日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

なぜ「勉強」は嫌われる?(その1)

2005年04月07日 10時24分06秒 | 勉強について
理屈っぽい話ばかりでは書いている方も疲れる
ので、ちょっと画像など載せてみました。

日曜日、非常に天気が良かったので、バイクで
栃木県の足利市に行ってきました。
森高千里が歌っていた曲に、「渡良瀬橋」という
のがありました(最近、松浦亜弥がカバーしました)が
渡良瀬橋というのは、実在するんですね。
上のはその時の写真です。
「どうせ、渡良瀬川にかかってる橋だからってんで
適当に作ったんだろー」と思っていましたが、
大間違いでしたね。恥ずかしい限りです。

帰りに隣町の佐野市に行って、名物のラーメンを食べて
帰りました。2軒寄りましたが、おいしかったです。
その画像はまた次回アップいたします。


さて、今回もあまり穏やかなテーマではありませんね。
しかも、2回続きです・・・。しかし、避けては通れない
ところなので、是非お付き合いください。

前回も述べましたが、勉強の利点は、社会に出てから
どんな職業でも必要とされる「理解力」や「事務処理能力」
「持続力」を子供が身につけるのに最も適していることです。
それが必要かどうかは、議論の余地はありません。
「そんなもん要らない」という(中学時代の私のような)人は
ただの天の邪鬼です。

問題は、なぜ必要なのにも関わらず、勉強を好きだという
人間がほとんどいないのか、という事です。
これには、二つの側面があると思われます。


まず、一つは、「学校の勉強が役に立たない」ということです。

「関数や方程式が社会に出て何の役に立つのか」とか、
「英語を知らなくても私は日本人だから困らない」とかいう
よくある弁解を思い浮かべてください。
これらの言い分は、なかなかいい点を突いています。

実用性という観点から言えば、小中学校で教える各科目は
覚えたからと言って収入や地位につながるような
要素はありません。
しかし、特に初等・中等教育の勉強は、その科目の知識
そのものを修得としているわけではありません。
理解力や事務処理能力といった、後々つぶしが利く
能力を、その科目を通じて身につけることです。
これは、前回詳しく述べたとおりです。

しかも、国数英理社というのは、どの学問でも出発点に
なっている「基礎知識」です。もし、何らかの形で
もっと進んだ勉強が必要になったとき、その勉強で
つかんだ自信や方法論は、応用できる可能性が
高いのです。
算数が得意なら、簿記が得意になる可能性が高いという
のがその例です。


はい、わかっていますよ。おそらくここで、こういう
反論が出てくるに決まっていますね。

「自分が好きなものを仕事にすればいいのであって、
そのために役に立たないものをやる必要はない」

子供はよく口にしますね。もっとも、最近は大人でも
こういう考えの人がたくさんいますが・・・。

これに反撃するのは簡単です。
好きなものを仕事にするときでも、勉強を通じて
(この「通じて」というところがポイントです!!)
身につけるものがなければ、仕事として成り立たない
ということです。

それに、夢が実現しなかった場合のことを考えて
いないというのもまずいですね。
「自分は事故らないから平気平気♪」と、任意保険に
入らずに車を運転しているのと同じで、
向こう見ずにも程があります。
事故を起こしてから泣かれても、助けようがありません。

そうは言っても、私は現行の学校教育に間違いがない
などとは決して思ってはいません。
しかし、学校や先生に対して向けられる批判の多くは、
正直言って「的外れ」だとも思っています。

勉強の中身が面白くないとか、実社会で役に立たない
とか、そもそも学校の勉強など不要だとかいった
批判をしても、あまり意味がないのです。
勉強を通じて理解力や事務処理能力を身につけるという
勉強本来の目的が失われているという点を
批判すべきなのです。

私は、塾で教えながら、
「自分がやっていることは、非生産的で無意味な作業
の押しつけだ」などと考えていた時期がありました。

しかし、何のことはない、
そうやって自分に言い聞かせれば、結果が出なくても
いいわけができるから、そっちの方が楽なだけです。
「自分は子供に強制などしたくない」というような
理由でも付ければ、もっともらしく聞こえますが、
勉強をさせることから逃げていただけです。

だいいち、自分の子供時代を振り返ってみてください。
(「現役」の生徒さんは、今現在の自分でいいです)
教師に「やれ」と言われないで、
自分で進んで九九を覚えましたか?
漢字を自分から好きこのんで練習して覚えていましたか?

私は、教育を行う以上、強制というのは避けられない
ことだと信じています。
しかし、それは同時に、「意味のある強制」でなくては
ならないとも思っています。
勉強する目的は、社会に出てからどこへ行っても
恥をかかないような能力をつけることです。
この目的を達成できないような授業のやり方や、
宿題の出し方はすべきではないということです。

そう言うと、「おまえは入試という目的があるから
そんな気楽なことを言っていられるんだ」と言われる
かもしれませんが、学校の勉強には
私が前回に述べたような立派な目的があるのです。
実は、入試の勉強も、遠回りのように見えますが、
結局は理解力、事務処理能力、持続力をつければ
よいというのは、普通の学校の勉強と同じなのです。

親も、教師も、なぜ、それをちゃんと示さないのでしょうね?
恥ずかしいことなど何もないはずでしょう?

それが自信を持って言えないというのは、
自分でもどこかで「勉強なんてしなくてもいい」と
思っているからではありませんか?
そうすれば、子供のふてくされた顔を見なくてすむし、
「物わかりのいい」大人だと思われそうだからじゃないですか?

勉強に意味があるということは、よくわかった・・・
それでも、勉強したくない、という人はいるはずです。
それは、勉強が嫌われるもう一つの側面、すなわち、
「できるなら苦労をしたくない」という心理が働いているから
です。

これは、ただ努力しろ、と言えば済むような問題では
ありません。この問題については、また次回詳しく述べます。





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