中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

四川の旅(11) 雑記

2007-07-13 12:03:14 | 中国のこと
① 小不入川
 ガイドの雷鳴君が教えてくれた。「若い者は四川に行かない(ほうがよい)」と言うような意味。

 四川は昔の蜀の国。古くから天府の地(地味が肥えて産出物の豊かな土地)と言われた。「蜀犬日に吠ゆ」と言う成句があり、四川は晴れの日が少ないからたまに陽が差すと、犬が驚いて太陽に向かってほえると言うことだが、晴れの日は少なくても1年を通じて気候はしのぎやすく、また地震や台風などの自然災害も少ない。現在でも食べ物は豊富で安いそうだ。このような土地だから、若いうちに四川に来て慣れてしまうと、苦労を知らない、なまくらな人間になると言うことから「小不入川」と言う成句ができたようだ。

 実際、今回の旅でも食べ物は安いことは実感した。雷鳴君が食事はちゃんとしたレストランがいいか、庶民的な店がいいかと尋ねたから、庶民的な店のほうがいいと答えると、喜んで、四川滞在中は1度を除いていつも普通の店に連れて行ってくれた。どこでもとても安く、平楽古鎮に行く途中で立ち寄った道路脇の店は、6品くらいついて1人当たりで160円ほどだった。閬中の昼食は麺が中心でたっぷりあって約150円、夜は家鴨と茸の鍋にしたが、なかなか美味しく1鍋で約900円という安さだった。


 閬中から戻ったときに昼食を食べた店は雷鳴君やドライバーの邱さん馴染みの店で、えんどう豆のスープが非常に美味く、お代わりしたり他の料理も食べて160円くらいだった。


 もちろん高級なレストランに行けば雰囲気も味も良く、それなりの支払いは必要だろうが、今回のような庶民的な店で十分満足できる。

② 雷 鳴君
 今回の四川の旅では、成都の山水国際旅行社の雷鳴(Lei Ming)君に非常に世話になった。成都空港で出迎えてくれた彼の第一印象はとても良く、これは良い旅になるなという予感がしたが、実際そのとおりになった。26歳、大学で日本語を学び、旅行社に入って4年ほどになる非常な親日家だった。明るい性格で笑顔を絶やさない。当然といえば当然かもしれないが、行き先々の土地のことは成都はもちろん、平楽、閬中、臥龍についてはとても詳しくて、いろいろと尋ねてもいつも明快に答えるので信頼できた。特に臥龍のパンダの保護研究センターには何度も案内した経験があり、まるで職員のようにいろいろ説明してくれた。上に書いた食事のことでも、私が庶民的なところが良いと言ったので、穴場のような店に案内してくれた。

成都での夜の小吃(軽食)店。人気があるとかで大変な混雑だった。


 旅の途中の心配りも細やで、快適な旅ができるようにとの心遣いがよく分った。彼も私に親しみを持ってくれて、私が西安の友人達から「爺爺yeye(おじいちゃん)」と呼ばれていることを知ると、ずっと「爺爺」と呼んでくれたので、なおさら心楽しかった。

 彼の大学時代の日本人の先生が彼を気に入って日本に招待してくれて、夏の3ヶ月を東京で過ごしたが、先生の家族や縁者に非常に親切にしてもらい、すっかり日本や日本人が好きになったそうだ。そのこともあって大学卒業後には日本語ガイドになったのだが、「ガイドをしてみると、日本人にもいろいろな人がいることが判りました」と笑っていた。実際日本人観光客の中にはかなり非常識な者もいて、チベットに案内したツアー団の中のある高年の男性などはちょっとしたことで、ガイドとしての彼の行動に対して悪感情を持ち、同行の他の日本人達の前で彼を「お前は馬鹿野郎だ」と面罵したこともあったそうで、聞いていて日本人として情けなく、恥ずかしく思ったことだった。

 成都を発つ前日、夕食はやはり庶民料理にしましょうと言って連れて行ってくれたのは何と彼の家で、新婚間もない彼の可愛い奥さんのおいしい手料理をご馳走してくれたのには感激した。こんなことはめったに体験できることではない。

雷鳴君と奥さん


 旅行会社の旅の案内の謳い文句のような「豪華なホテルに泊まって、各地の名物料理を食べる」だけが旅行の楽しみではない。ただ観光地を駆け抜けるだけでなく、ごく普通の庶民の暮らしに触れることがあってこそ満足できる旅になる。そういう意味では、雷鳴君のお蔭で今回の四川の旅はまことに心に残るものになった。

四川の旅(10) 臥龍④

2007-07-12 09:10:35 | 中国のこと
後姿も愛らしい。








 パンダは愛らしい姿と動作から、ごく温和な性質と思われているが、やはり野生的なところがあって、これまでにも飼育員が足の爪で腿の肉をえぐられるようなことはあったらしい。餌の竹を食べている様子を見ると爪はかなり長く鋭い。
 2006年5月19日 成都パンダ基地で。



  パンダの体毛の白と黒の色分けがどのようにしてできてきたのか、それが自然界ではどのような役割をしているのかは知らないが、このような体色がパンダを愛らしく見せていることは確かだろう。特に目の周りの黒い隈が愛らしさを際立たせている。


この隈がなかったら、どのような顔つきになるのだろうか。



 研究センターのVIP。中国政府は雌雄のパンダを台湾に贈ることにして、名前を公募し、その結果「団団(Tuantuan)」と「円円(Yuanyuan)」に決まった。中国語で「団円」は、長い間離れ離れになっていた肉親が再会することを意味している。パンダは希少動物なので国外に出すことには制限はあるが、国内なら自由に移動できる。中国政府は台湾は中国の省だと主張しているが、現在の台湾の陳水扁政権は台湾の独立を主張する立場から、団団と円円の受け入れを拒否している。このような政治的な思惑も知らず、団団と円円はセンター内の特別の専用施設でのんびりと暮らしている。


どちらが団団か円円か見分けがつかない。




センターには病院もある。病院の前には病んだ野生のパンダを救出している像がある。



四川の旅(9) 臥龍③

2007-07-11 11:35:00 | 中国のこと
 パンダはよく食べ、よく眠る。高い所や不安定と思われるようなところでも寝ている。寝ている姿はとてもかわいい。長い時間身動きもしないでじっと寝ている。

保育園でのお昼寝タイム。






高い所でもベッドになる。






ずり落ちそうな所でも眠る。


夢うつつ。


片目はパッチリ。


「死んだように眠る」姿。




四川の旅(8) 臥龍②

2007-07-10 09:17:09 | 中国のこと
 臥龍大熊猫保護研究中心(センター)では昨年8月に18頭の子パンダが生れた。パンダは野生では生後半年は母親から離れないが、このセンターでは3ヶ月たつと母親から離して飼育係員達が世話をする。子ども達を育てる場所は保育園と呼ばれ、子ども達は子供同士で生活して、元気に育っている。

 広い敷地にある遊具で遊ぶ子ども達。パンダは敏捷な動物ではなく、いつも動作はゆったりしている。


高いところに登るのが好き。




朝食後の運動か、3頭がキュンキュン唸りながら取っ組合いをしていた。


 やがて1頭が離れたが、残った2頭は取っ組合いを続け、とうとう手前の堀に転げ落ちてしまった。


 パンダはよく食べる。餌は特定の竹であるが、消化できるのは30%くらいであとは排泄されてしまうと言う。だから大量に食べなくてはならない。

餌の竹





いろいろな姿勢で食べている。


仰向けになって食べる姿はよく見かける。




朝夕2回、竹が与えられる。


葉はむしり取って茎を食べる。


高い場所で孤食を楽しむ。


竹はたくさん与えられている。


研究所ではとうもろこしや小麦の粉にいろいろな栄養素を加えて作ったたパンのような人工の餌も与えている。


パンを食べる。


厨房の前にある看板。「私達のおやつを盗み食いしようと思わないでね」とある。





四川の旅(7) 臥龍(Wolong)

2007-07-09 11:10:04 | 中国のこと
 5月28日。第5日目。臥龍の大熊猫(ジャイアントパンダ)保護研究センターに向かう。

 臥龍は成都の北の阿壩(アバ)蔵族羌(チャン)族自治州にあり、成都から西北へ約150キロである。成都を出て1時間ほど行くと都江堰市がある。都江堰は2,200年前の秦の時代の大土木工事によって造られた治水ダムで、世界文化遺産に登録されている。昨年訪れたが壮大なものであった。
 06年5月21日

 この市を抜けると阿壩蔵族羌族自治州に入る。本来なら道路は良いから3時間ほどで順調に走れるのだが、あいにく途中で工事をしていて、行きは午前中の2時間、帰りは午後の2時間しか通行できない。それで片道5時間かかるとあらかじめ聞いていたので、臥龍で1泊することにしていた。

 ところが運の悪いことに、工事現場にかかる前に車が故障して代替の車を成都から呼び寄せたので、また大幅に時間をロスした。それでも何とか通行可能な時間帯に工事現場を通過できた。やがて道は北の九寨溝、西の臥龍へと分かれる。この分岐点から臥龍までは約40キロの道のりであるが、これが非常な悪路で難渋した。一応舗装している部分もあるが、傷んでいないところは少なく、舗装した箇所に差し掛かってほっとするのも束の間、再び車体がひどく揺れるがたがた道となり、いっそのこと舗装していない方がましだと思ったほどだった。

 道路脇や川の近くに竹が植えてある。研究センターの委託で付近の農家がパンダの餌用に栽培しているものだそうだ。


 昼食をとる時間も場所もなく、4時ごろにやっと大熊猫保護研究センターに到着。成都のホテルを出て8時間ほどかかったことになる。


 保護研究センターは深い谷間にある。ここはパンダの生息地であったが、米国の学者が発見し、施設を作って研究していたが、その後中国に贈られて、現在では中国有数の研究センターになっていて、繁殖と野性に返すことを目的にしている。


パンダの像


施設の入り口


入り口を通ると両側に竹が茂る道を下る。


この施設は、昨年訪れた成都のパンダ基地の10分の1くらいの面積だそうだが、自然を生かして作られている。


施設内はきれいに整備されている。


やっとパンダの姿を見ることができ、疲れも消えた。



七夕コンサート

2007-07-08 12:07:54 | 身辺雑記
 H君夫妻と兵庫県立芸術文化センターに、中国の揚琴(yangchin)の演奏を聴きに行った。

兵庫県立芸術文化センター。大、中、小3つのホールがあり、演奏会は小ホールであった。


小ホールは階段教室状で約400席。私達はB席で、ステージの後ろから見下ろす位置だった。


 演奏者は中国南京市生まれの薇薇(WeiWei)。プロフィールの紹介によると「11歳で全国唯一の揚琴専攻合格者に選ばれ、中国最高峰の中国音楽学院で英才教育を受けた」とあるから、揚琴では際立った才能に恵まれていたのだろう。美人でほっそりしていてスタイルが良く、「天は二物を与えず」と言うが、このように才能、容姿など二物も三物も与えられることはあるのだと思った。そう言えば、これまでに聴いた二胡、琵琶、古筝の演奏者の女性達も皆美人だった。


 閑話休題。揚琴の演奏は初めて聴いたが、なかなか魅力的なものだった。楽器の音色を文字で表現することは私の表現力の乏しさもあってできないが、ピアノのような、琴のような、マンドリンのようなさまざまな楽器が連想された。

 ギターとチェロを伴ってのなかなかの熱演で、曲目も中国の少数民族の古謡や馴染みの「夜来香」、クラシックの「アルハンブラの思い出」、ラテンサウンドの「ティコティコ」、米国のカウントリーミュージックの「テネシーワルツ」など多彩だった。日本の曲も「バラが咲いた」、「ゴンドラの唄」、「涙そうそう」が演奏された。いろいろな国、さまざまなジャンルの曲だったが、揚琴の音色はどの曲にもマッチしていて、二胡や古琴などと違って中国的な匂いは感じられなかった。アンコール曲は「蘇州夜曲」とポーランド民謡の「クラリネット・ポルカ」。この最後の曲は「南京的跳躍」と副題がつけられていて、ルンバかサンバを思わせるな踊りまわるような激しい明るい演奏で、終わると大喝采だった。

 揚琴はかなり大きな重そうな楽器で、休憩時間中に展示してあったものを見るとピアノのような多くの鋼鉄製の弦が張ってあった。


 掲示してある説明によると「中国民族音楽の中で、西洋音楽のピアノのようなマルチな役割を果たす大変重要な楽器である」とあった。ビブラフォンやマリンバのように両手に持ったスティックで弦を叩く。弦の数は140本以上、音域は4オクターブ半だそうだ。激しく複雑に動いて弦を叩く手の動き見ながら、そこから奏でられる美しい音色を聴いていると、まるで魔法のようにも思えてきた。

  スティック。竹製の細いもので、メスのような形の片面はゴムでカバーされている。演奏者が実際にやって見せてくれたが、ゴムカバーのある面と反対側では出る音色が違う。




 七夕コンサートであったがあいにくの曇り空、天上では彦星は織姫と会えたかどうかは分からないが、地上では美しい音の糸を紡いで音楽の布を織り上げていく織姫に会うことができた。

七夕

2007-07-07 23:12:40 | 身辺雑記
 今日は曇り空。天の川は見えない。今は梅雨の最中、晴れることは少ない季節だ。天の川をはさんで別居している牽牛星と織女星が年に1度会うことのできる日としては適していない。やはり旧暦の方がいい。今年の旧暦7月7日は8月19日だから、その頃なら晴天になる確率は今頃よりは高いだろう。

 もっとも晴れていても、このあたりでは大気や都市照明の関係で天の川はもはや見ることができない。私が中高生の頃は滋賀県の大津市に住んでいた。その頃は空気が澄んでいて夏の夜、庭に敷いた茣蓙の上に仰向けに寝そべって天を見上げると、漆黒の夜空に銀の砂粒を撒いたような天の川が美しく流れていたものだった。風が涼しく、辺りは静かだったあの時のことを今でもはっきりと思い出す。あのような時間が持てたことは幸せだった。今でも大気が澄んでいて天の川が見られる所は多いのだろうが、羨ましく思う。

 七夕は星祭の日で、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きこうでん)と言う風習と、わが国の機織女が神を待つ棚機津女(たなばたつめ)と言う信仰とが習合したものと考えられているそうだ。奈良時代から行われて、江戸時代に民間信仰として広がった。七夕と言えば笹竹に願い事を書いた短冊を吊るすことは欠かせない。

  「五、六月になると、竹が伸びて柔らかな葉を広げ、今年竹になります。その緑の若竹を切り出して五色の短冊を飾り、里芋の葉から受けた朝露のしずくで墨をすって願い事をしたためます。その水で墨をすり、字を書くと、字が上手になると言われています。」(柳原一成・柳原紀子「ニッポンの縁起食」NHK出版)

 書の上達だけでなく、元来は機織女にまつわる信仰でもあったから裁縫の上達も願ったが、今では願い事なら何でもと言うことになった。

  各家庭で笹竹を飾ることはだんだん廃れてきて、このあたりでは駅前再開発で建てられた商業施設が「代行」している。願い事を書いた短冊とボールペンなどの筆記具を用意していて、なかなかの盛況である。


願い事を書く学校帰りの女子高校生。だいぶ思案していた。願い事がありすぎるのか。


  短冊を吊るす。本来は紙縒りを使うが、ここでは簡単な針金のようなものを用意していた。「写真を撮らせてね」と言うと、にこにこして承諾してくれた。どんな願いをしたのか。叶うように。


20代の娘さんも吊るしていた。


 吊るされた短冊を見ていると、多くは子どもか若者のものらしい。中にはふざけたようなものもあるが、ほとんどはまじめなものだ。中には「○○学院がつぶれますように」などという物騒なものもあった。

本当に切実な願いだね。いじらしい。


「力ちゃん」は弟で、小学生の姉の願いではないかと想像した。


そうだねと共感する。


教「員」採用試験ではないかな。試験当日は慌てないように。




  七夕には関係ないが、デパートの果物売り場に置いてあった巨大西瓜。展示用に作ったものか。北海道の「でんすけ西瓜」がとてつもない値段で落札されたとか、立方体の西瓜が出荷されたという新聞記事を読んだが、どれもデパートなどの客寄せ展示用に使われるとのことだった。
 


四川の旅(6) 青羊宮

2007-07-06 22:10:00 | 中国のこと
 5月27日、第4日。閬中を出て成都に戻る。成都到着後、市内の青羊宮に行く。

 青羊宮は成都市内にある唯一の道教寺院(道観)である。道教は中国漢民族の伝統宗教で黄帝・老子を始祖とする。伝説によると青羊宮は2,400年前の周の時代とされ、最初は「青羊肆」と呼ばれていたが、1,800年前の三国時代から「青羊観」に改められ、約1,500年前の唐代から「青羊宮」と呼ばれるようになったと言う。


 青羊宮という名は、かつて老子が人に「私は道を伝えに行き、千日後に成都に行く」と言い、実際にその日に青い羊に乗って姿を現し、人々に道を伝えたと言う伝説に由来するとのこと。唐代に壮大な道観となったが、その後破壊、修復を繰り返し、現在の建物は清代と中華人民共和国成立以後のものである。

境内は広く、立派な建物が多い。





 
石碑を背負った亀の石像。この形式はよく見かける。


 本殿である三清殿。左右に羊の像が置かれている。向かって左が有角、右が無角。表面の塗料はだいぶ剥げ落ちているが、青い色が残っている。






 八卦亭。青羊宮内の重要建築物であると言う。中国古代の「天円地方」の思想に基づいて、亭の基壇は上が円形、下は方形、真ん中は八角形になっている。基壇の上は八角形の二層構造で高さ20m、幅17mである。


八卦亭のあたりは大きな樹木が多く、野鳥の鳴声も聞こえる静かな雰囲気であった。


夾竹桃の花。日本のものより小ぶりである。


 宮内には茶園があり、中は広く、テーブルや椅子が置かれていて喫茶できるようになっている。客はゆったりと茶を楽しんでいた。






売店で茶を買うと小袋に入った茶を湯飲み茶碗に入れてくれる。


 テーブルに戻ると、係の男性がやってきて熱湯を注いでくれる。茶は茉莉花(molihuaジャスミン)茶で湯の中で開いて美しい。ジャスミンの好い香りがする。茉莉花茶は中国人が愛好する花茶である。この青羊宮の茉莉花茶は1袋6元(約100円)で結構高いが、何回淹れても好い香りが残っていたからまあまあ良いものだったのだろう。






 お世話になった人たち。向かって左から現地ガイドの雷君。運転手の邱さん、西安からのスルーガイドの李さん。



四川の旅(5)―Langzhong古城③―

2007-07-04 08:57:15 | 中国のこと
状元街を出て15分ほど歩く。道の片側には衣服店が多い。


墓石店。漢族の墓の多くは土を盛って大きな土饅頭を造り、このような墓碑を置く。


憩う老人たち






老人と孫


かわいい双子の姉妹。


塔のような建物が見えてくる。華光楼という楼閣。


 華光楼は高さ約26メートル、4層の楼閣で1層の部分はアーチで道路を跨いでいる。唐風の美しい楼閣で最初は唐の時代に建造されたが、その後何回か火災に遭い修復を重ねた。現存のものは清の同治6年(1867年)に建造されたもの。四川省の文化財。


  まず2層目に上がって楼の内部に入り、そこから階段を伝って3層目に上る。階段は狭くてかなり急で少々怖い思いをしたので、最上層の4層目には上るのを止めた。

家並みを見る。屋根が美しい。




 嘉陵江というかなり大きな川がある。雷鳴君は長江の三峡に似ているので小三峡だと言った。


 華光楼を出て、しばらく行くと嘉陵江のほとりに出た。川を見下ろすところに茶館があったので、戸外のテーブルで茶を飲んだ。静かで涼しい風があり、1時間ほどゆっくりと話しながら過ごした。途中で中年の婦人が靴を磨かないかと言うのでやってもらった。念入りに磨いてくれて代金は1元(約17円)、あまりに安い上に非常に良心的な仕事だったのでチップとして1元を渡した。

嘉陵江




船着場と渡し舟。


対岸の楼閣。




 昨年の朝日新聞の特派員の記事でこの閬中という古城のことを知り、ぜひ訪れてみたいと思っていたが、来て見ると期待にたがわない古風な趣のある城市だった。やや観光化されていて国内からの観光客も多いようだが、欧米人の姿は今回は見かけず、日本人もいなかった。また機会があれば訪れてみたいと思う。





四川の旅(4)―Langzhong古城②―

2007-07-03 08:52:35 | 中国のこと
  中天楼を過ぎてしばらく行くと張飛の廟がある。国家級文物保護単位(国の文化財)である。張飛は死後に桓侯と贈り名された。


境内にある明代建造の敵万楼。


本殿。


  張飛墓亭。清代のもの。そばに墓がある。張飛の首は彼を殺した2人の部下が川に捨てたと言われている。


張飛像。



状元街には観光客相手の店が軒を連ねている。


   昼食をとった店。麺を食べたが、張飛牛肉など小鉢もいくつか出てボリュームもあり、なかなか美味かった。1人あたり9元(約150円)という驚くような安さだった。


  清代に建てられたと言う旅館の内庭。建物に囲まれた小さな庭だが、石榴の木が植えてあり静かな雰囲気。私と雷鳴君は非常に気に入って、こんな宿に泊まってみたいと話し合った。彼は主人にいろいろ尋ねていた。自分が勤める旅行社に紹介したいらしい。
  

街頭で売っていた桃。


 蚕糸を加工する工房。卓尚蚕絲坊という看板があり、昼食をとった店の前にあったので興味を惹かれて入ってみた。古い工房のようで、中ではさまざまな工程の作業をしていた。


繭から糸を引き出している。


繭をほぐしている。真綿にするようだ。


絹布を織る。


真綿を薄く広げ重ねている。布団綿にするらしい。




敷物を織る。