中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

幼い息子のことばと妻の思い出

2012-01-30 11:54:40 | 身辺雑記

次男がまだ幼かった頃、急に「カンジンコ ブブネ」と言い出したことを思い出した。よほど気に入ったのか、歩きながらでも何度も繰り返していた。いったいあれは何だったのだろうか、次男に電話してみた。

 

  「君が小さい時に、カンジンコ ブブネと言っていたのを覚えているか」 

  「覚えているよ。幼稚園の頃だったかな」                   

  「どういう意味だったのかな」                     

  「さあ、多分どこかで聞いたことばが気に入ったのだが、上手くまねができな いから、ああ言ってたのじゃないかなあ」

 

 40年くらい前のことを本人も覚えていたのはよほど印象に残っていたのだろうが、結局どういうことだったのかは分からずじまいだった。

 

  私の妻はいわゆる専業主婦だったから、長男が生まれて以来2人の息子が家を出るまでの20年以上、子ども達の世話をしてきた。妻は賢母と言えたかどうかは分からないが、間違いなく慈母だった。息子達にはずっと優しく接していて、声を荒げたことなどは一度もなく、息子達も妻を愛していた。だから妻が逝った時の嘆きようは見ていて辛いほどだった。

  

 そんな妻だったから、子ども達については私が知らないいろいろなエピソードを知っていたはずだ。今になったらもっと聞いておけばよかったと思うことは多い。ひょっとすると次男の「カンジンコ ブブネ」の由来も知っていて、おかしそうにころころと笑いながら話してくれるかも知れない。

  

 朝目覚める直前の夢か現かと言うような状態の時に、よく妻に聞いてみようと思うことがある。その途端に目が覚めて、「ああ、いないのだった」と思う。その瞬間がとても悲しい。それでも頭がぼんやりしているから、本当なのかと思い、臨終の時のことなどを思い出してやっと納得する。もう13年もたとうとしているのにこれは辛いことだ。 

 

 妻のお蔭で息子達は大過なく育ち、それぞれ良い相手に出会って家庭をもち、孫もできた。私が息子達にしてやれたことは妻に比べると微々たるものだったように思う。

  

 長男が中学生の頃、朝学校に出かけようと玄関で靴の紐を結んでいるのを、私も出勤しようとしていたので見たことがある、妻が傍にしゃがんでいて、結び終わると当然のように頬を息子に近づけて、「はい、チュは?」と言う。そんなことをするのはもう恥ずかしく思う年頃だし、私が傍にいたからだろう、息子はいかにも面倒くさそうに、「しょうがないな。してやるわ。はい」と、ぞんざいな口調で言ってキスすると妻は満足そうだった。甘いと言えば甘いことだが、その時の情景が今もはっきりと思い出されて、ふと涙ぐんでしまう。

 

 

 


大阪維新の会の国政進出

2012-01-30 11:53:56 | 身辺雑記

  橋下徹氏が大阪市長に就任したのは昨年の12月19日で、まだ1ヶ月と少ししかたっていないが、その間に次々に方針や指示を出して意欲を見せている。しかしその目は既に国政に向けられているようだ。

 

橋下氏は大阪のダブル選前は「国政には関与しない」としていたが、選挙後は大阪都構想への対応を巡って既成政党を繰り返し牽制し、今月初めの民放番組では、「僕に社会保障、税の問題を預けてくれたら、3か月で決着する。次の総選挙で自民党も民主党もすべて倒す」などと語ったそうだ。彼一流のはったりと言うか大言壮語だが、国政への関心は深いようだ。

 

 彼の率いる「大阪維新の会」も国政進出に強い意欲を見せているそうで、「衆院選に300人擁立し、200議席をめざす」とマスコミに話す幹部もいるらしい。これについては既成政党などからもちろん批判もあるが、マスコミには格好の話題だろう。そんなに候補者がいるものかと思うが、橋下氏が主催する「維新塾」には千人以上の希望者があると言うから、数は満たせるだろう。ただ、地元の有権者の中を地道に回ってその声を聴くような経験を積むことなく、座学で政治を学んだ促成野菜のような、維新の志士を気取った「政治家」が多数現れて、またぞろ「劇場型」の選挙騒動を引き起こすのかと思うと、ちょっと憂鬱になる。インタネットを見ると、早くも彼が日本の救世主になることを期待する声も少なくない。維新出身のある府議は「本音をちょっとずつ出していくのが橋下流。腹の底では首相を狙っているはず」と言ったらしいし、「一度任せてみて、その結果で批判するべきだ」と言う声もあるが、国政というものはそんな簡単なものではないと思う。

 

 石原慎太郎・東京都知事(79)が党首となる新党を3月に結成することを、亀井静・国民新党代表(75)と合意したらしい。国民新党の大半と民主党、たち上がれ日本の一部が参加する見通しで、橋下氏との連携が焦点になると言う。もっとも石原氏は「3月は予算で忙しい。放っておいてくれ」と記者団に話したそうだから、3月新党結成はまだ不確定だろう。それにしても同じように合意したという、たち上がれ日本の平沼赳夫代表も72歳、これら70代の老人達の意気盛んなのには呆れるほど驚くばかりで、私などは萎びた茄子のようなものだ。

 

 東西の知事が国政に意欲満々ということで、次の総選挙の結果によっては日本の政治は様変わりするのだろうが、彼らの目論見どおりになれば非常に右寄りの政治になることは間違いないと思う。「結局は国民が右傾化しているということですよ」とある知人は苦々しい口調で言っていた。彼はとくに左寄りの考えの持ち主ではなく、小さな商店を営むごく普通の市民なのだが、言うことには同感した。

 

 

 

 

 


寒さ暑さ

2012-01-27 11:20:19 | 身辺雑記

 「大寒」が過ぎ(今年は1月21日)、寒さも強くなった。全国的に寒気に覆われて、日本海側や北海道では特に寒さが厳しく雪も多いようだ。これは「ブロッキング高気圧」という現象の影響で偏西風が蛇行し、上空に寒気が居座ったためだそうだ。この冬型の気圧配置は2月上旬まで続くらしく豪雪になると予想されている。北国の人達の生活が思いやられる。

 

 若い頃は寒いのも暑いのも大して苦にならなかったが、年をとったせいか、両方とも辛くなった。どちらかと言うと暑いほうが苦手になっている。若い頃に比べるとクーラーなども整備され、屋内では涼し過ぎるほどなのだが、屋外の暑さは目が眩むほどだ。特に都会ではヒートアイランド現象とやらでとても暑い。このところ真夏には熱中症で死ぬ人も増えている。独り暮らしだから、夜間の温度調節には気を遣いクーラーも1,2時間で切れるようにするが、そうするとその後で暑さで目が覚めるから厄介だ。

 

暑い時に外出するのは辛い。できるだけ薄着にするが、それでも外出するのに下着姿というわけにもいかない。その点寒いときは着るものを増やせばいい。特に最近は防寒のための繊維も工夫されて冬の衣類は昔に比べると格段に良くなった。それに歩いていると体が温まるからいいが、暑い時は体力を消耗するだけだ。

 

 しかし、昔は夏よりも冬の生活のほうが辛かったのではないだろうか。例えば、今でも冬のじめじめしたような寒さの京都では、平安時代の生活はどんなものだっただろうかと思う。今に残るその時代の建物や絵巻物などで見ると、貴族の生活にしても吹きさらしのようでいかにも冬は寒そうだし、まして庶民の生活はずいぶん寒いものだっただろう。現代人ならそれこそ凍え死んでしまうのではないかとも思う。

 

 江戸時代にしても、江戸の冬はかなり寒かったようだ。深川の辰巳芸者などは冬でも素足だったらしいし、いなせな若者は薄着だったと言うが、単なる我慢ではなく、寒さに対する耐性は今よりもずっとあったのだろう。それほど昔のことでなくても、私の子どもの頃は東京や滋賀県の大津にいたが、今よりは雪や凍結も多くて寒かった。それでもその頃は暖房といえば火鉢の炭火だったが、その小さな火に手をかざしているだけで体が温まるように感じたものだ。そうすると僅か5,60年くらいの間に私たちは寒さに対する耐性を衰えさせたのかも知れない。

 

 冬にしろ夏にしろ、現代の生活は寒さ暑さを防ぐ設備、手段が整い、その点では快適で良いことだが、その反面、環境に対する耐性はどんどん弱いものになっているのではないか。

 

 

 

 


空想

2012-01-26 09:55:06 | 身辺雑記

 いい年をして私は、時々空想にふける。誰でも例えば宝くじに当たったら、こうしよう、ああしようと空想することはあり、私もご多聞に漏れないが、私の場合は、鉄腕アトムのように空を飛べたらというほどではないが、ずいぶん子どもじみたものであることもあり、心理学者が分析したらどう言うだろうと思ったりする。

 

 小沢健志監修 岩下哲典編者『レンズが撮らえた幕末明治日本紀行』(山川出版)という写真集を買った。題名どおりの幕末明治期の日本各地で撮られた写真を集めたもので、なかなか面白いのだが、もう少し当時の庶民生活のものがあればとも思った。この本を見ていてふと考えた。

 

 こうやって写真で100年以上前の風景などを見るように、目の前の景色の過去が見えたら面白いだろう。例えば家から数分のところに旧い街道がある。有馬街道と言って昔、大阪、尼崎から有馬温泉に通じる街道だ。そこに立って、江戸時代にはこの街道はどんな様子だったのだろうと考える。ここから空想に入る。

 

 

 

 この街道の写真を撮ってSDカードに収め、そのSDカードをノートパソコン型の「タイムマシーン」に挿入する。キーボードを操作して、見てみたい時代、例えば100年前とか1800年とかを入力すると、画面にその時代のものが映る。1000年前でもなんでも思いのままだ。素晴らしいではないか。旅行する時にも携帯して、旅行先で操作すれば、目の前の風景の古い時代のものが見える。旅の楽しさは何倍にもなるではないか。

 

 とまあ、こんな空想をするのだ。あなた、いったいいくつ?と言われそうだが、しかし馬鹿にしたものではない、過去には空想と思われていたことが現実のものになっている例は、例えば飛行機などいくらでもある。空想は人類進歩の原動力だと言っても言い過ぎではあるまい。もちろん上に挙げた私の空想などは今後も実現はしないだろう。しかし、ひょっとするとそんな時代が来るかも知れないと空想するのも悪くはないと、閑人オジイの独り言。

 

 


公と私ー橋下大阪市長に思うー(2)

2012-01-25 10:50:36 | 身辺雑記

 大阪市が構想しているスーパー特選校2校のうち1校を、市長の意向で市長の母校を選んだというのにも呆れる。「路地裏の裏」まで知っているというのは彼一流のはったり的な物言いだろうが、このような学校を創ることの賛否はともかくとして、決めるに当たっては慎重な調査が必要ではないか。「せっかく市長になったんだから、それぐらいやらせてもらいたい」に至ってはばかばかしくて言うことばもない。それにしても新聞各社は「客観的」に記事にするだけで批判も何もしないのは物足りない。以前あるブログに「マスコミを使って安上がりに世間の注目を集める才能は、まさに天才的としか言いようがない」とあったが、マスコミも彼の発言を伝えるだけの存在に成り下がったのかと情けなく思う。

 

 橋下氏は発言したことに批判を受けると強引に反論しまくる。ふつうの人間なら、ためらうことでも止まらない。自信過剰の口説の輩だ。

 

 彼の頭の中には公と私ということがどのように区別されて存在しているのか疑問に思う。府知事時代にサッカー・ワールドカップ(W杯)で日本代表選手として活躍したガンバ大阪の遠藤保仁選手に「感動大阪大賞」を贈った際、府庁内の知事室で自分の子ども3人を遠藤選手に引き合わせたことがあった。子どもたちは一緒に記念写真に収まったり、サインをもらったりしたという。橋下氏は「知事になると、子どもを自由に連れていけない。これぐらいは府民に理解してもらえる」と言い、記者会見で「公私混同ではないか」と問われると、「知事職が(プライベートと仕事を区別しにくい)公私混同で、僕の子どもは一般家庭とは違う制限を受けている。個人ではなく、政治家のファミリーと見てほしい」と、よくわからないことを言い、「サインがほしいほかの子どもと比べて不公平では」との指摘には、「その子どものお父さんに知事になってもらい、(制限を受ける)苦しい親子関係に耐えてもらうしかない」と反論した。まったくああ言えばこう言うで呆れるばかりだが、弁護士上がり(むしろ「崩れ」か)とはこういうものかと思ってしまう。

 

こういう人物がリーダーとして期待されたり、人気があるというのは大阪という土地柄、大阪人の性格かと思っていたが、今ではかなり全国的な傾向らしい。マスコミがもてはやすことにも一因があるのだろうが、私には嫌な風潮に思われる。

 

 

 

 

 

 


公と私ー橋下大阪市長に思うー

2012-01-24 09:27:14 | 身辺雑記

 大阪市は小中一貫校2校の設置を目指しているが、これについて橋下市長は、この2校を私立の進学校並みの教育内容やカリキュラムを実施する「スーパー特選校」にする構想を明らかにしている。

 

 市長が「スーパー特選校」に想定しているのは、東住吉区の矢田小を矢田南中に移設して4月に開校する1校と、東淀川区の啓発小と中島中を併せて来年度以降に開校予定の1校で、通学区域については、「(学校周辺)地域が活性化する」として、「市内全域」とする意向も示した。

 

橋下市長は啓発小と中島中を卒業しているが、自分の出身校を選んだことについては「路地裏の裏まで知っている。せっかく市長になったんだから、それぐらいやらせてもらいたい」と言ったそうだ。

 

 大阪市には小学校が299校、中学校は130校ある。その中から2校ずつを選んで特選校をつくることにどんな意味があるのだろうか。全国学力テストの結果は大阪市は低位で、府知事時代の橋下氏は激怒して市町教育委員会の指導や教員の資質に問題があるかのように罵倒した。学力テストの結果の公表に消極的な市町村教育委員会を「クソ教育委員会」と罵り、翌日「オカン(母親)に叱られたから」と発言を撤回した。「クソ委員会」と言い、「オカン」と言い、これが地方行政のトップに立つ者の物言いかと、その品性の低さに顔を顰めたくなるが、一部の大阪人には庶民的でいいと受けるのかも知れない。

 

 スーパー特選校を創ることで大阪市の公立校のレベルを上げようとするのだろうが、他の学校はどのようにするのか。対象が全市一区とすると、この学校への入学希望者の選抜はどのようにするのか。もともとの校区の子ども達が弾き出されることはないか。構想の詳細を知らないから疑問に思うことが多い。 (続)

 


福原愛

2012-01-23 12:22:34 | 身辺雑記

 女子卓球の福原愛選手が、全日本選手権女子シングルスで初優勝した。3歳9ヶ月で卓球を始めて以来、20年目のタイトル獲得だった。福原愛と言えば日本女子卓球界の第一人者とも言えるスターだから、今回初めてこのタイトル獲得というのはちょっと意外な気もするが、14歳で世界選手権8強、15歳でアテネ五輪、19歳で北京五輪に出場したのに、このタイトルには縁がなかった。優勝して涙を流したようだが、感無量の思いがあったのだろう。

 

                     

 

 卓球を始めた頃は、とても愛くるしく、試合に負けると大泣きしながらコート脇に控えている母親のそばに駆け寄っていく姿を古い8mm映画で観たことがあるが、何とも無邪気で可愛らしかった。こんなことから「泣き虫愛ちゃん」と愛称されるようになった。

 

 

 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団し、同じ超級リーグ、広東佐川急便チームにも属したことがある。中国でも人気が高く、肌がきれいなことから「瓷娃娃ツーワーワー(磁器のお人形)」と愛称され、「小愛シャオアイ(愛ちゃん)」と呼ばれた。

 

 卓球を始めた当時の幼女も、今では23歳の立派な女性に成長した。これからもいっそう精進を積み、差し当たってはロンドン五輪で活躍してほしい。

  

 


たき火(2)

2012-01-22 09:04:38 | 身辺雑記

たき火(焚火)の季語はもちろん冬だが、こんな句があった。

 

  行きずりの人も焚火に来て親し

 

 童謡の情景もそうだが、昔はこの句のような情景はよく見られた。寒い冬の朝などは道端でたき火をしているとつい立ち止まり手をかざしたくなる。そしてたき火の主とちょっとことばを交わしたりする。こんな情景ももう見られなくなった。

 

 たき火と言えば、その熱い灰にサツマイモを埋めて、たき火の火が消えてもしばらく置き、適当なところで取り出して、熱いのをホクホクと食べる美味しさは何とも言えず、焼き芋はたき火で作るに限ると思わせるほどだった。

 

 たき火ではないが、大晦日に近い年末には正月の支度の一つとして、炭俵を焼いた。これはかなり火力のあるもので、体が熱くなるほどだったが、灰にならないうちにバケツの水を手でかけて火を消す。そしてその真っ黒な言わば藁の消し炭を十能に取って火鉢に移す。そこによく熾った炭火を置くと、それまでは古くなった白い灰だったから、黒い藁灰と赤い炭火のコントラストがとても美しく、見ているだけで暖かくなるような感じがしたものだった。中央に十徳を据え、金網を置いて薬缶で湯を沸かしたり、餅を焼いたりする。火鉢を使う家庭はもうほとんどないだろう。、私の家では傘入れにしているし、母の家にあった少し大きいものは、次男がメダカの飼育に使っている。

 

 かつては日常に身辺にあった事物がどんどん姿を消してしまったことは仕方がないことだが、それを懐かしむのは、やはり年をとったからだろう「昔はよかった」と言えば老いの繰言になるけれども、それでも、今と比較すると不便なことは多々あったが、昔ならではの良いことがいくつもあった。

 


たき火

2012-01-21 14:42:07 | 身辺雑記

 

 http://www.youtube.com/watch?v=S9wgi2SlsJA

 

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

 

 

懐かしい童謡である。今では見られなくなった情景だけに、なおさら昔のことがしみじみと懐かしく思い出される。この歌を聴いていると、落ち葉のたき火の温かさまで感じるように思う。

 

 この童謡は、昭和16年(1941)の12月に東京放送局(現NHK)で12月9日と10日の「幼児の時間」で楽曲が流された。当初は3日間放送する予定だったが、8日に太平洋戦争が勃発したために、初日に放送されると軍当局から「焚き火は敵機の攻撃目標になる」、「落ち葉は風呂を焚く貴重な資源だからもったいない」という批判が出て11日の放送は戦時番組に切り替えられた。開戦早々から本土に敵機が襲来することを想定していたのか、風呂を焚く資源も枯渇すると予想していたのか。これも検閲の結果なのだろうが、軍部の言い分は、いかにも卑小な小者の言という感じがする。

 

 それに戦後になって昭和24年(1949)にNHKのラジオ番組の「うたのおばさん」で松田トシさんや安西愛子さんが歌って広まり、小学年生の音楽の教科書にも掲載されるようになったが消防庁から、平成19年(2007)には「町角の焚き火は危険」「防火教育にさしつかえないよう考えて欲しい」と批判があり、それを受けて、教科書に掲載する際には挿絵にたき火と人物だけでなく、火消し用の水が入ったバケツを描くようになったという。どうも官の言い分はもっともなようだがせせこましい。今では都会地では家庭や街中ではたき火は禁止されているから、この歌は今の子どもには意味が分からないだろう。子どもだけでなく、都会育ちの若い人たちにも経験がないのではないだろうか。第2節目の「しもやけおててがもうかゆい」の、しもやけ(霜焼け)などは今でもあるのだろうか。昔の子どもは赤くはれ上がった手になっていて、かゆくて掻くから傷ができて崩れたりした。 

 

 今に比べると万事が素朴で質素な時代だった。