日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

ドラマの中の先生と、塾という場所

2006年02月07日 00時27分09秒 | 塾・仕事関係
  今日、やっと私が担当する小学6年生の全てのクラスの受験日程が終わりました。

  残念ながら、全ての生徒が望むような結果を出せたというわけではありませんでした。名の知れた難関校に合格した生徒も結構いたのですが、思うようにいかなかった生徒のことを思うと、あまり素直に喜べません。
  中には、10校近く受験して、まともな結果は補欠1つという子もいました。私立入試の補欠は、2月中旬まで待たされることはざらです。落ち着かない日々を過ごすことでしょう。そういう状況を作り出してしまったのは、私の責任でもあります。
  塾やクラスとして○○中学に何人受かった、というのは、確かに成果として受け止めてよいと思います。しかし、実際に塾に通い、勉強して、受験をした個々の生徒の家庭から見れば、そんなことは関係ありません。不満感を持ったまま幕切れに至ってしまう生徒に対しては、申し訳ないという気持ちで一杯です。

  なんですって?そんな偽善的なことを言うなですって?

  なるほど、みなさんは、塾というと、とにかく受からせればいいとテクニックの指導に走っているとか、合格実績にならないような生徒は無視しているなどという印象をお持ちでしょう。実際、どこかの保守系の雑誌で、●京都のこの事件のことを論じた記事にも、塾というのは、合格させることだけを考えて、頭の悪い生徒をほとんど切り捨てているいるドライな場所だという下りがあったのを覚えています。

  断っておきますが、私は塾は勉強をするだけの場所であるということは全く否定するつもりはありません。
  否定するどころか、学校も勉強をするだけの場所にすべきだと私は思っています。

  いわゆる戦後民主主義教育といわれているものは、自由な対話や人格の交流が目的であり、知識の伝授は二の次になっています。
  わかりやすく言えば、「金八先生」の世界です。あのドラマには、生徒がムキになって単語を覚えたり、もがくようにして計算問題を解いているような場面があまり見あたりません。そのくせ、なぜかトラブルだけは沢山生じます。(笑)
  「金八先生」を見ていると、まるで教師というのは生徒のトラブル解決係のように思えてくるから不思議です。あの、全てのトラブルを人間性で解決してしまう武田鉄矢さんの姿を見て、「先生になりたい」と思った人は多いはずです。「金八先生」こそ、教育の理想だと思われていたのです。

  このような「理想的な」教育が、どのような成果を上げたかについて、私がいちいち紹介しても仕方がないでしょう。現場の教員の方々には失礼かも知れませんが、はっきり言って大失敗でした。学級崩壊や少年犯罪の増加は、学校教育に訴求力がないことを示しています。
  失敗の原因は簡単です。教育における目的設定が間違っているからです。
  公教育には、予算や人員の制約があります。その中でできることと言えば、、独学の難しい知識の体系的な伝授や、物事の原理や関係性を分かりやすくかみ砕いて理解させることくらいしかありません。
  しかし、その過程では、どうしても人間的な交流が生じてしまうのです。これは当然でしょう。ものをよく教えるには、相手を知らなくてはいけないからです。そうなれば、生徒を呼んで話を聞いたり、できが悪ければ残して勉強させたりすることになるわけです。話を聞いていない生徒は、叱りつける必要も出てきます。
  実は、知識の伝授という目的を突き詰めていくと、結局は人間そのものの教育をやらざるを得ないのです。
  ここは非常に重要です。教え手は、知識や理解の伝授を通じてこそ、教える相手と交流できるのです。
  それなのに、どうも教育というと、大人が子ども相手に、非常に偏った人生観を植え付けたり、夢だの希望だの中身のない概念をばらまくものであるという印象が強いのが現状のようです。具体例は、いささか古いですが、「夕陽丘の総理大臣」というドラマで、中村雅俊さんが演じた教師役です。あの人がまともに勉強を教えている場面を、(再放送で見た)私は全く記憶にありません。
  はっきり言いますが、あれが教師の理想像だとしたら、学級崩壊が起こって当たり前です。なぜなら、あの「総理」のような事が出来るのは、ごく少数の、特に優秀な教師だけだからです。それがスタンダードになってしまえば、他の「ふつうの」教師の授業は、つまらないだの、型にはまっているだの、マイナス評価されるに決まっています。

  「塾はドライな場所だ」という決めつけも、おそらくそういう夢物語を捨てられない人たち(団塊の世代に多い)が作り上げているイメージなのでしょう。実際のところは、合格という結果を出すために、かなり「濃い」人間模様が描かれる場所です。ただ知識だけを教えていてはダメです。それを通じて、生徒のいろんな力を引っ張り上げるというつもりでやらなければ、とても成功はしません。
  だから、知識を一方的に喋っておしまい!という人は、この業界でも「劣等生」です。ただ、知識を喋るなら、上手な先生のビデオを流せばいいだけですからね。

  上のような理解に立てば、学校が知識や理解の伝授という本来の目的を取り戻せば、塾は不要ということになります。ある市会議員の方がおっしゃっていましたが、それこそ学校教育の理想の姿です。学校教育は、何よりも中身のリストラをして、本来あるべき姿を取り戻すべきです。
  なお、不要になったら、私はまた別の仕事をやるので、心配しなくても結構です。(笑)

  最後に、私が今年経験した「濃い人間模様」を一つ紹介しておしまいにします。

  ●前回の記事で、入試付き添いの朝に私に会うなり、「インフルエンザにかかって来なければよかったのに!」と元気のいい(笑)言葉をかけてくれた彼女のその後です。
  実は、彼女も受験で苦戦した一人です。2月1日の本命の学校は、さすが難関だけあってあえなく不合格でした。しかも、その次の2月2日に、確実に受かると思われていた女子校にも不合格。そして、その女子中を再び受けたら、また不合格になってしまいました。

  このままだと、行く学校がないのでは?・・・と、私も焦りました。親御さんや、本人はもっと焦ったでしょう。

  しかし、彼女は私が以前に日程が空いているからと勧めた中学(かなり難しい)に、見事合格してくれました。二回受けた中学よりも受かりにくいだろうと思っていたところです。我が事のように、いや、自分の事よりも嬉しかったです。
  あとでそこのお母さんと電話で話す機会がありました。会うなり「来なけりゃいいのに!」と言ってくる子です。頭は切れるのですが、ものすごい「マイペース」で、お母さんも苦労したようです。夜中まで本を読むのをやめろとか、風呂に入ったら頭を刺激するような作業はやめて床に就けとか、私もいろいろアドバイスしたのを覚えています。
 「ほんと言うと、何度塾を辞めさせようと思ったことか」と、お母さんに言われて、私は肝を冷やしました。しかし、どうやら本人が「絶対に止めたくない」と言い、親御さんサイドも不承不承、私のところに通わせたそうです。

  何が、そこまで彼女の足を運ばせたのだろうと思いました。
  すると、お母さんが、

 「あの子は帰ってくると、いつも○○先生が
  こんなことを言ったとか、こうやって
  言い返してやったとか、毎回毎回
  言ってたんですよ。話題に上らない日が
  ないくらいで。」

  一応言っておきますが、○○先生というのは、私の名前です。(笑)

  そうだったのか・・・と、ため息が漏れました。
  口は悪くても、ちゃんと私を信頼してくれていたのでしょう。

  
  受験生の皆さん、親御さん、塾の先生方の皆さん、本当にお疲れさまでした。