光市の母子殺人事件ですが、どうやら最高裁がまともな判断を下したようです。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_06062101.htm
(以下引用)
山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けた元会社員(25)(犯行時18歳)に対する上告審判決が20日、最高裁第3小法廷であった。
浜田邦夫裁判長(省略)は、「計画性のなさや少年だったことを理由に死刑を回避した2審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べ、広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻した。(以下略)
(引用以上)
機会を改めて筆を執りたいと思いますが、最高裁は今までも日本が国家として体をなさなくなりそうな問題に対して、ギリギリのところで社会を安定させる方向の判断をしてきました。今回の原判決破棄・差し戻しという判断も、社会正義という観点からは至極真っ当なものだと思われます。
もっとも、犯人が死刑になったからと言って、死んだ親子が戻ってくるわけではありません。
私が日本の刑事司法についていつも感じていることがあります。それは、「どうも想定している犯人像が古いのではないか」というものです。
私は以前、●「『負け組犯罪』はなぜ起こる?」という記事で、近年メディアを騒がせているような新種の犯罪は、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している男性、いわゆる「負け組」による犯罪であるという話をしました。今回の元少年も、お世辞にも恵まれた境遇とは言えず、殺害に及んだきっかけは強姦による性欲充足が目的だったので、この定義にあてはまっています。
このような「負け組犯罪」の一番厄介な点は、彼らの行動が「快楽計算」に基づいていないことです。
もともとこの「快楽計算」という言葉は、功利主義というイギリスの思想(詳しくは●こちら)の中で用いられるものです。要するに、人間の行動はそれによって得られる快楽が苦痛を上回ったときに行われるということです。
これを犯罪に当てはめると、「懲役が嫌だから盗みをやらないでおこう」とか、「こいつは邪魔な奴だが、自分が死刑になるよりは生かしておく方がましだ」とかいった風になるのでしょう(宗教的道徳観があったり、極端に高潔な人格の人物はここでは除外して考えてください)。つまり、犯罪をやっても割に合わないからやらないと思わせるために、死刑だとか懲役だとかいう制度があるのです。
しかし、犯罪に至るような「負け組」は、そういう「快楽計算」をした上で犯行に及んでいるわけではありません。
そもそも「負け組」犯罪者にとっては、みじめな今の自分のままで生き続けることそのものが苦痛なのです。だから、そこから足したり引いたりという計算をしようという考えがそもそもないのです。
例えば、悪名高き大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件の宅間守死刑囚は、法廷で「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」という発言をしています。複数の児童を殺せばどれだけ損をするか、考えた形跡がまったくありません。こういう人間に、「人を殺すとお前も死ぬぞ!」と威嚇しても、あまり効果がないような気がするのは、私だけでしょうか?
このような議論は、とみに増え続けている外国人犯罪についても言えます。日本人とは快楽計算の尺度が全く違う連中に、日本と同じ量刑の相場で臨んでも犯行を抑止できません。
ところで、外国人はさておくとして、「負け組」が一番嫌がることは何でしょう?
そう、既に答えは出ています。「みじめな今の自分のままで生き続けること」でしたね。
それでも「負け組」が何とか生きていられるのは、たまに「自己実現もどき」のガス抜きができるというわけです。風俗に行ったり、ギャンブルをやったりして、適当に欲求を発散できるわけです。
もっと有り体にいえば、犯罪すら、惨めな自分が強者になれる自己実現の一方法になるのかもしれません。例えば、●こういう犯罪者は、自分の理想の成人女性相手に性行為ができないから、性犯罪で「異性と望み通りのセックスが出来る自分」を実現するわけです。
ここに、「負け組」に犯罪をやらせないための重要なポイントがあります。
快楽計算のできない「負け組」犯罪者が唯一怖れるのは、ただでさえみじめな自分の人生が、それ以上にみじめになることです。
彼らは、自分に対して大きな不全感を抱えながら、それでもなお手持ちの時間や財産で「自己実現もどき」を得ようとする傾向があります。もし、それすら奪われてしまってもなお、生きて行かなくてはならないとしたらどうでしょう?
これを実現させるために私が提案したいのは、以下のような制度です。
仮に、「奉仕労働」などと名付けておきましょう。懲役と違って、奉仕労働では、きちんと企業の仕事を請け負う形にします。やることは、一般の労働者と変わりません。例えば、建設現場で働いたり、流れ作業のパートを受け持ったりします。ただし、寝泊まりは監獄です(犯罪によっては自宅から通う場合もある)。
期間は、犯罪の性質や重大さに応じて変わりますが、凶悪犯罪や性犯罪の累犯については、無期限です。これは、「罪の重さ」というより、被害者に対して与えた有形無形の損害という点を根拠にしています。
企業はこれに対して報酬を支払いますが、企業側のニーズも考えて、最低賃金を20%くらい下回ることを許すべきです。こうすれば、企業は安い労働力を調達できるわけです。
そして、この報酬は、受刑者にはほとんど還元されません。役所側の諸経費を引いた残りを犯罪被害者に対して支給するのです。こうすれば、夫を失った妻の生活資金や、怪我の治療費にもなります。
知り合いのカウンセラーの方に聞いたのですが、加害者は刑務所の中で無料でカウンセリングやら宗教指導者による教がいを受けられるのに、被害者はほとんど自腹で精神科に通ったり、カウンセリングを受けているそうです。これではあまりにも不公平だ、とその先生は嘆いていました。他者加害をする人間は大抵恵まれない環境にいるでしょうから、民事裁判で損害賠償を取るのも困難です。
しかし、そういう金銭面の問題も、「奉仕労働」を導入すれば、かなり解決するわけです。被害者も、溜飲が下がるでしょう。「金じゃなくて心だ」などと意味不明なことを言って何もしないよりは、ずっとましだということは確かです。
そして、犯罪者にとっても、日常生活には自由がほとんどなく、仕事をやってもやってもお金を吸い上げられてしまうわけです。たまにやるガス抜きすら出来なくなるのです。ひどい言い方をすれば、現代版の奴隷です。「負け組」にとっては、これこそが地獄でしょう。
この制度の優れているところは(←自分で言うな)、冤罪であったとしても取り返しが付くということです。死刑の弱点を完全にカバーできた上で、終身刑という「至れり尽くせり」に伴う国家予算の負担も減らせるのです。死刑廃止の論拠も、この場合には通用しません。
要は、現行の制度が対象としているような、近代市民社会が出来立ての頃の素朴な犯罪者(貧困から犯罪が生まれるという理解に基づいている)ではない連中に、いかにして恐怖心を植え付けて「快楽計算」をさせるか、ということです。世の中が変わってきて変な連中が出てきたのですから、刑事司法を支える価値観も刷新すべきです。もう矯正教化を第一目標にするような刑事司法など、ほとんど不要なのです。
この程度のことでも「人権侵害だ」「個人の尊厳を踏みにじるな」などと訳の分からないことをおっしゃる方には、耳寄りな制度があります。それは「保証人制度」です。
まず、極度に悪質な犯罪を除いては、保証人が奉仕労働に相当する金額を支払えるという規定を設けます。こうすれば、加害者の負担は軽くなります。
その上で、保証人には犯罪者の身元を引き受けてもらいます。つまり、加害者が再び何かをやったときは、保証人に対してもペナルティを科すわけです。
犯罪者の人権を考えているという良心的な方々は、是非ここまでやっていただきたいと思います。本当に加害者の人権を守りたいなら、それなりの責任を負担してもらわないと困ります。個人では無理でも、それこそ「市民団体」(笑)でも作ればいいんじゃありませんか?今はNPOとして法人格も取れるわけです。市民道徳やら良心やらの示し方は、裁判所の前で横断幕を持って待っていることだけではないのです。
今回は、ここで一旦終了します。次回、もうひとつの重要な施策と、新しい制度を構築できない場合の死刑の位置づけについて述べて、このシリーズは終了ということにいたします。(つづく)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_06062101.htm
(以下引用)
山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けた元会社員(25)(犯行時18歳)に対する上告審判決が20日、最高裁第3小法廷であった。
浜田邦夫裁判長(省略)は、「計画性のなさや少年だったことを理由に死刑を回避した2審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べ、広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻した。(以下略)
(引用以上)
機会を改めて筆を執りたいと思いますが、最高裁は今までも日本が国家として体をなさなくなりそうな問題に対して、ギリギリのところで社会を安定させる方向の判断をしてきました。今回の原判決破棄・差し戻しという判断も、社会正義という観点からは至極真っ当なものだと思われます。
もっとも、犯人が死刑になったからと言って、死んだ親子が戻ってくるわけではありません。
私が日本の刑事司法についていつも感じていることがあります。それは、「どうも想定している犯人像が古いのではないか」というものです。
私は以前、●「『負け組犯罪』はなぜ起こる?」という記事で、近年メディアを騒がせているような新種の犯罪は、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している男性、いわゆる「負け組」による犯罪であるという話をしました。今回の元少年も、お世辞にも恵まれた境遇とは言えず、殺害に及んだきっかけは強姦による性欲充足が目的だったので、この定義にあてはまっています。
このような「負け組犯罪」の一番厄介な点は、彼らの行動が「快楽計算」に基づいていないことです。
もともとこの「快楽計算」という言葉は、功利主義というイギリスの思想(詳しくは●こちら)の中で用いられるものです。要するに、人間の行動はそれによって得られる快楽が苦痛を上回ったときに行われるということです。
これを犯罪に当てはめると、「懲役が嫌だから盗みをやらないでおこう」とか、「こいつは邪魔な奴だが、自分が死刑になるよりは生かしておく方がましだ」とかいった風になるのでしょう(宗教的道徳観があったり、極端に高潔な人格の人物はここでは除外して考えてください)。つまり、犯罪をやっても割に合わないからやらないと思わせるために、死刑だとか懲役だとかいう制度があるのです。
しかし、犯罪に至るような「負け組」は、そういう「快楽計算」をした上で犯行に及んでいるわけではありません。
そもそも「負け組」犯罪者にとっては、みじめな今の自分のままで生き続けることそのものが苦痛なのです。だから、そこから足したり引いたりという計算をしようという考えがそもそもないのです。
例えば、悪名高き大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件の宅間守死刑囚は、法廷で「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」という発言をしています。複数の児童を殺せばどれだけ損をするか、考えた形跡がまったくありません。こういう人間に、「人を殺すとお前も死ぬぞ!」と威嚇しても、あまり効果がないような気がするのは、私だけでしょうか?
このような議論は、とみに増え続けている外国人犯罪についても言えます。日本人とは快楽計算の尺度が全く違う連中に、日本と同じ量刑の相場で臨んでも犯行を抑止できません。
ところで、外国人はさておくとして、「負け組」が一番嫌がることは何でしょう?
そう、既に答えは出ています。「みじめな今の自分のままで生き続けること」でしたね。
それでも「負け組」が何とか生きていられるのは、たまに「自己実現もどき」のガス抜きができるというわけです。風俗に行ったり、ギャンブルをやったりして、適当に欲求を発散できるわけです。
もっと有り体にいえば、犯罪すら、惨めな自分が強者になれる自己実現の一方法になるのかもしれません。例えば、●こういう犯罪者は、自分の理想の成人女性相手に性行為ができないから、性犯罪で「異性と望み通りのセックスが出来る自分」を実現するわけです。
ここに、「負け組」に犯罪をやらせないための重要なポイントがあります。
快楽計算のできない「負け組」犯罪者が唯一怖れるのは、ただでさえみじめな自分の人生が、それ以上にみじめになることです。
彼らは、自分に対して大きな不全感を抱えながら、それでもなお手持ちの時間や財産で「自己実現もどき」を得ようとする傾向があります。もし、それすら奪われてしまってもなお、生きて行かなくてはならないとしたらどうでしょう?
これを実現させるために私が提案したいのは、以下のような制度です。
仮に、「奉仕労働」などと名付けておきましょう。懲役と違って、奉仕労働では、きちんと企業の仕事を請け負う形にします。やることは、一般の労働者と変わりません。例えば、建設現場で働いたり、流れ作業のパートを受け持ったりします。ただし、寝泊まりは監獄です(犯罪によっては自宅から通う場合もある)。
期間は、犯罪の性質や重大さに応じて変わりますが、凶悪犯罪や性犯罪の累犯については、無期限です。これは、「罪の重さ」というより、被害者に対して与えた有形無形の損害という点を根拠にしています。
企業はこれに対して報酬を支払いますが、企業側のニーズも考えて、最低賃金を20%くらい下回ることを許すべきです。こうすれば、企業は安い労働力を調達できるわけです。
そして、この報酬は、受刑者にはほとんど還元されません。役所側の諸経費を引いた残りを犯罪被害者に対して支給するのです。こうすれば、夫を失った妻の生活資金や、怪我の治療費にもなります。
知り合いのカウンセラーの方に聞いたのですが、加害者は刑務所の中で無料でカウンセリングやら宗教指導者による教がいを受けられるのに、被害者はほとんど自腹で精神科に通ったり、カウンセリングを受けているそうです。これではあまりにも不公平だ、とその先生は嘆いていました。他者加害をする人間は大抵恵まれない環境にいるでしょうから、民事裁判で損害賠償を取るのも困難です。
しかし、そういう金銭面の問題も、「奉仕労働」を導入すれば、かなり解決するわけです。被害者も、溜飲が下がるでしょう。「金じゃなくて心だ」などと意味不明なことを言って何もしないよりは、ずっとましだということは確かです。
そして、犯罪者にとっても、日常生活には自由がほとんどなく、仕事をやってもやってもお金を吸い上げられてしまうわけです。たまにやるガス抜きすら出来なくなるのです。ひどい言い方をすれば、現代版の奴隷です。「負け組」にとっては、これこそが地獄でしょう。
この制度の優れているところは(←自分で言うな)、冤罪であったとしても取り返しが付くということです。死刑の弱点を完全にカバーできた上で、終身刑という「至れり尽くせり」に伴う国家予算の負担も減らせるのです。死刑廃止の論拠も、この場合には通用しません。
要は、現行の制度が対象としているような、近代市民社会が出来立ての頃の素朴な犯罪者(貧困から犯罪が生まれるという理解に基づいている)ではない連中に、いかにして恐怖心を植え付けて「快楽計算」をさせるか、ということです。世の中が変わってきて変な連中が出てきたのですから、刑事司法を支える価値観も刷新すべきです。もう矯正教化を第一目標にするような刑事司法など、ほとんど不要なのです。
この程度のことでも「人権侵害だ」「個人の尊厳を踏みにじるな」などと訳の分からないことをおっしゃる方には、耳寄りな制度があります。それは「保証人制度」です。
まず、極度に悪質な犯罪を除いては、保証人が奉仕労働に相当する金額を支払えるという規定を設けます。こうすれば、加害者の負担は軽くなります。
その上で、保証人には犯罪者の身元を引き受けてもらいます。つまり、加害者が再び何かをやったときは、保証人に対してもペナルティを科すわけです。
犯罪者の人権を考えているという良心的な方々は、是非ここまでやっていただきたいと思います。本当に加害者の人権を守りたいなら、それなりの責任を負担してもらわないと困ります。個人では無理でも、それこそ「市民団体」(笑)でも作ればいいんじゃありませんか?今はNPOとして法人格も取れるわけです。市民道徳やら良心やらの示し方は、裁判所の前で横断幕を持って待っていることだけではないのです。
今回は、ここで一旦終了します。次回、もうひとつの重要な施策と、新しい制度を構築できない場合の死刑の位置づけについて述べて、このシリーズは終了ということにいたします。(つづく)