日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

日本が環境国家」になれる理由(付:靖国神社の話)

2006年08月15日 23時22分58秒 | 「環境国家日本」シリーズ
  昨日から親戚宅に出かけていたのですが、朝のニュースには正直「うんざり」しましたね。ご存じの通り、小泉総理の靖国神社参拝です。

  ●こちらのブログにコンパクトにまとめられていますが、これなら「あんな神社に参拝するな」とはっきり言ってもらった方がわかりやすくていいです。●「記者交換協定」なるものに基づいて、支局や特派員が国外退去処分になるのがそんなにこわいのでしょうか?
  A級戦犯云々のことは、私がいちいち指摘するより、●こちらのような良くまとまったサイトがあるのでご覧頂くといいでしょう。ああいった番組に出ているコメンテーターとやらは、こういうことを調べたりしないのでしょうかね?
  あまり目くじらを立ててもしょうがないので、一つ「笑い話」をしてこの話題はおしまいにしましょう。●こちらのニュースから。

(以下引用)

中国外務省は15日午前、声明を発表し、小泉首相の靖国神社参拝を「中日関係の政治的基礎を破壊する行動」と指摘し、首相が「意地を張って参拝」したことは「国際正義に挑戦し、人類の良識を踏みにじった」と厳しく批判した。李肇星(リー・チャオシン)外相は同日、宮本雄二・駐中国大使を外務省に呼んで抗議した。

(引用以上)

 >「国際正義に挑戦し、人類の良識を踏みにじった」

  ●インターネットで検閲を実施したり、●他国の領土をかっぱらっておいて図々しい態度をとったりしている国が、よくもまあこんな偉そうに!!
  おそらくこういう国では、言論というのはプロパガンダに過ぎないのでしょう。そういう人々と関わり合いになりたくないものです。

  さて、本題にはいりましょう。

  いきなり結論をいいますが、日本ほど「環境」を国是にするための条件が整っている国はありません。根拠はいくつかあります。

  まず、第一に、「自然信仰」や、それに端を発する「多様性」を精神風土の基調にしているということです。その証拠が、世界文化遺産にもなった●「紀伊山地の霊場と参詣道」です。
  この世界遺産がユニークである点は、「修験道」「神道」「仏教(真言密教)」という異なる宗教が一つのネットワークになっている点です。なんで違う宗教同士が結ばれているのか、疑問に思う人もいるでしょうが、山林に神秘性を見いだし、信仰の対象としていたという点では、根っこは一つだと考えるべきでしょう。
  こういう現象は、一神教(たとえばユダヤ教やイスラム教)の人々からは「ありえない」ことです。なにしろ、神はひとつしかいないわけですから、違う信仰を持っている人間は「異教徒」として人間扱いしないのが一神教の歴史なのです。
   おそらく、山地が70%を占め、複雑な気候帯を持ち、自然災害の多い我が国では、自然と「戦う」のではなく、「慣れ親しむ」必要があったのでしょう。その過程で、様々な宗教も、自然信仰の色彩を帯びていったのかもしれません。
  そのような日本的精神風土は、形を変えこそすれ、全く死んではいません。その一番分かりやすい例が「ポケモン」(ポケットモンスター)という日本生まれのキャラクターです。
  怪物と人間が友情で結ばれた関係にあるという「ポケモン」の基本設定は、他国の、特に一神教の国には発想すらできません。彼らには、森林や山地に住んでいるのは「化け物」であり、神に姿を似せられた人間の文明を邪魔する敵だというのが基本的な考え方としてあるのです。それが最も良く現れているのは、キリスト教の●聖ゲオルギウスの逸話です。また、童話の「赤ずきん」もそういう発想で書かれているように思われます。
  また、ポケモンの魅力は、たくさんいるモンスターの中から自分のお気に入りを選べることにもあります。確認されているだけで約380種類いるそうです。これこそ、八百万(やおよろず)の神に象徴される「多様性」の文化の象徴です。
  欧米の人々にとてt、「ポケモン」に出てくるような、好きな異性のために人間の言葉を覚えようとするモンスター(詳しくは●こちら)は、新鮮を通り越して異様な感じがしたかも知れません。それが、今や●こんな感じに市民権を得てしまっています。おそらく、一神教的な「神が決めた秩序」の窮屈さに、多くの人たちが飽き飽きし始めていた矢先、先入観の無い子どもたちから「ポケモン」に火がついたのでしょう。
  アメリカのアニメだって、動物を主役にしているじゃないか!という人は、もう一度その作品をよく鑑賞してみるといいです。「トムとジェリー」にしろ「ミッキーマウス」にしろ、「プーさん」にしろ、結局「擬人化」という域を出ていません。怪物が怪物のまま人間と仲良くしているアメリカのアニメは、あまり聞きませんね。それが、一神教の国の限界なのです。
  こういう国民性ですから、「自然を大切にしようね」と言われると、本気で信じられるという素養があります。アメリカ人や中国人には、「なぜ動植物を大切にしなくてはいけないか」というところからいちいち説明しなければなりませんが、日本だと多くの場合(全員ではない)は、そういうところは感覚で済んでしまうのです。これこそ「環境国家」の適性です。

  第二に、我が国は資源に恵まれていないというハンデがある点です。
  天然資源のほとんどを輸入に頼り、食糧さえも外国に依存しているのが我が国の「悲しい」現状です。しかし、それだからこそ少ない資源の有効活用や、資源の豊富な地域をバックグラウンドにする民族の思いも寄らない発想が出てくるということも、また事実なのです。
  たとえば、●ハイブリッドカーがそれです。この発想がすばらしい点は、民間企業であるトヨタが独自に実用化したことです。それをおためごかしではなく、本当に売れる商品にできるのは、資源を大事にする感覚が染みついているからです。
  また、最近外国経由で再輸入された「もったいない」という言葉も、日本人の資源に対する感覚の鋭さが現れています。この言葉を、ケニヤの環境大臣にして、ノーベル平和賞受賞者、ワンガリ=マータイ氏が世界に紹介したのは有名な話です。
  そのマータイ氏が日本に来て、水洗トイレに「大」「小」二種類のレバーがあることに感心したという話を知っているでしょうか(●こちらを参照)。ともすれば「せこい」という一言で済んでしまう、日本では当たり前のことも、外国から大きく評価されています。日本の方が欧米なんかよりずっと「センスがいい」のです。
  こういう土壌がある日本だからこそ、環境問題に対して「本気」になれると思いませんか?
  
  早晩地球の環境が悪化し、資源争奪戦が激化することが予想されます。しかし、むしろ、その時こそ日本の出番と思うべきです。ピンチはチャンスというわけです。
  そして、実際に我が国では、環境を重視した政策をかなり昔から実行していたという点が重要です。例えば、山林→河川→近海を一つのシステムとして捉えている「魚付き保安林」という発想は非常にユニークです。重要なのは、これが江戸時代に意識的に行われ、明治時代から法制化までされた施策という点です。
  我が国の●知床半島が陸海一体として自然遺産として認められたという意義は、計り知れないほど大きいものがあります。世界の学者や識者も、システムとしての自然という認識を持ち始めていますが、日本人はとっくの昔からそういう発想をしていたのです(まあ、もとはアイヌの土地だったわけですが・・・)。

  次回以降、このコーナーでは、前回挙げた「脱石油化」「森林の再生」「伝統工業型農業」にまつわる話題を扱っていくつもりです。五月雨式になってしまう点をご容赦ください。