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障害者を殺せという神のお告げがあった?

2016年07月27日 19時21分38秒 | 平和の日記

植松聖(さとし)容疑者が、障害者施設「やまゆり園」で、重度の障害者19人を刺し殺した戦後最悪の事件についてですけど、障害者を大量殺人する事について、植松聖さんは・・・

「神のお告げがあった」

みたいな事を言ってたらしいね。
そして、事件の直後に、ツイッターで「世界が平和になりますように。」とか、つぶやいていたんだとか・・・

「平和」って何だろう?
「100点満点の本物の平和」って何ですか?

僕には良く分からないけど、みんな「平和」って何なのか、分かってるのかな?
なんか、そこら辺の事を、ちゃんと考えないまま、ひたすら「平和になればいい!」という事ばかりを、先走って主張してる人たちが、世界中に沢山いるような気がするんだけど、今回の事件を起こした植松聖さんも、そんな人間の1人だったのかな?
そんな主張をしてしまう人間たちが量産されてしまうのは、一体どこに問題があるんだろうね?

・・・で、犯人(植松聖さん)の父親は「教師」だったとかいう話で、なんか似たような事件が、以前にもあったような気がするなぁ(過去の記事)↓

森田都史くんを殺した中村桜洲の親は大学教授と民生委員
http://blog.goo.ne.jp/rollingstar648000/e/f025efdd4fc2552ab1dc7cbed99cbb9c

ところで、植松聖さんは「教師」を目指していたらしいけど、それって本当に「自分の心からの希望」だったのかな?
親が「教師」だったから、親からの期待もあったりして、色んなプレッシャーもあったりして、本当は教師になんか、なりたくなくて別にやりたい事があったけど、しつけが厳しすぎて、親から全く認めてもらえず、ひたすら自分の本音を殺し続けるしかなかった。
だから、必死に努力して、表面的には、礼儀正しくて、いつも明るくて、ニコニコして挨拶が出来る、今時では珍しいくらいの好青年だという印象を、多くの人たちに与える事が出来るような、ある意味「立派な人間」に成長する事ができた。
でも、心の裏側というか奥底には、不満ばかり溜まっていて、誰からも「自分の本音」を認めてもらえないという劣等感や絶望感に支配されていた。
なのに、表面的には、いつも明るくて、ニコニコしている・・・だって、それを親から「良い事」だと教えられたから。
けなげに、親からの教えを守り続けているから、どれだけ心に闇を抱えて苦しんでいたとしても、なかなか誰も気づいてくれない。
自分が苦しんでいる事に気づいて欲しくて、入れ墨を入れてみたり、変なクスリに手を出してみたりしても、お前はアホかと、悪者扱いされるばかり・・・
この世の人間どもは、みんな敵ばかりだ!
何も分かっていない奴らに、オレ様の本当の素晴らしさを証明してやる!!
おりゃーー!!!


・・・まあ、上記の文章は、僕が勝手に想像しただけの事なんですけど、なんか、こういうのに近いような心理状態が、今回の事件の背景にはあったんじゃないのかな?
犯人の年齢を考えてみても、26歳って言ったらね・・・うん、そうだよ、アレだよ(謎)
そんな事を、下記の絵本たちを読みながら、考えたりしてました↓

平和の絵本「一緒に行くよ」
http://www.j15.org/LifeDeath/Picturebook-Together/index.html

平和の絵本「子供を犯罪者に育てる方法」
http://www.j15.org/Picturebook-JuvenileCrime/index.html

平和の絵本「平和主義?」
http://www.j15.org/Picturebook-Pacifism/index.html


それにしても、名前が「」(さとし)って、なんかの信仰が入ってる気がするなぁ(汗)
ところでキリスト教の「書」には、障害者について、どんな事が書いてあるのかな?
テキトーにネット検索して、見つけたページなんだけど↓
http://www.bbbible.com/bbb/bbble212.html..htm

このページの後半あたりの「レビ記 21:16-24」っていう所を、ちょっとコピペしてみます↓


新共同訳1987
21:16 主はモーセに仰せになった。
21:17 アロンに告げなさい。あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。
21:18 だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、
21:19 手足の折れた者、
21:20 背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など、
21:21 祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。彼には障害があるから、神に食物をささげる務めをしてはならない。
21:22 しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。
21:23 ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。
21:24 モーセは以上のことをアロン、その子らおよびイスラエルのすべての人々に告げた。

 
僕の勝手な解釈だけど、要するに障害者は「神を汚す存在」っていう事になるのかな?

「障害者は死んでくれたほうがいい」
「障害者を安楽死できるようにすべきだ」

上記の聖書の記述が関係しているのか?関係してないのか?という事については、僕には何も分からないけど、植松聖さんは、こんな主張をしてますね。
今回の事件のようなやり方は決して許される事ではないと思うけど、でも「どんな場合であろうと安楽死はダメだ!」と言い切ってしまうのは、どうなんだろう?
理想を言えば「安楽死なんてしなくてもいい社会を実現させればいい!」って事になると思うけど、なかなか時代がついてこないし、多くの人たちにとっては「自分には関係ない事」だったりするからね。
そう、こういう問題は、多くの人たちが「自分には関係ない事」として真剣に考えようとせず、マトモに取り合おうとしないから、障害者を抱える家族の人たちや、介護に関わる人たちが、どんどん社会から疎外されてしまって苦しみ続ける事になる。
そういう意味では、今回のような事件が起こる根本的な原因は、多くの国民たちが「自分には関係ない事」だと思って無関心でいる事にあるのかも知れないね。
そんな事を、下記の絵本を読みながら考えてました↓

平和の絵本「犯罪を減らさない方法」
http://www.j15.org/failure/Picturebook-Crime/index.html