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黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

三池炭鉱 #14:龍湖瀬坑

2014-02-06 03:24:31 | ・三池炭鉱
シリーズでアップしている三池炭鉱。
これまで三池炭鉱の施設の中で、
既に文化財として保存されているものと、
逆に、保存活動もむなしく失われてしまったものをアップして来ました。
これからは、現存してはいるものの、
まだ文化財等に指定されていないもの、
すなわちいつ解体されてもおかしくないが、
活動の如何によっては、
文化財として後世に伝えられる可能性のあるものをアップしていきます。

三池炭鉱

このシリーズの最初の頃の沿革で既にお伝えした通り、
三池炭鉱は江戸時代にかなりの発展を遂げていた炭鉱でした。
それにともなって、江戸時代に既に多くの坑口も造られていました。

そしてそれら江戸時代の坑口は、
現在の大牟田市の中でも内陸の位置に造られていました。
石炭発見伝説の残る稲荷山(とおかやま)も、
地図の左上に描かれています。
江戸時代、この地域には石炭が地表に露出した場所(露頭)が多くあり、
その露頭をたよりに掘り進んだために、
このエリアに坑口が集中しています。





三池炭鉱

その後明治の官営の時代を経て、
三井の時代になるにつれて、坑口は徐々に西へ、
すなわち大牟田湾へ向かって造られて行きます。
図を見ると、坑口が東から西へ行くに従って、
時代が下っているのが分かると想います。
これは、石炭の層(炭層)が、
江戸時代に掘削していたエリアから、
西に向かって続いていたためです。





三池炭鉱

さて、そんな江戸時代から開削されていた坑口の1つ、
一番上の画像にもある龍湖瀬坑は、
現在でもその遺構がちらほらと残存しています。

画像は坑口のあった付近と想われる場所です。
画像からはその構造がよくわかりませんが、
実際に見ても、よくわかりません。
ただ、人工で造られた石の構造物が配置されているので、
明らかに何らかの施設があったのだと感じるだけで、
それも半分崩れ、植物に浸食されているので、
もはや施設の全貌を伺い知ることはできません。





三池炭鉱

また両側を石垣で築堤した構造も見られます。
これは、採掘した石炭を大牟田湾まで運搬するための、
運搬道路の一部かと想われますが、それもはっきりしません。
ただし、この石垣の構造物は、かなり長い距離に渡って残存しています。





三池炭鉱

唯一分かるのは、近年惜しくも自然崩壊してしまった
山の神祭祀跡です。
これは確かに、ここに祠があったのだと確認出来ます。





三池炭鉱

祠の手前には、既にその形がかなり変わってしまっていますが、
狛犬だっただろうと想われる構造物も残っています。





三池炭鉱

また祠の敷地内には、
「露頭坑 職員 従業員 一同」と彫られた手水があります。
裏側には「昭和十四年三月」とあります。
ご案内頂いた大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブの方のお話だと、
戦時体制に備えて、
このエリアの残存していた露頭の石炭も採掘したのだろう、
ということでした。

江戸時代の多くの坑口が、
いまではその姿を留めていない中、
この龍湖瀬坑がこうして残存しているのは、
戦中まで掘削が行なわれていたことによるのかも知れません。



なお、この龍湖瀬坑は、
官営の時代になっても使われていた坑口で、
坑口の付近に監禁所を設けては県内の囚人を収容し、
石炭の採掘および運搬の使役として使っていたそうで、
これが三池炭鉱の囚人労働の始まりと言われています。

江戸時代から官営、
そして戦時下の時代の記憶を残す龍湖瀬坑は、
その地味なルックスとは裏腹に、
三池炭鉱にとってはとても重要な遺構だと想います。



【龍湖瀬坑】

福岡県大牟田市龍湖瀬町
地図はだいたいその辺といったアバウトなものですみません。
現地へ車で行ったので、正確な場所を覚えていないので。

三池炭鉱

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