Rockzy 倶楽部 Ⅱ

♬~私の喜怒哀楽の想い出は音楽と共に~♬

今日は「The Beatles---I Am The Walrus」ルイス・キャロルとパトカーのサイ

2012-09-30 18:24:11 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: The Beatles I Am The Walrus (2009 Stereo Remaster)
今日で9月も終わり今年も後3カ月。あまりにも、時間の経つのが早すぎて、ついていくのに、大変な今日この頃です。また台風の影響で色々なイベントも中止になり、あまり、いい日ではなかった、感じです!こんな時は家で、ゆっくりThe Beatlesでも聴きながらおとなしく、しているのが一番かな?今回聴いているのは「I Am The Walrus」この曲は、難しく、好き嫌いがありますが、聴けば聴くほど味のある曲だとおもいます。アメリカでは複数の曲をEP盤の片側に詰め込む事が一般的ではなかったために、
アルバムに未収録だったこの時期のシングルを収録した編集アルバムとして、LP盤「マジカル・ミステリー・ツアー」が企画され、本国でのEP発売の10日前にキャピトルから先行発売された。
1987年のCDリリースに際して、全世界で音源そしてカタログラインナップを統一する事になり、唯一アメリカ編集盤からこのLPが選ばれて統一カタログにラインナップ入りする事となった。
  現行のCDでは「マジカル・ミステリー・ツアー」の6曲目に収録されている。

1967年9月5日にアビイ・ロード第2スタジオにて録音開始。
このレコーディングの数日前、1967年8月27日にデビュー以来のマネージャーであった、ブライアン・エプスタインが死亡している。ビートルズは「船頭」と呼べる唯一の人を失いながらも、まずこのテレビ映画のプロジェクトを完成させるべく動き始めたのである。ブライアンが死んでから初めてのレコーディングセッションがこの日だった。 anecdote ~ こぼれ話>

  1. 難解な歌詞を持つこの曲ではあるが、これはルイス・キャロル作の物語『鏡の国のアリス』の「セイウチと大工」からとられたもので、歌詞の「Goo Goo Goo Joob」(または「Goo Goo g' Joob」)は「Good Job」とセイウチの鳴き声をかけたものと言われている。
    ジョンの書いた歌詞がジョンの母校の国語の授業で使われて、ジョンは「不思議なもんだね。勝手に解釈してそんな風になるなんて捨てたもんじゃないな」的な発言を残している。
        「それならこれを使えるもんなら使ってみろ」的な気持ちもあってこの曲の不可解な歌詞を書いたのかも?
  2. オアシスによるカバーは同じイギリス勢の後輩として、なかなか微笑ましい出来である。日本でもレッド・ウォリアーズがカバーバージョンをリリースしている。 これからも、よろしく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆こんな日は、「The Beatles---You've Got To Hide Your Love

2012-09-29 17:36:55 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: The Beatles - You've Got To Hide Your Love Away [HD]
今日はとうとう秋空の天気。風も冷たいし、もう夏は終わった感じです。日の落ちるのも早くなり、どことなく、淋しい感じです!今日もThe Beatlesの「悲しみはぶっとばせ!・・・You've Got To Hide Your Love Away」。HELPの一曲ですが、この歌が似合う季節なのかな?

ビートルズの英国での5枚目にあたるオリジナルアルバム、そして2作目の主演映画のサウンドトラックアルバムでもある「ヘルプ!」の3曲目に収録された、ミディアムテンポのナンバーである。
  作者のジョンがリード・ヴォーカルをとっており、  映画では室内でギターを抱えて歌う場面に使用されている。

ジョン・スコットが録音に参加してフルートを吹いている。ただしアルバムにクレジットはされなかった。
   「ラヴ・ミー・ドゥ」「PS・アイ・ラヴ・ユー」のアンディ・ホワイト(ドラム)の起用とは違い、ビートルズの担当楽器以外の楽器奏者がレコーディングに起用される初めてのケースとなった。

この曲は1965年2月18日、アビイ・ロード第2スタジオにて録音された。
  全部で9テイク録音され、オーバーダブの後に完成させている。

ジョン・スコット曰く「彼らの要求を満たすには、まずテナー・フルートを吹いてからアルト・フルートを録音するのが最適だった。録音の時は4人ともその場にいたよ。特にリンゴは新婚旅行から帰ってきたばかりで浮かれていたね」との事。

An anecdote ~ こぼれ話

  1. この曲も当時のジョンのブームであったボブ・ディランの作風である。
        彼の「I Don't Believe You (She Acts Like We Never Have Met) 」という曲に最もインスパイアされたと思われる。ポールも後年「あれはジョンがディランを忠実にやった曲さ」という発言をしている。
  2. ザ・ビーチ・ボーイズ、ジョー・コッカー、エルヴィス・コステロ、そしてオアシスやパール・ジャムなどのバンドにカバーされている。これからも、よろしく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ポールの失恋の歌?「The Beatles---You won't See Me」シンプルなメロデ

2012-09-28 17:58:43 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: You Won't See Me- The Beatles (Rubber Soul)
今日も一日体調イマイチ!病院にもいったけど、薬のんで温かくしてねてなさいの定番どうりの言葉。それができないのが、はがゆいところ。この際観念して、The Beatlesのラバ・ソウルでも聴いておとなしくするかな?「You Wan't See Me」は、シンプルなんだけど、結構奥深いですよ。サウンドはモータンとかザ・バースの影響ありで、とくにコーラスに耳をこらしては?

Recording Data ~レコーディング・データ

ビートルズの英国での6枚目にあたるオリジナルアルバム、「ラバー・ソウル」の3曲目に収録されたポップスナンバー。作者であるポールがリード・ヴォーカルをとり、ジョンとジョージがコーラスを付けている。

昨年と同じく「1年に2枚のアルバム」のノルマをこなすべく、10月半ばからこのアルバムのセッションは開始された。  実質このアルバムは一ヶ月たらずでレコーディング~ミキシングを経て、完成させている。
しかも、セッション開始の時点では、録音できる曲のストックがなかったそうだ。
ポールはこのアルバムのセッションより、リッケンバッカー4001を使用しはじめている。
この曲ではかなり手数の多いベースラインが聴ける。

この曲は1965年11月11日、アビイ・ロード第2スタジオにて録音された。
このアルバムセッションの最終日にあたり、同じ日には「ガール」が録音されており、また「君はいずこへ」、「ウェイト」のオーバーダブが行われて、このアルバムのセッションは全て終了。
  実に発売日の1965年12月3日の発売まで一ヶ月を切ったギリギリの状態であった。
この日のレコーディングセッションは13時間を超え、終わったら朝の7時だったそうだ。  これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピンク・フロイドのディビッド・ギルモアのソロ「Live in Gdansk--Time」'06年。リ

2012-09-27 17:58:25 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: [Full HD] David Gilmour - Time - Live in Gdansk
ステージは、冒頭「狂気」から旧A面からの小組曲で開幕して、その後「オン・アン・アイランド」のほぼ全曲演奏、そして後半はフロイド時代の名曲のオンパレードという趣向である。演奏された楽曲では、「オン・アン・アイランド」のタイトル・チューンが良かった。再結成フロイドの延長線上にあるナンバーといってもいいが、ふたりのギタリストが作りだすハイライト・シーンのフロイド的なドラマチックさはやはり良い。同じくフロイド時代の「戦争の犬」をレイドバックさせたような「ディス・ヘブン」もライブならではグルーブ感があり、ブルージーなギルモアのギターをたっぷりと満喫させてくれる。また、これらの楽曲では、比較的地味にミックスされてはいるが、オケが加わっていることで、「覇響」に比べ、もう一段華やかさも増しているとこも楽しいところである。

 フロイド時代の楽曲は、さすがにこれだけ年月が経つと、いささかフロイド色が薄まり、ちとルーズなギルモア作品として再構成されているような趣がないでもないが、そのあたりは「リック・ライト参加」という刻印がファンには格好のアリバイになっているともいえるかもしれない(笑)。ともあれ、「オン・アン・アイランド」にせよ、フロイド時代のナンバーにしても、ギルモア自身のギターは全く衰えていないのはさすがである。元々、早弾きだのジャズ的な名人芸を売りにする人ではなかったものの、随所に披露されるフレーズの艶、浮遊感、官能性といったところは、枯淡の境地などという言葉とはまだまだ無縁な、全くもって「現役感覚」に満ち満ちているのには、全く頭がさがる思いであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はザ・フー。イギリスのモッズカルチャーを代表するバンド!ピート・ロジャー・ジョン(没)・キース(

2012-09-26 17:48:27 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: The Who Baba O'Riley
今日は久し振りに爽やかな朝。もう秋って感じでしたが、午後から雨。安定しない天気です。昨日ザ・フーの映像をみて、年齢関係なく元気なステージをみると、なんか癒される。私も、まだまだ頑張らなくてはと、思います。ピートは「自分は何者なのか」と今でも探究しているなんて、意味深いものがありますね!  ライブバンドとして知られ、演奏は初期から大音量で行われていたと言われている。オリジナル曲の多いバンドだが、結成当時は主にモータウンR&Bのカバー・バンドであった。その後、ピート・タウンゼントのクリエーターとしての才能が開花し、ザ・フーのほとんどの曲は彼の作詞作曲によるものとなる。ベーシストのジョン・エントウィッスルも、いくつかの優れた楽曲をバンドへ提供した。 このバンドは、ステージ上の派手なアクションでも知られている。ロジャーはマイクを振り回し、ピートは縦横無尽に飛び跳ね、腕を振り回してコードを弾いた(=ウインドミル奏法。風車弾きともいわれるこの弾き方はローリング・ストーンズキース・リチャーズを参考にした)。キース・ムーンは、全身を投げ出すようにドラムを叩きまくるその破天荒なプレイスタイルで、デビュー当初から評判だった。3人のアクションとは対照的に、ベースのジョンは黙々とプレイし、バンドの動きに大きなコントラストをつけた。ステージ終盤には、ギターやドラム、機材などをステージ上で破壊したことでも知られる。こうしたステージパフォーマンスは、後にパンク・ロックのアーティストら(セックス・ピストルズパール・ジャムなど)に大きな影響を与えた。 派手なアクションが注目されがちではあったが、ライブバンドとしての名声を獲得し得たのは、確かな個々の演奏技術であった。リードベースと言われるジョン・エントウィッスルの高度なテクニック、全編フィルインとも言える手数の多い津波のようなキース・ムーンのドラムは、他に類を見ない物であった。また、ピート・タウンゼントのギターは、リズムギターとリードギターを合体させたパワー・コードといわれる奏法で、独自のスタイルを確立した。ジョンとキースは亡くなってオリジナルの4人のステージを年齢を重ねたライブがもう一度みたいバンドです! これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・ボーナム(32才)の若さで没。ジョンのドラムで始まる軽快な「Led Zeppelin--Ro

2012-09-25 17:56:06 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: Led Zeppelin Rock And Roll and Black Dog Live HD
今日は風邪で仕事休んでしまった。気温の寒暖差が大きいのもあるけど、若くないのかな?体は正直!若いといえば、Led ZeppelinのドラマーJohn Bonbamも32才で亡くなっている。これでツエッぺリンは解散となった。とても残念でしかたがない。

ボーナムは大変な愛妻家であり、良き父でもあった。あまりにも家庭を愛していたがため、家や家族から離れて長いツアーを行うことを嫌っていた。彼はホームシックと重度の飛行機恐怖症を紛らすために、しばしば深酒をしていたが、彼の酒癖は次第に酷くなっていった。

1980年9月24日、ボーナムはツェッペリンのアシスタント、レックス・キングとオールド・ハイド・ホテルで落ち合い、近く行われるアメリカ・ツアーに向けてのリハーサルのため、ブライ・スタジオに向かった。ボーナムは途中で立ち寄ったパブで、シングルで16ショット相当(約473 ml)のウォッカを飲み干し、スタジオに到着してからもさらに飲み続けた。リハーサル終了後、ウィンザーのペイジ宅でパーティが行われたが、そこでもボーナムは飲み続け、酔い潰れてベッドに寝かされた。

翌日、ツアー・マネージャーのベンジ・レフェヴレとジョン・ポール・ジョーンズが、ベッドで死んでいるボーナムを発見した。死因は、吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死であった(32歳没)。検死の結果、多量の飲酒により肺水腫を引き起こしていたこと、アルコール以外の薬物反応はないことがわかった。その後遺体は火葬され、遺灰は1980年10月12日、彼の農場近くのラショック教区墓地に埋葬された。

不慮の出来事で偉大なドラマーを失ったツェッペリンは、同年12月4日に解散声明を発表することになる。あととりみたいに、息子ジェイソンにこれからを期待したいところです。これからも、よろしく!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ロックンロール創始者のひとり「チャック・ベリー」特徴的なギターリフやダックウォーク等などジュリアン

2012-09-24 17:41:59 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: Chuck Berry & Julian Lennon - Johnny B Goode (1986)
今日は本当に秋を感じさせる日。今回は特徴的ギターリフや独特のステージパフォーマンスの「ダックウォーク」他にもたくさんの、逸話を持つChuk Berryについて少し。ジョンなんか、かなり敬愛していて「ロックンロールに別の名前を与えるならば、それはチャツク・ベリーだ!」と断言しているくらいです。公演旅行を行った後の1959年12月、ベリーはメキシコで出会った14歳のウェイトレスを連れ回し売春を強要した容疑で、マン法(Mann Act, 不道徳な目的のために女性を州境を越えて移動させることを禁じる)に違反したとして逮捕された。ベリーには有罪判決が下り、懲役5年と5,000ドルの罰金が命じられた。

やがて、ロックにとって最初の闇の時代が始まった。エルヴィス・プレスリーの徴兵とリトル・リチャードの引退(1958年)とバディ・ホリーの事故死(1959年)が重なり、さらに翌1960年にはイギリスでも、エディ・コクランジーン・ヴィンセントが交通事故に遭い、コクランが死亡している。ベリーに対する懲役5年の判決は後に3年に減刑されたが、マン法はベリーのようなアーティスト達を狙い打ちするための法律とも言われており、その逮捕と判決には黒人差別意識も少なからず影響したものとされる。ベリーは刑に服した後1963年に釈放された。

3年間の刑務所生活があったにも関わらず、ベリーはデビューからの10年間で30枚以上のシングルを発表し、1960年には4枚目のアルバム『ロッキン・アット・ザ・ホップス』を発表している。しかし、必ずしも全てがヒットとなった訳ではなかった。1964年ビートルズローリング・ストーンズ等の人気バンドがベリーの曲をカバーした[3ため、ベリー自身の人気も再浮上し、シングル「ネイディーン」(全米23位)、「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥ・ゴー」(全米10位)、「ユー・ネヴァー・キャン・テル」(全米14位)等がヒットした。チャツク・ベリーについては、詳しく話すと、書ききれないのでこの辺で。これからも、よろしく

1972年、アルバム『ロンドン・チャック・ベリー・セッションズ』(全米8位)、シングル「マイ・ディンガリング」(全米1位)、「リーリン・アンド・ロッキン」(全米27位)がヒットした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すかっり遅い帰りに。まず「John Lennon--Jealous Gay」から!ジョンはヨウコに自

2012-09-23 21:12:46 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: John Lennon - Jealous Guy (full video in studio / HD)
今日は、ちょっと遊びすぎたかな?うちの奥さん空港まで迎いに行き、久し振りに外食してきた。帰ってきたらもう、こんな時間。今日は、ブログ休もうかと思ったけど、一言だけでも、今日の記録!その時一番に聴きたいと思ったのは、やはりJohn Lennonそのなかでも、「Jealous Gay」あまり聴かない曲だから余計選んだのかな?

ジェラス・ガイ」はビートルズ(The Beatles)時代の1968年ヨガの導師マハリシ・マヘシ・ヨギの講義を受けるためインドに滞在していた折に作曲された。この時は「チャイルド・オブ・ネイチャー」というタイトルで、メロディ・ラインこそ同じだが、歌詞アレンジがまったく違っていた。「チャイルド・オブ・ネイチャー」の一部は『レット・イット・ビー...ネイキッド』のボーナスCDフライ・オン・ザ・ウォール』で聞くことができる。

「チャイルド・オブ・ネイチャー」は、1968年のホワイトアルバムのセッションや翌年のゲット・バック・セッションでも録音されたものの、発表されなかった。そして、そのままビートルズは解散した。その後、ジョンは、歌詞をオノ・ヨーコに自身の嫉妬深い性格をわびる内容に改め、アレンジもフィル・スペクターに依頼しピアノバラード調に変えた。「チャイルド・オブ・ネイチャー」は「ジェラス・ガイ」として変更され、アルバム『イマジン』に収められた。

ジョンの生前にはシングル・カットされることはなかったが、1981年東芝EMIより日本独自の追悼シングルとして発売された(B面曲は『心の壁、愛の橋』の収録曲「愛を生き抜こう」)。また1988年に『イマジン・オリジナル・サウンドトラック』が発売された折には全世界でシングル発売された。これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆何気なくジョージの曲「Georg Harison---What Is Life(美しき人生)」この

2012-09-22 18:40:29 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: What Is Life - George Harrison
とうとう今月最後の連休。来週は、もう10月だと考えると今年も後3カ月、当たり前なんだけど、いつもいっているけど、早すぎてついていけないよ~!そんな時癒してくれるのが音楽。今日はGeorg HarisonWhat Is Life邦題は「美しき人生」このタイトル道理の人生おくっているのか、疑問は残るけど。1970年アルバム『オール・シングス・マスト・パス』からの第2弾シングル。イギリスでは既に「マイ・スウィート・ロード」のB面として発表されていたため、イギリスではリリースされなかった。『ビルボード』誌では、最高位10位を獲得し、『キャッシュボックス』誌では、最高位7位を獲得し、1971年度年間ランキング48位を記録している。

レコーディングではピッコロトランペットオーボエも使用されたが、ミキシングの段階で外された。2001年に発売された『オール・シングス・マスト・パス~ニュー・センチュリー・エディション~』では、この曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンがボーナス・トラックとして収録され、そこではピッコロトランペットとオーボエも含まれている。

1972年オリビア・ニュートン=ジョンによるカヴァー・ヴァージョンがシングル・ヒットした。またジョージのオリジナルは、映画『グッドフェローズ』などに登場する。その後もいろいろな、イベントを成功させている、ジョージの人間関係のなせるわざ、とても素敵で魅力ある人間みたい!これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆イギリス5大プログレのひとつEmerson Lake&Palmer--TOCCATA(Brian

2012-09-21 17:50:59 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: Emerson, Lake & Palmer-Toccata (California Jam 1974, remastered by me)

今日は、そろそろ秋かな、感じる日でした。9月も、もう終わりに近いし、本当に時間の流れが早く感じる、今日この頃です。今日は、久し振りにEL&Pを聴いてみようと考え「Toccata」にしました。EL&Pといったら私の場合「展覧会の絵」なんですが、この曲もなかなかスケールの雄大さを、感じさせる曲です。

1973年初頭にELP自身がレコード・レーベル「マンティコア」を設立した。本作は、そのマンティコアから初めてリリースされたELPのアルバムである。前作の『トリロジー』から約1年半ぶりの新作であり、全盛期ELPの最後のスタジオ録音作品でもある。

それまでELPは、大概は2~3ヶ月でアルバムを仕上げていた。そのため、約半年程度で新作をリリース出来ていたが、本作は9ヶ月かかったと伝えられている。レコーディングの途中でツアーが開始されたり、キース・エマーソンが音楽的に行き詰ったり、といったトラブルに相次いで見舞われたものの、11月の全米ツアーには間に合う形で発売された。

特徴としては、まず新型のポリフォニック・モーグ・シンセサイザーポリ・モーグの試作品と推定される)を初め、新しい機材が大幅に導入された事。それまでは脚色の範囲でしか使われていなかったシンセサイザーが、作曲/編曲の段階から使用を前提として考えられている事が挙げられる(例えば、アルベルト・ヒナステラピアノ協奏曲第1番終楽章をアレンジした「トッカータ」などは、シンセサイザーの機能があって初めて実現しうる構造になっており、「悪の経典#9」でも、随所にそういった要素が存在する)。

さらに「悪の経典#9」の一部で、グレッグ・レイクがエレキ・ギターを弾き、本来ならグレッグ・レイクが担当するベース・パートを、キース・エマーソンがシンセサイザーで弾く、という構造が成立している。もともと、一流ミュージシャンの集まりだから当然と言ってしまうと、おわりですが、とても素晴らしいバンドです!これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆今日はThe Beatlesの「Dont Let Me Down」直訳すると「がっかりさせないでく

2012-09-20 17:57:48 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: The Beatles - Don't Let Me Down
今日は久し振りに涼しい日になった。もう秋も近いのかな。まあ~誰に対してもいえるけど「がっかりさせないでくれ」期待した時は、いつも思うことだけど、今回はThe BeatlesDon't Let Me Downにしてみました。この曲はアルバム「Let It Be」の一曲だけど、わりとインパクトのある感じですきです。

レノン=マッカートニーの作品。レノンが作った楽曲である。リードヴォーカルはジョン・レノン。キーボードビリー・プレストン

ジョンは1968年アルバムザ・ビートルズ』で「ジュリア」を披露して以降オノ・ヨーコに捧げたラブ・バラードを手掛けているが、この曲もヨーコに捧げたラブ・バラードで、タイトルの直訳「がっかりさせないでくれ」とはヨーコのことを指しているのである。

この曲は1969年の通称「ゲット・バック・セッションで録音された。そして「ゲット・バッ」とこの曲がシングルになって日の目を見ることとなった。予定ではアルバム『ゲット・バック』の先行シングルとなるはずであったが、アルバムは結局発売を取りやめることとなってしまう。

後にこのときの音源はフィル・スペクターの手により装飾し直され、1970年にアルバム『レット・イット・ビー』として発売されるのだが、この間に本曲は収録曲から外されてしまった。しかし、フィルが加えたオーケストラやコーラスなどの装飾を再び取り除いたものとして2003年に発表されたアルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』には収録されている。

なお、シングル盤には1969年1月28日に録音されたものが採用されているが、『レット・イット・ビー...ネイキッド』では、2日後の1月30日アップル本社での屋上ライヴ(「ルーフトップ・コンサート」)で2回演奏されたものを編集したヴァージョンが採用された(映画『レット・イット・ビー』にも収録されているが、屋上ライブ1回目の演奏でジョンが途中で歌詞を忘れてでたらめに歌っているため、その部分を2回目の演奏と差し替えた)。これからも、よろしく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆今日は「The Beatles---Something」ジョージの作品で撮影現場で「ポールがジョウ

2012-09-19 18:11:09 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: The Beatles - Something

Recording Data ~レコーディング・データ

ビートルズの11枚目の英国オリジナルアルバム「アビイ・ロード」の2曲目に収められているバラードナンバー。
このアルバムは1969年9月26日に発売された。 
  作者のジョージがリード・ヴォーカルを取り、ポールがコーラスをつけている。

英国では21枚目のシングルとして、アルバム「アビイ・ロード」からシングルカットされた。
カップリングは「カム・トゥゲザー」で両A面扱いでのリリースとなった。
なお、既存のアルバムからシングルカットされるのは英国ではこの曲が初めてのケースである。
そしてビートルズのキャリアの中で唯一ジョージの曲がA面扱いとなったケースでもある。

運命の1969年。年が明けてすぐの1月2日。ビートルズはトゥイッケナム・フィルム・スタジオに姿を現した。
  混沌とする活動状況を打破する為に、ポールが打ち出したのは「原点に帰る」というコンセプトだった。
デビュー以来の、全世界をコンサートで飛び回っていたあの頃に帰る、という事。
オーバーダブなどしなかった(出来なかった)あの頃に・・・・!

ポールはコンサートツアーの再開を提案したが、他の3人は難色を示す。
  妥協案として1度だけのコンサートも企画されたが、これも結局流れてしまった。
  最終的にリハーサルなどを含むドキュメンタリーを制作しテレビで放送する、という事で合意した4人は
  このフィルムスタジオでリハーサルを開始した。「ゲット・バック(原点に帰る)・セッション」の始まりである。

しかし、いつも撮影されているというプレッシャー、そして薄ら寒いだけの撮影スタジオという慣れぬ環境。
  張り切るポールはあれやこれやとジョージに指示、ジョージはそれに反発して口論となり
5ヶ月前にリンゴがしたように、1月10日にスタジオを飛び出してしまう。
  数日後にジョージは復帰するが、テレビショウに関しては意見を曲げず、結局この企画は流れてしまう。
  映像撮影、そして「オーバーダブをやらない」というコンセプトのアルバム制作は続行されるものの
1969年1月30日のルーフトップ・コンサート、そして翌日のセッションをもってこのプロジェクトを放棄。
  総時間、90時間以上の撮影・録音テープを残したまま、ビートルズはアップルスタジオを去ったのだった。
  後にこの撮影テープは映画「レット・イット・ビー」となり、
  録音物はフィル・スペクターの手によってアルバム「レット・イット・ビー」としてまとめられ、
ビートルズのラスト・アルバムとして翌年の1970年5月8日に発売される。

あの苦しいセッションが終了してしばらく経った頃。ポールはジョージ・マーティンに電話をかけた。
  「もう一枚アルバムを作ろうと思うんだけど、またプロデュースしてくれないかな?本当の意味でね。」
マーティンは「本当に昔の様にできるならいいけど、そうじゃないなら断るよ。」と応え、これを了承した。
4人はすでにバラバラになっているにも関わらず、再びアビイ・ロードスタジオに集結する。 
・・・・・・・最後の奇跡を形にするために。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆今日は「The Beatles--The Inner Light」ジョージ初めてのシングル<レディ

2012-09-19 17:42:52 | The Beatles (Ⅱ)




YouTube: The Beatles - The Inner Light - [India / Pic.]


</object>


YouTube: The Beatles - The Inner Light

Recording Data ~レコーディング・データ

ビートルズの英国での17枚目のオリジナルシングル「レディ・マドンナ」のカップリング曲。
この曲はイギリスでは1968年3月15日に発売された。
  作者のジョージがリード・ヴォーカルを取り、ジョン・ポールがコーラスを付けている

この曲はインド・ムンバイにあるEMIレコーディングスタジオでバックトラックが録音されている。
ジョージは元々映画「WONDERWALL」のサウンドトラック制作の為にインドに滞在していた。
サウンドトラック版の録音が予想より早く終わってしまったために、「もしかしたらビートルズで使うかも知れない」と思ったジョージは、雇った現地のミュージシャンを使ってインストゥルメンタルを数曲録音した。
これが1968年1月12日の出来事である。

その内の一つがこの「ジ・インナー・ライト」へと発展するのである。
このインストは5テイク録音されていたようである。

1968年2月6日。アビイ・ロード第1スタジオ。
  持ち帰った2トラックのステレオマスターテープの第5テイクをアビイ・ロードの4トラックレコーダーに移し替え、
これを第6テイクとした。
ジョージは「オレが歌ったら曲を壊すかも知れない、歌いたくない」とかなり消極的だったが、ポールの励ましもあってなんとかリード・ヴォーカルを録音する。
また、「Arrive without travelling」の部分だけがダブルトラック処理されている。

1968年2月8日。アビイ・ロード第2スタジオ。
  先日の第6テイクにジョンとポールのコーラスを加えてこの曲は完成にいたる。
この日の内にモノリミックスが作成された。

以上の経緯でわかるように、この曲ではビートルズは楽器演奏はなにもしていない。

Out Takes ~ミックス、テイク違い&リマスター

  1. モノラルとステレオではイントロ部分の弦楽器のリード・フレーズが異なっている。
    これは当時全く気づかなかったが・・・・・この曲にそれほど注意を払ってなかったって事なのかな・・・・
  2. 今では簡単にステレオバージョンが手に入りますが・・・・
        この曲はビートルズ活動中にはステレオではリリースされなかったのである。
    この曲のリアル・ステレオ・バージョンが収録されたのは1981年に発売された「The Beatles EP Collection」に付いていたオマケEPだけだったのだ。
    お金を貯めてEPコレクションを買って、初めて聴いたとき音の分離、輝きに感激したもんだ・・・・・
    今では普通に手に入ります。

An anecdote ~ こぼれ話

  1. この曲はジョージ作の楽曲が、B面曲とはいえ初めてシングルになった曲である。
        元々この時期には「アクロス・ザ・ユニバース」も録音が進んでいたんだが、ジョンが出来に不満足だった事、そしてこの曲のすばらしさもあって、ジョンが「アクロス・ザ・ユニバース」をシングル候補から取り下げてしまったのである。・・・*データーベースよりこれからも、よろしく!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆今日はジミヘンの命日!ビートルズ同様今のロックに影響を与えたのは間違いない。ちよっとサージェント・

2012-09-18 17:35:07 | 音楽 '12 8 ~

</object>


YouTube: Jimi Hendrix - Medley (Live at Isle of Wight 1970)
今日はJimi Hendrixの命日!きのうがマーク・ボランといいミュージシャンは、本当に若くして、逝ってしまうのは、残念でたまらない。今のロックを考えた場合やはり、ビートルズジミヘンは、大きな影響を与えていると思う。

数々のヒット曲を持つヘンドリックスビルボード最高位は、アルバムチャート(Billboard 200)で1位、シングルチャート(Billboard Hot 100)20位である。難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターだった。ウッドストックのトリを務めたのも、そのためだと言われる[誰?]ただし、本来ヘンドリックスの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト成毛滋も、ヘンドリックスのステージを観ずに会場を離れている。

ヘンドリックスは、様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、1960年代半ばのイギリスでは、そういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはヘンドリックスである、という説も存在する(ピート・タウンゼントの談話)。

ヘンドリックスの代表曲である「Purple Haze(邦題:紫のけむり)」で使用されているE7(#9)というコードは、本来ブルースジャズなどにおいて使用されていたものだが、ヘンドリックスの同曲の演奏によって「サイケデリックな響きのするコード」として有名となった。現在では「ジミヘンコード」と呼ばれることもある。

モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ヘンドリックスが初めてギターに火を放ったのは、ウォーカーブラザーズのツアーに前座として同行した際(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはヘンドリックス本人ではなく、知人の記者だったと言われている[44]。「アメリカ国歌」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国歌」には、多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。

音楽に「ヘビーメタル」という言葉が初めて使われたのは、ヘンドリックスの演奏に対してだという説がある。イギリスの新聞の記者が、ヘンドリックスのバンドの大音響に対し「ヘビーメタル(重金属)」という比喩を使ったのだという(チャス・チャンドラーの談話、テレビ番組「神になったギタリスト・ジミ・ヘンドリックス」など)。

ヘンドリックスに大きな影響を受け、ヘンドリックスそっくりの演奏をする「ヘンドリックス・フォロワー」と呼ばれるギタリストが存在する。ロビン・トロワーランディ・ハンセンフランク・マリノウリ・ジョン・ロートなどが、ヘンドリックス・フォロワーの代表例と言われる。これからも、よろしく!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆ジョンの最後のTVライブ「Salute to Lew Grde・・・IMAGINE」でも聴きながら

2012-09-17 18:30:19 | The Beatles (Ⅱ)

</object>


YouTube: John Lennon - Imagine (Live)
三連休最後の日だというに、天気はイマイチ風は涼しいだけまだいいけど、もう秋なのかな?今回の休みはよくビートルズを聴いたような気がする。そうすると、やはりジョンの所に戻ってしまう。最後のTVライブの「イマジン」を聴きながら、先の事も考えていたジョンはやはり素晴らしいの一言です!20世紀で最も影響力のあるミュージシャンとして知られ、ジョンが影響を与えたミュージシャンとして同僚のポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ニルソンに加えローリングストーン誌では、U2ボノニール・ヤングオアシスリアム・ギャラガーを挙げている。同誌でジャクソン・ブラウンは「彼はつねに真実を述べた」と賛辞を送っている[17]。映画「イマジン」ではジャズのマイルス・デイヴィスとの交流も知られる。本邦で編集されたNowhere誌の中で、元ポリススティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。1995年発売のジョン・レノンのトリビュートアルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」と評し「複雑リズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と伝えた。ボーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。これからも、よろしく!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする