徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

ちび作家の口述筆記係としてー頭の中はお話がいっぱいー

2016-09-09 09:47:36 | 子どもの情景
朝、7時半。
弟のKJが、父親と保育園に出かける。
兄のTP(小学1年生)は、登校用具一式をもって
ジジババの居城の2階にやってくる。
8時の登校時間までを過ごすためだ。

4月当初のこの時間は相撲大会の場所だった。
何回も何回も相撲を取った。
それもジジとではなく、ババと(*_*;。

一汗かいてから、絵本読みの場となった。
そんなことがほぼ1学期間続いた。
この時の選書は、TPの様子を見ながらだった。

これだったら食いつくかもしれない、
いや、これじゃあだめかな・・・。

彼の趣味は結構渋かったり、
言葉の面白さを楽しんでいるところがあった。

自然に絵本から幼年童話に移行していった。
仕事柄、絵本とはなじみが深かったが、
幼年童話はいささか弱い私、図書館通いをした。

そして、一つの大ヒットをつかんだ。
村上しい子さんの「れいぞうこのなつやすみ」、
そして「かめきちのおまかせ自由研究」など。
いずれも関西弁がリズミカル。
TPはそれにハマった。
5歳のKJまでハマった。

夏休みは、村上しい子シリーズに
私も含めてみんなでハマった。

その次が難しい。
長谷川義史さんの絵も気に入っているようだったで、
彼の作品を入れたり・・。
結構、試行錯誤の連続だった。

そうこうするうちに9月に入った。
TPはこの夏も放課後クラブに通い続けた。
両親と一緒の夏休み、
そしてジジババのプレゼントの夏休みは
合わせて10日ほどだった。

それ以外の日々は律儀に通った。
汗をかきかき、日焼けで真っ黒になりながら。

TPの生活は、家、学校、放課後クラブだ。
情報は主にそこから得る。
実はTPこの放課後クラブに通ってから、
その書棚に釘付けになった。

あるある、「コロコロコミック」
「キン肉マン」などの漫画!

親と一緒の図書館通いでは許されないし、
小学校の図書館にだっておいていない。
放課後クラブの指導員の立ち位置は
学校や親とは違う。
それがいいかなって思う。

とはいっても、最近どうやら放課後クラブから
「コロコロコミック」が姿を消したらしい。
親から苦情が入ったのか・・・、仔細は分からない。

でも「コロコロコミック」がなくなったことは事実。
じつはこの漫画本、おとなの目から見ると、
まあ、出てくるわ、出てくるわ、
「きたない!下品!」と思われる言葉の数々。
だから大人からは排除される。

けれどこの漫画本、ロングセラー。
1977年5月創刊ということだ。
私たちの子どもたちが生まれた頃に
このコロコロコミックも誕生ということだ。
その間、様々な漫画家を輩出したことも事実。

しかし、いかんせん、下ネタ系、
それに暴力的場面や言葉が多いことも事実。
だから、ある意味PTA系と戦いの連続。
そんなことにもめげず、主に男児の強い支持を得て
ここまで生き延びてきている。

TPにとっても、だからこれは禁断の木の実。
放課後クラブで最近まで読み続けた・・、
いえ、見続けた。

そして、今週のこと。
朝の時間に「小さな物語」が生まれた。
名付けて「ムサシとちびムサシの冒険ー海賊船の巻ー」
「ある日、ムサシとちびムサシと3匹の黒猫、3匹の白猫、
そして無数の子猫が歩いていると、砂浜でビンを見つけました」
で始まる。

そして最後は
「こうしてムサシたちは宝箱をもらいました。完。
めでたしめでたし。アーッヒャッヒャッヒャッ。
ムサシたちはラッキーゴージャス!
宝ゲットしたからラッキーゴージャス!」で終わる。
文字にすると1400字くらい。

途中のお話の中にはシャー、ズドーン!ギャースといった
擬音、擬態語で溢れている。
魔法、魔法の杖、海賊船、火山、崖迷路、
そして海賊のコスプレなんて言葉も出てくる。

いやー、こんな言葉、私、絶対TPの前で使ったことないし、
多分、親たちもそうだろうと思う。

彼の物語づくりのソースは
テレビで言えば主にウルトラマンシリーズ、
そして今回のお話の中の言葉は
たぶんコロコロコミック系から持ってきている。

いえ、持ってきてるというより体にすっかり
入ってしまったものを放出しているという感じ。

主人公はムサシ。つまり我が家の飼い猫。
そしてその仲間たちが冒険の主人公なのだ。

私は彼が歩き回りながら物語を紡ぐ、
いえ、しゃべりまくるのを必死に書き取った。

初めのうち、「お母さんには見せないで」と言っていたTP。
彼が帰宅するまでに、パソコンで打った原稿にしておいた。

どうするかなって思ったら、
ニコニコっとして、それを読み始めた。
そして母親が帰ってきたら、それを
「ねえねえ、聞いて聞いて」と読んで聞かせた。

母親は早く宿題をやらせたかった。
でも、少し我慢してそれを聞いた。
TPは嬉しかったに違いない。

木曜日。
大人も子供も疲れがピークに達する日。
さすがにその日は、お話づくりが続かなかった。
金曜日。
復活した。それが今日。
今日も一つ話していった。
夕方「大決闘、ムサシ城」というのやるという。
「あらすじだけ言うね」といって、
「ムサシ城を建てるという言葉が書かれていたものを見つけた。
果たしてムサシ城は建てられるのでしょうか」というもの。

「あ、学校いかなきゃ!」(TP)
慌ててソックスを履き、水筒を背負い、ランドセルを背負って、
一年生マークの黄色い帽子をかぶって出発!
私と「グータッチ」を10回ほどして、現世に戻ってきた。
「いってきまーーす!」(TP)

口述筆記係は、自分で書いたTPのものがたりの
判読に苦労しながら、楽しみーって思うのでありました。

それにしても、私は男の子の、
このエネルギーの世界を知らなかったと思ったのです。

今日は「アラジンと魔法のランプ」を探してこようっと。
もしかしたら、TPの創作ネタになるかもしれないから・・。
なーんて思いながら。






父のことー番外編 その1-

2016-09-05 15:12:26 | 父とのこと
父が亡くなって、あと4日で3か月が経つ。
父が一人暮らしにピリオドを打ったのが
昨年の7月11日。
家で倒れたからだ。
父は92歳になったばかり。
母が亡くなってあと少しで
11年が経とうというあたりだった。

父は母が亡くなった時、
「奥さんが先に亡くなると、
旦那はすぐになくなるらしいな」とつぶやいた。

それから1年以上が経ったとき、
「奥さんが先に亡くなると、
旦那はたいてい1年半くらいで逝っちまうみたいだ」とも。

しかし、80代からのやもめ暮らしを11年続けた。
この年月は、父と直接やり取りをした年月でもあった。

「だたいまー」と実家の玄関を開けると、
「おっ、帰ったか」と迎えに出てくれた。
母がいつもしていてくれたことを
父はこんな形でしてくれていた。

父は母と暮らしていた時には
あまり話さなかった自分の青年時代の話をよくした。
父の年齢の人々の青年時代は、戦争中。
終戦を二十歳過ぎで迎えた。
そして、捕虜を経て外地から引き揚げた。

以前のブログでも書いたが、
父は南方で天国と地獄を味わった。

拓南塾という当時の拓南省の管轄した塾を卒業して、
大東亜共栄圏といわれた東南アジア地域の
植民地に民間人として、
プランテーションの経営にあたったこと。
若干19歳の青年が、である。

ここでのおよそ2年間弱の生活が
父にとっては天国の生活。

現地召集となって、軍隊に入り、
敗戦で捕虜になり、無人島で生活したことは
言ってみれば地獄。

そんな疾風怒濤の青年期だった。
そのあたりの話を、父は母が亡くなってから、
よく話してくれた。

おまけに戒名には「南」の字を入れてくれとも。
父の90有余年の一生のうちでは、
やはりハイライトにあたるのだろう。

母が生きているときにも話さないではなかったが、
父はやはり、母がいなくなってから、この話が増えた。

レビー小体型の認知症を患っていても、
父の記憶はしっかりしていた。
私たちもネットを使って、当時の資料を集めたりした。

母が亡くなってからは、
父は母の写真を見なくなった。
それは「いやだ」と言っていた。
私たちがアルバムを取り出してみるのも嫌がった。
悲しいからかなってその時は思った。

しかし、数年たっても母がどうこうという話は
余りでなかった。
50有余年の結婚生活をしていたのに、である。
不思議だなって今でも思う。

その代りと言っては変だけれど、
青年時代のスマトラでの生活については
何回も、何回も話してくれた。

一体それは、どういうことなのだろう??
人にとって、晩年によみがえってくるのことは
一体どういう意味をもっているのだろう?
今でもそれはまだ謎・・。

私たち姉妹は、父が母より10年以上
長生きするなんて言うことを想像だにしなかった。
まるで地雷を踏んでしまったように
急に気分の変わることのある父のことは、
どうにも理解できなかった。
いや、好きになれなかったと言った方が当たっている。

父と母は1歳違いであるにもかかわらず、
私たちは、当然父は母より先に亡くなるから、
そのあと女3人で気楽に楽しめる時をいっぱい持ちたい!
そんな夢を持っていた(ちょっぴり不謹慎なのですが)。

結果、父が残った。

もし父が母より先に逝っていたら、
決して聞くことのなかったであろう話を
聞き続けたこのかんでもあった。

レビー小体型認知症は
いわゆるボケといわれる現象は少ない。
それでも最後の3年間くらいはその手の現象も出てくる。

それと反比例するかのように
あのスマトラでの日々も語らなくなった。
と、同時にあんなに好きだった
大リーグの中継にも、お相撲の中継にも、
欠かさず読んだ新聞にも興味はなくなった。

というより、そのことの意味が解らなくなったのだと思う。
そして倒れた。

それから11か月、病院や、老健をいくつか転院した。
そんなある日「奥さんに会いてえなあ」とつぶやいた。

あんなに青年時代のことばかり話していた父だったけれど
やっと奥さんのことを思い出したのか・・・。

考えれば考えるほど、この一人暮らしの中で、
父はどんな世界に生きていたのかと思う。

そして、やっぱり母とはもっと話たかった
という思いは残っているけれど、
父のことへの理解は少し深まったかと・・・。

それにしてもなのです。
あの父の家族に対する機嫌の急変ぶりは、
今話題の阿川佐和子さんが「強父論」で描く
阿川弘之さんにそっくり。

いつかこのことを書いてみようと思っています。
妹曰く、亡くなる前の日と、
亡くなった日の状況まで酷似していると!