おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

稲村ケ崎

2015年01月27日 | 歌稿


稲村が崎                       

午後の海稲村ケ崎に潮満ちてうねりも低き波の満ち引き

この海につるぎ捧げて義貞は潮よ引けよと一心の祈り

むきだしの命をまとに奔る日々祈りの剣浪遠ざかれ

勝てば生き負ければ死すの定めの世覚悟を強いて時は過ぎ行く

昔日の稲村ケ崎の伝説は童のこころ騒がせ続け

知りそめし童の頃のざわめきを引きずり生きて六十路も半ば

夕まぐれ輝き強め日輪は相模の海を染めて移ろう

陽光は我が足跡も照らしおりたどりし道の真実あばき

落日を見入る幸せ知りもせず呆けたままにたたずみ見入る

責めもせず問うこともせず淡々と西に沈んで闇の訪れ


湘南紀行 その4

2015年01月14日 | その他

湘南紀行 その4 

1月6日(火) 曇り→雨

ホテル→大船観音像→JR北鎌倉駅→円覚寺→鎌倉駅→

バスで九品寺→光明寺→補陀落寺→鎌倉駅→江ノ電藤沢駅 

朝8時ホテル発。大船駅構内を歩いて電線が邪魔をしない所で大船観音像を

撮影。優美な観音像である。大船観音寺には行かない。 

○円覚寺 

北鎌倉駅に下車して「円覚寺」拝観。円覚寺は北条時宗の開基であり、古刹という

ほどではないが、名刹というべきたたずまいであり威容である。

豪壮な山門もあるのですが、なぜか撮影した画像がことごとく良くない。

塔頭の「仏日庵」には開基廟という北条時宗の廟があります。

時宗は若くして第八代執権となりました。二度の蒙古来襲の時の執権でした。

苛烈ではあったけれども英邁な執権だったと言えるでしょう。

境内になんとリスを発見。でもすぐに高い樹に登ったので撮影は不可でした。 

○九品寺 

鎌倉駅からバスで九品寺。こじんまりしたお寺です。新田義貞ゆかりの寺院との

ことです。義貞が開基となった鎌倉で唯一の寺とのことですが、そんな暇はなかった

はずなので人任せだったのでしょう。

○光明寺

法然の浄土宗のお寺です。こんなに立派なお寺だとは想像もしていなかったのですが、

各時代の為政者の保護も受けていたものと思います。山門も立派ですし、広い境内でした。

苦難に満ちた時代もたくさんあったはずですが、今日までよくぞ伝わってきたと思います。 

○補陀落寺

行ってみれば、民家のようなたたずまいのお寺でした。頼朝の祈願所として創建されて、

開基はなんと「文覚」とのこと。

運慶作などの仏像がいくつかあるそうですが、観光客の一人もいなく、お寺関係の人も

見かけなかったので、そそくさと辞去しました。 

○由比が浜

昔は建物も少なく、砂浜部分が多くて美しかったものと思います。

砂は黒っぽくてキラキラ光っていたので砂鉄を含んでいるはずです。

今日でも海水浴場として賑わうようです。

義経の愛妾「静御前」の産んだ子供もこの浜に捨てられたそうです。 

由比が浜を見てから来合わせたタクシーで鎌倉駅。江ノ電鎌倉駅から

江ノ電藤沢駅に向かいました。

写真は2回に分けます。その5に続く。

写真01 大船観音像

写真02 円覚寺総門前

写真03 円覚寺

写真04 北条時宗廟所

写真05 九品寺

写真06 九品寺説明版

写真07 光明寺山門

写真08 補陀落寺

写真09 稲村ヶ崎を望む

写真10 1月5日のボードセーリング

写真11 由比が浜方面

 

 


湘南紀行 その5 最終回

2015年01月14日 | その他

湘南紀行 その5

1月6日(火)曇り→雨

鎌倉駅→江ノ電藤沢駅→JR藤沢駅→大磯駅→鴫立庵→大磯駅→名古屋駅

午前中に鎌倉の海岸部を見てから江ノ電で藤沢駅、JRに乗り換えて

大磯駅に向かう。スマホの地図があるので鴫立庵には人に聞かなくても

行くことができる。鴫立庵はまだ松並木の見える東海道の側にある。

東海道名所図会では「鴫立庵=でんりゅうあん」としているが、鴫立庵の

方では、そういう読み方を拒否して「しぎたつあん」とのみ読むとのこと。

 心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ

     (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮470番・西行上人集・

 山家心中集・御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集・西行物語)

鴫立つ沢歌に関しての私のマガジン。

「鴫」の項を参照願います。 

http://archive.mag2.com/0000165185/20110210150000000.html

敷地はそれほど広くはないのですが、雨が降っていなければ

気持の落ち着く所だと思います。

でも家が建てこんでいて、歌の風情は望むべくもありません。

円位堂の中には伝文覚という富士見西行像があるらしいのですが

(わざわざ見ていない)名所図会では「真なるものとは見えず」と

軽く流しています。

何枚か写真は撮ったのですが、なぜかボケ画像ばかりです。

雨が降っていたとはいえ、情けないです。 

近くに「砥上が原」もあるのですが、行きませんでした。

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 えは惑ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に雄鹿鳴くなり

         (西行上人集追而加書・西行物語正保本)

○ 砥上原(とがみがはら)

 藤沢市の江ノ島に向かって流れる片瀬川(堺川)の西方の野原を

 指す地名です。藤沢市鵠沼(くげぬま)辺りの古い名称です。

 藤沢市の西の茅ヶ崎市あたりまで含めていたもののようです。

 歌の砥上原の歌碑が茅ヶ崎市に二ヶ所あるそうです。

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写真01 「鴫立澤」の石碑

写真02 崇雪が設置したという五智如来

写真03 二十一世庵主「時彦」の句碑

写真04 俳諧道場

写真05 円位堂

写真06 石碑

写真07 藤沢市の案内板


湘南紀行その3-2

2015年01月13日 | その他

湘南紀行その3-2

1月5日(月)快晴 

江ノ電極楽寺駅→江ノ電鎌倉高校駅→満福寺→小動神社→江の島→

江ノ電江ノ島駅→江ノ電稲村ヶ崎駅→稲村ヶ崎→江ノ電稲村ヶ崎駅→

江ノ電鎌倉駅→JR大船駅→ホテル

○江ノ島

江ノ島ではいくつかの観光スポットがあります。

江島神社辺津宮・中津宮・奥津宮・稚児が淵・岩屋・恋人の丘・

サムエル・コッキング苑・シーキャンドルという展望台などなど。

このうち、「恋人の丘」には行かず、岩屋とシーキャンドルには

入りませんでした。

江ノ島に渡ってすぐにあるのが「辺津宮」。奉安殿には裸の「弁財天像」があります。

私はついつい見逃しました。なんでも滋賀県の竹生島、広島の厳島と江ノ島の

弁財天が三弁財天とのことです。

「エスカー」というのがあります。初めはなんのことかわからなかったのですが、

そのまま「エスカレーター」のことでした。江の島は意外と高低差があって、便利は

便利です。登りだけで下りは歩いてということでした。

「稚児が淵」は要するに磯です。自然の岩で平坦な部分が多くありました。

波打ち際にまで人が多くて人のいる写真は撮ってはいません。

「岩屋」も入口まで行ったのですが料金500円ということなのでやめました。

サムエルコッキング苑ではチューリップを植栽していたので、撮影時間を多く

取ったのですが、光の加減で良い写真は無理でした。

「シーキャンドル」という名称の展望台も2002年に作られたようですが、

上にまでは上がりませんでした。

○稲村ヶ崎

江ノ島を辞して江ノ電で「稲村ヶ崎駅」まで。

小学生から中学にかけて学校の図書館の偉人伝や子供用の文学全集、

歴史物などを読み漁っていたのですが、その中で「稲村ヶ崎」は忘れない地名でした。

もちろん新田義貞の関係です。今回行くことができて、長年の宿題を果たしたような

気がしています。嬉しいことでした。下は「稲村ヶ崎」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%9D%91%E3%83%B6%E5%B4%8E

着いたのは夕方でした。到着してみるとカメラマンが30人にきかないだけ集まって

いました。「何があるのだろう」と不思議でしたが、すぐに判明。夕日の写真を撮る

人達でした。もちろん私も撮影。素晴らしい夕日で感激しました。

稲村ケ崎で夕食を摂り、大船のホテルまで。

湘南紀行その4に続く。

写真01 江島神社の瑞心門

写真02 辺津宮の石像

写真03 辺津の宮

写真04 江の島ヨットハーバー

写真05 シーキャンドル

写真06・07 サムエルコッキング苑のチューリップ

写真08 稲村ヶ崎

写真09.10 伊豆半島に入る夕日

 

 

 

 


湘南紀行その3-1

2015年01月13日 | その他

 

湘南紀行その3-1

 1月5日(月)快晴

江ノ電極楽寺駅→江ノ電鎌倉高校駅→満福寺→小動神社→江の島→

江ノ電江ノ島駅→江ノ電稲村ヶ崎駅→稲村ヶ崎→江ノ電稲村ヶ崎駅→

江ノ電鎌倉駅→JR大船駅→ホテル

極楽寺駅から鎌倉高校前までは江ノ電利用。下車後、湾岸道路を

満福寺、小動神社と見てから江の島に向かう。

途中、コンビニで買い込んだ菓子パンとお茶で護岸に座って昼食。

対岸は江の島。若者たちがボードセーリングを楽しんでいる。

気温が上がって暑いくらいである。

○満福寺 

源義経の「腰越状」があるので、是非行きたいお寺の一つ。

地図で江ノ電腰越駅と鎌倉高校駅の中間くらいと見当をつけて鎌倉高校駅で下車。

湾岸道路を、海を見ながら歩いて進む。

1185年3月、平氏が壇ノ浦で滅んだあと、義経は八嶋内府平宗盛や子の平清宗を

護送して鎌倉に向かいます。ところが頼朝の勘気を受けていた義経は鎌倉に

入ることを禁じられて腰越えに留め置かれました。なんということでしょう。

その時に義経から頼朝にあてた書状が「腰越状」です。梶原景時などの讒言もあり、

猜疑心の強い頼朝には義経の切々とした心情をつづった腰越状も甲斐なく、義経は

鎌倉に入れないままに京都に引き返します。

途中、近江の国篠原で平宗盛、清宗親子は斬殺されます。

義経の悲劇は平泉を出たことに端を発していますが、兄弟などを殆ど殺した頼朝の

性格をみると、奥州にいたとしても同じ運命をたどるのでょう。

満福寺にある腰越状は下書きのようですが、流麗な筆致だと思いました。

ただ私には昔の文字は読めませんでした。

○小動(こゆるぎ)神社 

頼朝の家臣である佐々木盛綱が創建したそうです。この佐々木氏は近江源氏だったと

思います。後に新田義貞が社殿を再建したとのこと。

夏に江の島神社と合同で盛大な祭りを行うそうです。

○江の島(その1)

江ノ島は行政区としては「藤沢市」に属していて、それが意外に思いました。

江ノ島弁天橋という橋を渡渉。途中で私の弱った眼でも冠雪した富士山が

見えたので撮影。

江ノ島もたくさんの人出でした。江戸時代は著名な観光地で、江ノ島観光のついでに

鎌倉に立ち寄るという感じだったそうです。

もちろん弁財天信仰による江ノ島詣でです。

以下3-2に続きます。

写真01 満福寺境内

写真02 義経と弁慶像 真新しい感じでした。

写真03 小動神社境内

写真04 小動神社の頬かむりした狛犬

写真05 湾岸道路からの江ノ島

写真06・07 富士山

 

 


湘南紀行その2-2

2015年01月12日 | その他

湘南紀行その2

1月5日(月)快晴

長谷寺→→御霊神社→虚空蔵堂→極楽寺→江ノ電「極楽寺駅」

○御霊神社

坂東平氏の「鎌倉景政」を祭神としているそうです。

村の鎮守社のような役割りを担って来た小社のように感じました。有名らしい

「神輿」も収蔵されています。鳥居の直ぐ前を江ノ電の線路が横切っており、

鳥居にはタブの巨木が覆いかぶさるように繁っていました。

○虚空蔵堂

行基関連の小さな堂宇。そばに「星月の井」という古くからの井戸があります。 

○極楽寺

虚空蔵堂から極楽寺切通しを通って極楽寺まで。江ノ電「極楽寺駅」の北側。

社会福祉の祖とも言われるらしい「忍性」が開山。医王如来とも言われたらしい。

忍性は後に菩薩号を授けられています。

渡来僧鑑真が伝えた律宗は戒律が厳しいことで知られているそうですが、鎌倉での

律宗の拠点として極楽寺がありました。ただし律宗も分派していて、ここでは

奈良の西大寺を総本山とする真言律宗です。

忍性は極楽寺で35年ほどを過ごしたそうです。

境内写真撮影は不可でしたから、門前の画像のみです。

創建当初は塔頭も多くて大寺だったようですが、現在は小宇です。

阿仏尼の住んだ旧跡もこの近くにあるのですが、探しませんでした。

江ノ電極楽寺駅から鎌倉高校駅まで乗車。

その3に続く

写真10 長谷寺境内

写真11 長谷寺からの眺望

写真12 御霊神社

写真13 御霊神社

写真14 極楽寺山門 

写真15 極楽寺説明版

写真16 江ノ電「極楽寺駅」

 

 


湘南紀行 その2-1

2015年01月12日 | その他

湘南紀行その2の1 

1月5日(月)快晴

大船駅→鎌倉駅→江ノ電鎌倉駅→長谷駅→高徳院→光則寺→

長谷寺→その2-2に続く 

朝8時過ぎに投宿先の「ホテルメッツかまくら大船」を出てJR大船駅に

向かう途次に「大船観音像」が見える。でもたくさんの電線があり撮影は無理。

鎌倉から江ノ電に乗り換えて「長谷」下車。まず鎌倉大仏の「高徳院」に向かう。

○高徳院

駅から意外と近い。朝早い訳でもないが、観光客はいないのが良い。

高徳院には鎌倉の顔ともいえる鎌倉大仏がある。国宝。野ざらしである。

この青銅製の像が作られたのは1200年中葉とのこと。それ以前に木像仏が

あったようですが、詳しいことは不明らしい。像高11メートル強。

初めは野ざらしではなくて大仏殿がありましたが、2度の倒壊を経て、

1369年からは野ざらしのままとのこと。

東海道名所図会では1658年の洪水でも大仏殿破れる・・・とありますが、

2000年からの境内発掘調査で1369年以後に新たな建造物の痕跡は

見つからなかったようです。だから1369年以後は立てられなかったものでしょう。

東海道名所図会では「高徳院」の条はなくて、当時は浄泉寺と言いました。

1700年初期に同じ鎌倉にある「光明寺」の末寺となり、浄土宗に転じてからは

「高徳院」と呼称するようになりました。

極楽寺の「忍性」も一時期、高徳院を住持していたようです。

○光則寺

日蓮宗関係のお寺。日蓮が佐渡流罪になったことにからみ、日蓮の弟子を

監視するために北条時頼の家臣の屋敷に閉じ込めたとのことで、その屋敷が、

後にお寺になりました。ちなみに家臣の名は「宿屋光則」。

彼は「ミイラ取りのなんとやら・・・」で、後には日蓮に帰依しています。

境内には、ここでも石を穿った「土牢」が残されています。

花の寺として親しまれているそうです。さして広くはない境内にローバイの木も

数本あって花を付けていました。

○長谷寺

宗派は違いますが、奈良県初瀬にある「長谷寺」との関係性をどうしても

考えてしまいます。どちらも十一面観音像を本尊としています。ともに同じ木から

造られた観音像とのことですが、それはどうでしょうね。

奈良の長谷寺は真言宗、鎌倉の長谷寺は浄土宗の違いはありますが、ともに

古くから善男善女、貴顕や一般大衆に関わらず崇敬を集めてきたお寺です。

観光寺院らしく手入れの行き届いた境内でした。相模湾が一望のもとに見えました。

観音像は奈良の方が敬虔な気持ちを起こさせるような気がします。

東海道名所図会では西行が銀の猫を子供に授けたのは、長谷寺の門前のよう

にも解釈できる絵があります。

写真01 高徳院

写真02・03 高徳院の鎌倉大仏

写真04 光則寺

写真05 光則寺の土牢 

写真06・07 長谷寺の山門

写真08 長谷寺の咲き始めたマンサク

写真09 長谷寺のローバイ

 

 

 


湘南紀行その1

2015年01月11日 | その他

 

湘南紀行 その1 

1月4日から6日まで湘南地方を観光しましたので、

そのレポートです。何度かに分載します。

 1/4(日) 晴れ。

 鎌倉駅→個展会場画廊→寿福寺→英勝寺→浄光明寺→

鶴岡八幡宮→宝戒寺→鎌倉宮→大船のホテル

 朝7時45分、のぞみ京都駅発。正月明け上京のラッシュと重なって

自由席は満席。指定席も取れません。

仕方なく立って乗車していたのですが、ひかり号に乗り換えても

新横浜到着時間に大差はないので豊橋駅で乗り換えて座る。

自由席に座っていたのですが、座席が富士山側ではなくて反対の窓側

だったので、富士山を見るのを断念。

新横浜から大船→鎌倉で下車。11時前。まずまずの天気。

鎌倉駅近くの喫茶店に入ってコーヒーとチーズトースト。軽く千円を超えました。

11時半、知人の個展会場に到着。

作品をざっと見せていただいてから知人家族とともに5人で会食。

とはいえ私は食事したばかりでコーヒーのみ。

 13時頃に会場を辞して一人で鎌倉観光。

○ 寿福寺

 開山は「栄西」。栄西は京都の「建仁寺」の開山でもあり、また茶を

広めた人物で、栂ノ尾の「高山寺」の茶も栄西が明恵に贈ったことで、

広められて、喫茶の習慣にもつながり、一時期は闘茶なども盛んに

行われました。

「栄西」が寺にする以前は源義朝の屋敷。頼義、義家なども住んで

いたようです。義朝は頼朝の父で、平治の乱で尾張の国で斬殺されています。

 さして大きくはない門を入ると、岩を穿った「岩窟」が多くあります。僧侶の修行場として

利用されたのかも知れませんが、墓という面が強いと思います。

何年か前に行った松島の「瑞厳寺」を思い出しました。

 ○ 英勝寺

 もともとは太田道灌の屋敷。それを狸親父家康の側室の「英勝院尼」が

寺としたもの。英勝院尼は太田氏の出自のようです。

小宇なのですが、創建当初はさぞ美しかったはずの大きめの山門が

あります。山門扁額は後水尾帝によるとのこと、運慶の阿弥陀像もある

とのことですから、立派なお寺だったものと思います。

岩を穿っての胎内巡りみたいなものもありました。

短い距離で、そのなかに何体もの仏像が安置されていました。

 この近くに十六夜日記の「阿仏尼」の墓というか供養塔みたいなものが

あるとのことですが、探せませんでした。

 ○ 浄光明寺

 阿仏尼の子である冷泉為相の墓(五輪塔?)ということで行ったのですが、

柵で通行禁止にされていて、良く見ることができませんでした。

いずれにしろ阿仏尼親子は近くで眠っているということになります。

京都でも阿仏尼の墓と伝えられるお寺はありますが、鎌倉で没したものとして、

やはり鎌倉の方が正当な墓ではないかと思います。

 このお寺は足利氏や北条氏のゆかりのお寺です。

ここでも岩を穿った構造物(多くはお墓だと思います)が多くて、

鎌倉という町は岩盤でできた町ではなかろうかと思いました。

 ○ 鶴岡八幡宮

 八幡宮に行く途次に日蓮の「護国寺」などもちらっと見たのですが、

一路八幡宮まで。いやはや、大変な人出でした。

祈祷を受ける人だけが一番上の本宮に上がれるようです。

たくさんの人が並んでいて、時間がかかりますので私は本宮にまで

上るのはパス。丹塗りの楼門は美しく思いました。

ちょうど「出初式」をやっていて、演舞を少し見ました。

白拍子静が「静や静・・・」の舞を踊った「若宮」もちらっと見ただけでした。

境内をひととおり歩いてから「正月ボタン展」を見ました。

「正月ボタン」とあるけれど、「冬ボタン」のことです。

見頃でしたが画像がうまく撮れていません。

 

鶴岡八幡宮はもちろん源頼義が石清水八幡宮を勧請しての創建。

現在地に移築したのは頼朝。

西行がこの八幡宮のどこで頼朝の家臣と逢ったのか場所は不明。

砂金勧進の公的な性質を帯びた二度目の奥州行脚でしたから、

当然に西行と頼朝は逢うことを予定されていたものでしょう。

ただ「東鏡」も正確ではない部分もあるらしくて、銀の猫などの話は

創作・脚色だという話もどこかで読んだ気がします。

 ○ 宝戒寺

 北条氏が滅んだ後に尊氏が北条氏の菩提を弔うために創建。

もともとは北条執権屋敷です。

 ○ 鎌倉宮

 明治天皇の発願により創建された宮です。後醍醐天皇の親王、

大塔の宮「護良(もりなが)親王」を祀ります。

護良親王は仏門に入って天台座主でしたが還俗して、後醍醐帝の

「建武の中興」のために奮戦していました。足利尊氏らと共に「建武の中興」は

なりましたが、後醍醐帝の執った政治は武士層の不満が強くて、

足利幕府樹立までの過程で、親王は捕縛されて鎌倉に護送。

尊氏の弟、直義の意によって斬首されます。

吉野でもゆかりの親王です。享年28歳。

幽閉されていた「土牢」があります。岩を穿った牢です。

どうも鎌倉の場合は「土」という言葉は「岩」と同義みたいに使われたようです。

「東海道名所図会」でも鎌倉の岩は柔らかくて細工がしやすいと書かれています。

 あまり広くはないのですが、一通り見終わったらもう16時過ぎ。

ちょうどバスがあったので鎌倉駅、予約したホテルのある大船駅で

下車して投宿。その2に続きます。

 写真01 鎌倉駅西口ののぼり。なつかしい名前。歴史の迷路の中に

      入り込んだような錯覚。うれしい感覚でした。

 写真02 寿福寺山門

 写真03 英勝寺の立派な山門

 写真04 浄光明寺

 写真05 鶴岡八幡宮本宮

 写真06 鶴岡八幡宮出初式

 写真07 鶴岡八幡宮正月ボタン

 写真08 宝戒寺

 写真09 鎌倉宮

 写真10 護良親王幽閉土牢