中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

晩産化など

2011-01-31 13:19:28 | 身辺雑記

厚生労働省が毎年行っている人口動態統計を基に分析した結果によると、一昨年(09年)に30歳になった女性のうち、子どもを産んでいない53.9%と半数を超えていることが分かっり、これは25年前のおよそ3倍だそうだ。30歳の時点で子どもを産んでいない人の割合が半数を超えるのは7年連続とのことと言う。

 

第1子を出産した女性の平均年齢は29.7歳で、これまでで最も高くなり、いわゆる「晩産化」が進んでいる傾向がうかがえるとのことだ。晩産化が進んでいるのは、晩婚化が進んでいることにもよるのだろう。実際、30歳になっても結婚しない女性は身内にも知人の娘にも少なくない。本人が結婚そのものに無関心であったり、親の元にいるほうが気楽に生活できるということもあるようで、当然のことながら親は頭痛めているが、中には諦めているのもある。また、女性の社会進出が進んでいて、中にはバリバリ仕事をしていて、今さら男と一緒にという気にはならないことはあるらしい。また結婚しても共働きをしなくてはならない事情があったり、出産によって仕事がやりにくくなったり、保育所などの不足で子育てが不安になるということもあるようだ。

 

 晩産化が進んでいる一方で、結婚する前に妊娠するケースも広がっていて、去年、第1子を出産した女性の4人に1人に上ると言う。婚前交渉や結婚前の妊娠ということなどは、近頃は恥ずかしくも何ともないようで、タレントなどが記者会見の場で臆面もなく「デキチャッタ婚」を披露する。私などにはいささか顔を顰めたくなるようなことだが、これもご時世なのだろう。

 

 10代後半では、結婚前に妊娠するケースは8割を超えているようで、これは年寄りに言わせると「性の乱れ」と言うことになるのかも知れない。よく、二十歳そこそこのごく若い夫婦の子どもへの虐待が問題になることがあるが、そもそも結婚という、ある意味は社会的に独立したという認知を受けるのにはあまりにも未熟な親が少なくないのではないか。実際、子どもができても母親としての自覚もなく、自分の欲望のままに生きているような例を知ると、親を選べずに生まれてきた子どもが哀れに思える。

 

 

 


救急搬送

2011-01-29 12:44:46 | 身辺雑記

 救急車で緊急に医療機関に搬送される患者の数は年々増えている。2009(平成21)年中の救急出場件数は約512万件で、1999(平成11)年からの10年間で約30%増加しているのだそうだ。今後はさらに増加し20年後には年間で550万人余りに上がるだろうという推計を総務省消防庁が行った。

 

 それによると、救急車で搬送される患者の数は、今後も年々増え続け、ピークを迎える20年後の2030年には現在より10%ほど増えて554万人になる見込みと言う。今後の人口は減少すると予測されているが、それにも関わらず搬送者が増えるのは、高齢者が運ばれるケースが急増するためで、なかでも85歳以上の搬送者数は現在の2倍以上となり、2030年には全体のほぼ4人に1人を占める見通しとのことだ。

 

 85歳以上が搬送される原因としては交通事故よりも、風呂場や階段での転倒など、家の中でのけがが多くなるということだ。実際、著名人でも昨年9月には俳優でコメディアンだった谷啓さんや、今年に入って俳優の細川俊之さんが自宅で転倒して亡くなっている。私も近頃は時々脚がふらついてバランスを崩しそうになるので、とりわけ家の階段の昇り降りは慎重にしている。

 

 独り住まいだといつどのようなことが起こるか分からないが、救急車で運ばれるようなことはないようにと願っている。

 


職場での英語の使用

2011-01-27 10:02:37 | 身辺雑記

 私がとっている新聞の「生活」のページに、時折「職場のホ・ン・ネ」という投稿欄が出る。いろいろな職場で働く人の「つぶやき」くらいの短い文で結構面白い。最近そこに採り上げられていた投稿を紹介する。30代の女性会社員のものだが短いのでぜん全文を引く。

 

 今やいずこも「グローバル」の大合唱。社内公用語が英語になる企業も多い。我が社でも、英語のできるできないが評価の尺度になりつつある。朝の定例ミーティングを英語にしようという提案も了承された。たいして仕事ができなかった帰国子女の同僚が、英語を武器に幅を利かせてきた。社内のあいさつも「ハロー」になりかねない勢いだ。英語も大事だけど、「英語よりも敬語を!」と声を大にしたい、英語力ゼロの私である。

 

 この企業、どのような業種で欧米との関係もどの程度あるのか分からないし、これまでも社員の英語力がどの程度だったのかも分からない。どういう理由で朝のミーティングを英語にしようなどと考えたのだろうか。社長以下幹部の思い付きなのか。企業での朝のミーティングの内容というのもよく分からないが、簡単な挨拶、事務連絡程度で、それなら英語でとなったのかも知れないが、もし重要な伝達、確認事項があるのならば、やはり日本語でやるほうが意思の疎通が徹底するのではないだろうか。

 

 英語力がこれからの多くの企業で必要とされているようであることは理解できる。だから本当に社員が英語に堪能であることが必要なのであれば、入社試験も英語でやればいいし、面接も流暢に英語を話すことができる幹部が担当すればいい。もちろん「わが社はこれからは英語で行く!」と意気込むのならば社内での研修にも力を入れるべきだろう。社内の挨拶が「ハロー」になるような子ども騙しのことではすまないはずだ。以前あるハンバーガーショップで、客の注文を受けた店員が奥の厨房にそれを伝える、奥から応答があると「サンキュー」と言っていた。そのように指導されたのだろうが、何やら取って付けたようで、日本人同士がなぜ「サンキュー」なのかと、むず痒いような気がしたものだ。

 

 本来、企業で社員に求められるものは、その企業の経営のために必要な資質や技術、能力なので、単なる意志伝達の手段である言葉としての英語が最重要ではあるまい。言葉はもちろん非常に大切なものではあるが、それだけに、まず英語よりも日本語の力を磨くことを心がけるべきだろう。貧弱な日本語の語彙、使い方で、外国語が話せるはずもない。

 

 かく言う私の英語力は、まことにお粗末なものだ。私の経歴では英語を必要としなかったこともあって、どうしても使わなければならない場面に遭遇した時には、四苦八苦してブロークンで済ませた。そのような私がいい年になって急に、職場ではこれからは英語でいくと決められたら、きっと困惑し混乱するだろう。上に挙げた投書の女性の職場にもそういう年配者はいるはずで同情する。私のような者はもはや時代遅れなのだろうが、英語が話せることで一頭他に抜きん出ていると思うのも滑稽な錯覚だろう。

 

 


帽子

2011-01-25 14:06:55 | 身辺雑記

 長男に会ったとき,私の頭を見てまだ髪があるねと言った。いやだいぶ薄くなったと答えたが、前にも書いたように私の髪の毛はかなり薄く、軟らかくなっている。そのせいか、寒い日に外に出ると頭が冷たくなる。

 

 外出した時に近所の奥さん(元気なガラガラした人なので、おかみさんと言ったほうがいいのだが)に出会うと「寒いね。帽子を被らんの。被ったら暖かいのに」と言われた。東京にいる上海人の敏敏(ミンミン)はチャットで、寒いから外に出る時は帽子を被ってねと言った。

 

 帽子は持っている。夏のものは次男が買ってくれ、冬帽子は2年ほど前に自分で買ったが、夏も冬も帽子をあまり被ることがない。とくに昨年の夏のように猛暑の日は被ったほうが良いのは分かっていても、つい忘れてしまうことが多かった。

 

 言われてみるとやはり被ったほうがいいのかと思い、引っ張り出して被って外に出たが、なるほど暖かい。やはり体裁などを構わずに被ったほうがよいと改めて思った。もっとも街に出てみると、帽子を被っている姿はあまり見かけない。やはりこのあたりは暖かいのかも知れない。被っているのはほとんど高齢者だが、それもあまり多くはない。男女を問わず若い人がニットのキャップを被っているのは時々見かけるが、いいものだと思う。とくに女の子は可愛い。

 

 私の幼い頃(戦前のことだが)、父は勤めなどで外に出る時はいつも中折れ帽(ソフト帽)を被っていた。父に限らずその頃の男性は皆そうだったように思う。流行だったのだろうし、おしゃれということもあったのだろう。幼い私が見てもそんな父は格好良く見えた。父のいない昼間に、玄関に置いてある父の帽子を手に取り、前のほうをつまんで軽く引っ張り、帽子の真ん中を縦に手刀を打つようにして軽く叩いてくぼませてから被ってみたりした。手つきは父のやり方の見よう見まねだ。帽子の内縁からはかすかに父がつけていた整髪料の香りがした。

 

          

 

 インタネットの通販のサイトを見ると、今でも多様な中折れ帽が売られているようだが、実際に街で被っている姿は見ることはほとんど無い。若者中心のファッショングッズなのだろう。この年になると、気の向いた時にちょっと被ってみてもいいかなとふと思ったりする。


ババア

2011-01-23 11:56:48 | 身辺雑記

 Hg君の家で「ババア鍋」をした。ババア鍋と言うのはタラ鍋と同じようにババアという魚を使った鍋の謂いだが、私には初めてのものだった。

  ババアとはいささか粗野な名称だが、正式にはタナカゲンゲと言い、島根県以北の日本海やオホーツク海の水深300500メートルの辺りに生息するスズキ目の魚で、深海魚の仲間だ。インタネットの「市場魚介類図鑑」によると、「犬、もしくはキツネを思わせる顔つき」とある。  

  

  同じく「市場魚介類図鑑」には、「生で食べてもほとんど味がしない。クセがない上に生では旨味がない、当然刺身はむしろまずい。いちばんうまい食べ方は汁にすること。熱をとおすと身が締まり、旨味が感じられて、だしも出る。当然鍋物、汁、みそ汁にすると非常にうまい」とある。 

 

  初めて食べたババアは淡白でなかなか美味いものだった。 

  もともとズワイガニなどの底曳網にかかる雑魚で、下魚とされて捨てられていたもので、「ゲギョ」が訛って「ゲンゲ」となったとのことだ。島根県、鳥取県で「ババ」、「ババア」と呼ばれてきたが、最近、鳥取県岩美町では「ババチャン」と呼ばれているそうだ。ババアよりは親しみがあるように思う。

 

 ババアがあればオジイは?と思ってしまうが、同じスズキ目に「オジサン」と言うのがあり、これは正式名称で、「オジイサン」が訛ったもので、小笠原の方言に由来し、顎の下の長い髭から老人を連想したものだそうだ。なかなか美味だと言う。

 

  

  

 

 

 

 

熟鮓(なれずし)

2011-01-21 09:08:56 | 身辺雑記

 今では寿司と言えば、握り寿司、散らし寿司、押し寿司、巻き寿司などを思い浮かべるが、もともとは熟鮓を意味していた。魚と飯とを交互に重ねて重石で圧したり、塩漬けにした魚の腹に飯を詰めたりして発酵させたものだ。 

 

熟鮓は日本各地にあり、滋賀県の郷土食である鮒鮓は有名だが、強い発酵臭と味を敬遠する向きもある。贈られた人が「腐っている」と捨てたという話もあり、「猫跨ぎ」のような扱いをすることもあったようだ。私は戦後に滋賀県に住んだこともあってこれが大好きだ。昔は湖畔の家々ではそれぞれ自家製の鮒鮓を漬けていたそうだが、今ではほとんどないだろう。専門の業者がつくっていて、今はとても高価なものになってしまっている。本来は琵琶湖の固有種であるニゴロブナを使うが、産卵場所の減少や、ブラックバスなど外来魚の捕食により数を減らしているので、マブナが用いられていることが多いようだ。

 

          

           

                                      ニゴロブナ(Wikipediaより)

 

          

          マブナ(インタネット「マブナの画像」より)

 

 

鮒鮓の強い発酵臭は食欲をそそられ、口に入れるとその酸味でなお食欲が増す。噛むと堪らないほど美味い。子持ちの鮒を使っているから、その卵の鮮やかな紅色がまたいい。飯に3、4切れのせ、熱い茶を注いで茶漬けにすると文句なしに美味い。と言ってもこれは私が鮒鮓好きだからで、あの臭いと味はどうにも受け付けないと言う人も少なくないだろう。私自身、どうしてこのように好きになったのか分からない。最初は嫌いだったが知らないうちに好きになったということでもなかったように思う

 

 

 

         

 同じ近畿の和歌山の南紀名物に秋刀魚の熟鮓がある。

 

背開きにしたサンマを多めの塩で締め水分を抜き 堅めの白粥位に炊いた飯の上にサンマをのせ 木樽の中に何層も重ねて積み上げ 石の重しをし 最後に薄い塩水を流し込む。寒いところに置いて1ヶ月以上熟成させて出来上がり」とある。やはり忌避したくなる人もいるだろうと思う発酵臭があるが、鮒鮓ほどきつくはない。押し寿司のように、飯の上に秋刀魚がのせてある。味も鮒鮓よりもまろやかで,一味唐辛子を振った醤油で食べるとあるが、私の好みとしては鮒鮓の方がいいと思う。

 

 

 

 


中国の公務員の汚職(2)

2011-01-19 07:30:07 | 中国のこと

 西安の李真に聞いたことがあるが、中国には「裸体官員」という言葉があるそうだ。略して「裸官」、新語の1つらしい。中国では大きな汚職に手を染めた役人は死刑になることもある。そこで汚職官僚は職権を利用して蓄財し、まず妻子を海外に移住させる。頃合を見て自分も海外に逃亡し、外国籍を取得したり定住したりする。もちろん蓄財した金は海外の銀行などに預金する。このような悪質、悪辣な腐敗官僚を「裸官」と言うわけだ。海外逃亡した汚職官僚は4000名以上、流失金額の総計は50億ドルに上るとも言われている。彼らの中には海外で妻子ともども優雅な生活をしている者が多いようだ。「裸」とは、捕まるところがない、後ろ髪を引かれる思いがないという意味だそうだ。

 

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=1112&f=column_1112_007.shtml

 

 西安の李真や謝俊麗と話していても、賄賂などは当然あると思っていることが分かる。李真によれば、学校の教師も賄賂を取るようだ。とにかく何か口利きをしてもらう時には金銭の授受が当然なのは、これは中国の「文化」なのかも知れない。もっともその点では日本でも、前に大分県での教員採用試験にかかわる賄賂の問題などもあったから、あまり大きなことは言えないのかも知れない。それに公務員などの収賄は中国に限らず、かなりの国であるようだが、中国の場合は桁外れのようにも思える。国としては恥ずべきことだ。

 

俊麗は、中国のミルクが危険だということを憤って、政府もおかしい、一時は日本製のミルクまで差し止めた、いったい中国人は中国をどうするつもりなのだろうと言った。私が賄賂があるのだろうと言うと、絶対にあると言ったが、何か納得できない処置の裏には必ず賄賂があると考えているのだろう。どこか冷めたような感じだが、その底には、政府や役人に対する軽蔑と不信感があるように思える。彼女達のようにまじめな庶民の思いを政府が真剣に受け止めて、本気になって腐敗撲滅に動くのはいつのことなのだろうか。それとも4千年の「伝統」は強固なもので、「百年河清を俟つ」と言うことなのか。恥ずべき伝統で、いくら経済大国と胸を張っていても、品性の上では三流ではないか。

 

 

 


中国の公務員の汚職

2011-01-17 09:49:22 | 中国のこと

公務員の汚職は、貧富の差の問題と共に中国の大きな問題だが、汚職はもはや国家的な病気とも言っていいほどはびこり、おそらく手がつけられないような状態になっているように思う。

 

 中国国務院は昨年末、政府や共産党幹部の横領や汚職などの取り締まり状況をまとめた「中国の反腐敗と清潔な政治の建設」と題する白書を発表した。このような汚職に関する白書を発表するのは初めてのことだそうで、それだけ汚職が深刻だということでもあるのだろう。

 

 この白書は2003年から9年までの7年間に各地の検察機関が立件した公務員が関わった汚職事件を明らかにしたもので、その件数は24万件を超え、とりわけ、土地の使用権や炭鉱の採掘権など商業上の権利を巡る贈収賄事件が目立ち、2005年から5年間に立件された事件で公務員が受け取っていた賄賂の総額は166億元(日本円で2000億円余り)という巨大なものだ。

 

 白書はさらに、国家統計局が03年から10年に行った世論調査で当局の反腐敗の取り組みに対する市民の満足度が51.9%から70.6%に上昇したと述べて、取締りの成果を強調した。だがインターネット上ではこの数字を疑問視する書き込みが多く、「実感とまるで違う」といった反発を呼んでいるようだ。中国では公務員の職務権限が強いことが汚職の温床となっているとされているうえ、取り締まる司法機関も共産党から独立していないことから、捜査には限界があると指摘されているとのことで、香港紙などで汚職疑惑を暴露された閣僚級以上の指導者に捜査の手が及んだ形跡がないことにも市民が不満を募らせていると言う。

 

 汚職で立件される公務員の数が年々増加傾向にあるのは、取り締まり体制が強化されたことよりも、汚職官僚の数が増えたことに原因があるとの声が多いそうだし、閣僚級以上に捜査の手が伸びないのは、ある中国筋によると、「党政治局員以上の高官を取り締まれば、権力バランスが崩れ、激しい派閥抗争を引き起こす恐れもあるから胡錦濤政権は慎重になっている」とのことだから、まったくもって「何をか言わんや」で、この点では中国はまだ古代・中世国家の段階にあり、近代国家とはとうてい言えないのではないか。いったい今の中国の指導層や高級官僚などで、その地位に就くまでのコース、地位で一切汚職をしなかったという清廉な人物はいるのだろうか。

 

 

 


原理主義

2011-01-15 11:10:00 | 身辺雑記

 年末に、高校時代のクラス会に出るためにこちらに来た次男と会って食事をした。7月に会って以来なので、いろいろ話ができて楽しく過ごすことができたが、その中でひとつ面白い話をしてくれた。

 

 息子の近所にイラン人の男性がいて、地域の祭礼にも出て神輿を担いだりするそうだ。イラン人でイスラム教徒だから、息子は異教徒の祭に参加していいのかと尋ねたらしい。イスラム教徒は戒律が厳しく、他の宗教に対しては厳しい態度をとっているのではないかと思ったからだ。しかしその男性は「かまへんね、かまへんね」(構わないんだ)と、いたって屈託なく答えたそうだ。

 

 イスラム教徒とは言っても、すべてが戒律を厳しく守っているわけではないらしく、きわめて厳格なのは原理主義者の教徒のようだ。原理主義と言うのは、ある宗教の原典(教祖の言葉)や教団の教義を字義通りに解釈し、それを押し付けるもので、しばしば非寛容で狂信的になり、非常に闘争的で攻撃的になることが多い。最近では米国に対するテロで「イスラム原理主義」をよく耳にするようになっている(ただしイスラム原理主義者=テロリストと考えるのは誤りで、原理主義者の中の過激派の一部がテロリストなのだ)。

 

 そのイラン人の話では、故郷のイランで集まりがある時に、中に原理主義者がいると、会の雰囲気は非常に堅苦しいものになるのだそうだ。パーティーなどの楽しい場でもそうで、参会者は緊張するらしいが、その原理主義者が退席すると、途端に「さあ、飲もう」となって騒ぐということだ。もちろん公式的にはイスラム教徒はアルコール類を口にしないということになってはいるが、実態はそんなものらしい。女の子などはミニスカートなどに穿き替えて踊りだすということだ。そんなものかと思った。

 

 そのイラン人は、我々はペルシャだからと言ったそうだ。イランの古名はペルシャで、私たちがイスラムと言うと連想する、戒律の厳しい極めてイスラム的なアラブとはちょっと違うらしい。1978年のイラン革命以来、イランではイスラム原理主義的な勢力が支配しているが、革命以前のパフレヴィー王朝時代は非常に西欧的な雰囲気の国だったと記憶している。そんなことで表面的にはおとなしくしているようでも、庶民の感覚としては堅苦しい原理主義には辟易していることもあるのだろう。庶民の素朴でおおらかな感情やエネルギーは、教義、教条で押さえつけておくのは難しいのかも知れない。

 

 


臥床徒然(2)

2011-01-14 11:37:44 | 身辺雑記

 知人の元教師の女性から年賀状が届いた。賀状が遅くなった詫びに続いて、「現在病(がん)と闘っております。よいきざしが見えず、体力気力ともに落ち込んでいます」とある。何の癌かは分からないが、よほど悪いのだろうか。元気な人で、退職教職員の会の世話役をしていたが辛いことだろうと思う。さっそく見舞いの返信を書いた。私はちょっと激しい下痢くらいで体力も気力も落ちたが、この人に比べたら他愛ないものだろう。癌と告げられたらどんな気持ちになるのだろうと改めて考えた。

 

 このところ寒い日が続く。夜はだいぶ冷え込んでいるようだがまだ氷は張ったことはない。妻が死んだ年の2月も寒かった。毎晩勤めが終わると妻の病室に行き、そばにいてやって過ごすのだが、ある晩帰ろうとすると妻が「今夜は寒くなるようよ。水道管が凍らないように、寝る前に少し水を出してね」と細い声で言った。妻はその後ほどなくして逝ったのだが、私が病室を出る時には決まって、「気をつけて帰ってね」と言った。苦しい息の中から私や家のことを気遣うその優しかった声を思い出すと今も涙が出る。

 

 「発病」(ちょっと大げさだが)してから1週間たった。もう食欲は普通になり、食事も美味しく食べられる。これで体調も回復するだろう。ただ下痢が止まると、今度は便秘気味となった。もともと私は通じの良いほうだから、やはり1日でも滞るのは鬱陶しい。ベッドに横になっていても腹が張ったような感じで何か落ち着かない。厄介なことだと思う。