ご機嫌公論

フリーランスのライター兼編集者・ロイ渡辺のBLOG。
締め切り間際に更新されていても、それはあくまでも「息抜き」。

ウェルメイド

2004-11-15 18:12:58 | Weblog

どーも気になるんです。表題の言葉が。
ウェルメイド。

インフォシークの辞書サービスサイトでは

well-made「格好のよい、釣合いのとれた; がっしりした; できのよい」

となっています。
しかし、これが映画や小説などのレビューに使われるとなると、
そこにはなにやらワタクシの心を乱す(っていうかムカムカさせる)
用法となっているようです。

例えば、こんな感じ。
「ウェルメイドではあるが、よく出来た作品だ」
「所詮ウェルメイドではあるが、ときおり目を引くシーンがある」
どっかで見たり聞いたりした覚えありませんか?

つまりウェルメイドという言葉は、
「大衆受けを狙うあまり、パンチに欠ける」とか
「全体的によく出来てるけど、魅力が薄い」みたいな
トーンで使われてるようなんです。

何様? って感じです。

エンタテインメント作品の地位の低さに関しては、
まぁ、いろんな人が言及しているので、ここでは画面を割きませんが、
ここにあるのは、どうにもこうにも拭いきれない、
「多少難解な方が上等」という意識じゃないですかね。

小説(文学というカテゴリーはもはや存在しないとココで指摘されています。
同感です。なので、狭義になりますが敢えて小説と言います)や映画などが
教養であった時代では、確かにその傾向はあったと思うんです。
なにせ、中野重治の小説で、オチがドイツ語、ってのがありましたし、
名作といわれる映画の中には、観客に歴史的素養を求める作品も少なくありません。

でもね。
いまや、小説も映画も「教養」から決別した位置に存在しています。
91年の統計では、識字率は100%だと謳われているそうだし、
言ってしまえば「誰にでも楽しめる」という素地が、
もうすでに映画にも小説にも与えられているんです。
きっと、そう言ってしまってもいいはずなんです。

つまり、そもそも、物語として語られている作品は
「誰が見て(読んで)も理解できる」が、
映画や小説の「大前提」なんだと思うんです。

ですから、前記のような
「ウェルメイド」+否定形
を使用しているレビューは、もう、なんつーか、イヤなんです。
分かりやすいから=安い、みたいな公式が、無意識にでも頭の片隅にあるレビュアーなんて、
餓死してしまえばいい、とすら思っちゃうわけです。


ってことで、できうれば、こんな一文を読んでみたいんですね。
「残念ながらウェルメイドには仕上がってないが、
時折見せる暴走気味な記述でさえ、面白いと唸ってしまう小説だ」とか
「ストーリーに押し流されるように見てしまうが、タイトルロールを見送ったときのには、
きっと、ウェルメイドな作品であったな、という感想が生まれているだろう。
それほど完成された、出来のよい映画なのだ」
みたいなのを、ね。