆れた。日本では最近はあまり経験しなくなったが、前にかなり混んでいた車内で、若い男が大声で携帯で話していた。仕事に関する話であることが丸聞こえで、さすがに周りの者は眉をひそめたような表情をしていたが、本人はまったく気づいている様子はなかった。私は「馬鹿じゃないか」と思っていた。昔は人前で大声を出すのは下品なことだと言われたものだ。

 乏しい経験で「中国人は」と断定したように言うつもりはないが、それでも概して日本人よりも声が大きいことはあるように思う。喧嘩などの場合はなおさらだ。2004年の春節(旧正月)に杭州にある霊隠寺と言う大きな寺に行った時のことだが、境内は非常に混雑していた。するとだいぶ離れた所から罵る女の大声がした。見ると人混みの中で年配の女性が若い男に掴みかからんばかりの勢いで罵っている。凄まじい態度で、同行の唐怡荷が「喧嘩ですよ」と言った。その後でどうなったのかは分からないが、女の勢いに押されたような男の態度から軍配がどちらに上がったのかは大体想像がついた。西安の市場で偽札を使ったらしい客に向かって怒鳴っていた店の女の声も凄かったし、タクシーの運転手同士の罵り合いも日本ではあまり経験しないようなものだった。喧嘩でなくても、すぐそばにいるのに大声で話しているのはたびたび経験した。

 だいぶ前の新聞の小さな記事に、四川省から東京に来た人が静かで怖いと言ったということがあった。四川省は中国の西北地方で沿岸部に比べると田舎だし、省都の成都は大きな都会でもそれほど騒音はないように思った所だ。その四川から来て、昼か夜かどんな場所で感じたのか分からないが、東京が静かで怖いとはちょっと信じられないような気もするが、実際に感じたことなのだろう。そう言えば、洛陽から西安に列車で帰った時に、ホームから改札口に通じる地下道での騒音は物凄かった。乗客で混雑し、その多くが大声で話していて、その声が天井に反響するのだからたまらない。朝の通勤時間帯に東京駅の地下道を通った時の経験と比較すると、東京が静かと言うことも分かるような気がする。考えようによっては、大声に慣れていたら、多くの人間が黙って行き来しているのは不気味な感じがすることなのかも知れない。

内田百

2006-11-23 15:06:26 | 身辺雑記
 久しぶりに本を読みながら大笑いした。

 数日前に、寝る前にベッドで戸山滋比古(とやま・しげひこ)の「ユーモアのレッスン」(中公新書)を読んだ。だいぶ前に買って読んだもので2回目だったが、なかなか面白い。その中で内田百(うちだ・ひゃっけん)が紹介してあった。内田百の名は知ってはいたが作品は一度も読んだことがなく、本人についても何も知らなかった。私自身はユーモアのある人間とはとても言えないし、機知に富んでもいないが、ユーモアについては興味もあるし好きだ。最初に読んだ時には読み流しただけだったが、今回は急に内田百が読みたくなって翌日書店に行くと、書架には1冊だけあったので買い求めた。新潮文庫で「百鬼園随筆」、この文庫に収められた一連の百の作品の最初のものだった。百鬼園は別号で百のもじりのようだ。

 帰ってから読み始めると、これが実に面白い。まさにユーモアの溢れた軽妙洒脱な文章で引き込まれてしまった。文庫本でもあるから一気に読み終わりそうだったが、一度に読んでしまうと勿体ないと思って、その後は電車の中などで少しずつ読んでいた。電車の中で読んだその晩にも例によって就寝前に読んだのだが、その時にある部分を読んで、思わず大笑いしたのだった。ただ一緒に寝た友人の鼾に悩まされたというだけの話なのだが、その鼾の詳細な描写が実におかしく、声を出して笑いながら涙も出してしまい、電車の中でなくて良かったと思った。

 内田百、1889(明治22)年に生まれ、1971(昭和46)年に92歳で没している。明治、大正、昭和を生きた文筆家だから、作品の中で描かれている風俗などは当然その時代のもので古めかしいとも言えるし、文体や使われている言葉も時代がかっている。例えばこんな短い文がある。

  「三越呉服店の配達馬車に人が二人のって止まった。一人が後の戸を開けて、大きな包を出す間、も一人は馭者台で、駆っていた通りに向うを向いていた。何だか河童にいたずらをせられている様で変だと思った。それからまた動き出した時、車が前より少し軽くなっているのは、馬に取ってさぞ妙な気持だろうと思った。」

 ナンセンスとも言えるような一文だが、何かしら面白さ、おかしさがある。

 夏目漱石の門下生であっただけに読んでも退屈したり飽きることがなく、むしろ何かある懐かしさのようなものも感じさせられる。この時代にこの年になって、何をいまさら百でもあるまいと言われるかも知れないが、時代を超えて惹きつけられる作品というものはあるだろう。現に今でも発行されて書店にあるというのは、今も百には根強い人気があるのだろうとも思う。この秋の思わぬ収穫だった。




東福寺

2006-11-23 11:13:06 | 身辺雑記
 卒業生のH君夫妻に誘われて、京都東山の東福寺に紅葉を観に出かけた。平日でもとても混むと聞いていたので、7時半に西宮北口駅で待ち合わせた。最近の私にとっては熟睡中の時刻である6時に起きて7時前の電車に乗ったが、もう通勤通学客で電車は混み合っていた。このような時刻に電車に乗るのは最近ではほとんどない。終点に着くとどっと電車から吐き出されて足早に乗り換え線に向かう乗客の中には、私のような風体の老人は見当たらない。人混みの中を歩きながら、昔は毎日がこうだったなと少し懐かしい気持ちにもなった。

 早く出たこともあって、東福寺には9時半ごろ着いたが、その頃にはもう戻ってくる団体客に出会った。平日より1時間早く8時には門を開いているらしいが、それにしてももう拝観を済ませたのかと少し驚いた。何かしらせわしないものだと思う。団体ツアーとはこんなものなのだろう。団体客が多かったが、それでも予想していたよりは人出は少なくほっとした。

 東福寺は天竜寺、相国寺、建仁寺、万寿寺と共に臨済宗の京都五山の1つで、室町時代に建立された。寺内は広大で伽藍も壮大である。もっともそのほとんどは火災で焼失し、後に再建されたものだ。寺内の紅葉が美しいので名所になり、特に紅葉の季節には参詣すると言うよりは紅葉を観賞する人達でごったがえすようだ。

 紅葉は、細い谷川にかかる通天橋と言う屋根付の橋から見るのが最も美しいと言われている。この谷川は洗玉澗と言い、両岸は美しい紅葉で埋められている。

臥雲橋から通天橋を望む。


通天橋から見る紅葉。

 
寺内のさまざまな紅葉。






 団体客のように時間に追われることもなく、ゆっくり寺内を散策して時を過ごした。昼に近づくにつれて人は多くなって来たが、寺内は広いし、それに大声で話す者もいないから静かな雰囲気で、至極のんびりとした気分になった。中国ではこのような場でも大声を出すものが少なからずいて興を削がれることがよくあるが、こういう点では日本は良いと思う。

国宝の三門(禅寺の門))から本堂を見る。



東司(とうす)。
 東福寺内では最古の建築物で室町時代に立てられた便所。俗称「百雪隠」「百間便所」。説明板に禅宗のものとしては日本最古最大の唯一現存する遺構とあった。修行の始まる朝に修行僧達が用を足した場所だが、さぞ壮観、奇観であったろう。





 H君夫妻とは10月に中国杭州の余杭の山中にある径山寺を訪れたが、東福寺の開山の聖一国師は1235年に宋に渡り、径山寺で修行したと言う。2ヶ月の間に日中の「姉妹寺」を訪れたことになったなとH君夫妻と話し合ったことだった。径山寺には東福寺の僧以外には訪れる日本人は少ないようだから、これも何かの縁なのだろう。

 暖かい穏やかな日で、ゆっくりと楽しむことができた。平日にこういう楽しみを持つことができるのも、今の境遇ゆえで有難いと思う。H君も定年退職し、今は悠々自適の日々を送っている。


           

卒業生

2006-11-20 10:08:37 | 身辺雑記
 きのうは卒業生の家で昼食会をした。集まった中には先月中国の浙江省に一緒に行った者も3人いて、その折に買った塩漬けの豚肉(咸猪肉xianzhurou)で鍋でもしようと、かねてから相談していた。豚肉はきれいな色をしていて、かなり塩辛いがなかなか美味しく、これ以外にもいろいろなものを入れて、いつものように楽しく語らいながら大いに食べた。
 
 この卒業生達は私が高校の教師だった頃、クラブ活動で生物部の顧問をしていた時のある学年の部員達で、在学中は非常に活発に活動していて、文化祭の時には評判になるような良い展示をしていた。私とは一回り違いでもう60歳を過ぎたから、かれこれ45年の付き合いとなる。今では毎月2回ほど昼食や夕食を共にし、初夏と秋にはバーベキューをしたり、時には日帰りの小旅行を楽しんだりしている。こんな年齢になると師弟というよりも仲間かきょうだいのような、気楽で楽しい関係になっている。妻も在世中はとても親しんで可愛がっていた。

 私は普段は独居生活だから、食事も簡単にそそくさと済ませているが、彼らと一緒に食事するといろいろなものが食べられるし、食が進むのが有り難い。それに、定年退職した者、今も仕事をしている者などさまざまだが、会うたびによくこれだけ話題があると思うほど、さまざまな話をして盛り上がるのが楽しい。それぞれに関する話も出るので勉強になることも多い。その話題も年とともに変ってきて、近頃では年金のことや健康のことが多くなっているのは、それだけみな年をとったのかと感慨を覚えたり、おかしく思ったりもする。きのうもある公立病院で病理の医師をしているのが、脳梗塞予防に関する新聞記事のコピーを皆に配ってくれたので、ひとしきりそれを話題にした。

 近頃は学校での教師と生徒の関係はどうなっているのかよくは知らないが、それでも定年前に10数年ぶりに学校に戻った時には、ずいぶん変ったものだと慨嘆するようなこともあったから、かなり変ってきてはいるだろうと想像する。私が彼らと過ごした高校では、もうとっくに生物部は消滅している。高校生が生物部なんて暗い、ダサイと考えるようになり、生物担当の教師達もクラブ活動にまったく関心がなくなったこともあるようだ。寂しいこととは思うが、これも時代の趨勢なのだろう。私が顧問をしていた時には、毎日を彼らと一緒に、ある意味では夢中になって活動していて、将来は彼らとの関係がどうなるだろうかと考えたこともなかったし、まして彼らが還暦を迎える年齢になっても付き合うなどとは想像もしなかった。それだけに今の彼らとの関係は私にとっては珠玉のようなもので、ただただ幸せに思えてくる。

偕老同穴

2006-11-19 10:43:05 | 中国のこと
 近頃は中国でも離婚は増えてきているようだ。特に北京や上海では離婚率は50%を超えているとも聞く。北京や上海では高学歴、高収入の女性が多いのも原因の1つだと言う。西安の李真に聞いた話では、最近離婚した女性の友人は博士号を持っていて、夫は若い女性と不倫したと言うことだ。博士の女性は中国では怖がられている、人間には3種あって、男、女、女博士だと言われていると李真は言った。またある若い夫婦は、妻が夫に何の相談もせずにアメリカ留学の手続きをして、決まってから話をし、結局は別れたとのことだ。もともと新中国になってから女性は強くなったと言われているが、最近ではますますます強くなっていて、それが離婚の原因になっていることはあるようだ。

 李真の父親は、男も女も我慢することができなくなっているからだと言っているそうだが、それもあるだろう。よく知られていることだが、中国では人口増加抑制策として「一人っ子政策」が1979年から実施されて、その結果20年間で3億人の増加を抑えたとも言われている。しかし、その反面、一人っ子は「小皇帝」、「小公主」と呼ばれるように、甘やかされて育っている者が多いので、我儘で辛抱が足りなく、協調性や忍耐力が乏しいなど「4・2・1症候群」と言われる性格になっていることが多いようだ。中国のもうひとつの問題点でもある高齢化に伴って、4人の祖父母、2人の親、1人の子供という家族構成が増えて、「6ポケッツ」と言われるように、祖父母と両親が子供にいろいろなものを買い与えて甘やかしてしまうのだ。だから長じても、結婚生活でも辛抱することができずに、すぐに別れるということになるのだろう。

 李真に「偕老同穴という言葉は死語になったか」と言ったら、知らないようだった。中国で最も古い詩集である「詩経」(前403~前221)にある言葉だそうで、「生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる」と言う意味。中国では「白頭到老(bai tou dao lao)」とか「白頭偕老(bai tou xie lao)と言って、結婚式の祝辞に使われるようだ。「離婚なんて考えたこともなかったな」と言ったら、「両親の世代もそうだよ」と李真は言った。李真の父親にとっても、中国の若い世代の風潮は理解できにくいことなのだろう。



偕老同穴。海綿動物の一種。
 竹籠の様な形で、内部にはガラス質の骨格がある。この中にはドウケツエビという小さ蝦が、しばしば雌雄一対で生涯を過ごしている。初めはこの蝦の名だったが、後に海綿の方の名称となった。

会釈

2006-11-18 09:22:22 | 身辺雑記
 近所に細い路がある。2人がどうにかすれ違うことができるくらいの幅だから、荷物を持ったり傘をさしたりしている時にはちょっと体を開くようにして相手を通すようにしなければならない。あまり他人のことにはかまわないような高校生でも、この路ではそのようにする。年配者に多いが、すれ違う時に少し会釈をする人もある。もちろんこちらも会釈をするが、この何でもないようなしぐさはなかなか良いもので、見知らぬ人ともふと心が通い合ったような和やかな気持ちにさせられる。

 以前何かで読んだことがあるが、欧米のホテルなどでは廊下ですれ違う時に、見知らぬ相手でもにこっと微笑むことが多いのは気持ちの良いものだとあった。実際先月、杭州のホテルで朝食を済ませて部屋に戻ろうとした時に、すれ違った長身の白人の夫婦とは笑顔で会釈を交わしたが、和やかな気分になったものだ。他にもそういう経験をしたことは多い。この杭州のホテルは五つ星とかで従業員の教育はよくされているのか、廊下で出会うと立ち止まって少し道を譲るようなしぐさをして、笑顔で会釈するのは中国では珍しいことだった。それでもどこのホテルでも、こちらから「你好(ニイハオ)」と声をかければ、明るく応えてくれるものだ。

 もっともアメリカでも大都会などでは、近頃は廊下ですれ違っても笑顔を交わすことが少なくなってきたということも聞いたことがあるが、どうなのだろうか。そうだとすると、アメリカもぎすぎすした雰囲気の社会になっているのかも知れない。前にもこのブログで書いたことがあるが、挨拶は人間関係を円滑にする潤滑油のようなものだと思う。何も仰々しくすることは要らない。狭い路ですれ違う時にちょっと会釈するようなことでいい。相手に対するささやかな心遣いが、今のような少々殺伐な気配もある時代だからなおさら必要だろう。


縁起担ぎ

2006-11-16 09:47:35 | 中国のこと
 「来年は結婚しないほうがいい年ですよ」と西安の邵利明が言ったのは2004年のことだった。2005年は立春(春)のない年で、その年に結婚した女性は未亡人になりやすいのだそうだ。俗信に過ぎないとは思ったが、それよりもその時には「立春がない年」ということが理解できなかった。後で分かったのだが、中国の友人達が「来年」と言うのは、旧暦1月1日以後の1年間のことなのだ。旧暦1月1日は春節(chunjie)と言って、中国人にとってはこの日が新年の始まる日で、もっとも重要な祝日だ。この日のために家を出て働いている人も故郷に戻り、家族や親戚とともに旧正月を祝う。旧暦で言うならば、「立春のない年」も理解できる。2005年の春節は2月9日で2月4日の立春よりも後だった。そして2006年の春節は1月29日だから2月4日の立春の前になる。だからこの1年間には立春はないわけだ。

 立春のない年の結婚を避けると言うことが、いつ頃から言われて来たのかは知らないが、若い人達もかなり信じているようで、現に西安の謝俊麗は2004年も押し詰まった時に結婚した。結婚したと言っても日本のように神前や教会で式を挙げるのではなく、役所に行って届け、証明書をもらえば、それで夫婦として認知されたことになる。この年は証明書の交付を求める若いカップルで役所の窓口はごった返したらしいことは、日本の新聞にも紹介されていた。証明書さえ手にしたら、後は家があれば一緒に住むし、なければ結婚式まで待つこともある。中国で結婚式と言うのは日本の披露宴のことだが、当日は朝から新郎新婦それぞれの家に友人や知人達が集まり、決められた儀式めいたことをする。俊麗の家でその様子をDVDで見せてもらったが、これがなかなか大変らしい。そしてレストランやホテルの披露宴の場に行き、ここでも儀式めいたことがあって、その後長い宴会が続く。俊麗は去年家を持つことができたので同居をはじめ、今年の5月にやっと式を挙げた。

 その俊麗に「赤ちゃんはまだか」と尋ねたら「来年はよい年なんだけどね」とは言ったが予定はないらしい。来年は亥年、日本ではイノシシの年だが中国ではブタ年。知ってはいたがやはり俊麗が話の間に何度か「ブタ年」と言うのを聞くとおかしかった。豚は中国では貪欲、怠け者というマイナスイメージを持たれているが、反面では富の象徴とも考えられているから、ブタ年に生まれた子どもは金運、財運に恵まれるのだそうだ。「このあいだ病院に行ったら、おなかの大きな人がたくさん来ていたよ」と俊麗は言っていたが、この縁起担ぎも今でも根強く残っているらしい。

              

 西安の李真は、来年結婚する親友に花嫁の介添え役を頼まれたらしいが少しためらっていた。これまで2回介添え役をしていて、3回すると結婚運がなくなると言われているかららしい。結婚や出産(一人っ子政策の中国では1回だけのこと)は若い人達にとっては重要なことだから、縁起を担ぐ気持ちも分からないではないが、新中国になっても旧来の伝承はなかなか廃れないものだと思った。

 この他にも数字に縁起を担ぐこともよくあるようで、九(jiu)は皇帝のシンボルであり「久(jiu)」と同音だから一番良い数字だとか、八(ba)は発財(facai金持ちになる)や発展の「発(fa)」と音が似ているから、七(qi)は「起(qi)」と同音で物事が起こる意味だから良いとされているらしい。結婚式もこのような数字の日を選ぶこともあるようだが、若い人達はあまり気にしなくなったとも聞いた。
 
 日本でも大安とか仏滅とかで行事が左右されることはいまだに根強く残っているし、厄年など特定の数字にこだわることもある。丙午(ひのえうま)の年に生まれた女は夫を殺すという迷信は江戸時代からあったようだが、実際この年に出産率が下がったということが近年にもあった。内容は異なってはいても縁起担ぎや迷信、俗信は何も中国に限ったことではない。私は両親の影響もあったせいか、縁起担ぎや迷信の類を信じていないが、それでもそのような民間伝承やその由来には興味を引かれることはある。